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勧請吊り−除災招福の正月行事 

 村の外周を走る新しく舗装された二車線道路から村の旧道に目をやると、道に張り渡されている注連縄のようなものを見た。よく見ると神社の鳥居に掛けられている注連縄よりも飾られているものが多く立派だ。このような光景は滋賀県の湖南・湖東地方でよく出会う。この注連縄のようなものをかんじょう勧請縄といい、ムラの出入り口か神社の境内で見かける。
村(ムラ)は古くから用いられてきた言葉で、「ムレ」(群れ)とか「ムラガリ」(群がり)を意味し、ザイショ(在所)ともいった。今の字がほぼそのムラの単位を示している。ムラは村人が共に生活を営む拠点であり、村人はムラの中の「安全」と「清浄」とをひたすら願った。ムラの外を異界と見、悪霊、災害や疫病は異界からムラへ侵入してくると考えていた。疫神は、いつも村人が行き来する道から侵入してくると考え、村の出入り口に呪物を置いて「悪霊防除」を祈願した。塞の神はこうした目的であり、呪い物で道を区切ることを一般に「道切り」という。この「道切り」を滋賀県の湖南、湖東地方では、昔から「勧請吊り」行事として伝承している。「勧請吊り」は外からの疫神の侵入だけではなく、在所内の規律と秩序を守ることも同時に誓った。この勧請吊りはムラの入り口ではなく、氏神である神社の境内に吊るすところもあるが、これも同じ目的である。

 勧請縄について話す前に神社の鳥居に掛けられる注連縄について見てみよう。注連縄は、藁を左よ捻りにない、三筋・五筋・七筋と、順次に藁の茎をねじ捻り放して垂らし、その間にかみしで紙垂を下げる。藁と紙だけを使い、単純明快である。神前に不浄なものの侵入を禁ずるシンボルとして鳥居に張られる。
勧請縄も、藁で左捻りになって五メートル以上の長さの大縄を作る。この大縄には頭と尾とがあり、蛇をかたどるとされており、尾のほうは藁をなわずに房にして垂らす。その中央には「トリクグラズ」という杉か蔓で出来た丸い輪をつけ、その左右には細縄に常緑樹(杉、檜、榊か樒が多い)を編みこんだ小勧請縄と呼ぶものを一年の月の数、平年は十二本(閏年は十三本)吊るす。小勧請縄は稲穂をかたどり、これを多数下げるのは豊作を表すという。また、梵字や神仏名、祈願事項を書いた制札形の祈祷札が中央に掛けられたものもある。女人禁制のもと、古くから続く「講」または「座」の者が藁を持ち寄って作る。こうして出来あがった勧請縄は僧侶または神主当番によって仁王般若経が唱えられた後、ムラの入り口または氏神の境内に吊るされる。立木を利用するが、枯れてしまったりしている場合は吊るすところの両側にコンクリート製のポールが立てられており、吊るし易いように竹竿が掛けられている。吊るすタイプではなく、飾るタイプもあり、こちらは長さが短い。勧請縄は今年の恵方または東向きに掛けられる。小勧請縄は村の施設や辻、各家にも祀られる。勧請吊りの木の根元に十二光仏の名を書いた小さな札(牛王の串、あるいはいわいぐし斎串)を十二本立てるところもある。
また、勧請縄の呼び名も土地によってさまざまで、
 ナワ    栗東町観音寺
 ツナ    甲南町稗谷
 オオヅナ  蒲生町上大森
 ジャナワ  野洲町冨波甲・冨波乙
 マジャラコ 安土町東老蘇、西老蘇
という。
文化十一年(一八一四)に発行された『近江名所圖絵』の老蘇社の参道にこの勧請縄が描かれている(図)。これは今の東老蘇の勧請吊りで、マジャラコの吊るされている場所はこの図と同じである。
勧請吊り行事は「道切り」の神事だが、出来あがった勧請縄を前に般若心経が唱えられたり、十二光仏の名を書いた牛王の串や梵字の書かれた祈祷札が勧請縄の中央にあったりと、神仏習合が色濃く残る民俗行事でもある。また、『枕草子』に「榊、…神の御前のものと生いはじめけむも」(第三十八段)、「仏の…樒の枝を折りて持て来るは」(第百十八段)と、供するところをはっきりと区別されている榊と樒だが、小勧請縄に樒が編み込まれている所も多く、こだわりは見られない。

それぞれの村の勧請縄を紹介しよう。
一.八日市市
 滋賀県湖東地方平野部は蒲生野と呼ばれ、万葉集の額田王と大海人皇子との恋歌の舞台としてよく知られている。蒲生野の中心に位置する八日市市は名の通り八日に市が開かれる市場町として古代から繁栄した。八日市市では勧請吊りがとりわけ盛んで、一月四日から十六日の間に市内二十六ヵ所で行われる。この中の何個所かを見てみよう。
●万葉の蒲生野の中心地に位置する市辺町東は、正月三ケ日が明けた四日に勧請吊りをおこなう。ムラの入り口には津島祠が祀られてあり,この津島さんの向かいにある道具入れに勧請吊りがされる。杉の葉で作られたトリクグラズに祈祷札という簡潔な勧請縄が特徴だ。トリクグラズには縄でくくった十三の結び目(平年は十二だがこの年は閏年のため)がある。新しい瑞々しい杉の葉で作られた勧請縄は新年にふさわしく、すがすがしい光景をかもしだす。
●五日は外町の勧請吊りだ。若松天神社の参道には、杉の葉枝で作られたトリクグラズと杉の葉を一枝括った小勧請縄を一対飾った勧請縄が懸けられる。吊っている木の根元には天下泰平と書かれた祈祷札が立てられている。
●八日の朝、なこおじちょう中小路町の勘定宿(ここでは勘定と綴る)である巽岩尾さん宅を訪れると、作業小屋には五人の人が集まり縄がなわれ始めていた。この日のために知り合いに頼んで確保しておいた餅藁を使う。餅藁は粳米の藁と比べ柔らかく、長さも長く、縄を作るに適している。餅米を作る農家は少なくなってきており、餅藁を手に入れるのに苦労するという。勘定宿になって、最初の仕事はこの餅藁の入手の手配だ。勘定宿は一年当番制で毎年、組の中を回り、出来た勘定縄を床の間に飾り、饌米、御神酒、灯明を供える。天井から吊り下げられた餅藁が左捻りになわれ、三筋・五筋・七筋目は藁の茎を捻り放して垂らす。これをフンドシと呼び、早稲、中稲、晩稲を意味するという。中小路町は東出・北出・中出・西出の四組で構成され、一組七軒前後の総数約三十戸の集落で、皆がこの勘定吊りに参加する。但し、女人禁制で、女性はこの行事には一切関わらない。それぞれの組で勘定縄を作り、去年のものと替える。長さは二メートル前後なので道路に橋渡しではなく、村の入口と出口に面する道の端に吊るす。
勘定縄に三本の御幣を挿し、中央には祈祷札とトリクグラズがつけられ、その左右にひとがた人形と呼ぶ小勧請縄を七本跨がせて飾る。人形は先端に杉を結んだ短い縄と長い縄を六本ずつ一つに括って作る。手と足を意味するという。祈祷札の中央には「奉読誦仁王経村中安全五穀成就風雨須持万民快楽祈祓」と大きく、周りに小さく十二光仏が書かれている。また、同じ祈祷札と十三本(閏年のため)の小御幣を勘定吊りの下方の地面に挿す。祈祷札から、この勘定縄が村の繁栄と安全を祈願していることが分かる。
 飾られた勘定縄に頭人が般若心経を唱え終わると勘定吊りとなり、それぞれの組でムラの出入り口にあたる場所に吊る。頭人は四組全部の勘定縄に参らなければならず、この日のために般若心経を練習する。
 ●八日には東隣の五智町でも勧請吊りがなされる。小勧請縄にはフクラソウという赤い実のある葉付き枝を使う。この赤い実がいかにもお正月らしい雰囲気を持つ。村の共同作業所で作られる勧請縄は津島、愛知川、立石と呼ぶムラの三ヶ所の出入り口に飾られる。「赤い実がいいですね」と、勧請縄を作っている初老の方に話しかけると、「山へ行って探すけど、見つけるのがだんだんムツカシクなった」という。
●中小路町から東へ愛知川に沿っておよそ百メートルにある岡田町では、勧請縄の大縄は山の神と一緒に正月三日に作り、八日に吊る。以前はムラの入り口に吊っていたが、今はその側らにある八幡神社の参道入り口に吊るす。祈祷札には「町内年中安泰」と書かれ、勧請吊りの柱の地面に小御幣が十二本を柱にもたれている。吊り終わって、集会所で直会をしておられたのでお話を伺ったところ、勧請吊りに関する文書はなく、口伝えで毎年行っているとのこと。集会所に飾られた数年前の勧請吊りの写真を見せて頂いた。フクラソウで作られた真中の丸いものの名をお伺いしたが、直会に列席されている方皆さんご存知なく、「トリクグラズ」という名ではありませんか、とこちらから尋ねたが、はっきりとした事は分らなかった。フクラソウを結った十二本の小勧請縄で飾られた勧請縄は飾るタイプである。
山の神は春に山から里へ下りて田の神となり、秋には里から山に帰って山の神として留まるとされる。山の神祭りは山に眠る霊性を田の神として目覚めさせる行事である。勧請吊りを行うムラではおおよそこの行事の前に山の神祭りが行われ、勧請吊りは山の神を田の神として迎える、という「山の神祭り」との関連性を見ることもできる。「勧請」とはまさに、その山の神の勧請を意味するものかもしれない。

他に八日には寺町、下羽田町、尻無町で勧請吊りがされる。
●寺町は農作業場の前の電柱と天神神社の神木に勧請縄が懸けられている。稲の穂をかたどった大縄に樒をくくった十二本の小勧請縄で飾られている。勧請縄には「村中安全」の祈祷札が勧請縄の中央につけられている。こぢんまりとしてはいるが中々手の込んだ勧請縄だ。
●下羽田町は「老人憩いの家」の前の広場にある愛宕さんの横の木に吊るされている。杉の葉を順につないで丸くしたトリクグラズが一メートル余りの注連縄の中央につけられる。榊と杉を編みこんだ小勧請縄十三本(閏年のため)をトリクグラズの左右に分けて飾る。中央には御幣と、蜜柑が付けられているのは珍しい。
 ●八日市市の外れに近いしなし尻無町の勧請吊りはムラの出入り口にあたる道路を跨いで吊る、いわゆる「道切り」としての長い勧請縄だ。檜の葉で飾られた祈祷札が中央に付けられその左右に御幣を二本と藁一束を付けた勧請縄と、その形は非常に単純である。祈祷札には、「町内安全 風雨順調 五穀豊穣 火盗潜消 病魔退散」と書かれている。他に、八坂神社と八幡神社にも吊られ、計三ヶ所に吊られる。
 ●中小路町の西隣にあるの妙法寺では九日の朝八時半より薬師堂にて勘定縄作りが始められる。ここも勘定吊りと綴る。檜の枝でトリクグラズを作り、小勘定縄は樒を縄に結わえて拵える。祈祷札には「町内安全 風雨順時 五穀成熟 萬民豊楽」と書かれている。小勘定縄をローソクと呼び、勧請縄に飾る十二本のほかに村の祠(秋葉神社、お地蔵さん)と個人の家で祀っているダイジョゴさんに懸ける分も作る。妙法寺町は新興住宅が建ち並んでいるため戸数が急激に増加しているが、この勘定吊り行事は東出、中出、西出の三組からなる旧妙法寺町の人たちでされ、約七十戸が関わっている。今年は十八戸からなる中出組が当番であった。先の六日に行われた山の神は東出・中出・西出の三組全てで行う。勘定縄の準備が済むと僧侶によって大般若経が唱えられ、読経が終わると、いよいよ村の出入り口二ヶ所に勘請縄が吊られる。道の両端に立てられたポールに中出組の人たちによって掛けられる。今年はクレーン車を使ったため比較的スムーズに吊ることが出来た。ポールの根元には、柳の木で作った小御幣が左右に六本ずつ立てられる。飾られた勘定縄を見て、「こちらでは閏年でも小勧請縄は十二本なんですね」と尋ねると「閏年は十三本という声も出たが、組で話し合って十二本にした」とのこと。また、祈祷札は村の内外どちらに向けるのか、といった質問も出たが、古老が少なくなったために、回答は出なかったという。掛け終わると、薬師堂でスゴンボとアキナマスでの直会が催される。
●九日早朝より、今崎町の日吉神社の拝殿に八人衆が集まり勧請縄をなう。といっても普通に見かける縄より少し太い程度の縄である。この勧請縄を境内の杉の神木に巻きつけ、その根元に十二光仏の名を書いた幣布を十二本挿す。裏には梵字ボロンが書かれている。
●下羽田町の北に隣接する柏木町は十日に蛭子神社の参道に吊るす。杉の枝葉で作られたトリクグラズが大縄の中央に付けられ、その上部に三本の御幣が突き刺してある。単純明瞭な勧請縄だ。
●十五日には蛇溝町の長尾神社に勧請縄が奉納される。杉の枝葉で作られたトリクグラズには「村中安全」の祈祷札がつけられ、榊と杉で作られた小勧請縄が十二本飾られている。
●同日、柴原南町のトリクグラズは藁を編みこんで輪にする。榊と杉を結わえた小勧請縄の一束が大縄に飾られ、玉緒神社前の道路に掛け渡される。

十六日は大森町と土器町である。
 ●大森町の勧請吊りは大森神社の参道に吊られる。社務所では朝からその準備がなされ、樒で作る小勧請縄は大森神社本殿と境内社七社に飾られる。勧請吊りはとても簡潔で、当番である社守が綯った大縄に、藤の蔓で作ったトリクグラズを中央に飾っただけのもので、参道の両側に鬱蒼と茂る木を使って吊られる。
●土器町では天満神社の参道に吊られる。樒の枝葉を束ねて輪にしてトリクグラズを作り、その輪に樒で十字に渡す。樒を括り紙を編みこんだ縄を六本束ねて大縄に十二本飾る。トリクグラズには祈祷札はないが上部の大縄に御幣が三本立てられる。この勧請縄は典型的な形態である。

二.他の地域の勧請吊り
 ●最大級の銅鐸発見で知られる銅鐸の町野洲町に伝わる勧請吊り。野洲町冨波村は朝鮮人街道に沿う集落である。朝鮮人街道は中山道に対して下街道とも呼ばれ、織田信長が天正年間に安土へ進出する際、整備された街道である。冨波村は沼沢地が多かった。ここには勧請縄にちなむ伝説が残る。長和元年(一〇一二年)生和兵庫介藤原忠重は冨波村を安土に向かって歩いていたところ、村人を苦しめる大蛇の話を聞いた。そこで忠重はこの大蛇を退治したが、大蛇の毒気を受けて亡くなってしまった。村人はこの遺徳を偲ぶために藁の大蛇を作り村の入り口に掲げたという。
現在、冨波村は冨波甲と冨波乙に分かれており、両村で勧請吊り行事がなされ、ここでは勧請縄をジャナワという。

 冨波甲の勧請吊りを「烏帽子着神事」、「花作り神事」とか「銀堂神事」と呼び、「八日神事の仲間」と称する十一戸(以前は十二戸)が当日朝、常楽寺本堂へ各自藁を持ち寄って勧請縄を作る。今は一月八日が第二日曜日と変わった。村の戸数は約八十戸あるが、この行事に携わるのは地区全体ではなく、天台宗常楽寺の特定の檀家十一戸である。郷士仲間と呼び、かなりの権威を持って参加維持して来たという。宝暦十(一七六〇)年「冨波村郷士中烏帽子神事式目帳」には「士分の面々」が勧請縄を作り、村の西門に吊るす、と記されている。
檀家十一戸の中の一戸が毎年当番を勤め、勧請縄は仏前修法をした後、全員で作る。当番は直会の準備を受け持つ。以前は羽織、袴で臨んだが,平成七年より平服に改められた。全員で五メートル余りの大縄を作り、カナメモチを結わえてこしらえた小勧請縄で飾る。カナメモチは常楽寺境内に植栽されており、この葉付き小枝でトリクグラズも作る。ここでは小勧請縄をアシといい、トリクグラズをタマ(タマシイ)と呼ぶ。今年は閏年なので、アシを十三本、タマの縄の括り目も十三ヶ所、ウロコというジャナワの上に挿す御幣も十三本である。祈祷札はない。冨波甲はジャナワの尾を作り、冨波乙ではジャの頭と胴(今は頭だけ)を作る。こうしてジャナワが出来上がると、皆でかつぎ、集落の西北にある池川堤のムラの入り口の両端に立てられた柱に吊り下げられる。勧請吊りを済ませると、常楽寺で直会となる。このときの料理は昔から変わらず、重箱二杯の沢庵の輪切りと豆腐、それに蕪の味噌汁で直会をする。これだけでは酒がすすまないと、今はオードブルがこれにつく。

冨波乙では一月十八日「御弓神事」として勘定吊りを行う。忠重が大蛇を退治したことから,藁で作ったジャナワを弓で射る。ジャナワは冨波甲のものを簡素化した形である。
●「背くらべ地蔵」が並ぶ中山道沿いの行畑は毎年七月二十四日「地蔵まつり」でたいそう賑わう。背くらべ地蔵の隣に鎮座する行事神社では一月の第二日曜日に勧請吊りが行われる。新道路のために鳥居の前で分断されたが、二百メートルはある参道を持つ。勧請縄は行事神社の境内に吊られる。勧請縄のトリクグラズは細長く切った竹を表裏にそれぞれ十二本並べたもので、目を惹く。
●辻町の三上神社では一月十四日に勧請吊りがある。傍には銅鐸博物館がある。境内に吊られた勧請縄はトリクグラズを杉で作ったもので結び目は閏年なので十三ある。また縄のみの小勧請縄も十三本飾られている。

 ●古高町は、今は守山市に編入されているが、これは昭和十六年の守山町と物部村との合併によってで、以前は栗太郡物部村大字古高であった。古高町の氏神大将軍神社に奉吊される勧請縄の樒を栗東町上砥山から受けているのは上砥山と同郡内であったためである。こんぜ金勝山の麓に位置する上砥山は旧正月一日(平成十二年は二月五日)から七日にかけて「山の神祭り」を行うが、初日にハナキリといって山で樒をとる。この樒を「山の神祭り」の当番四人がハナクバリといって古高へ翌日の二日に配る。古高では羽織袴姿の踊子組(十人衆)がハナウケする。上砥山の樒は古高の他に旧栗太郡の十八村(守山市三宅町、臍、霊仙寺など)にハナクバリされる。これは旧栗太郡の十八村には山がないためで、金勝山の「山の神祭り」の経費を持つ代わりに、この神事で採られた樒を受け取ることと、この山林での薪の採取が許されたのである。
この樒を旧正月二日から七日にかけて行う古高の花勧請(勧請吊り)の花飾り(勧請縄)に使う。古高にはもろと諸頭と踊子組という組織がある。諸頭は高田を姓とする家系(現在三十一戸)の家で組織され、踊子組はその他の姓を名乗る家系の家の出身である。諸頭はその家系のものが年齢順に七人が北年寄衆に入る(七人衆と呼ぶ)。踊子組は十人が南年寄衆に入り、十人衆と呼ぶ。
花飾りは両組がハナウケの樒と小縄、紙を作って、平年なら十九本、閏年なら二十本作る。長めの縄六本と短めの縄八本を合わせて十四本を一つとして、それぞれの縄に、長い方はハナ(樒の葉二枚)を四段に、紙を三段につけ、短いほうは樒の三段、紙二段に付ける。次に「月の輪」を作る。この輪は藤の蔓で二重の輪を作り、そこへ三本の竹を*字形に固定する。旧正月七日の早朝、氏神である大将軍神社の楼門に渡した竹竿の中央に「月の輪」を固定し、月の輪の左右に北、南年寄衆がそれぞれ六本ずつ花飾りを下げる。平成十二年は閏年なので、左右に一本ずつ増やし,十四本の花飾りが下げられた。「月の輪」は、北、南年寄衆の一年交代で作ることになっている。古高町では大縄は作らず、竹竿に飾る。楼門以外は、花飾りを神社本殿、鐘楼などに二本下げる。
諸頭が保存する文書の中には、花つくりの仕方を書いた天保元年(一八三〇年)の文書がある。十一月二十三日の大将軍神社秋季例祭の日に、この花飾りと月の輪が焼かれる。
 ●石部町は東海道の石部宿があった所で、ここから南へ約三キロメートルの阿星山山麓の丘陵地帯に勧請吊り行事のあるにしでら西寺とひがしでら東寺が位置する。西寺には和銅年間(七〇八〜七一五)に金粛が開いたと伝える天台宗常楽寺があり、通常西寺と呼ぶ。西寺の本堂(鎌倉時代末から南北朝時代初めに建立)と三重の塔は国宝、また本尊千手観音坐像は国重要文化財に指定されており,他にも多数の国重文が保管されている。東寺はその名の通り西寺の東に位置する。東寺には天台宗長寿寺があり、常楽寺と同じく金粛が開いたと伝えられる。また阿星山と号し、これも常楽寺と同じで、西寺と東寺は対になっている。鎌倉時代初期の本堂と須弥壇上の春日厨子は国宝に指定され、他に多数の重要文化財を有しているのも西寺と同様である。本堂の向かって左後方には常楽寺と同じく三重塔が建っていたが,信長によって総見寺(滋賀県安土町)に移築された。常楽寺と長寿寺は共に、静かな山麓の隠れ里に住まう近江の名刹である。
歴史深い両寺の勘定吊りを見ていこう。西寺では一月十五日、常楽寺において「オコナイ」と呼ばれる修正会が執り行われ、勧請吊りはこの行事の中の一つとして進められる。「オコナイ」は六人衆(村の中の長老六名)、ジョウジ(承仕)、村の三役によって進められるなか、青年会が藁を持ち寄り集会所の前に集まる。山へフジと樒を採りに行っている間、残った者で藁を柱にくくりつけ大縄にする。三本の縄に綯い、それを左巻きに一本の縄に編む。できた縄の中央に、フジの枝を丸めて作った鬼の顔を吊り、左右に六束ずつの樒を下げる。完成すると、村の入り口に立てられた二本の鉄柱に張る。勧請吊りの下に祭壇がしつらえられ、導師、僧に続いて長老で構成される六人衆と青年会が並び、読経する。祈祷札はない。この後、引き続き「オコナイ」の行事が続けられる。仁王門でも読経が行われた後、本堂の境内にて弓うち、本堂での行と続く。青年会の二人が赤鬼と青鬼に扮し、本堂の正面を三回走った後、般若心経を唱える導師に続いて六人衆、青年会や子供たちがウルシの木(牛王の杖)でトントンと床をつきながら内陣をまわる。この法要で、供物として豆腐、里芋、大根を竹串に刺したオデンが供えられるのは珍しい。西寺の「勧請吊り」は以前一月九日に行われていたが、人の集まり具合から修正会と同じ日になった。

 東寺では今も一月九日に「勧請吊り」をし、十五日が「オコナイ」である。東寺の十人衆が西寺の六人衆に代わる組織である。この十人衆が村の祭祀に深く関わる。勧請吊りもその一つで、榊や樒の飾り物、矢に見立てた御幣などを作り、また全体の仕上がりにも神経をはらう。勧請縄作りの主役はおにこ鬼子と呼ばれる十三から十五歳の男子三名である。が、実際はその父親か叔父が大縄をなったり、ヨメワラ(藁の束)やトオシ(フジの蔓の輪)を作る。出来上がった勧請縄をジャといい、鬼子が東寺の入り口に吊るす。ジャの飾り物は他の勧請縄と異なっている。
東寺では男子が生まれると役場への出生届のほかに、十人衆の長老(一番尉)にも届け出なければならない。一番尉は弘化四年より引き継がれている「当村座長」にその名を記入する。この記入順序で以後の祭祀の役割順が決まる。鬼子はその最初の役割である。鬼子という名は一月十五日の修正会の鬼の役を勤めるところからきている。西寺とは違って、東寺では鬼が堂内を激しく走り回る。ここからこの修正会を「鬼走り」とも呼ぶ。
 
 ●水口町は石部町から東へ三重県に接し、古くは伊勢大路の道筋にあたり、また東海道の水口宿としてひらけた。松尾は水口町の北東部にあたり高さ二百メートル前後の小高い山に囲まれている。一月は行事が多く、ムラの人たちは大忙しだ。特に掛け持ちになった当番は大変である。二日の山の神祭りの準備、三日の山の神祭り、八日の願隆寺薬師大師オコナイ、山口の準備、九日の大縄開き、十一日作りぞめ、十五日歳旦祭、十六日伊勢講、十七日願隆寺観世音オコナイ、二十日赤子の餅わりと続く。八日の山口が勧請吊りにあたる。この日の昼過ぎ名々が藁束を持ち、ムラの氏神である八幡神社の前に集まる。山の神祭りの準備と同じメンバーである。松尾は四十二戸の村で、約十戸の組が四組ある。今年は三組が当番になっている。ほぼ皆が揃うと、大縄(三つ縄)を作るものと細縄を作るものに分かれる。大縄は参道の両側の木にまたがる長さほぼ十メートルの長さのものを作る。細縄は、二本の細縄を一束にして、今年は閏年なので十三本用意する。参道に吊るされた大縄に細縄を掛け、祈祷札を吊るす。掛け終わると、境内から切ってきた大きな榊を大縄の中央に跨ぐかたちで吊るして準備は完了である。翌日の朝、大縄の飾り付けを「開く」といって、宮守が参道の階段にまで垂れた榊をかき分けて参る。
二日の山神祭りの準備で作った二対の藁の苞の一つは山の神のジャにしたてた大縄に掛けるが、もう一つは雄松と幣で苞を飾り、十一日の作りぞめに使う。作りぞめとは、各自の田にこの苞と洗米・餅を供え豊作祈願することをいう。山の神祭りで山の神を里へお招ぎおろし、勧請吊り(山口)でムラの外からの「悪霊防除」を祈念し、作りぞめで豊作を祈る。というムラの豊饒を祈願する一連の行事として位置付けられよう。
●牛飼は松尾の南西方向で甲南町に接する。牛飼の総社神社は七月十八日にビール麦酒の始まりとされるむぎざけ麦酒祭りで知られる。ここでは一月七日から八日にかけて地面に届く長い勧請縄を作る。小縄祭といい、早く父親を亡くした人十二人が一本ずつ作る。父親がいないことからムラに世話になるからだという。
 
 ●甲南町は、隣の甲賀町と共に甲賀流忍者発祥地として知られる。今も残る甲賀流忍術屋敷が公開されている。稗谷は山間の盆地状になったところに位置する。天台宗安楽寺では一月十五日の未明より「オコナイ」が執り行われる。前日より用意した餅三個と、長さ一メートルの割竹の串に満月や三日月の形の餅と里芋を挿して飾られた籠が供えられる。上組、下組に別れたムラ人が全員集まると、裃姿になり、安楽寺住職に従って行に移る。行が終わると、日枝神社と稲荷神社に分かれて勧請縄を作る。
杉の葉を括りつけた縄を八本で一束にしてできた垂れ縄を十二本(閏年も同じ)大縄に飾る。杉の木で作った真中の丸をネソと呼ぶ。出来あがった勧請縄をツナと呼ぶ。宮守が作ったもち米の藁で長さ約十メートルもある縄だ。出来あがると堂内にツナを張り、住職が読経をする。読経が終わると、神社の鳥居の前の古木に吊るす。
 
 ●栗東市観音寺町は阿星山の(六九三メートル)の麓に位置する農業地域である。ここでは勧請吊りを「オコナイ」といい、旧暦二月一日にされる。長さ七メートルで太さ十五センチほどの樒を編みこみ、ヒゲカズラを巻き込んだ勧請縄(ナワと呼ぶ)を作り、白山神社に供える。当日の未明(午前五時頃)、前日に用意したナワをムラの入り口に三人のトウヤで吊るす。
  

 ●安土町西老蘇では「マジャラコ」と呼ぶ勧請吊りを一月八日に行う。大縄は大小二本作る。長さ五メートルのものは丸くして六本の小勧請縄を吊るし、津島さんの祠のそばの欅の木に吊るされる。もう一つは長さ十五メートルほどで、椿の葉を編みこんだ小勧請縄を十二本(閏年は十三本)飾る。中央には椿の枝葉で作った輪を吊るす。この輪の中には、「天下泰平、日月清明、五穀成就」と書かれた祈祷札が懸けられている。こうして出来あがった勧請縄を鎌若宮神社参道に吊るした後、子供たちがこの祈祷札をめがけて投石をする。祈祷札が割れると、この願いが叶うという。

 ●能登川町伊庭に鎮座する大浜神社前の道路に張られた勧請吊りは、檜の小勧請縄で、竹で作られたトリクグラズを檜の葉で飾る。トリクグラズの上には大きな幣が三本立てられる。この幣は三体の祭神を意味するという。(一月第二日曜日)

 ●蒲生町下麻生の山部神社では、樒をつけた縄を十二本で一束にして小勧請縄とし、これを十二束飾る。中央には星型のトリクグラズが付けられている。(一月七日)

 ●日野町熊野の熊野神社では、以前は一月三日にされたが、ムラ人の意向で、人が一番集まりやすい、前の月、十二月の第三日曜日に変更となった。樒で小勧請縄を作る。

 ●永源寺町臨済宗永源寺派の総本山永源寺の名がそのまま町名になっている。永源寺のある高野の高野神社参道に吊るす勧請縄のトリクグラズは他と異なる。割れ竹で作った方形に榊と稲をくくっている。勧請吊りの木の根元には祈祷札が立てられていた。(一月三日)
●信長が狙撃された千種越えを傍にひかえる池之脇では、一月三日に白鳥神社の参道に吊られる。蛇の尾に見立てられた藁の束が特徴だ。


 ●愛東町青山は愛知川を挟んで北東に八日市市と接する。青山の日吉神社は一月三日に勧請吊りをする。先に樒を付けた十二本を一束にした小勧請縄が十本飾られ、注連縄の上部に御幣が三本立てられている。これらが全て中央に寄せられており、他とは異なる形態だ。

 三十ヶ所の勧請吊りを見てきたが、正月になると、毎年新しい勧請縄に吊りかえ、ムラの一年間の安全と豊穣を祈願する。ムラが一つの共同体として機能してきたことへの証でもあり、それは今の時代も精神的な面での靭帯として大きく作用している。この勧請吊りだけではなく、春・秋の例祭も然りである。青年団はムラの長老衆から祭礼の準備、そして行事次第の教示を得、祭礼を進行する。この青年も齢を重ねムラの長老となる。そこには、長老としての資質と資格を備えなければならない。こうしてムラの秩序が成り立ち、共同体を維持しているのだ。近江には、「宮座」という祭礼組織を持つこのような共同体の行事が数多く残り、この中でも紹介した「オコナイ」などもその好例である。
飾るタイプの勧請縄を見て、クリスマスの頃にヨーロッパの家々の戸口に緑の枝葉を使った輪飾りのリースが取り付けられるのを思い出した。クリスマスリースは常緑樹の樅の木、ヒイラギ、松、月桂樹の枝葉を使って輪を作る。緑の輪飾りの上には赤い実を付けたヒイラギやベル、赤いリボンなどで飾る。常緑樹の緑は豊作を意味し、赤は生命力を表わすという。戸口に飾られたクリスマスリースはこれから迎える新年の平安と豊穣祈願である。
新年にあたっての人々の思いは、洋の東西を問わず同じだ。