サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経 |
一 身体のサティパッターナ
4. 不浄の観想 [ENGLISH] そして、修行者は、足の裏から上へと、頭髪の頂から下へと、皮膚に覆われ、さまざまな 不浄物 でいっぱいの、まさにこの身体を、じっくりと調べて観想します。 「この身体には、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、喉、顔、脳、胆汁、痰、膿、血、汗、固形脂肪、涙、液体脂、唾液、粘液、滑液、尿がある」 と。 両端に口の付いた、中にサーリ籾米、ヴィーヒ籾米、緑豆、豆、胡麻、玄米など、いろいろな穀物で一杯になっている食料袋があるようなものです。見分ける眼を持った者ならば、袋を開けて 「これはサーリ籾米です。これはヴィーヒ籾米です。これは緑豆です。これは豆です。これは胡麻です。これは玄米です」 と調べるでしょう。 このようにして、修行者は、足の裏から上へと、頭髪の頂から下へと、皮膚に覆われ、さまざまな不浄物でいっぱいのまさにこの身体を、じっくりと調べて観想します。 「この身体には、頭髪、体毛、爪、歯、皮膚、肉、筋、骨、骨髄、腎臓、心臓、肝臓、肋膜、脾臓、肺、腸、腸間膜、喉、顔、脳、胆汁、痰、膿、血、汗、固形脂肪、涙、液体脂、唾液、粘液、滑液、尿がある」 と。 このように、自分にとって 身体 は身体にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても 、身体は身体にすぎない、といつも感じて生きるのです。 身体が存在する原因と、身体が実際に存在しているのを、いつも感じて生きるのです。身体が存在する原因と、身体が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。 身体が実際に存在し、実際に消滅する のを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。 つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、身体のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、 世の中 の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 ) これが身体は身体にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。
(不浄の観想 了)
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