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アンサンブル・アメデオ 第23回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 23rd Regular Concert

2007年1月13日(土)17時30分開演
於:文京シビックホール 大ホール
 


曲目解説
| 狂詩曲スペイン | 「オーベルニュのうた」より | 「カルメン」ハイライト | 「はかなき人生」より間奏曲と舞曲 |
| 歌劇「ゴイエスカス」より間奏曲 | 「スペイン組曲」よリ |

第1部

狂詩曲スペイン

 作曲者 アレクシ=エマニュエル・シャブリエ
 アレクシ=エマニュエル・シャブリエ(AIexis-Emmanuel Chabrier,1841年1月18日〜1894年9月13日)は、フランス、オーヴェルニュ地方、プュイ・ドウ・ドーム県のアンベールで生まれた(青カビのチーズ「フルム・ダンベールfourme d'Ambert」が有名であるらしい)。

 幼い頃からピアノや作曲に興味を示し、特にピアノの腕前は天才といわれるほどであった。しかし、父親の強い勧めによってパリで法律を学び、内務省に就職した。シャブリエは公務員生活を送るかたわら、フォーレやダンディら作曲家と親交を持ち、独学で作曲の勉強をつづけた。また、詩人のヴェルレーヌと親交を結び、同じ通りに住んでいたマネを始め、モネ、セザンヌ、ルノワール、シスレー等の画家達とも親しく、彼らの油彩だけでも19点を収集していたという。

ヴェルレーヌには『エマニュエル・シャブリエに』と還したソネットがあり、マネはシャブリエの肖像画を残している。
1877年にはオペラ・ブッファ(喜歌劇)『星』を書いたシャブリエが、音楽の道に専念することを決意したのは、1880年にミュンヘンにおいて、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』を観たことがきっかけであったという。このとき39歳であったシャブリエは内務省を退職し、作曲家としての活動を本格的に開始した。

狂詩曲スペイン
1882年、妻とともに4ヶ月間スペインに滞在し、このときの印象をもとに翌1883年に作曲したのが『狂詩曲スペイン』である。8分の3拍子の中に「ホタ」や「マラゲーニャ」など、スペイン滞在中に取材した旋律を散りばめた作品である。一定の形式に沿って並べているように見えるが、それよりも即興性、自由さを感じさせる。途中で出てくる2連符もその一因であろう。いろいろな要素を並べると、どうしても暗いものが混ざってしまいがちだが、この曲は一貫して明るい。そのせいか、初演時から熱狂的に迎えられ、現在も演奏会の重要なレパートリーとなっている。

 シャブリエは作曲家としての活動を開始してわずか14年後の1894年、53歳にして早逝している。生涯も代表作も短いが、ワーグナーの影響、スペインを題材にした作品など、近代フランス音楽界の先駆者としての功績は小さくない。


「オーベルニュのうた」より

作曲者 マリー=ジョゼフ・カントルーブ=ド・マラレ
 マリー=ジョゼフ・カントルーブ=ド・マラレ(Marie Joseph Canteloube de Malaret,1879年10月21日アルデシュ県アンノネー〜1957年11月4日イヴリーヌ県グリニー)はフランスの作曲家。アンノネーで少年時代をすごした後、1900年にはパリに出て、ショパンの門人アメリー・デゼール Amerie Daetzerにピアノを、1901年からはスコラ・カントルムにてダンディに作曲を学んだ。最初の作品「感傷的な対話(Colloque Sentimentale)』が作曲されたのは1903年である。その他の作品として、歌劇『農家(Le Mas)』や、力エサルを破った将軍を主人公にした『ヴェルサンジェトリクス(Vercingetorix)』がある。1925年に、オーベルニュの文化を普及させるための団体「ラ・ブレーLa Bourree」を発足させた。1941年、ナチ占領下のフランスで、カントルーブはヴィシー政権に参画したが、明確にナチスに協力しようという意図があったわけではないようだ。この間に「農村の歌は、形式という点ではともかくも、感情や表現という見地からすれば、しばしば芸術の最も純粋な段階を表している」との信念に基づき、『フランス民謡大全Anthologie des chants popularies Francais』(1939年〜1944年)を編纂。

 カントルーブは作曲や伝統的なオック語民謡の収集だけでなく、恩師ダンディやセヴラックの伝記も残した。他に、交響詩『遠方の姫君へ(Vers la princessenlontaine)』、ヴァイオリンと管弦楽のための『詩曲(Poemes)』なども作曲しているが、『オーベルニュのうた』以外はほとんど演奏されない。作曲家としてはちょっと気の毒な存在である。

オーベルニュのうた
 カントルーブの故郷、オーベルニュ地方は、フランス中南部に広がる地方で、その大部分は400年前の火山活動でできた標高500メートルから1000メートルの大地からなる。フランスの貯水池と呼ばれるくらい雨が多いが、耕地は少なく、牧草地や雑木林が続き、昔から羊の放牧が盛んであった。アルプスのような高い山ではなく、日本の風景にも通じるところがある。火山が多いため、地形の変化が激しく、またヴィシーをはじめヨーロッパ屈指の温泉地として知られる。

 古代の西∃一ロッパに分布していたケルト民族(フランスではゴール人、イタリアではガリア人と呼ばれた)が、ゲルマン民族やラテン民族の進出に押され、ブリテン島やイベリア半島に移動したが、オーベルニュ地方は周囲の嶮しい地形と厳しい自然のため、ケルト人の土地として残された。この地の言語がケルト系の名残を留めているのはそのためである(同じようにケルト文化の伝統が残っているブルターニュ地方も、近年公開された映画「灯台守の恋」で描かれているように、厳しい自然環境で知られる)。

 今は3つの県に分かれているが、全体でオーベルニュ地方と呼ばれることが多い。農家は貧しく、羊飼いは牧草を求めて転々とする。このような貧しい生活の慰みとして歌われたのが彼らの民謡である。

 先に書いたように、カントルーブは早くから故郷の民謡の研究に没頭していた。1907年に『オーベルニュ高地とケルシー高地の民謡』を2巻にまとめて発表したあと、『5つの農民の歌』『続農民の歌』『オーベルニュ高地の宗教歌』などを刊行し、オーベルニュからバスク地方までの南フランス一帯の民族音楽の権威と目されるようになる。

 カントルーブの名声を特に高めたのが本日演奏する 「オーベルニュのうた』である。最初に1924年のコンセール・コロンヌの演奏会で発表され、すぐに最初の2巻(8曲)がユージェル社より刊行される。以後同年に第3巻(8曲)、1930年に第4巻(6曲)、1955年(カントルーブの死の2年前)に第5巻(8曲)が刊行され、全30曲がまとめられた。カントルーブの色彩感豊かなオーケストレーションによる効果的な伴奏も曲集の魅力に大きく貢献しているが、やはり旋律そのものの魅力がなければここまでの人気は得られなかったに違いない。


歌劇「カルメン」ハイライト

作曲者 ジョルジュ・ビゼー
 ジョルヅュ・ビゼー(Georges Bizet)は1838年10月25日、パリ近郊で生まれた。最初につけられた名前は、アレクサンドル=セザール=レオポール・ビゼー(Alexandre Cesar Leopold Bizet)だったが、洗礼時に改名された。

 父は声楽教師、母はピアニストで、幼い煩から音楽に親しみ、記憶力が抜群であった。9歳でパリ音楽院に入学し、シヤルル・グノーやアレヴィに師事してピアノ、ソルフェージュ、オルガン、フーガで一等賞を獲得した。在学中に作曲され、20世紀になって発見された『交響曲ハ長調』は伝統的な形式にしたがっていながら、すでにピゼーの個性を十分に示しており、今日でも演奏される。19歳でカンタータ『クローヴイスとクロティルデ』でローマ大賞を獲得。ローマに留学するが、母の病気で本来1年の留学を半年で切り上げて帰国している。

 帰国したビゼーはオペラ作曲家としてのキャリアをスタートさせる。1863年、25歳のときに『真珠採り』を完成させるが、あまり評判は良くなかった。その後1873年までの間に1年に2曲の割合でオペラに取り組んでいるが、そのなかで今日演奏されるのは『美しいパースの娘』だけである。

 ビゼーが作曲家として生前評価されたのは、むしろピアノ曲『子供の遊び』の管弦楽版や、フランス人作家アルフォンス・ドーデの劇『アルルの女』の付随音楽であった。これらの成功に気を良くしたビゼーは、オペラ・コミックから依頼されていた『カルメン』の作曲に精を出す。しかし、1875年3月にパリのオペラ・コミック座で行われた『カルメン』の初演は失敗に終わった。快い愉楽や甘い感傷に慣れきっていた当時の聴衆はこのオペラのドラマの異常性に反感を持ち、またその新鮮な音楽を理解できなかったのである(当然ながら、当時は現代音楽であったのだ)。失意のビゼーはその初演の3ヶ用後の6月3日にプージパルにて37歳で亡くなった。

 ビゼーはピアノもうまかったらしく、1861年にはリストの新作のパッセージを一度聴いただけで演奏し、さらに楽譜を渡されると完璧に弾いてのけてリストを驚かせた。オペラ作曲の合間に、グレン・グールドが演奏したことで知られる『半音階的変奏曲』、無言歌『ラインの歌』(1865年)などのピアノ曲を残している。また、サン=サーンスの『ピアノ協奏曲第2番』のピアノソロ用編曲は凄腕ピアニストが取り上げる難曲として知られている。

歌劇『カルメン』
『カルメン』(Carmen)は、ビゼーの最後の作品であり、全4幕のフランス語によるオペラである。

プロスペル・メリメの小説『カルメン』をもとにした台本はアンリ・メイヤックとリュドヴィク・アレヴィによる。音楽(歌)の間を台詞でつないでいくオペラ・コミック様式で書かれている。パリのオペラ・コミック座の初演は不評であったが、ビゼーの死後、エルネスト・ギローにより台詞をレチタティーヴォに改作して上演され、人気を博すようになった。ロマン派のフランス歌劇の代表作として世界的に人気がある。近年ではオペラ・コミック様式に復元した原典版である「アルコア版」による上演も行われる。現行の主要な版は原典版のほか、オペラコミック版、グランド・オペラ版、メトロポリタン歌劇場版がある。

 日本でも浅草オペラの演日として上演されていた。

主な登場人物
 カルメン(メゾソプラノ)タバコ工場で働くジプシーの女
 ドン・ホセ(テノール)衛兵の伍長
 ミカエラ(ソプラノ)ホセの許婚
 エスカミーリョ(パリトン)闘牛士

 メリメはある実話をもとに戯曲を書いたわけだが、その実話というのは今でいう三面記事に載るようなものであったらしい。
その戯曲にはカルメンの愛人(と言うより「ヒモ」と言うべき人物)が出てくるが、オペラには登場しない。また、ミカエラは原作ではドン・ホセの回想にしか出てこない人物である。

あらすじ
 最初に一般的な「序曲」にあたる全体の前奏曲が演奏される(本日は演奏しない)。闘牛の日の賑わいとエスカミーリョが歌う「闘牛士の歌」で主に構成されている。

第1幕
 不吉な運命を暗示する短い「前奏曲」で幕を開ける。舞台はにぎやかなセビリヤの町。町の警備にあたっている衛兵の交代。  子供たちが兵隊のまねをして、本物の兵隊たちと一緒に行進してくる。交代要員の中には、ちょっとした争いがもとで故郷の村を出て兵隊となった伍長のドン・ホセもいた。彼は交代前の同僚から、つい先ほど自分を訪ねて若い女性がやってきたことを教えられた。様子を聞くと故郷に残してきた恋人のミカエラであるらしい。

 警備をしている場所の近くにあるタバコ工場が昼休みになり、若い娘がたくさん出てきた。ひときわ目立つのは主人公のカルメン。ただ一人自分に無関心だったドン・ホセに「ハバネラ」を歌いながら接近、赤い花をなげる。

 ドン・ホセが赤い花の魔力に心を惹かれそうになったところヘミカエラが戻ってくる。彼女が持ってきた手紙から故郷の母親がミカエラと結婚することを望んでいることを知り、ドン・ホセも近いうちに結増することを決意する。

 ミカエラが帰った後、タバコ工場でけんかが起こる。ドン・ホセは隊長スニガの命令でけんかの元となったカルメンを捕らえて牢まで護送することになったが、カルメンは執拗にドン・ホセを誘惑し、「セギディーリャ」を踊りに行こうと妖艶に誘う。
 ついに誘惑に負けてしまったドン・ホセはカルメンを逃がしてしまい、代わりに営倉に入れられてしまう。

第2幕
 1ヵ月後、カルメンたちが居酒屋で「ジプシーの踊り」を歌い踊っている所へ、闘牛士エスカミーリョが入ってくる。エスカミーリョはカルメンに名前を尋ね、気のあるそぶりを示すがカルメンはあまり関心を示さない。

 皆が帰った後、カルメンを逃がしたことによって1ヶ月間代わりに牢に入っていたドン・ホセがやってくる。カルメンは歌い踊って歓迎するが、やがて帰営ラッパが聞こえてくる。

 ドン・ホセは隊に帰ろうとするがカルメンはなぜ帰るのかと責める。もう私のことは愛していないんだと言うカルメンにドン・ホセはこんなに愛しているのだと「花の歌」を歌う。

 しかしカルメンは帰営を許さない。ドン・ホセはそんなわからずやのカルメンと訣別して隊に戻ろうとしたところへ隊長の スニガがカルメンを訪ねてやってくる。嫉妬に燃えるドン・ホセは上官に対して剣を抜いたことにより脱走兵となり、カルメンがメンバーの一員となっている密輸業者の仲間になり、カルメンをはじめとする密輸団員と生活を共にすることになる。

 オペラはここで休憩。牧歌的な間奏曲が3幕の開始を告げる。

第3幕
 深夜のけわしい山中。休憩している密輸業者たち。すでにホセに飽きているカルメンは仲間とトランプ占いをするが、「死」ばかり出るので恐ろしくなる。

 やがて休憩地にはカルメンを追って闘牛土エスカミーリョが、そしてドン・ホセを追ってミカエラがやってくる。

 危険を冒して山中までやってきたエスカミーリョにカルメンの心は次第に惹かれていく。

 一方、同じく山中まで女一人でやってきたミカエラに対してドン・ホセの心は揺れるがまだ未練がましくカルメンから離れることはできなかった。しかし、ミカエラから母親が病気であることを知らされドン・ホセは未練を残しながら山を下りる。

第4幕
 闘牛の日。賑わう闘牛場前の市場。花形闘牛士たちが次々に入場。これから闘牛場に入ろうとするエスカミーリョはカルメンとともに登場する。

 今やカルメンとエスカミーリョが「いい仲」であることは疑いようもない。それを物陰で見ていた落ちぶれた姿のドン・ホセ。話をつけると出てきたカルメンに、ドン・ホセは何でもするから前のように愛してくれと哀願するが、カルメンにはまったくその気がなく、ついにカルメンは以前にドン・ホセからもらった指輪を投げつける。逆上したドン・ホセはカルメンを短剣で殺してしまう。我に返って呆然と立ちつくすドン・ホセの姿を残し、幕となる。

 このオペラの作曲を願い出たとき、知的で上品をモットーとしていたパリのオペラ・コミック座は渋々了承したらしい。はすっぱな女や遊び人の闘牛士、好色な上官、普段着姿の庶民が群れを成して舞台に登場すれば、紳士淑女の顰蹙を買うのは目に見えていたからである。先に説明したように初演は大失敗であったが、散りばめられたメロディーの親しみやすいこと、美しいことは比類がない(どこかで聞いたことのあるメロディが多いと思われるのではないだろうか)。個性的な4人の主人公の活躍で見ていても面白い。また、多くの作曲家がこの曲を元に「カルメン幻想曲」なるものをまとめている。これだけ多くの人を魅了する作品というのはあるようでなかなか見当たらない。


第2部

歌劇「はかなき人生」より間奏曲と舞曲

作曲者 マヌエル・デ・ファリャ・イ・マテウ
 マヌエル・デ・ファリャ・イ・マテウ(Manuel de Falla y Matheu,1876年11月23日アンダルシア州カディス〜1946年11月14日アルゼンチン・コルドバ)は10代から作曲を始め、1890年代からはマドリッドでピアノを学ぶかたわら、近代スペイン音楽復興の立役者フェリペ・ペドレルFelipe Pedrell に作曲を師事する(ペドレルは本日2部で取り上げる3人の作曲家すべてを弟子に持つ)。

 ファリャはとりわけ、アンダルシアのフラメンコ(のカンテ・ホンド)に興味を寄せ、多くの作品においてその影響を示している。初期作品にはたくさんのサルスエラがあるが、中でも最も重要な作品はファリャが27歳のときに作曲された2幕形式の『はかなき人生La vida breve』(1905年作曲、1913年初演)である。これは王立音楽院の新作コンクールで1位を獲得した。その記念にマドリッドで上演されることになっていたが、その話が一向に進まないのに業を煮やしたファリャはパリに赴き、ドビュッシーやデュカスらと親交を結ぶ。ラヴェルやフローラン・シュミットとは、芸術家サークル「アパッシュ」を旗掲げした。その後マドリッドに戻ってから、ピアノと管弦楽のための交響的印象『スペインの庭園の夜 Noches en Iosjardines de Espana』(1916年)やバレエ音楽『恋は魔術師 EI amor brujo』(1915年)、ロシア・バレエ団のために作曲された『三角帽子 EI sombrero de tres picos』(1917年作曲)などの最も有名な作品が書かれる。これらの作品では、民族主義と印象主義の両方がバランスよく混在している。

1921年から1939年まではグラナダに移住し、室内オペラ『ペドロ親方の人形劇 El retablo de maese Pedro』(1923年)や『クラヴサン協奏曲』(1926年)を作曲した。これらの作品はストラヴィンスキーの新古典主義音楽の影響が認められ、スペイン民俗音楽の影響はやや稀薄になっている。クラヴサン協奏曲は当時の名手、ワンダ・ランドフスカ女史に献呈されたものだが、パロックからモーツァルトあたりまでを主なレパートリーとした彼女には理解されず、結局ファリャ本人がクラヴサンをマスターし、演奏した録音が残っている。(元々ファリャは上記の新作コンクールの翌日、ピアノのコンクールでも優勝しているくらいのピアノの名人なのである。)

 また同地で大規模なオペラ 『アトランティス La Atlantida』が構想され、1939年にフランコ政権を避けて南米アルゼンチンに亡命してからも作曲が続けられたが結局未完に終わっている。敬虔なカトリック教徒であり、厳しい完全主義者であった彼(確かに、肖像画や写真を見るとまるで修道僧のようである)は、死後自分の作品を演奏しないよう、遺書で求めた。それを無視した後の人々の判断が正解であることはこれから証明される(はずだ)。

はかなき人生 La Vida Breve
初演(台本カルロス・フェルナンデス=シャウ)
1913年4月1日ニース、ミュニシパル・カジノ(仏語版)
1914年11月14日マドリード、サルスエラ劇場(西語版)

登場人物
 サルー(ジプシー娘)
 サルーの祖母
 パコ(サルーの恋人でゲラナダの上流市民)
 カルメラ(金持ちの令嬢でパコの結婚相手)
 サルバオール(サルーの大叔父)
 マヌエル(カルメラの兄)

あらすじ

第1幕
 ゲラナダ市内のジプシーの家。老婆が孫娘サルーの恋の悩みに同情しながら出てくる。サルーが登場し、彼女に恋人パコが 最近姿を見せないことを相談する。祖母が慰めているところにパコが登場。サルーは大喜びで飛び出す。恨み言を言うサルーにパコは言い訳しているが、結局二人は愛を誓いあう。その様子を見てほっとする祖母。しかしその弟(サルーの大叔父) サルバオールは、パコは次の日曜白に金持ちの令嬢カルメラと結婚するという噂があることを教えて怒っている。

第2幕
 パコの結婚柏手であるカルメラの家の中庭で行われている婚礼の祝宴。祝いの踊りは当然フラメンコ。サルーがその様子を覗いて悲しみ、目の前に出て自分のことを暴露してやろうと思う。そこへ祖母とサルバオールもやってくる。祖母は孫娘を慰めるが、サルバオールはここでも激怒する。祖母が止めるのも開かずに、サルーとサルバオールは中庭へ入っていく。
パコはサルーの絶望的な声を聞いて動揺する。

2人の招かざるジプシーを見たマヌエルは「踊りに来た」と言うサルバオールに皮肉を言う。正気に戻ったサルーは「私は 踊りに来たのではなくて、私を裏切って捨てたこの人に殺してもらうため来たのだ」と言う。

 良心の呵責を感じていたパコだったが、体面のためにサルーの言ったことを否定する。サルーはパコヘ近づきながら倒れて 息絶えてしまう。祖母はサルーに駆けけ寄り、パコを罵り、サルバオールはパコを刺し殺し、カルメラは失神し、人々は唖然とする。

 なにげなくここまで書いて来たサルスエラだが、これはスペイン風のオペラであり、イタリア語ではなくスペイン語で台本が書かれていたこと、台詞が多く音楽に比べて重視されることに特色がある。最初に発展したのはバロック時代であり、多くは神話を題材とし、詩、オペラ形式の歌と当時の流行歌、民族舞踊が混じりあったものであった。イタリア・オペラが流行るにつれ、徐々に廃れていった。

 一世紀の空白の後、スペインのナショナリズムの興隆に伴い、サルスエラは、イタリア音楽から独立した楽曲形式として復活した。『はかなき人生』はもちろんこちらに当たる。何となく『カルメン』と似ているところのある筋書きだが、音楽はこっちのほうが「濃厚」な感じがする。比ペてみると、やっぱリビゼーはスペインに行ったことなかったんだなあ、と思う。特にそれを感じるのは、やはり単独でも演奏される『スペイン舞曲』だろう。メロディーの節回しといい、伴奏の音型と言い、「濃いなあ」と感じる。

 あの修道士のような風貌のファリャがこのような熱狂的、官能的な音楽を書いたのだと思うと興味深い。彼もはやり「ステップを踏みながら生まれてきた」スペイン人だということか。


歌劇「ゴイエスカス」より間奏曲

作曲者 エンリケ・グラナドス
 エンリケ・ゲラナドス(Enrique Granados,1867年7月27日、カタルーニャ州レリダ〜1916年3月24日、英仏海峡)はバルセロナ音楽院に入学してピアノを学ぶ。16歳で首席で卒業後、フェリペ・ペドレルのもとで教えを受けたのちパリヘ留学し、パリ音楽院のシャルル・ド・ペリオーのもとで2年間研鑽を積む。

 故郷カタルーニャの都、バルセロナに戻り、まずはピアニストとしてグリーグのピアノコンチェルト(1869年初演なので、1890年当時としては現代音楽)で、デビュー。その後作曲に力を入れ、25歳から数年をかけた『12のスペイン舞曲集』で広く認められるようになり、「スペインのグリーグ」などと言われるようになる。31歳のときにはオペラ『マリア・デル・カルメン』(Maria del Carmen)をバルセロナで上演するなど、着々と成果を挙げ、やがて、グラナドス音楽院を創設し、多くのピアニストや作曲家を育てる。当時の弟子のうちフランク・マーシャル(1883〜1959)はここで師の教えを受けたあと、マドリッド王立音楽院へ入学し、修了演奏ではマヌエル・デ・ファリャと首位を争った。彼はグラナドス音楽院を引き縦ぎ、アリシア・デ・ラローチャのような逸材を育てている。

 グラナドスはバルセロナで活動を続けるかたわら、折を見てはパリヘ出かけて多くの演奏会を開いている。47歳の時には、プレイエルのホールで自作の曲ばかりの演奏会を開催して絶賛を浴び、レジオン・ド・ヌール勲章を授与される。この時演奏した組曲「ゴイエスカス」が絶賛され、これをオペラで見たいという希望に応えて2幕のオペラを作曲。しかし、運悪く第1次大戦が始まり、パリでの上演は不可能となる。そこへ、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から依頼があり、グラナドスと妻アンパロは6人の子供たちをバルセロナに残し、海路アメリカに渡る。オペラの初演は大成功であったが、帰路、サセックス号に乗って英仏海峡を渡っているとき、ドイツの潜水艦の無差別攻撃を受けてしまう。一度は救助されたグラナドスだったが、波間に浮き沈みする妻の姿に我を忘れて海に飛び込み、妻とともに帰らぬ人となった。享年48歳。皮肉にも彼らは水が嫌いだったそうだ。

ゴイエスカス
 この曲は前記のとおり、最初にピアノ曲集として着想された。40歳を越えたグラナドスは、新しく建てられたマドリッドのフラド美術館に赴いた時に、同時代のスペインの画家ゴヤのマホ(majo、伊達男)やマハ(maja、粋な女性のこと)を描いた絵に出会う。大層ロマンティックな人でもあった彼は、その絵にすっかり魅せられてしまったらしい。そのときの様子は、道を歩いているときにふと浮かんだ楽想を、手近な「白いもの」に書きつけるので、家を出るときには真っ白だったシャツが帰ってくると真っ黒になっていたり、「今、そこでそれはもう、うっとりするぐらい素晴らしいご婦人にお会いしたのだ」と友達をつかまえては、どんなに素敵だったかを即興でピアノで弾いてみせたり、といったものであった。そうして作曲されたのが組曲「ゴイエスカス」である。

 この組曲の好評に応えて、作曲されたのがオペラ「ゴイエスカス」である。こんなあらすじである(台本はフェルナンド・ペリケ)。

登場人物
 バキロ(闘牛士)
 ペパ(その恋人)
 ロザリオ(上流階級の女性)
 フェルナンド(ロザリオの恋人)

あらすじ
 マドリッドの郊外。休日を楽しむマハたち、マホたち。何人かのマハがわら人形を毛布に投げる遊びに興じている。闘牛士のパキロはマハたちに御世辞を言っている。その日のパキロの恋人、ペパが小さな馬車でやって来る。人気者の彼女は暖かく迎えられる。すぐに上流階級の女性ロザリオが椅子かごに乗って到着。彼女は恋人のフェルナンドとの約束があったためやって来たのだ。パキロは彼女に、昔彼女が出たろうそくの灯で踊る舞踏会の話をし、もう一度行こうと誘う。それをたまたま聞いたフェルナンドに嫉妬心が芽生える。

 彼はパキロに向かって、ロザリオは舞踏会に行くかも知れないが、そのときは自分も一緒だと言う。彼はロザリオと一緒に舞踏会に行く約束をする。一方、パキロに無視されたペパはロザリオに復讐を誓う。

 舞踏会の日。フェルナンドとロザリオが現れる。フェルナンドの横柄な態度と尊大な話しぶりに参加者が皆怒りをおぽえる。2人の男が決闘を申し込む。気絶していたロザリオが我に帰ったところで、フェルナンドは彼女を連れて逃げる。

 ロザリオの家の庭。パキロとの決闘の前に立ち寄るフェルナンド。運命の刻を告げる鐘が鳴り、フェルナンドは決闘場へ赴く。

ためらいつつ後に続くロザリオ。一瞬の静寂の後、フェルナンドの叫び声。ロザリオの甲高い悲鳴。再び姿を見せる2人。決闘で敗れ息絶えたフェルナンド。そのフェルナンドを腕に抱くロザリオ。

 間奏曲は今回のように単独でも演奏されることが多い。スペインのチェリスト、ガスパル・カサドが編曲して演奏したことも、この曲の人気に大きく貢献している。


「スペイン組曲」よリ

作曲者 イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス
 イサーク・マヌエル・フランシスコ・アルベニス(lsaac Manuel Francisco Albeniz,1860年5月29日カタルーニヤ州カンブロドン〜1909年5月19日フランス、CamboIes Bains)は、スペイン民族音楽の影響を受けたピアノ音楽の作曲で知られる。4歳のときにはパルセロナのロメア劇場で、姉とピアノの演奏会を開く。7歳の時にはパリ音楽院ピアノ科の入学試験に合格しているのだが、隠していたポールで遊んでいて窓ガラスを割ってしまい、入学を断られてしまう。マドリッドの音楽院に入学したものの、9歳の頃には規則だらけの寮生活に耐えきれなくなり、汽車に無賃乗車をして近くの町まで行き、酒場でピアノを弾いて小銭を稼いで帰ってくるという生活を送っていた。そうしているうちに、ほぽスペイン国内を回ってしまった彼は、12歳の頃には「運良く船員が昼寝をしているすきに」大西洋前路の船に粟り込み、アルゼンチン、ウルグアイ、ブラジル、キューバ、そしてアメリカはサンフランシスコやニューヨーク、更にイギリス、ドイツと新旧大陸を放浪し、「小モーツァルト」とまで呼ばれるようになっていた。彼は「イサーク」というファーストネームから、自分のルーツはアフリカにあるのだと思っていたらしいが、それとこの放浪癖にはもしかしたら何らかの関係があるのかも知れない。

16歳になった1876年から19歳まではライプチッヒとブリュッセルの音楽院で学ぶ。卒業試験では当然1等賞を獲得。

1880年にブダペストに赴いてフランツ・リストに師事しようとしたが、当時リストはワイマールにいたため会えなかった。

演奏旅行を兼ねてドイツやオーストリア、ベルギーやフランスなどを転々としていたが、23歳のとき教え子と結婚。マドリッドを本拠として、演奏家兼作曲家として活動を始める。彼もここでやはリフェリペ・ペドレルに師事している。本日演奏の『スペイン組曲作品47(Suite espanola op.47』は彼のアドバイスで書かれたものである。その中の「アストゥーリアス」がギタリストのターレガの編曲で有名になる。アルベニス自身もこの編曲を大変気に入っていたらしい。

1890年代にはロンドンとパリに住み、主として劇場作品を作曲したが、1900年に腎臓病を患ってからはピアノ曲中心の作曲に戻った。1905年から1909年の問に、最も良く知られた作品『イベリア』(1906年から1909年にかけて作曲)を作曲。この頃、先のグラナドスと同じくレジオン・ドヌール勲章が授与され、そのグラナドスが彼の許へ届けにやって来たのだが、アルベニスの変わり果てた姿を見て涙が止まらなかったというエピソードがある。果して、『イベリア』築4巻の初演から数えてわずか3ヶ月後に彼は死んでしまう。

「スペイン組曲」
1886年に発表された『スペイン組曲』は、グラナダ(セレナータ)、カタルーニャ(コランダ)、セビーリャ(セビリャナス)、カディス(カンション)、アストゥーリアス(伝説)、アラゴン(ファンタジア)、カスティーリャ(セギディーリャ)、キューバ(カプリッチョ)の8曲から構成され、スペイン各地(およびキューバ)を彼が放浪していたころの情景が印象的に曲に込められた名曲。なお、もう1つ、6曲からなる組曲『スペイン作品165(Espana op.165)』がある。

 この組曲、都市名(グラナダ、セヴィリア、カディス)と地域名(カスティーリャ、アラゴン)が混在しているが、必ずしもその地域や術の音楽を忠実に再現しているわけでもないようだ。たとえば、「セヴィリア」のサブ・タイトル「セビリャーナス」は3拍子の踊りで、セピリャー風セギディーリャ(歌詞の音節が7・5・7・5・5・7・5)といった感じだが、小節数が異なるため、この作品にあわせてセビリャーナスの踊りを踊ることは出来ない。また、グラナダについて、彼は「小夜曲という言葉では表現出来ないほどの、何よりも強く胸を引き裂くような嘆き」と語っている。スペインから追われていった(彼が自らの祖先と信じていた)イスラム教徒たちへの思いをこの曲に表現したのだろうか。どうももともと別々に作曲したものをまとめたものらしく、作品47としてまとめられた後も別の曲集に再利用しているものもあるようだ。他にもこういう例は少なくないようで、アルベニスのおおらかな人柄がしのばれるエピソードである。

(曲目解説 荒木浩志)


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