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ベトナムの夜にぷっつん !

by.康


 8月21日から30日までの10日間、本誌編集長ちたろー氏とベトナムを旅した。
 首都ハノイを拠点に、北方の小さな村バハの日曜マーケット、リゾートビーチのハロン湾。私にとっては初の海外旅行。けんま、久しぶりの旅行記である。

●ハノイの空港で写真を撮られる

 成田発、香港経由で約6時間、ハノイのノイバイ国際空港に到着。うきうき気分でイミグレーションへ向かう。
 必要事項を記入した出入国カードとパスポートを審査官に提出。すると審査官は、もう一枚用紙を出せって言ってきた。「えっ。何か足りないの?」顔を見合わせた私たちは、隣に並んでいた日本人家族の女の子に聞いてみる。彼女が手に持っていたのは「写真付きの滞在登録用紙」だった。「それ必要なの?」彼女は元気良く「はいっ」。私たちは、滞在登録用紙を持っていなかった。もしかして、入国できないかもしれない、このままとんぼ返り、なんて心配していたら、審査官が用紙をくれて、「それに記入しなさい」って言ってくれた。写真はどうするのかなと思っていたら、別の審査官らしき人がインスタントカメラを持ち出して2$で撮ってやるからそこに座りなさいって。空港で写真を撮られることになったのである。これで、ともかく入国することができた。他の日本人家族も写真を撮られていた。でも、あの審査官は、用紙に写真を貼ったのだろうか?

●ちたろー氏、腕時計を盗まれる

これまた空港の話。空港出口で、待ちかまえていたミニバス(ワゴン車のこと)やタクシーの運転手たちが私たちを取り囲む。交渉の結果、オンボロのワゴン車に乗り込み、ハノイ駅に向かうことにした(翌日発のラオカイ(LaoCai)行き電車のチケットを買うため)。しかし、大きな橋の入り口で急に車を止めて、「あと5$出せ。橋の通行料に5$かかる」なんて言ってきた(後でそんなにかからないことが判明)。事前の交渉では4$って言ってたのに。「事前にそんなこと言ってないじゃないか!」なんて言い合いをしたが、らちがあかない。とりあえず、ここは5$払ってハノイ駅に向かう。そのとき、時間を見ようとしたちたろー氏の左腕に腕時計がないことが判明。どうも、空港で取り囲まれたとき盗まれたらしい。

●ベトナム初日はいきなりの車中泊

 ベトナム入国初日は、ハノイでゆっくり一泊してから翌日バハ(BacHa)に向かおうと考えていた。バハは「地球の歩き方」に載ってなくて、まだ観光客ずれしていない村だと、ちたろー氏がインターネットで事前に調べていた。しかし、ハノイ駅でチケットを買おうとしたら、ラオカイ行きの電車(ハノイ21:30出発、ラオカイ着7:00)でソフトベッドは翌日の分はなく、今日の分しかないと駅員に言われた(座席はハードシートとソフトシート、寝台はハードベッドとソフトベッドの4種類)。どうしようかと思ったが、まあこのまま行っちゃえっということで、ついた早々、数時間後には夜行電車に乗るはめになってしまったのである。外は30度を超える(34〜35度はあった)暑さ、駅のベンチで発車時刻まで休憩。ベトナム初の食事(夕食)は、駅前の屋台でフォー(うどん)とビアホイ(生ビール)であった。
 発車1時間も前に電車に乗り込んでみると、部屋は暑さで蒸している。でも、ベッドはなかなか快適。2段ベッドの下段で、上には誰もいなくて貸切り状態。最初、暑くてなかなか寝付かれなかったが、窓から入る風と扇風機で涼しくなり、疲れも重なって、朝までぐっすり。

●ハローおじさん、バハの村に現る

 ラオカイからおんぼろジープ(軍の払い下げ?)でバハの町に入る。ジープはホテルの前で私たちを降ろし、宿を紹介する。結構良かったので、ここで2泊することを決めて、早速温水シャワーを浴びる(1泊12$)。このゲストハウス(SaoMaiホテル)は市場に向かう通りに面している。私たちの部屋の前にはテラスがあって居心地がよい。宿にビアホイを注文すると、ホテル前のレストランの男の子(最初小学生位かなと思っていたら、何と17歳だった)が、ビアホイを大きなペットボトルに入れて持ってきた(宿とそのレストランは提携していた)。ハノイのビアホイと比べると、気が抜けたビールのようであまりおいしくない。以後、バハではビールは缶かビンで注文することになった。
 午後、村を散策。通りに面して洋服の仕立屋さんや露店が結構並んでいる。土と木でできた古い家と、煉瓦と石の新しい家が混在していて、新旧いろいろ。新しい家の壁に1993とか年号が書かれいる。たぶん建てた年なのだろうか。このような辺鄙な村にも「KARAOKE BAR」がけっこうあったのには、少々驚き。
 夕方、山の方に向かう。子供達に「ハロー」って言って挨拶していたら、遠くからでっかい声で「ハロー」を連呼する子供の姿が見える。がんばって応えていたら「ハロー」の言い合いになってしまった。ちたろー氏に「ハローおじさん」と命名される。

●村全体が停電、満天の空に流れ星

 夕方、村全体が突然の停電。ろうそくの明かりの下、宿前のレストランで夕食。村は真っ暗闇。食後、ろうそくを部屋の前のテラスに持ち出し、夜空と星を見ながら酒を飲む。満天の星空と天の川。首が痛くなるまで見ていると、流れ星が一瞬目の前を横切る。願い事すら忘れ、ぼおーっと眺めていたのである。

●朝食と昼食はマーケットの屋台で

 翌朝、5時に起こされる。人に起こされたのではない。山の上からでっかいスピーカーで音楽が流れ始めたからだ。朝5時から夜まで一日中ラジオ放送が鳴りっぱなしなのである。さすがは社会主義。
 朝焼けを見た私は、ちたろー氏を起こす。バハの朝は早く、宿前のレストランは6時には開いていた。前の通りをぼおーっと見ていると、マーケットに人が続々と向かっている。竹で編んだかごを背負った女性、バイクで移動する若者、馬を引いている男達などの姿が見える。
 早速私たちは、日曜マーケットに向かう。旅の目的の一つだった、バハのマーケットに期待が高まる。
 市場には、周辺の村から民族衣装をまとった花モン族の女性が続々と集まってきた。彼女たちが売っているのは民族衣装や刺繍された布など。よく見ると、柄がどれも違う。隣では、肉や野菜、果物、日干しの魚、鮒、鍋や釜、日用品(多くは中国製)、洋服などなどが売られている。
 日曜マーケットは、単なる市場だけではなく、一種の社交場になっているらしい。
 欧米人観光客が市場の中をカメラ片手にうろうろ歩く。私たちも、うろうろ。
 おいしそうに屋台でフォーを食べている人たちを見ていると、お腹が鳴ってくる。朝食は屋台で食べることにし、フォーとご飯を身振り手振りで注文。なかなかいける味だった。2人で3000ドン(約30円)。でも、フォーに直接スプーンで味の素をかけるのはやめて欲しい(味の素は全アジア共通?)。さすがに欧米人は屋台では食べていなかった。彼らは市場近くのレストランに集まっていたのである。
 昼にもう一度市場に来ると朝以上の人数でごったがえし、とにかくすごい数の人が売り買いしている。広場では水牛も売られていた。昼御飯も朝と同じメニューで3000ドン。食後に水分のない蜜柑(はっさくのようなもの)と、ピーナッツ(日本のものよりかなり小さい)を購入。ピーナッツは夜のおつまみと消えていった。
 午後は、共産党地方委員会か何かの建物(国旗が翻っていた)や、遺跡跡(?)などを散策。大きな川や橋、小山などを散歩して、村を一周する。
 夕方、ラジオ放送が流れる小山に上る。山登りが好きなちたろー氏はいきいきしているが、私は少々疲れる。頂上の建物は鍵がかかっていて中には入れなかったが、スピーカーが廃墟に取り付けられていたことを発見。
 夕食後、宿に戻ったら、突然の大雨。夜中近くまで降り続く。この夜は、星が見えなくて残念。でも、私たちはあいかわらず、テラスで酒を飲む。バハ最後の夜は、二人の会話を昔話や今の話、あちらこちらへと話を展開させる。

●ちたろー氏のギャグに爆笑

 翌朝、チェックアウト後、宿の女性と談笑。この女性は20歳くらいかなと思っていたらなんと25歳だった。ベトナム人の年齢は見た目で判断できない。ラオカイ行きの車に乗る間、ちたろー氏のギャグが結構彼女に受けて笑い転げる(私はネタにされてしまった)。記念写真を撮って宿を後にする。ラオカイ行きも、来たときと同じおんぼろジープであった。

●ハノイ行きの電車、ハードシートからハードベッドに変更

ラオカイ発18:00、ハノイ着翌朝5:00の電車のチケットは、午後4時に発売開始する。それまでの2時間、ラオカイ駅構内で休憩。座席は、ハードシート(木の椅子)しかなかった。定刻通り出発した電車に、売り子が乗り込んでいろんなものを売りつけてくる。電車が動いたら彼らは降りるのかなと思っていたら、ずーっと乗っていた。最初、席はがらがらだったのが、駅で次々と乗り込んでくる。行商のおばさんが、まだ夜の8時なのに椅子の下にござを敷いて寝始めた。周りを見ると、観光客は私たちだけ。外の景色は、右手に紅河(SongHong)の雄大な流れ、遠くの空は夕焼け空。
 夜9時頃、そろそろ寝る体勢をとろうと考えていたとき、駅員がチケットの確認に来た。私たちを見た駅員は「もう10万ドン(約1000円)出したら、ハードベッドが余っているので変更してやる」と言ってきた(他の駅員は「あそこはひどいから、やめた方がいい」とかなんとか言っている)。結局、私たちは金を払ってハードベッドに移動。客車を移動していると、若者がギターを弾いて皆で歌っていたり、トランプしたりして騒いでいた。とても楽しそう。
 私たちの寝床は、ハードベッドの3段の一番上、あぐらも組めないほどの狭さだった。まさにウナギの寝床。真横を見ると、扇風機がウンウンうなっている(途中停電で止まった)。下では、欧米人たちが談笑している。ベッドといっても板にござが敷いてあるだけ。でも疲れていたので結構ぐっすり寝られた(欧米人はござの上に手際よくマットを敷いて寝ていた。すばらしい)。
 朝5時にハノイに着いた私たちは、ハノイ駅で仮眠と休憩。7時頃起きて、ホアンキエム湖周辺(旧市街)のゲストハウスを探して歩き出す。

●航空会社の事務所が移転

 朝の通勤ラッシュで、道路はバイク(ほとんど50ccの日本製バイク、新車)だらけ。朝の喧噪は、私たちの疲れた体をさらに疲れさす。信号もほとんどないので、道路を歩いて横切る度に緊張する。
 ようやく見つけた宿は、奥まった部屋の最上階。町の喧噪が嘘のような静けさである(温水シャワー、扇風機付きで10$)。午前中休んで、軽い昼食を近くの店で食べる。ここのフォーは、日本のラーメンみたいで肉、野菜がけっこう入っていておいしかった。
 旧市街を軽く散策した後、チケットのリコンファームにキャセイパシフィック航空の事務所に向かう。「地球の歩き方」に載っていた場所を目指して歩くが、見つからない。近くの航空会社に聞くと、どうも移転したらしい。聞いた場所近くに高層ビルが建っていたので、もしかしたらと思ってタイ航空に入って聞いてみる。すると、隣のビルに入っていることが判明。無事キャセイパシフィックに到着し、リコンファームをお願いしていると、となりのおばさんに日本語で「ベトナムには観光ですか? キャセイはリコンファームはいらないのよ」って言われた。「えっ」って驚いていたら、「私、日本人に見られないのよね」って言っていた。どうも現地に住んでいる日本人のようだ。
 ハノイは、建築ラッシュで事務所の移転が多いらしい。最近はアジア通貨危機の影響で大変みたいだが。確かにビルはあまりテナントが入っていなかった。「地球の歩き方」の地図は、あてにはならない。日進月歩で、首都ハノイは変化している。
 ひとまず、洒落た茶店に入って休憩。久しぶりにエアコンの冷房にあたる。私はレモンジュース、ちたろー氏はヨーグルトで一息。
 ベトナムの出版事情に興味があった私は、近くの書店へと。しかし、英語の実用書や辞書類が多く、小説やその他、本の種類はまだまだ少ない。言論の自由はまだまだ制限されているらしい(フランス語専門の書店には、安部公房の本が並んでいた)。時計を盗まれたちたろー氏は時計屋を覗く。どうみても偽物にしか見えないSEIKOやCITIZEN、RADOのロゴの入ったものが並んでいる。
 鞄や靴はNIKEやadidasの偽物が並び、CDショップにはいかにものコピー商品(ジョンレノンなど)が堂々と売っていた。

 ●有名な「レストラン75」で暴飲暴食

 夜は、洒落たお店へということで、レストラン75『ベトナム料理のおいしいお店。ここの目玉は鍋料理。ヌードル鍋とシャブシャブ鍋の2種類がある(1人前2万ドン(約200円))』(地球の歩き方)に向かう。旧市街から南に向かって結構歩いたので、のどがからからになった私たちはいきなりビールをたくさん注文する。ヌードルとシャブシャブ鍋、白ご飯とピラフを注文して、鍋をお代わりしたらお腹いっぱい。かなりの食べ過ぎである。2人でしめて21万ドン。他の客は、全員現地在住の日本人だった。「地球の歩き方」をみると、このお店の原稿を書いているのはハノイ在住の人だった。
 その日の夜中、お腹が急に痛くなり何度かトイレに駆け込む私を、ちたろー氏は横目で見ながらぐっすり寝ていた。お腹は、胃薬と正露丸でなんとかおさまった。単なる「暴飲暴食」でよかった。

 ●レーニン公園になかったレーニン像

 夕食後、レストラン近くのレーニン公園を散歩(1人2000ドン)。公園内にレーニン像とミグ戦闘機があると「地球の歩き方」に書いてあったので、「やっぱり社会主義っていったらレーニン像だよね」なんて言いながら公園内を散策。しかし、結局見つからなかった。公園で見かけたのは体を寄せ合うアベックと、遊んでいた子供達。あと、男と交渉していた売春婦らしい女性(現地ではHONDA GIRLと呼ばれている)だけ。夜の公園は万国共通である。入り口近くの物売りのおばさん達と談笑して、宿までシクロタクシーに載って帰る(シクロは、自転車の前に2人位乗れる椅子が着いている乗り物)。値切って6000ドンにしたが、降りたとたん2人分(1万2000ドン)払えとふっかけてきた。6000ドンを手渡して、無視して宿に向かう。

●宿の主人に、14ドル猫ばばされそうになる

 翌日はハロン湾に行こうと決めていたので、事前に2泊3日のツアーを予約しておいた(1人32$、各ゲストハウス毎に各種ツアーを取り扱っている)。「明日はハロン湾だ!」なんて、気分はうきうき。シャワーを浴びて、タオルで体を拭いていると、宿の主人が突然現れて「バコダ島がハードストーム(大嵐)で船が出せなくなった。1泊2日のツアー(1人20$)に変更してくれ」と大げさに話す。「仕方ないなあ」と思いながら変更を確認、差額分の金(12$×2人分)を翌朝返してもらうことを約束する。
 翌朝、7時出発なのに、宿の主人は6時過ぎに「急げ急げ」と起こしにくるのである。急いでチェックアウトしようとすると、宿は「32$×2人分−20$×2人分=24$、宿代が10$で、24$−10$=14$」とノートに書き出して、「この14$はバスの中でもらってくれ。話はついている」とか言い出し、とにかく急かすので「OK」と言ってツアーバスまでバイクで移動(3人乗り)。バスに乗って、ツアーガイドに説明すると「私は聞いていない。後で宿に連絡する」。「はめられた」と思い、少々嫌な気分を感じながら、ハロン湾へ向かう。
 バスは日本製(日野自動車の大きいワゴン)で、ほとんどクッションが効いてない。最後列に座った私たちと、隣のフランス人カップルは、後で「あれは、ロデオバスだ!」なんて冗談を言い合う。おまけに、エアコンもほとんど効かなかった。
 結局14$はハロン湾から帰って、ツアーガイドと一緒に宿に行って、無事返してもらう(宿とツアーオフィスは目と鼻の先にあった)。悪質なところでは、宿とツアーオフィスがぐるになって返さないことがあると、ちたろー氏に聞く。実は私は、ハロン湾にいた間、ずっと14$のことが気になっていたのである。
 14$を返した宿の主人曰く「今日泊まるところ決めているのか。実は、おまえ達にスペシャルルームを用意してあるんだ」。私たちは丁重に断った。別の宿を探すことに決めていたのである。当然と言えば当然のことではあるが。

●ハロン湾の海は、Very Hot Water!

  『ベトナムきっての景勝地、ハロン湾。海面からニョキニョキと突き出した大小1000の奇岩が静かな海面にその姿を映し出す幻想的な光景は、まさに“海の桂林”』(地球の歩き方)
 “ロデオバス”から降りた私たちツアー一行20数人は昼食後、ハロン湾クルーズに向かう。ツアー観光客のほとんどが欧米人(彼らはいつでもどこでも、本を読んでいる)。日本人は私たち2人だけ。
 エメラルドグリーンの海は、波がほとんどなく、船が進むに連れて次第に海から突き出た奇岩が姿を現してくる。途中、船を止めて海で泳ぐことができた。陽気なイタリア人は、船のてっぺんから海にどんどん飛び込んでいった。私も舳先から飛び込んだが、足下がぐらっと揺れて、海にお腹をぶつけてしまい、船に残っていた人達に笑われてしまった。
 海は暖かく、まるでぬるい温泉に入っているようだ。岩まで泳ぎ着いて上陸しようとすると、岩場は貝がたくさん付着していて手足を少々切ってしまう。それにしても、男女問わず、皆泳いでいる。「日本人の女の子は、たぶん泳がないだろうなあ」なんて言いながら、がんがん泳いでいる女性達を横目で見る。ちなみに、ちたろー氏は船の周りをぐるっとまわっているだけだった。
 その後、船に横付けして、魚や貝を売りに来る小さな船を眺めたり、岩に上陸して洞窟に入ったりしながら、クルーズは終わりを迎える。西の海には沈む夕日(まさに、サンセットクルーズ!)、空には星、至福のひとときであった。
 夕食後、散歩がてら、私はホー・チ・ミンの顔の入ったTシャツを、ちたろー氏は海パン(NIKEなのに3本線が引いてある)を購入。途中、ハノイで会った日本人の若者に再会。宿のレストランにも、3人ほど日本人がいた。彼らは、いかにもアジアを旅慣れしている風体だった。
 町の高台にある宿は、町が一望でき、遠くには湾が見渡せる最高のロケーション。なんて思って寝ていたら、明け方いきなりベッドが壊れてしまった。頭のところがガクンと音がして、板がはずれてしまったのである。という訳でこの日も早起きになってしまった。
 朝食後、ビーチに向かう。沖に向かって泳いでいたら、例のフランス人カップルも隣で泳いでいた。お互いに「Oh〜! Very Hot Water!」「ye〜s. Very Hot Sea!」なんて騒ぎながら、どんどん沖に向かう。
 温泉のような海と暑いビーチ。冷たいビール。不思議な取り合わせである。波もほとんどなくて、遠浅の海もそこそこきれい。さすがは、「ベトナムきってのリゾート地」ではある。

●チェックイン後、宿が突然の停電

ハロン湾からハノイに戻った私たちは、「たまにはエアコン付きの宿にしようよ」ということで、1泊25$のエアコン付きのホテルにチェックイン。バスタブ付きのバスルームで温水シャワーを浴びた後、テレビでサッカーを観ていると、突然の停電。ちたろー氏はバスルームで、温水シャワーが冷水になる。部屋のエアコンも切れる。どんどん暑くなる。窓から外を見渡してみると、停電しているのはこのホテルだけのようだ。「こりゃあ、たまらん」ということで、チェクインした1時間後に荷物をまとめることになった。ホテルの女主人は、「数分で停電は直る。もし、宿が見つからなくて戻ってきたら、1泊10$にまけてあげる」なんて言い出して、なんとか引き留めようとする。少しでも早くゆっくりしたい私たちは、別の宿を探すことにしてそこを後にしたのである。
 見つけた宿は旧市街の奥の方で、最上階、テラス付きのミニホテル。バスタブ付きのシャワーとトイレは共同で、温水シャワーはないけれど、清潔で1泊8$。部屋は風通しが良い。結局最後の日までここの宿に連泊することになった。

●ちたろー氏、あまりの暑さにダウン

 ベトナム残り2日間は、ハノイ市をゆっくりと散策。とりあえず、社会主義ベトナムの現実と歴史を勉強しようということで、博物館見学などを計画する。1日目は、軍事博物館とホー・チ・ミン博物館、バーディン広場、2日目は革命博物館と歴史博物館、水上人形劇場などなど。
 朝、たまには洋食をということで、Cafeでパンとコーヒーにして、早速軍事博物館に出発。ところが、暑くて暑くて大変。持ち歩いていたミネラルウオーター(1.5リットル)はあっという間に空になる。太陽が真上から照らして、影が少ない。道もよくわからなくなって、なんとかたどり着いた「文廟」っていう1070年に孔子を祀るために建立された建物の前の日陰でちたろー氏ダウン。そこで休憩した私たちは、軍事博物館に向かう。やっとのことで巡り会った巨大なレーニン像で記念写真。博物館が開く時間(昼休みは開いていない)まで、またまた公園で休憩。ちたろー氏、ベンチで横になる。
 軍事博物館は、入り口に戦闘機ミグ21や戦車が置いてあり、迫力満点。ベトナム戦争を中心に独立戦争の歴史を、英語とフランス語で解説している。1975年4月30日サイゴン陥落時の戦車や、高射砲で撃ち落としたアメリカの戦略爆撃機B52の残骸などが展示されていた。
 関係者以外立入禁止の部屋を覗くと、9月2日の建国記念日(ベトナム民主共和国の独立記念日でもあり、ホー・チ・ミンの命日)に向けて、歌と芝居の練習をしていた。「レ〜ニーン、ホー・チ・ミーン〜♪♪」
 私は、博物館隣の国旗掲揚塔に上ってハノイ市を一望する。ちなみに、その間ちたろー氏は休憩所でまたまた休憩。

●ホー・チ・ミン博物館で閉館時間きっかりに追い出される

 次は、ホー・チ・ミン博物館。ホー・チ・ミンと世界の革命について見学。『旧ソ連の援助でレーニン博物館の専門家が設計や内装を担当したとのことで、館内の造りや内装は斬新でアーティスティック』(世界の歩き方)とのことで、とにかく、内装はきれいで前衛的。日本でもこんな博物館はめったにお目にかかれない。ホー・チ・ミン手記の「獄中日記」や手紙、写真、愛用品などが展示されていた。
 当日朝、私の時計が暑さで動かなくなって、2人とも時間のわからないままじっくり見学していたら、突然博物館の人に「もうすぐ閉館の4時だから速やかに退館するように」って言ってきた。「めったに来られないし、見られないんだから、すこし時間が延びてもいいじゃない」なんて思っていたら、すぐ出ていくようにとしつこく態度で示してくる。隣では、入ったばかりのアメリカ人が残念がっていた。結局全部見られないまま退館。展示内容より、博物館の態度にベトナム社会主義の現実を見たような気がした。

●バーディン広場で、短パン姿の私を見た高校生、大いに笑う

 1945年9月2日にベトナム民主共和国独立宣言をホー・チ・ミンが読み上げた場所、バーディン広場を散歩する。バイク、車の車両通行禁止の広場は、ゴミ一つなくとても清潔であった。広場を挟んで国会議事堂とホー・チ・ミン廟がある。
 ホー・チ・ミン廟前で記念写真をとり、北にある湖に向かってゆっくり歩いていたら、白い制服を着て集まっていた高校生たち(17歳位)に、大声で笑われてしまった。どうも私の姿を見て笑っているらしい。理由を聞いてみると、「この広場は短パンで歩いちゃいけない」とのこと。「Short No!」って言われる。10数人の笑いの目の先は私の短い短パンであった(テニス用の短パンなのでかなり短かった)。この広場は、ベトナム人にとってかなり神聖な場所のようである。

●チュックバック湖畔のレストランで日本人にビールをおごってもらう

 タイ湖を見学した私たちは、隣の湖チュックバック湖畔のレストランで、ビールを注文。隣のテーブルにビールビンがたくさん並んでいるのをみて「すごいなあー」なんて思っていたら、突然日本語で「日本人ですか?」って、そのテーブルの人が私たちの目の前に現れた。湖畔のあたりに日本人を見かけなかったので、少々びっくり。彼は、私たちにビールをおごってくれたのである。感謝。
 50歳近い(超えている?)その日本人は、20年以上も前から、ベトナムで仕事をしているといい、隣のベトナム人男性(40歳位、会社社長)を紹介してくれた。ベトナムで働いているその日本人は、ベトナムの社会主義に触れて「昔はベトナム人と会話するのも大変でしたよ。公安がいつも見張ってるし。彼(ベトナム人)と、もしここでこんな風に話してたら、私は大丈夫ですけど。彼は公安に連れて行かれますよ。・・・観光だと、ベトナムの社会主義はわからないでしょう。仕事をすればわかりますよ。ここ数年は(ドイモイで)少しは良くなりましたけれど、ベトナムで仕事をするのは大変ですよ。交渉しても、いったいだれが責任者かわからない。責任のたらい回し。早く日本に帰ろうと思っているんですよ。・・・だから、昼まっからビール飲むしかないんだよね」。
 彼は、口ではそういいながらも、仕事の電話がかかってきたら、早速仕事に向かって出て行ったのである。ベトナム人の社長を連れ立って。

●イタリアンレストランでワインに酔ったら、突然のスコール

 旧市街に戻った私たちは、イタリアレストラン「MamaRoza」っていう店で、ワインを注文(この店は「地球の歩き方」に載っていなかった)。カルボナーラ、ピザ(結構大きい)、サラダなどを注文。普段日本で食べるイタリア料理より本格的なもので、こんなにおいしいものかと思うくらいだった。50$を払って出ようとしたら、いきなりのスコール。出るに出られず、結局30分位その場で待っていると、お店の人がサービスの酒を出してくれた。なかなか粋なはからいに感激。

●ホアンキエム湖畔の人々

 翌朝は、「アウラックカフェ」っていうホアンキエム湖畔のけっこう有名なカフェで朝食。パンとコーヒー(カプチーノ)。
 街の中心であるホアンキエム湖畔や旧市街では、観光客相手に、絵はがきやガイドブック、地図、ガムなどを売り付ける子供たち(ときには「女を紹介するよ」なんて言う子供もいた)、頭にかぶるすげ傘(ノンラー)やTシャツを売り付ける女性たちにたくさん出くわす。
 湖に通っていると、顔なじみになってくるから不思議だ。「昨日会ったでしょ。買ってよ」「買わないよ」「どうして」「どうしてって言われても必要ないから」なんて会話を繰り返す。彼ら、彼女らは人なつこく私たちにつきまとう。
 また、湖畔では、お昼過ぎごろから男達が将棋をしていたり(その周りを数人が取り囲んでいる)、ぼーっと釣りをしていたり、単に座っていたり、またバドミントンをしたりしている(地面にコートが描かれている)。
 彼らはいつ働いてるんだろう?って思って先の日本人に聞いたところ「仕事をしても給料が全部出せる訳じゃあないから、経営者も黙認しているようだ。60〜70%位しか給料は払えない」って言っていた。
 ちなみに、アオザイ(民族衣装)を着た女性の姿は、街中にはほとんど見えなかった。ベトナムに来る前に、どんなアオザイ美人に会えるかなって楽しみにしていたのに非常に残念。高校やお店の制服として、また何かの行事のときに着るだけとのこと。

●お土産は、ロシア製の腕時計

 せっかくだから、 土産を買おうと思い、旧市街を散策。靴や鞄、仏具、時計、布地、おもちゃ、楽器、竹細工、化粧品、アクセサリー、洋服、金具、文具、日用雑貨などのお店が集まった「ハノイ36通り」は、見ている分には大変面白い。通りごとに、同じものを売っている店が並ぶ。たとえば、ある通りには仏具屋がずっと並んでいるのである。
 2人してロシア製の腕時計を買おうと時計屋さんを覗いたが見あたらない。
 土産はあきらめて、革命博物館に向かうが、改装中で入れないことがわかり、隣の歴史博物館を見学。先史時代の石器、古代の青銅器や焼き物などが展示されており、ベトナムが仏教文化の影響を濃く受けていることがわかる。
 博物館外のお店で、ロシア製の腕時計を発見。店のおばさんは、なかなかまけようとしない。やっとの交渉の末、ちたろー氏はゴルバチョフとブッシュの似顔絵が描かれた米ソ首脳会談を記念した腕時計(10$)と魚籠(びく、7$)を、私は赤い釜トンカチの絵柄の腕時計(12$)を購入(後日、日本で腕バンドを交換したらそっちの方が高かった)。
 満足した私たちは宿に戻ってしばしの休憩。足にまめができるほど、私の疲れはピークに達していた。「食欲がない」という私を、ちたろー氏は驚いていた。

●悪質シクロに、ぷっつん切れる

 夕食は「インドシナ」っていうこれまた有名なお店。シーフードカレー、チキンカレー、サラダを注文(もちろんビールも)。ここにも、7〜8人位の日本人の一団がいた。「地球の歩き方」の影響力はすごいとあらためて感心。25.5$を支払って、私たちは水上人形劇場に向かう。
 「Water Puppet Theatre」の客の大半は欧米人。ベトナム伝統楽器の演奏に従って7〜8メートルほどの水のステージに人形たちが動き回る。舞台は3〜5分ほどの短編が17話で、仕掛けは秘密とのこと。
 人形劇を観て気持ちが良くなった私たちは、ベトナム最後の夜を落ち着いたバーで軽く飲もうと、劇場前に並んでいたシクロと交渉。ところが、このシクロが最悪の大嘘つき。地図を見せて「ここまで行ってくれ」と言ったら、全く違う方向に行こうとする。途中で「そっちじゃない。こっちだ」と方向転換させる。結局、降ろされた場所は、どこかの工場前で、あたりに人気がない。シクロの運転手は「ここがそのバーだ。この扉は閉まっている。店は広い。金を払え」とかなんとか言ってきた。最初は私も冷静に「ここは違う。ちゃんと連れていけ」と対応し、相手も「I know, I know」とか言っていた。ちたろー氏「おまえは嘘をついている。おまえは嘘つきだ」って言うと「金を払え」と手を出してきたのである。これで、私はぷっつんしてしまった。「おまえ、ふざけるんじゃねえ。場所が違うだろう!」って日本語で喧嘩。それでも手を差し出してくるので、ちたろー氏「ほっとけ。歩いて行くぞ」ということで、シクロを無視して私たちは歩き出す。それでも相手はシクロに乗って後ろからついてくるのである。私たちはシクロをまいて、宿近くのCafeでビールを注文。ベトナム最後の夜に、ぷっつん切れるなんて、気分最悪。

●もう一つの土産は、お腹の中に

日本に戻ってから、どうもお腹の調子が悪い。下痢が続くのである。病院に行ったら「ウイルス性食中毒」との診断。ベトナム旅行最後の土産は、腕時計でもTシャツでもなくお腹の中の細菌であった。


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