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広島に原爆が落とされた日

by.康


[写真]原爆ドーム(旧産業奨励館)

 「広島に原爆を落とす日」。つかこうへいの芝居のタイトルであり小説でもある。
 先頃5月、この芝居が被爆地広島で上演された。私は8月6日、広島に原爆が落とされた日に、知人夫婦と一緒に広島を訪ねた。


●2年ぶりに広島を訪れて

 被爆から53年を経過した8月6日、私は2年ぶりに広島の平和祈念式典(正式には「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)に出席した。
 帰省(田舎は広島県福山市)の度にできるだけ出席してきたが、今回は、知人の夫婦と一緒に参加することになった。彼らは、夏休みを利用して広島と長崎を旅行するという。初めての広島なので是非とも案内して欲しいとの連絡が入ったのは、1カ月以上も前だった。

 前日の5日、待合せ時刻より早めに広島入りした私は、久しぶりに原爆資料館を見学した。
 1994年に改装された資料館は「被爆までの広島」というコーナーが新たに設置され、軍都だった広島の戦争加害的側面が展示されている。中に進んでいくと、テレビ局のカメラや新聞社の記者が誰かを取り囲んでいた。近くまで行ってみると、駐日インド大使に、資料館館長が説明しているのが見える。インド大使は厳しい顔で館長の話を聞いていた。
 原爆ドームの模型には、広島市長が打電した何百という核実験の抗議文が貼られている。中国、フランスに続いて、新たにアメリカの未臨界核実験、インド、パキスタンへの核実験への抗議文のパネルが追加されていた。
 外に出て平和公園内を散策する。3年前の被爆50年のとき、平和公園を歩いていた喪服の老婦人の会話が頭の中によぎる。『あんとき(原爆)は、神戸の地震どころじゃあなかったよ。私ら誰の援助ももらわんでここまできたんよ』。


●過ちは繰り返しませぬから

 翌6日、参列した祈念式典は、数多くの市民、内外からの参加者でいっぱいだった。今日は例年になくとても暑く、したたり落ちる汗をタオルで拭う。53年前の今日も雲一つない快晴で、とても暑かったらしい。7時30分に一般席に座った私たちは、静かに式典が始まるのを待っていた。炎の中で水を求めながら亡くなられた方々のために、市内16箇所から集められた清水が捧げられ、8時ちょうど式典が始まった。
 『安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから』と刻まれた原爆死没者慰霊碑に、原爆犠牲者の名簿が市長・遺族代表の手によって奉納される。昨年、名簿は20万人を超えた。続いて市議会議長の式辞の後、献花。原爆投下時刻の8時15分、平和の鐘を合図に黙祷が捧げられる。この時間原爆ドーム周辺では、ダイインが行われている。遠くで宣伝カーが演説しているのが耳に入る。
 そして、広島市長より平和宣言が読み上げられる。インド、パキスタンの核実験が誘発する核軍備競争の連鎖反応を懸念し、核保有5カ国(アメリカ、ロシア、中国、フランス、イギリス)に対して核軍縮を要請、核兵器使用禁止条約の締結を呼びかける。また、アメリカの核の傘に入って何ら具体的な取り組みをしない日本政府に対して『世界の先頭に立って、すべての核保有国に対し、核兵器廃絶の実効ある行動を起こすよう強く要請』した。続いて、内外での原爆展の開催、世界平和連帯都市市長会議の開催、今春広島平和研究所の設立報告などが行われ、『本日53回目の平和記念日を迎えて、原爆犠牲者の御霊に心からの哀悼の誠を捧げる。併せて、内外の被爆者に対し、実態に即した、心のかよった援護を求める。すべての国家が、自国の安全を核戦力に依存する愚かさから一日も早く脱却するよう、私たちは、核兵器否定の精神を胸に行動していく決意を表明する』と。


●はだしのゲンはピカドン(原爆)を忘れない

 慰霊碑に献花して平和公園を出た私たちは、遅い朝食の後、被爆者による証言の集いに参加した。YMCAで毎年8月6日の10時から行われている。受付の女性は「今年で18回目です」と言っていた。
 最近は、被爆に至るまでの日本の侵略戦争の話をされる被爆者の方が増えてきた。被爆して地獄を味わった人が、自国の侵略戦争に触れているのを聞くと、何かやるせない気持ちになってくる。
 そこでは、漫画「はだしのゲン」の作者中沢氏の記念講演を聞くことができた。「はだしのゲン」が本人の実体験に基づいて描かれていること、戦後に母が亡くなって灰になったとき、原爆症(放射能)で骨が形も残らず灰になり、そのときの憤りと悔しさから漫画を書き始めるようになったこと(それまでは被爆者に対する差別から、被爆の体験を隠していた)、はだしのゲンをCD-ROMで制作中とのこと、近いうちに第2部を書き始めること、など。また、「どうしてあのときだけ空襲警報が鳴らんかったのかは今でもようわからん」との中沢氏の話にうなずく高齢の被爆者の方々。中沢氏の死ぬまで書き続けるとの決意を聞いて、こらえる涙で横を見ると、隣の老人は真っ赤な目をハンカチで拭っていた。


●平和公園の慰霊碑と灯籠流し

 午後、私たちは平和公園内にある慰霊碑をまわった。ゼッケンを付けた団体が、あちこちの慰霊碑前で説明をしている。平和学習の一環らしい。私たちはそっと横に立ち、こっそり説明を聞く。
 夕方、原爆ドームがライトアップされ、ドームの周りを、平和の願いが書かれたたくさんのキャンドルが取り囲む。水を求めて多くの人が亡くなった元安川に、色とりどりの灯籠が市民の手によって流される。
 この日は、広島とその市民の人々にとって特別な日であることをあらためて実感する。「部外者」の私たちはドームの前に腰を下ろし、流される灯籠を静かに眺めながら、厳粛な気持ちになる。


●あの夏の悪夢を永遠の心に

 長崎に向かう彼ら夫婦の旅の安全を祈って、私は電車で実家に戻る。サザンの「PARADISE」を聴きながら。


●「広島に原爆を落とす日」

 広島に行く前に一つ気になっていたことがあった。芝居『広島に原爆を落とす日』(演出家で作家、つかこうへい氏の作品)が広島で5月に上演されたことに対する被爆地での反応だった。
 「広島に−」は1979年の初演以来、タイトルが刺激的なだけに被爆者の心情に配慮して、その後はつか自身の手によって上演されることがなかったといわれている。その後、登場人物と内容を変えて小説が発表されている。昨年6月、他の演出家の手によって18年ぶりに東京で再演され(私はこのとき観た)、今年4〜5月大阪、東京公演に引き続き、5月30、31日の両日広島で初めて公演された。
 広島公演の様子がニュースで報道されるのを観て、被爆地ヒロシマでの反応に大きな興味と関心を持っていた。この芝居は広島では上演できないと考えていたからである。いくら愛する人と未来の日本のために原爆を投下するといっても、被爆を実際に体験したヒロシマはこの内容を受け入れることはできないだろうと思っていた。
 広島でその反応を調べることができなかった私は、帰京した後、そのときの様子が「軍縮問題資料」に掲載されていることを知った。

「広島に−」のあらすじ
 時は、太平洋戦争まっただ中。稲垣吾郎ふんするディープ山崎少佐は白系ロシア人の混血であるが故に、海軍作戦参謀本部から南海の孤島に追いやられる。山崎少佐は、日本が戦勝国となったとき、敗戦国の子供たちに与えるべき納豆を作り続けていた。しかし、彼は来るべきデモクラシー、そして愛する夏枝(緒川たまき、ちなみにわたしは彼女のファンである)への想いを断ち切れず悶々としていた。一方、夏枝は、日本への原爆投下を回避するためベルリンでの地下工作の命を受ける。アメリカは初の原爆投下国としての汚辱から逃れるため投下責任者として敵国の山崎を指名する。山崎は愛する女性夏枝の上に原爆投下ボタンを押す。


●被爆地ヒロシマでの反応

 「軍縮問題資料」9月号に、広島平和研究所事務局長、藤川神治氏によって広島での反応が報告されている。少々長くなるが、引用して紹介する。

☆☆☆

 広島公演に向け、昨秋から準備に入った。(広島平和)研究所内での話し合いでも、刺激的なタイトル、広島に原爆を落とすという設定が果たして市民に受けいられるかなど危惧する意見も出された。当研究所を構成しているのは多くは教職員であり、子供たちの心を引きつける平和教育の内容をどう創っていくか日々努力している。そんな共通体験を持つ者がたどり着いたのは、大反響を呼んだ「広島に−」をぜひとも広島の若者に見て欲しいという結論だった。そして、反発の声が出ればそれをもとに若者を引きつけるにはどうすればいいのか議論を始めればいいと考えていた。
 …公演が始まった5月30日の前日、インドに引き続き、パキスタンの2度目の核実験が強行された。広島初公演でもあり、初回公演が始まる前から、主催者も観客双方とも、言いようのない緊張感に包まれていた。
 …演じる側とそれを観る側との真剣勝負が展開された。
 …舞台の最後の場面、原爆投下後の広島が登場する。そこで、山崎の部下で生き残った元日本兵がこう叫ぶ。『広島で死んだ40万人は虫ケラじゃないんだ。人間なんだ。デモクラシーは本当に来るんだろうな。人が人を殺めることのない、貧しき者が苦しむことのないそんな時代が来るんだろうな』
 …このセリフに感動し、戦争の持つ本質に言及した人もあった(観客の1/3の450人から感想が寄せられたという)。
 …『「広島に原爆を落とす日」が「−落ちた日」でも「落とされた日」でもなく「落とす日」と言う意味が今日観てわかりました。広島出身の私でも「原爆」について祖父母の話を聞いたり、学校の授業で習ったりしても、本当のことを理解してきたのかどうかはわかりません。でも、舞台を通してたくさんの人、特に戦争を知らない若い人達に訴え、感動させるなんてすばらしいことです(広島、26歳、女性)』
 …『無意識のうちに組んでいた指が離せなくなるほど引き込まれました。広島に生まれ育った私ですが、原爆投下のことをどれだけ理解しているかと聞かれると、やはり疑問です。…もちろん、これは一つの作品であって「事実」ではありません。けれども「真実」を見せられた気がしてならないのです(25歳、女性)』
…『観ている途中、とても腹が立ってきて、こんな劇はぜったい広島ですべきではないと叫びたくなりました。被爆者であることを隠して生きて、寂しく亡くなった母のことを思い出さずにはいられませんでした。でも、最後には、戦争が決して一人の人間の責任ではない、誰にとっても不幸な結果をもたらすこと、誰もが愛する人のために生きていることを感じました。広島にいても、怒りを忘れがちな今日、是非また、広島で上演して欲しいと思います』(37歳、女性)
 …ただ、被爆者なり長年平和運動を担ってきた人からは戸惑いの意見も寄せられている。広島に住む女性被爆者(68歳)からは『新しい未来のために愛する広島、女性の上に原爆を落とす。で終わっていることにすっきりしない思いを残した』…長年原水禁運動を進めてきた男性(69歳)は『原爆投下のボタンを推す設定は納得できない。いわんや「新しい世界、新しい民主日本、そして愛の深さ」故に広島に原爆を投下はありえない。あまりにもチンプな設定です。原爆も兵器の一つという受け取りをする若者が増えるなら広島公演はすべきではない』
 …大学で平和教育に熱心な教職員(65歳)は、『部分的には感動的なシーンもあったとはいえ、全体としては荒唐無稽なヒロシマのパロディ化にはむしろ腹が立ちました。日本の民主化のために原爆投下が必要だったと思うのは、誤解でしょうか。1970年代の作品であることを思うと、当時はそれに似たヒロシマ感があったと思います』…若い世代と戦争・被爆体験がある世代、また平和運動なりに携わっている人との感じ方は対照的である。
 …ただ、『細部には綻びの多い荒唐無稽な物語が、つかの戦争を憎む気持ち、原爆を許さない覚悟がひしひし伝わってくる。タイトルのレトリックにだまされてはいけない。凡庸な反戦主義者の退屈な論文など束でかかっても、この芝居一本にはかなわない。それほど戦争がいかに無惨に人間を踏みにじっていくかが確かに語られている』(「テアトロ」97年8月号長谷部浩)とあるように、若者の感性は、戦争が人々にもたらす痛み、原爆の悲惨さをストレートに受け止めたのである。
 …それは『人間の深い愛は戦禍や原爆の悲劇を乗り越え、その向こう側に核廃絶と平和が存在する』(広島市在住の男性被爆者66歳)ことを、理屈ではなく心で感じたからではないだろうか。…」

☆☆☆


●「広島にー」が問いかけるもの

 被爆や戦争を実際に体験していない私たちの世代と、まるで地獄絵図にあるような被爆の体験をした世代や反核・平和運動を進めている方々の間に、「広島に−」の見方・感じ方に差があって当然だと思う。私たちには、当時のことは想像できても、実体験は当然ながらない。しかし、ときに芝居は現実を超えた想像力(イマジネーション)をかき立てるものである。
 私自身、つかこうへいの作品が好きで、小説も読んだし、芝居も観た(私が観たときは初演ということもあり、出演者の芝居はお世辞にも上手とはいえなかった)。
 この「広島に−」は原爆や戦争を題材にしながらも、実はつか特有の「強烈なやせ我慢の愛」(「前向きのマゾヒズム」と言われているもの)をテーマにしたものである。
 自ら原爆投下の汚名を着てまでも貫こうとした強烈な愛。小説版で、つかは主人公の在日韓国人、犬子恨一郎にこう語らせる。『たとえわが名が忌み嫌われ、わが祖先が奈落に落とされ、その業火に焼かれ、悶え苦しみ、のたうちまわる宿命を背負わされようとも、私は、誇りを持って広島に原爆を投下するのであります。誇りを持って四十万広島市民を虐殺するのであります。私は最も愛するもの、私が生をうけて見出した無垢なるものの命、何者にも代えがたいあなたと引き換えにして広島に原爆を投下するのですから。真に愛する者を自らの手で葬り去り、日本の未来を問うのでありますから…』
また、原爆投下を頭上で受け入れる女性、髪百合子に『この戦は、私とあなたのために始まるのですね。私のあなたに対する想いがどんなに深かったのか、私がその白い閃光と黒い雨を受ければわかってくださるのですね』と語らせる。
 ちなみに、これらの流れは、つかの最近の作品「売春捜査官」「サイコパス」(ともに熱海殺人事件の別バージョン)などにも受け継がれている。
 また、つかは、雑誌の対談の中でこう語る。『男と女が激しくお互いを想い合わなかったら、やがて地球は滅びますよ。人を大切に想う気持ちがなかったら、それこそ簡単に原爆のボタンを押せるようになるわけですから。人類は滅亡しますよね』と。
 とはいえ、この「広島に−」の上演によって、文化的側面から新しい世代に「ヒロシマ」が継承され、広がっていくことができれば、それはそれとして意義のあることではないだろうか。『凡庸な反戦主義者の退屈な論文など束でかかっても、この芝居一本にはかなわない』のである。


●原爆は『落ちた』のではなく、『落とした』のである

 つかは、この芝居について、『タイトルを「落とす日」にしたのは、偶発的に「落ちた」のではなく、国家が意図的に投下した点を強調したかったから。戦後の主導権を握ろうとした米国、終戦を遅らせた日本の思惑を念頭に置いた』と言う。
 確かに原爆投下の理由として、(1)来るべき核時代を予測した米国の核優位、(2)戦後の対共産圏(ソ連、中国)の防波堤としての前線基地日本に対する米国の戦略、(3)核兵器による初の人体実験、などがその目的といわれている(原爆資料館のパンフにもわかりやすく書かれている)。
 原爆投下によって戦争を終結させたことを自ら評価するアメリカ(この評価がアメリカでは一般的である)は、一度として原爆投下を日本、また広島市民に対して謝罪していない。一方、日本により侵略されたアジア各国は、原爆投下による戦争終結をこれまで歓迎してきたのである。
 戦後、53年経った今でも、「ヒロシマ」の声は、アメリカにもアジアの国々にも届かなかったのである。


●国家のステータスシンボルになった「核」

 核実験後にインドの首相は「日本が核を持っていたら広島、長崎への原爆投下はなかっただろう」と言っていた。
 いまだに核抑止論の考え方は世界に根強く存在している。特に、今日の世界政治では、核を保有することで他国に対する発言権が大きくなるようだ。
 『ポスト冷戦時代の核兵器は軍事的効用よりも、政治的武器として威力を保ち続けている。北朝鮮の核開発も在韓米軍の核装備が引き金になった。湾岸戦争でサダム・フセインがイラク軍のクウェート撤退に応じたのも、米国の核使用の警告だった。…抑止力は検証困難だが、核保有の特権は確実に存在し、大国としてのステータス・シンボルとなっている』と元IAEA広報部長の吉田康彦氏は語る。


●引用・参考にした本

(1)核時代に生きる私たち−広島・長崎から50年、マヤ・モリオカ・トデスキーニ編、時事通信社、1995
(2)希望のヒロシマ−市長は訴える−、平岡敬、岩波新書、1996
(3)広島に原爆を落とす日、つかこうへい、角川文庫(1989)、光文社文庫(1998)
(4)つかこうへい'98戯曲集、三一書房、1998
(5)軍縮問題資料、宇都宮軍縮研究室、1998年9月号

(1998年8月記)


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