僕は8月に会社を辞めた。

by.康


僕は、8月いっぱいで会社を辞めた。
それは、働きづくめでこのままだと「会社人間」になりそうだったから?
それは、組合の委員長をやっていて、春闘で敗北感を味わったから?
それは、行ったことない北海道を旅したかったから?
それは、父も死んでもう両親の面倒を見る必要がなくなったから?
それは、・・・

そう、それはもう2年以上も前のこと。
僕はとある出版社に勤めていて、労働組合の役員(書記長)を任されていた。
役員改選の時期を間近に控えて、次期役員候補の人たちに内諾のお願いをしていた頃のこと。
お願いしようとある人に話しかけると、「時間がない」と一言いって、話すら聞いてくれないことがあった。
その人には2度ほどお願いしたが、2度ともそんな調子だった。
当時の僕はといえば、企業内労働組合の可能性をまだ信じていたから、話すら聞かない誠意のない対応と、その一言がどうしても許せなくて頭にきた。
これまで組合の中で僕がやってきたことがその人に否定されたようで、あまりにも悲しくて、情けなかった。
しかたないので、別の人に役員の内諾をお願いすることにした。
それから、その人とは少しだけ疎遠になった。

1年後また、組合総会と改選の時期がやってきた。
僕は、組合運営改善プロジェクトという部会の中で、先輩役員と2人で「提言95〜自立と参加の組合を目指して」と題した、いささか刺激的で挑発的な文書を作成し、執行委員会に提案して了承をとりつけ、総会に臨んでいた。
でも、この提案は、2人の否定的意見に左右され、反対多数と保留多数で否決されてしまった(賛成はたったの1人)。
否決の予感は前々からあった。職場集会の討議で否定的な意見が出されていたから。
でも、総会まで時間があるから中身をしっかり読んでくれれば、皆に理解してもらえるなんて思っていた。
飲み屋で落ち込んでいた僕に向かって、先輩は、「根回しが足りなっかたからだよ。いつかは解ってくれるだろう」と言って慰めてくれた。でも、僕は組合に対するというよりは、組合員に対してなかば幻滅してしまった(最近になって、ようやく理解してくれる人が出てきたと)。
その頃の僕はといえば、事前の根回しというものが嫌いで、ほとんどやらなかった。
時が経って総会と役員選挙を前にして、1年前に話すら聞いてくれなかったその人は、なんと次期の役員の内諾を了承していた。
「僕がお願いしたときには話すら聞いてくれなかったのにどうして?」なんて疑問も起きたが、「まあ、こんなもんだろうな」と自分を慰めて、またまた情けなくなってしまった。
僕はといえば、2年続けて役員をやっていたので、次期は候補を辞退できるという組合規則を行使した。
総会終了後の投票日前日、役員を引き受けたその人から理由を聞くことができた。 「誰も役員引き受けなかったら、○○さん(僕のこと)が引き受けるって聞いたから。困ったことがあったら助けて」とその人。
「△△さんや、□□さんが(役員に)いるから大丈夫でしょ(うち1人は提言95に反対意見を述べた人)。」と僕がいうと、その人は情けないような顔になって、右手で僕の足をたたいた。
そのころの僕はといえば、組合と組合員に幻滅していたから、情けないことにそんな言葉しか出なかった。

そして、年の開けた1月、とある事件が起きた。
前の年の10月に退職した人(組合員)に、なんと一時金が減額支給されていたことがわかった。一時金は途中退職の人にも、月割りで支給されるのが原則だったのに、会社は就業規則違反を理由に支給額を半分にしていたのである。
会社は本人には減額支給の事実、ましてやどの行為が就業規則に違反するからといった理由すら提示しないで明細書だけを送付し、銀行に振り込んだだけだった(以前、当人から電話があって、「振り込まれた額が少ない」と言っていたことを思い出した)。
組合の執行委員会は、会社から「プライバシーの問題があるから理由は言えない」と聞いていて、前の年に知っていたにもかかわらず、本人にも組合員にも説明なく、だんまりを決めていた。
そのことを年明けに知った僕は、むちゃくちゃ頭にきてその人に説明を求めた。
「当人に就業規則に違反した事実関係を確認したのか! 就業規則違反を理由に一時金を減額支給できるとは就業規則には書いてない!」と執行委員会の態度と責任をなかば喧嘩腰に追及した(ものには言い方があるはずなのに)。
重い腰を上げた執行委員会は、会社と交渉を始めたが、もう後の祭り。
会社は就業規則違反の理由を適当にでっち上げて、自らを正当化するだけだった。会社は「当人が会社に説明を求めに出社しなければ、当人には説明しない」なんて言う始末。
もちろん、減額支給された当人には就業規則に違反した覚えはない。
そして、会社はそろそろ本音を言い出して「虚偽の理由で退職したから」なんて馬鹿なことを言い出してきた。よっぽど当人のことが気にくわなかったのだろうか?
嘘をついて会社を辞めるなんて常識だろう。本当のことを言わないのはお互いのためなのに。なんてばかげた会社。なんていいかげんな組合。どっちにも本当に幻滅した。
僕はといえば、一人の組合員の権利や利益を守ろうとしない組合に加盟している意味はない、なんて思って脱退届を組合に出してしまった。
そして、執行委員会の役員たちにきつくあたってしまった。その中にはあの人もいた。 このときの自分の対応は、あまりにも子供じみていた。組合なんてそんなもんだと早く思っていれば良かった。でも、そのときは労働組合ってそんなもんじゃないと思っていたから。

そして、またまた役員改選の時期を迎え、その期の役員が僕に次期の委員長をやってくれとお願いに来た。
組合に期待できるものなんてないと思って、一時は組合を脱退しようとした僕をどうして委員長にと、こんな馬鹿な話があるだろうかと思った。
「前期の役員が次期の執行委員会に入らないのならやってもいい。組合を辞めてくれるんだったら引き受けてもいい。彼らとは一緒にやりたくない」なんて、僕もむちゃくちゃ言ってしまった。
その人は前期の役員に含まれていた。
改選の時期が迫って、組合が少し混乱した。
でも、僕は結局引き受けることにした。
それは、あの人が会社の階段で泣いている姿が目に入ったから。
こんなことで泣くなんて思ってもいなかった。
このときほど、僕は自分のことを情けないと思ったことがなかった。

どうせやるなら、これが最後と思って、委員長を引き受けた。
委員長に就任した後、前期の役員の人たちに謝った。
その期の春闘は、闘争中の4月に父親が死んだり、僕が選んだ役員の一人がこともあろうに社長に組合の情報を漏らして、会社との交渉の前に情報が筒抜けになるなど混乱。
交渉相手の会社役員は社長のいいなりで、言ってることに一貫性がなく、ついには「論理的に説明できないこともある」なんて言い出す始末。
前期役員とのわだかまりもなくなり、組合員の皆で春闘を5月の連休明けまでがんばったが、妥結結果の数値は組合結成以来の惨敗だった。
闘争終了後あとで、会社役員の一人がこっそり僕に謝った。「みっともない交渉で申し訳ない」と。謝るくらいなら数値を出して欲しかった。

あの人には「ごめんなさい」の一言が言えないままでいた。その人は役員に選ばれなかったから。
そして、その人とはまったく疎遠になった。
仕事上で必要最小限の会話するだけになった。きっと嫌われてしまったものと思っていたから。

ずうっと心の片隅に引っかかったまま1年が過ぎて、謝る機会がなくなっていた。
「謝ったからといって、いったいどうなるものだろうか?」なんて思ってもいた。

7月に委員長の任期も終わり、仕事に忙殺される日々を送っていた。
もう会社にも組合にも思い残すこともなくなって、この会社にいる意味も感じられなくなった。たった一つのことを除いて。
そのころの僕はといえば、仕事と組合で精神的にまいっていた。肉体的にも相当に疲れていた。

その人に「ごめんなさい」と言うことができたのは、僕が会社を辞める最後の日。
送別会の直後に、お酒の力を借りて。
会社を辞めるというきっかけでもなければ言えなかった。もうこれで会うこともないのかなあって思って「あのときはごめんなさい」と、一言だけ言うことができた。
「水に流してあげるから」と、その人は言ってくれ、北海道を旅する僕に宿案内の本を手渡してくれた。
僕は、申し訳ない気持ちと情けない思いで、心の中がいっぱいになった。

会社を辞めて4カ月たったいまになって、こんなことを振り返っている自分が情けない。 もっと早く謝っていれば良かった。
(97/12/05記)


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