理人のページへ>

 

亀山郁夫著『謎とき『悪霊』』の虚偽を問う

― テクストの軽視と隠蔽、あるいは、詐術と談合 ―

(または、「マトリョーシャ=マゾヒスト説」の崩壊)

 

                     2013.6.17  森 井 友 人

 

(本稿はアマゾンのレビュー用に書き始めたものですが、長くなったのでこちらに掲載させていただくことにしました。アマゾンには、構成を変えて圧縮したものを投稿しました。)

【追記】最初にアップされた68日付の原稿に加筆しました(主として後半部です)。論旨は変わっていません。

【追記2】本論の後に「付記」を追加しました。(89日)

 

 

久しぶりに『悪霊』を読み返し、改めて謎の多い小説と感じて、本書を手にしてみた。一読して驚いたのは、著者の謎解きの手法である。

そもそも優れた作品は(私小説を例外として)それ自体が一個の独立した小宇宙を成しているのであり、その謎はしたがって作品自体、そのテクスト自体によって解かれなければならないはずである。ところが、本書で著者はそのために作品またテクストと格闘する暇もあらばこそ、いともやすやすとテクスト外の資料に解答を求めてしまう。その資料とは、作者の伝記的事実であり、残された創作ノートであり、他の作家の文学作品(ゲーテの『ファウスト』やルソーの『告白』)であり、また、ロシア人研究者らの学術文献等々である。これらは確かに謎を解くヒントになるかもしれない。しかし、それはあくまでヒントでしかなく、そこに答えを求めても、なんの説得力も持たない。作品の謎は、外部にヒントを得るにしても、最終的にその作品自体、そのテクスト自体の内部で、整合性を持って説明されなければ、解かれたことにならないからである。また、そうしてこそ作品は読者の前に深さと輝きを増す。作品解釈のこれは基本ではないか。

 

この点、本書では作品自体、テクスト自体との徹底的な対峙がなされているとはとうてい言い難い。一例を挙げると、ニコライとダーシャの関係をめぐる謎である。

これについて、著者は、テクストに分け入ることもなく、また作品全体を顧みることもなく、すぐさま創作ノートを持ち出して、ダーシャ妊娠説を繰り返し唱える(p.109p.221、など。ちなみに、創作ノートへの安易な依存は本書の全般的特徴の一つである)。しかしながら、この妊娠の設定はあくまで構想段階でのことであり、実際、登場人物とその関係を改変した事例は作者にはいくらでもある。つまり創作ノートを乗り越えたところに『悪霊』という作品が成り立っているのである。なのに、著者は創作ノートから再び作品へ戻ろうとはしない。つまり、妊娠説を、『悪霊』というテクストの文言において、また、作品全体やダーシャの人物像(スタヴローギンの子を宿しつつステパンとの結婚を承諾するような娘としてダーシャが作品内で描かれているかどうかなど)との整合性において、説明しようとはまったくしない。それは、説明できないからである。できないから、作品外の文献に頼ろうとする……。

かくして、作品自体またテクスト自体において説明できないものを、作品外、テクスト外の資料によって説明したかのように語ってしまう。これでは説得されえない。作品やテクストそのものを分かったことにならないからである。これはこの例だけではない。他の謎解き事例も同様である。

本書に対する大きな不満はそこにある。

 

もう一つ例を挙げてみよう。物語の年代設定の問題である。

本書の著者はそれを、断定はしないが、1869年と想定する。なぜか。それは、スタヴローギンが帰郷して一同の前に姿を現すのが9月の日曜とされており、1869年の暦(旧ロシア特有のユリウス暦)だと914日が日曜日になって都合がいいからである。なぜ都合がいいのか。それは、914日という日付がグレゴリオ暦ならカトリック教会の「十字架称賛の日」に当たるため、この日を帰郷の日にすれば、スタヴローギンの名に語源的に含まれる「十字架」と結び付けて「謎解き」ができそうだからである。つまり、著者にとって都合がいいということである。だから1869年という年代を持ち出す。(ちなみに、グレゴリオ暦の914日は、19世紀で12日おくれるというユリウス暦では92日である。)

ところが実際の物語はどうか。これと矛盾する記述がテクストにある。著者自身も触れているように、作中人物のシガリョフの台詞の中に「現在の一八七…年にいたるまで……」(江川訳新潮文庫では下巻p.119)という文句が出てくるのである。これだけではない。著者が見落としているのか、あるいは、故意に口を噤んでいるのか知らないが、同じくピョートルの台詞にも「死んだゲルツェンが……」(同p.31)とある。そしてゲルツェンが死んだのは、百科事典によると、1870121日(ユリウス暦では19日)のことである。明らかに作者は1870年代に物語の舞台を設定しているのである。とは即ち、物語の中で登場人物たちは当然187×年を生きているのであり、いまが1869年だなどとは、当たり前だが、誰ひとり思っていないということである。そして、これまた当然のことだが、彼らはロシア正教徒として当時のユリウス暦にしたがって生活しているのであり、そこにグレゴリオ暦を持ち出して重ねるのも、作品世界の論理を無視した著者の都合に他ならない。(なおロシア正教会で「十字架称賛の日」が祝われるのはユリウス暦の927日とのこと。)

さらに言えば、物語をどう読んでも、スタヴローギンが帰郷するのは、ドロズドワ母娘がこの町に帰って来た8月の末を起点にして、そこから11日目くらいにしかならない。著者は読者に対して「時刻や日時に細心の注意を払い、「翌日」「翌々日」といった表現をも軽々に読みとばすことなく、しっかりと手もとの手帳にメモしておくぐらいの心構えが必要だろう」(本書p.111)と忠告しながら、このことに触れもしないのは一体どういうことか。著者自身がしっかりメモしていないのか。それとも、これも自説に都合の悪いことには口を閉ざしているのか。

要するに、ここでも著者は作品の中の論理を軽視してテクストと対峙せず、作品外の論理を無理やり当てはめて、テクストで特定また説明できないものを、あたかも特定し「謎解き」したかのように見せているのである。

なお、著者の推測によれば、作者が914日に「こだわった」理由はもう一つあるいう。この日が娘リュボーフィの誕生日に当たるため、「その日を言祝ぎたいという思い」(p.115)があったからだそうである。これには失礼ながら失笑した。まず、事実が逆である。この日付にこだわっているのは作者ドストエフスキーではない。それは誰あろう本書の著者亀山郁夫氏その人である。この理由づけも、この日を914日だと是が非でも「謎解き」したいがための後知恵に他ならない。それに、そもそも作者の娘の誕生日という作品外の事実が、作品内の世界になんの関係があるというのか。百歩譲ってこの日が914日だとして、そしてそこに娘への思いが込められていたとしても、それは作者の子煩悩ぶりを示すに過ぎず、伝記研究の一助にはなるかもしれないが、それ以上のものではない。

このような混乱、作品内の論理と作品外の論理との混同が、本書にはあちこちに見られる。先の創作ノートの例も然りである。

 

***********

 

さて、本書についてはもう一点、是非とも指摘しておかなければならないことがある。それは、作品外の論理というよりも、作品のテクストそのものの扱い、具体的には「スタヴローギンの告白」のテクスト引用の問題である。

著者はかねてより、マトリョーシャをスタヴローギンの犠牲者でなく共犯者とすべく、十代前半のこの少女をマゾヒストとする説を無理を押して唱えてきた。(『『悪霊』神になりたかった男』(2005年刊)p.142では、二人は「同罪」とまで断じている。)「無理を押して」というのは、まさに作品のテクストそのものから説明できないため、ルソーの『告白』というテクスト外の資料等を持ち出してきて説明しようとするやり方を言う。(それどころか、上掲書では、当該箇所の原文を、自説に沿うように捻じ曲げて訳して説明に利用していたのだが、これは専門家に厳しく指弾されることとなり、さすがに今回それは改めている。もっともそれを利用できない分、もともと無理のある説明は勢いも失っている。「指弾」については、下記のURLを参照。)

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost118a.htm

そして、このルソーに加えて著者が持ち出すもう一つ別のこれまた無理やりの論拠付けが、作者の妻アンナのテクストへの介入という憶測である。

「告白」には、@ゲラ刷りの「初校版」、Aこれに作者が加筆修正を行なった「著者校版」、Bそれとは別に後にアンナが清書した「アンナ版(筆写版)」の3つの稿が遺されている(用語は著者に従う)。編集部から掲載を拒否された作者が、重要なこの一章をなんとか救おうとして悪戦苦闘した結果である。この3稿にはそれぞれの間にかなりの異同があり、また、Bに関しては、清書の際の原本となったはずの作者自身の原稿が失われている。著者は、このBについてアンナの介入を疑い、その箇所を憶測し、この介入によってアンナが隠そうとしたらしいもの(この場合はマトリョーシャのマゾヒズムらしい)を立証しようとする。これを著者自身も「妄想」と呼ぶが、あくまで自説に固執して立論し続ける態度に変わりはない。(なお、付言すると、アンナ版には、長大なものも含めて作者でなければ到底なしえない@またAへの加筆修正が随所にあり、仮にアンナの介入があったとしても、それがどこかを特定することは実際には不可能である。)

この論証は、上述のように、そもそも憶測から発したもので、もともと説得力を欠いているのだが、ひとまず本書を見てみよう。取り上げられているのは、マトリョーシャが身に覚えのない罪で母親から折檻されるシーンである。著者はまず当該箇所の初校版を引用する。折檻はスタヴローギンの目の前で行われる。(p.234、原文略)

(1)〈マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかったが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。そしてそれからまる一時間、はげしくしゃくりあげて泣いていた。〉

続いて著者校版だが、これについては、「該当する部分の訂正はないので省略する」と著者は述べ、すぐにアンナ版を引用する。(原文略)

(3)〈マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかった。むろん、私がそこに立っていたからだが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。そしてそれからまる一時間、はげしくしゃくりあげて泣いていた。〉

著者が問題にするのは、(3)の「むろん、私がそこに立っていたからだが」の一句である。この論証の部分(p.235以下)は、無理を押しているからだろう、脈絡がひときわ乱れていて文意を取りにくいのだが、判じると、要するにこういうことらしい。まず、この理由づけの一句はアンナが初校版に手を入れて独自に書き加えたものだというのが著者の主張(憶測)である。なぜそんなことをアンナはしたか。それは、オリジナルの(1)の文章に自分が感じ取っていた何かを読者から隠すためである。なぜそう言えるのか。なぜなら、この一句の挿入は、マトリョーシャが鞭打ちにも声をあげなかった理由を「私(=スタヴローギン)がそこに立っていたから」という理由に限定し、他の理由の想像を排除するものだからである。そこから翻って、アンナが感じ取って隠そうとしたその何か、言い換えると、マトリョーシャが鞭打たれても声をあげなかったその真の理由を「妄想」すると、それは、「マトリョーシャがマゾヒズムの快感に目覚めている」(p.236)ということになる、というのである。そして、「なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた」というのは、他ならぬこの「マゾヒズムの快感」を表している……。こうして、凌辱され自死するマトリョーシャは、スタヴローギンの犠牲者ではなく、共犯者となる。

以上が著者の論証である。この議論の粗雑さもさることながら、直前に新潮文庫の江川訳を読んでいた私にはもっと気になることがあった。それは、この論証のそもそもの前提、即ち、理由づけの一句はアンナ版で初めて加筆されたという著者の主張である。これに私は疑念を抱いた。江川訳は、「告白」に採用した本文を「校正刷版」と呼んでいるが、これは、「校正刷に作者が手を入れた形」(下巻p.641)のことらしく、その際に校正刷から抹消・改変された元の語句も注で示している(アンナ筆写版との異同も明示)。つまり江川訳の本文は、底本の違いこそあれ、本書の著者校版に近いと思われるが、それを見ると、アンナ版で加筆されたという上掲の一句に相当する句が、すでにそこに書き込まれているのである(同p.666)。引用してみよう。

〈マトリョーシャは打たれても声をあげなかった、おそらく、私がその場に居合わせたからだろう。しかし、打たれるたびに何か奇妙なふうに泣きじゃくり、それからたっぷり一時間あまりも泣きじゃくりつづけていた。〉

疑念を強めた私は、確認のため亀山氏がこの3稿を訳出した『悪霊 別巻』を買い求めてみた。すると、引用を省略された著者校版はこうなっていたのである(同書p.201)。

(2)〈おそらくは私がそこにいたためだろう、マトリョーシャは鞭打ちにも声はあげなかったが、打たれるたびに、なにか奇妙な感じにしゃくりあげていた。そしてそれからまる一時間、はげしくしゃくりあげて泣いていた。〉

ご覧の通りである。訳文の語順は違うが、やはり江川訳同様に、「おそらくは私がそこにいたためだろう」という理由づけの句が著者校版ですでに作者によって加筆されていたのである。亀山氏自身がこの『別巻』でそう訳しているのである。確かにこの句に続く部分は(1)とまったく同一である。しかしそれをもって、「著者校版には、これ(つまり(1))に該当する部分の訂正はない」というのは、一種の詐術である。それともうっかり見落としたとでもいうのか。それはそれで軽率無責任のそしりを免れない……。

と、ここまで追跡して、新たな疑惑が湧き起こってきた。上で私は「この句に続く部分は(1)とまったく同一」と書いたが、本来これには「亀山訳では」という但し書きを付けなければならない。本書では上述のように、著者校版の該当箇所は、訳文も原文も引用を省略されている。したがって、訳文こそ『別巻』で見たものの、原文の方を私は目にしておらず、確認していないからである。(2)の原文はじつのところどうなっているのか。「おそらくは私がそこにいたためだろう」の加筆句は、原文でも亀山訳のように引用部分の文頭にあるのだろうか。いや、じつは、江川訳のように文中にあるのではないか。そういう疑惑である。もしそうなら、(2)の原文は、(1)の原文と完全に構造が異なり、それを「これに該当する部分の訂正はない」というのは、詐術どころかまさしく虚偽ということになる。しかし、そんなことがあるだろうか。半信半疑で、私は知り合いのロシア文学者に原文の照会を求めた。断っておくが、これは訳し方のことをあげつらっているのではない。この二つの原文が構造的にも、著者の言うように本当に同一なのかどうかということである。『悪霊 別巻』の巻末には底本としてザハーロフ編「ドストエフスキー全集」第9巻(2010年刊)が挙げられている。同書は本書の典拠でもある(巻末参照)。知人はこれに直接あたってくれた。結果は、以下のとおりである。3稿の原文を並べて掲げる。

 

@初校版

Матреша от розог не кричала, но как-то странно всхлипывала при каждом ударе. И потом очень всхлипывала, целый час.

 

A著者校版

Матреша от розог не кричала, вероятно потому что я тут стоял, но как-то странно всхлипывала при каждом ударе и потом очень всхлипывала, целый час.

 

Bアンナ版筆写版

Матреша от розог не кричала, конечно потому что я тут стоял, но как-то странно всхлипывала при каждом ударе и потом очень всхлипывала, целый час.

(なお、本書p.234の引用ではBの「потому что」(〜だから)の間にコンマがあるが、『別巻』の底本にコンマはない、コンマがあるのは以前に出た「科学アカデミー版全集」であるとのこと。後者に拠ったと思われる『『悪霊』神になりたかった男』の該当箇所(p.139)を見ると、なるほどにそこにもコンマがある。ただし、この旧著では、著者校版は最初から扱われていない。)

 

疑惑のとおりである。ロシア語のできない(文字は読めます)私にも一目瞭然、やはり、「おそらくは私がそこにいたためだろう(вероятно потому что я тут стоял)」の一句は、原文ではAの文中に加筆挿入されていたのである(そもそも「потому что」に導かれる従属文は主文の後に来るらしい)。これをうっかり見落としたとは強弁できまい。@との違いは、構造的にも明らかである。そのAについて、著者は「該当する部分の訂正はないので省略する」と書いて、訳文もそして原文も引用しないのである。いったいなぜそんなことをするのか。そんな嘘をつくのか。

それは、Aですでに作者自身が理由づけの一句を書き加えていたのであれば、著者の主張、つまり、Bで初めてアンナが独自に理由づけを加筆したという前提自体が誤りとなり、その上に展開される著者の論証(妄想)全体が、土台から崩れてしまうからである。だから、都合の悪いAを隠そうとした。そう疑われても仕方のない仕業である。

そうして、隠されたテクストを明るみに出してみると、見てのとおり、著者の言とは裏腹に、実際にはAで、@への訂正がすでに行われ、作者自身の手で理由づけの句が加筆されていたのである。そして、Bの訂正は、Aの「おそらくは(вероятно)」を「むろん(конечно)」に変えただけのものであった。

この瞬間、著者のもとより頼りない論証は、完全に破綻する。前提がそもそも虚偽だからである。自説に都合よくテクストを弄び、ましてや、不都合なものを隠すことは許されない。テクストの扱いの問題とはこのことをいう。

さらに言おう。この理由づけは、じつは、Aで初めて出てくるのでもない。初校版にすでに存在するのである。それは、『別巻』でいえば、上記引用(1)の3ページほど後ろ、スタヴローギンがこの出来事を後で振り返る場面に現れる(『悪霊 別巻』p.120)。

(1)-b〈彼女が声を上げず、鞭でたたかれながらも、ただしゃくりあげて泣くだけであったのは、むろん、私がそこに立って一部始終を見ていたからである。〉

この箇所は著者校版では削除されており(江川訳も下巻p.717で注記)、アンナ版にも存在しない。一方、両者ではこれに対して、初校版の(1)に該当する箇所で、(1)にはない理由づけの一句がそれぞれ加筆されているのである。となると、初校版で同じような文章が前後2箇所((1)(1)-b)に重複して出てくるのに気づいた作者がこれを一本化すべく推敲して、著者校版またアンナ版(の失われた元原稿)で後ろの(1)-bを削除し、代わって最初の方の(1)に上述の一句を加筆したと考えるのが妥当ではないだろうか。同様に、著者校版の「おそらくは」をアンナ版で「むろん」に変更したのも、初校版の(1)-bの表現に戻す再推敲と見られよう。(この二語の間の、確信の強弱の揺れは、スタヴローギンの性格づけに関わっているのかもしれない。)蛇足ながら、この変更を行なったのが仮にアンナだとしても、それはオリジナルの初校版に近づく行為であり、そこに、オリジナルからことさら何かを遠ざけ隠す意図など見いだせはしない。いずれにしても、アンナが初校版に手を入れてBの筆写版で独自に加筆したと主張するその句と同等の句が、少し離れたところとはいえ、当の初校版にすでに存在しているのだから、著者の論拠の崩壊はいっそう明らかである。この箇所に言及しないのは、故意なのか過失なのか。テクストの軽視はここでもはなはだしい。

(確認のため見直すと、『『悪霊』神になりたかった男』では同じ論証の36ページ前で、この箇所の後半の理由づけ部分に触れている(p.102)。が、しかし、アンナ版と混同しているのか、論証の前提である自らの主張との齟齬に気づいていないようだ。それもそのはず、この旧著は著者校版を検討の対象としておらず、したがって、それとの矛盾が露呈しないことで成り立っているのだが、そうでなくても、仮に著者がそのとき、上の齟齬に気づいていたならば、その段階で自分の論証の破綻に思い至り、旧著そのものが存在しなかったはずである。言い換えれば、それはもともと粗雑な読みの産物ということになる。著者の仕事は、見かけはどうあれ、決して緻密、綿密なものではない。その対極にある。大量誤訳もそうだが、旧著も本書もまさに然りである。)

なお、著者はこの直前の本書p.230でも、初校版にあった、十代の頃の自慰行為をスタヴローギンがほのめかす一文が、アンナ版からは抜け落ちているとして、そこにもアンナの介入をにおわせている。ところがこの一文もそのじつ、すでに作者自身が著者校版で削除しているのである。なぜそのことをはっきりと書かないのか。読者を自説へ誘い込みたい気持ちがそうさせているのではないか。

 

ここで、亀山郁夫氏の持論、マトリョーシャ=マゾヒスト説を振り返って整理しておこう。同氏がこの自説の論拠とするのは、ルソーの『告白』と、上のマトリョーシャの折檻シーンの二つだけである。前者が作品外、テクスト外の資料であることはいうまでもない。確かに、初校版では、上述の自慰をほのめかす一文に『告白』への言及があった。しかし、それが指す『告白』の該当箇所(つまりルソーが同じ「悪徳」をにおわせている場面)は、当たり前だがスタヴローギンに関わるのであって、マトリョーシャとはまったく関係がない。ところが、亀山氏は、この『告白』の別の箇所に、ある一節を見つけた。それは、折檻を受けたルソーが、その時のマゾヒスティックな快感を告白していると思われるくだりである。そして、それに著者は飛びついて、初校版で作者がスタヴローギンにルソーの名を出させたのは、要するに、読者に、『告白』のそのくだりを参照せよというサインを送るためだった、と強弁するのである。ルソーの折檻のくだりは著者がたまたま見つけただけのことである。これとマトリョーシャとを結びつける必然性はどこにもない。ところが著者は、作者に成り代わり、その意を体して、両者を結びつける。そして、じつはこの場面でマトリョーシャはルソーと同じ快感を味わっているのだ、そう作者が示唆している、というのである。このやり方が、まさしく、作品外の資料、しかも無縁の箇所を、自分が分析する作品内の世界に、強引に、また恣意的に当てはめる行為であることは論を待たない。作者に都合よく成り代わるに至っては、論外である。とはいえ、著者も、さすがにこれだけで自説を支えられるとは思っていない。そこで、持ち出されるのが、マトリョーシャの折檻シーンのテクスト、即ち、上で引用してきたあの一節、いや、正確にいうと、その一節におけるアンナの介入という憶測である。そして、この一節こそが、作品内、テクスト内で著者の自説を支える唯一の論拠を提供するものなのである。その論拠が完全に崩壊したことはすでに述べたが、これももう一度、理路を丁寧に振り返っておきたい。

まず第一に、筆写版(アンナ版)で初めてアンナが独自に理由づけの句を加筆したという亀山氏の主張(憶測)は、虚偽ないし間違いであった。理由づけの句はすでに著者校版で作者自身によって加筆されていた。となると必然的に、加筆によって初校版からアンナは何かを隠そうとしていたという著者の次の主張もむろん成り立たなくなる。理由づけの加筆はもともとアンナが行なったものではないからだ。つまり、ここでアンナはただ筆写しただけで、そこに、初校版に対しての独自の意図(著者の言う「作為」)などありはしなかった。(筆写の際に「おそらくは」を「むろん」に変えて初校版のオリジナルに戻した可能性はあっても……。)言い換えれば、アンナは初校版から何かを隠そうなどとは思いもしなかった。となれば、アンナが隠そうとしたと著者の主張するその何かも、当然、消えてなくなる。そして、その消えてなくなる何かとは、即ち、アンナが初校版に感じ取っていたと著者の主張(妄想)するマトリョーシャのマゾヒズムである。とどのつまり、初校版のこの箇所にアンナは、マトリョーシャの隠すべきマゾヒズムなど感じ取ってはいなかったということである。彼女がこのテクストに読み取ったのは、まず、間違いなく、人前で、しかも、無実の罪で折檻される少女の恥ずかしさ、悲しさ、情けなさであっただろう。悔しさもあったかもしれない。繰り返すが、そこにアンナは、隠すべき少女マトリョーシャのマゾヒズムの快感など感じ取っていない。それを感じ取ったのはアンナではない。感じ取った者は別にいる。――それは、他ならぬ亀山郁夫氏である。つまり、著者はある時、そう思いついたのだ。けれども、自分一人の思いつきでは誰も相手にしてくれない。そこで、自分だけではない、ほら、アンナも感づいているでしょ、そうして隠そうとしている……、と持っていこうとした。

それにしても、この思いつきはどうやって生じたのか。それは亀山氏に聞いてほしい。とにかく、思いつきはやがて、功名心と自己顕示欲に駆られるかして、思い込みに変わったのだろう。旧著ではこれを「ドストエフスキー全体の読みをかえてしまいかねない」、世界で誰一人気づいていない「発見」(p.141)、などと盛んに誇示していた。それもそのはずである。繰り返すが、その思い込みは、テクストの外に存在する著者の頭の中にしかないのだ。その中をのぞき込むのならいざ知らず、テクストをいくらのぞき込んでも、もともとないものをそこに発見することは誰にもできない。作家のそばにいたアンナも同様である。この論証部分は、本書としては例外的に、テクスト外の資料に拠らず、一見、テクスト自体から説明しようとしたかにみえる。しかしながら、これも例外ではなかった。この場合、外から持ち込まれたのは、むろん著者の頭の中の思い込み、ないしは思いつきである。その際、テクストがいかに蔑ろにされ隠蔽されたかは、すでに見たとおりである。

整理し直そう。この思い込みを支えるために著者が挙げた論拠は何であったか。一つは、ルソーの『告白』という作品外の資料であった。だが、これはとうてい著者の自説を援護するに足りなかった。こうして、著者がすがることのできる論拠は残り一つとなる。アンナのテクストへの介入という主張(憶測)、それだけである。ところがそれは、テクストを隠すことでしか、提示できないものであった。そうして、そのテクストが明るみに出された途端、この主張と、同時に、その上に立つ著者の論証は、完全に破綻した。これによって、著者の持論、マトリョーシャ=マゾヒスト説も崩壊する。

(ついでながら、著者は論証の終わり(p.236)に、「マトリョーシャがマゾヒズムの快感に目覚めているという仮説」を立てることで、「告白」は「凌辱」から「愛」のテーマへ移ると述べて、次章へつなぐが、そんなことはない。家庭で半ば虐待ないしネグレクトされた寂しいマトリョーシャが愛情を欲しており、それをスタヴローギンに見いだそうとしたのも束の間、その後の仕打ちに苦しみ絶望することは、そんな仮説とはまるで無関係に、誰が読んでもテクスト自体から明らかである。つまり、読者に向けてそう書かれている。)

 

なお、余計なことかもしれないが、折檻シーンの理由づけは作者自身がすでに著者校版で加筆していたという指摘を逆手にとって、それなら、アンナではなく作者自身がそれで何かを隠そうとしたのだ、そしてその何かとはやはりマトリョーシャのマゾヒズムである、などと言い張ってみても無駄である。

長くなって恐縮だが、念のためこのことについても少し敷衍しておこう。無駄だという理由は以下のとおりである。まず著者の立場を確認する。

本書の著者は、オリジナルの原稿がそのまま組まれた初校版を重視し、そこにこそ、基本的に、編集部に拒否されて加筆修正を行なう前の、作者本来の創作意図が表れていると考えて、論を進めてきた(この考えに異存はない)。しかるに、問題の理由づけは、どこで書き込まれたのか。それは、上述のごとく、著者校版で加筆修正する以前に、すでに、上記(1)-bの「むろん…」の形で、当の初校版において書き込まれていたのである。拒否される以前から書かれているだから、これが編集部の意を慮ったものでないことはいうまでもない。つまり、初校(またオリジナル原稿)にこの句を書き込んだとき、作者にはそれで何かを隠す必要もなく、その意図もなかった、当然、隠すべき何かもなかった、ということである。そこに書かれたままが、本来の創作意図なのであり、この「むろん、私がそこに立って一部始終を見ていたからである」の句をスタヴローギンに語らせることで、作者は、鞭打ちにも声をあげなかったマトリョーシャの心情(人前で、それも、スタヴローギンの面前で折檻される恥ずかしさ、それに対する自意識、また、幼い自尊心)を読者に印象づけたのである。それによって、読者が他の理由を想像するのを「ブロック」しようとしたなどということは当然ない。作者が本来の創作意図を読者に向けて表現しようとしている初校版でわざわざそんなことをするはずもなく、それは、また、初校版についての、本書の著者の基本的な考えとも矛盾する。そもそも作者が読者に対して言外に何かを、それも作者にとってとりわけ重要な何かを暗示したいなら、かくも長きにわたって(「告白」の封印が解かれたのは1921年)世界中でたった一人の読者、つまり、亀山郁夫氏にしか気づいてもらえないような、そんな稚拙な方法を採るはずもない。これは、もう一つの論拠である先のルソーの『告白』への言及の件でもまったく同様である。(もっとも、亀山氏によれば、自分以外に、作者の死後、作品集の出版に備えて今は失われた作者の原稿を清書した際に、アンナだけは気づいていた、という妙なご都合主義になるようだ。そして、そのことに自分だけが気づいた、というわけである。)繰り返すが、理由づけの句はすでに初校版に書き込んであり、最初っからそれは、何かを隠して暗示するのではなく、マトリョーシャが声をあげなかったその理由をまさに明示しているのである。そしてこの句は、著者校版の「おそらくは…」を経てアンナ版にまで受け継がれた。(著者の、旧著以来のあの持論を延命させることは、作者の創作意図の視角からであっても、不可能であることを改めて説明させていただきました。)

 

 さらに長くなって申し訳ないが、関連して、もう一言しておきたいことがある。

著者は、『『悪霊』神になりたかった男』で、マトリョーシャ=マゾヒスト説を前面に押し出すにあたって、次のように言い放っていた(p.144)

〈テクストというのは、いったん作者の手を離れたが最後、必ずしも書き手の言いなりにならなくてはならない道理はないのです。独立した自由な生き物になるのです。〉

これは、ロラン・バルトのいわゆる「作者の死」を念頭においた発言と思われる。また、私自身、本稿の冒頭で、「優れた作品はそれ自体が一個の独立した小宇宙を成している」と書いた。しかし、バルトが訴えたのは、どこにあるとも分からぬ「作者の意図」より、目の前にあるテクストを重視せよ、ということである(と、私は理解しています)。テクストの自立性とはそのことであって、決して、作者の手を離れたテクストに、自分の思いつきや妄想を勝手に持ち込むことを勧めたものではない。それはバルトの趣意の真反対、テクストを軽視する行為以外の何物でもない。言い換えれば、「作者の意図」ならぬ「論者の恣意」によってテクストを支配しその独立を奪うことをそれは意味する。

それも問題だが、一方で著者は、その言を覆すような行動を平気で取る。ルソーの『告白』の件を思い起こしてほしい。著者は、テクストは作者から独立しており、「書き手のいいなり」になる必要はないと言いながら、そこでは、作者ドストエフスキーの意図(つまり、『告白』の例のくだりを参照せよというサインを送って、ルソーと同じ快感をマトリョーシャが味わっていることを示唆するという意図)を持ち出してきてちゃっかり援用しているのである。それもこれもすべては思いつきに箔をつけて自説として打ち出すためである。そのためには、作者はある時は死に、ある時は生き返る。生殺与奪も自分の都合次第というわけである。

このご都合主義は、本書にも見られないことはないが、本書で用いられているのは、概してバルト以前の手法である。なぜなら、「謎解き」とは基本的に、テクストに隠された「作者の意図」を、作者に成り代わって、論者が解き明かすものだからである。読者は気づかないだろうが、このテクストの裏に作者はじつはこんな意図や意味を隠している……、と。最初に取り上げたダーシャ妊娠説もそうである。創作ノートを見ると作者のこんな想定がうかがえる……。設定年代と日付の特定も同様であり、そこでも著者は、この日付に「こだわった」作者の意図をあれこれと忖度し、娘の誕生日を言祝ぐという目的まで「謎解き」して見せていた。これらの行為と、上の引用で著者が言明したこととが撞着することはいうまでもない。もっとも、考えてみれば、「謎解き」の際には、著者は作者に成り代わっているのだから、「作者の意図」と言いながら、じつは往々にして「論者の恣意(ないし思いつき)」を提示しているのであって、その点で著者は首尾一貫しているともいえる。やはり、すべては自分の都合ということのようである。ちなみに、これが翻訳に発揮されると、作者に成り代わって「意訳」する行為、つまり、恣意訳につながる。それは、取りも直さず、誤訳を生む一因となる。

(誤解のないように付け足すが、「思いつき」や「妄想」を全面否定しているのではない。それは個人の自由だし、文学作品を読む際の楽しみの一つでもあるだろう。ただし、それはあくまで個人の領域においてのことであって、その領域内では、それがどんなにテクストから乖離したものであっても、誰もとがめはしないし、また、害もない。それを、あたかもテクストに基づいているかのごとくに、学問の体裁を借りて、ひろく読者に喧伝すること。これを問題にしているのである。)

 

さて、少し本筋から離れてしまったが、ここでもう一度、先のテクスト隠しの問題に戻ろう。これは、上で疑ったように本当に意図的な行為なのだろうか。そこまで疑いたくない気持ちもある。だとしたら、うっかりミスということになる。今回の著者の論証(妄想)は、既に触れたように、『『悪霊』神になりたかった男』にも出てくる。ただし、同書で検討されるのは、初校版(「アカデミー版」の校正刷)とアンナ版のみであって、著者はこのとき、著者校版(つまり初校版への作者の加筆修正)の意義を認識していなかったと思われる。とすれば、この旧著を本書に再利用した際に、著者が、その時の思い込みのまま確認を怠って、著者校版の原文をろくろく見なかった可能性も考えられなくはない。とはいえ、著者はその前に『悪霊 別巻』で当の著者校版の全文を訳出しているのである。しかも、初校版への加筆訂正箇所はゴシック太字で表記して。(「おそらくは…」の一句もちゃんとそうなっている。)それさえ忘れているのか?? 不可解である。いや、いや、たとえ、著者の一連のドストエフスキー関連の仕事が、誤訳にしろ、事実の間違いにしろ、あまりに粗雑で目に余るほどだとしても、「該当する部分の訂正はない」と言うからには、いくらなんでも原文を確認したのではないか。そして、そこに「不都合な真実」を発見した。そこで、引用を「省略する」ことにした。それとも、やはり、本書の半年前に出した『悪霊 別巻』の翻訳段階でこの真実にすでに気づいていたのか。(とりわけ関心のある箇所のはずである。気づかないことが普通あるだろうか。)そうして、旧著以来の自説の崩壊を糊塗すべく、というか、言い訳の余地をこしらえるために、上記引用(2)のような語順に訳文を仕立てたのであろうか。そして、本書で、原文も訳文も隠した……。それにしても、こんなことがいつかは露見しないはずはない。そんなことを敢えてするだろうか。それとも、時間に追われて、「後は野となれ」で、えいやっとやってしまったのか?? ――いよいよ不可思議である。

ともあれ、仮にこれが、疑われるような故意でなく、うっかりミスの過失であったとしても、学者として信じがたい粗雑さであり、結果として虚偽を述べ、その上に専門家の名で妄説を展開して、読者を惑わした事実は消えず、著者の責任が重大であることに変わりはない。少なくともこの論証部分と関連箇所は全文を本書から削除し、撤回しなければならない。この問題に特化した旧著『『悪霊』神になりたかった男』については、その全体がこれに該当することになる。著者だけではない。出版社の責任も問われよう。すでに買った人たちのためにも理由を公表し、回収する義務があるのではないか。

余談めくが、かつて私は同じ著者の『『罪と罰』ノート』および新訳『罪と罰』の「読書ガイド」を読んで、余りに間違いが多いのに呆れ、憤りを覚えて、アマゾンにレビューを投稿し、また、別に「亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?」と題する一文を当サイトにアップさせてもらったことがある。

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost133.htm

そこでも著者は自説を補強するために、テクストの扱いにおいて一種のトリックを用いていた(同書p.105への指摘を参照されたい)。大量誤訳の件も含めて、こんなことが続けば、著者はさらに信用をなくすことになるのではないか。

 

 

ところで、驚いたことに本書は昨年度の「読売文学賞」なるものを授与されている。その選評を書いたのは、ロシア文学者の沼野充義氏である。沼野氏によれば、本書は「ロシアの文豪にも張り合えるようなヴィジョンの力を持つ著作」になっているそうだ。同氏は毎日新聞の書評でも、本書を「原作そのものに張り合えるくらい」と持ち上げていた。本気だろうか。振り返ってみれば、大量誤訳を指摘されている亀山訳『カラマーゾフの兄弟』を賞賛し、光文社後援の関連イベントを催すなどして旗振り役を演じたのも同氏だった。(この時も毎日新聞の書評で「ドストエフスキー本人にも対抗できるような個性を持った稀有のカリスマ的ロシア文学者」とまで亀山氏を称揚していた。)両氏は旧知の仲らしいが、こうした事象は、一介の文学好きの私からすれば、メディアも含めた一種の業界談合に見える。「談合」とは、即ち、責任ある立場の人々が、公益よりも、あるいはそれを損なっても、私益(また内輪の関係)を優先すべく裏で(また暗黙裡に)示し合わせる行為をいう。この場合、「公益」に当たるのは、真実、あるいは、読者の利益ということになろう。

沼野氏は本書を「偶像破壊的」とも呼んでいるが、同氏こそ一連の行為を通じて、逆に別の「偶像」(あるいは裸の王様)を作り上げているのではないか。そして、それは何のためなのか。

これは、沼野氏だけではない。世過ぎのためか、加担する専門家は他にもいるようだ。同じ理由で、傍観し口を閉ざしている研究者はもっと多いだろう。こうした事態が続けば、ロシア文学界全体の信用も低下するのではないか。他の外国文学研究、たとえば、英米文学やドイツ文学、フランス文学で、今どき、似たような手法の、作品の中と外の論理とをごっちゃにした、しかも詐術すら見え隠れする研究書が出て、それを専門家が激賞するようなことがあるだろうか。ロシア文学の世界が談合渦巻く狭隘な村社会にならないことを僭越ながら切に願いたい。部外者とはいえ、一読者として、また原作者のためにも、良質の翻訳や著作に恵まれたいからである。

 

亀山郁夫氏はいつまで間違いだらけの翻訳や解説そして著書を、きちんと直しもせず出し続けるのだろうか。そしてそれに周囲とメディアの商業主義は手を貸すのか。遅きに失しているとはいえ、振り返ってまずはこれらの誤りを自ら正されることを嘆きつつ望みたい。出版社も同様である。

なお、本書にしろ、『悪霊 別巻』の解説にしろ、「告白」の異稿をめぐる事実関係については、ロシアの研究者の祖述とはいえ、初めて知ることもあり、素人には参考になることも多かったことは最後に付け加えておきたい。信用が失われたままなのは残念である。

 

【付記】2013.8.9

 『『悪霊』神になりたかった男』について動きがあったことを知ったので、付言しておきます。

『『悪霊』神になりたかった男』(2005年刊)については、ほとんど品切れ状態と思っていたところ、驚いたことに、本年4月に新たに電子書籍として出版されていたことを最近になって知った。しかも、版元のみすず書房に電話で確認したところ、内容は紙の書籍と同一だという。これには耳を疑った。本稿の今回の指摘のことを言っているのではない。それ以前の問題である。

本論で触れたように、亀山氏はこの著書で、マトリョーシャ折檻シーンの原文を自説に沿うように捻じ曲げて訳出して利用していたが、その後、2006年にこの件について、千葉大学名誉教授で国際ドストエフスキー学会副会長の木下豊房氏から上掲URLの論文において厳しく指弾されたのを受けて、新訳『悪霊』(2011)においても、『謎とき『悪霊』』(2012)においても、それを改めていた。ところが、今回の電子書籍では、その部分を改訂することもなく、旧著をそっくりそのまま臆面もなく電子化しているのである。この旧著では、捻じ曲げた訳文を「マトリョーシャ=マゾヒスト説」の重要な柱として使っていたため、それが関わる部分の改訂の容易でないことは想像がつく。しかし、これは、電子化して新たに出版するための必須条件のはずである。それを怠って、そのまま電子化するとは一体どういうことか。著者としても、また、出版社としても、読者に対する背信行為ではないか。

これは倫理の問題でもあるが、ことはこの件だけに終わらない。事態の重大さは、以下のような逆説的な問いを発してみれば、よりいっそうはっきりするだろう。

〈そもそも、2005年刊の『『悪霊』神になりたかった男』で、「ドストエフスキー全体の読みを変えてしまいかねない」、世界で誰一人気づいていない「発見」と誇示し、今なおそれを電子版で誇示し続けているほどの自説なら、この8年間、亀山郁夫氏は、なぜ、これをロシア語の論文に著して、本国および世界のドストエフスキー研究者に誇示して正否を問わなかったのか。(ついでに言えば、メディアでドストエフスキー研究の第一人者と呼ばれることを容認する一方で、亀山氏はこれまで、ドストエフスキー関連の国際学会に一度として顔を出したことすらないそうだが、それはなぜなのか。)〉

 そのような自説を、国内の、事情を知らない読者に向けて、そっくりそのまま電子書籍化し、また、本書『謎とき『悪霊』』で再説して、売り出しているのである。

 出版社の、そして、学者としての著者の、倫理がまさに問われていると考える所以である。