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森井友人氏の論文公開にあたって →

                    木下豊房

 

亀山郁夫氏の『罪と罰』の解説は信頼できるか?

―『『罪と罰』ノート』および新訳『罪と罰』読書ガイドの事実誤認について―

 

                      2009.8.8  森 井 友 人

 

私は、昨年2月に、ロシア語の達人NN氏(新出登氏)の協力を得て「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」を当サイトに公開させていただいた九州在住の一ドストエフスキー・ファンですが、訳あって今回再び登場させていただくことになりました。ことの経緯は、亀山先生の近著『『罪と罰』ノート』(平凡社新書095月刊、以下『ノート』と略称)を拝読したことに始まります。

この5月に私は、若い友人たちと小さな読書会をするために、『罪と罰』を岩波文庫の江川卓訳で読んでいました。何度目かの再読です。この小説は、例えば『カラマーゾフの兄弟』などと比べると、内容が比較的易しいという印象を持っていたのですが、今回、読書会に備えて、少し丁寧に読んでみると、これが意外に難物であることに気がつきました。ゆっくり読むと次々に疑問の点が出て来るのです。亀山先生の著書が出たのがちょうどその頃だったので、興味を引かれ、早速拝読しました。

拝読して、驚きました。内容については置くとして、そもそも作品世界の基本的な事実に関して余りにも誤認が多いのです。一例を挙げます。

 

*マルファはいつ死んだか?

『ノート』p.264には、「死者の物語」の小見出しのもと、物語の2週間のうちに多くの登場人物が死ぬという叙述があり、それを受けて以下の記述が続きます。

 

〈まず、ラスコーリニコフによる、金貸し老女アリョーナとその腹ちがいの妹リザヴェータの二人の女性殺害がある。これとほぼ同じ時間にラスコーリニコフの故郷では、スヴィドリガイロフの妻マルファが死亡している。(以下略)〉(下線は引用者による。以下同様)

 

この下線部の、ラスコーリニコフの犯行とマルファの死がほぼ同時、というのは、明らかに誤りです。順を追って見ていきます。

 まず、マルファが死んだのはラスコーリニコフの母が息子に手紙を出した日のことです。新訳では第2巻p.85で母親がそう証言しています。(→「それがねえ、急にぽっくりいってしまって!(中略)ちょうどあのころですよ、わたしがおまえに手紙を出したのと、それもそう、ちょうど同じ日!(後略)」)。そして、物語第1日目の留守中に届いていたこの手紙を主人公が受け取って読むのが2日目の朝。(→第1巻p.74の、女中ナスターシヤの台詞:「あっ、そう、忘れてた!昨日あんたが留守してるときに、あんた宛ての手紙が届いていたわ」)。ご承知のとおり、その翌日の第3日目に、ラスコーリニコフは老婆とリザヴェータの殺害に及びます。つまり、マルファの死は、(当時の郵便事情にはまったく不案内ですが、)ラスコーリニコフの犯行の3日以上前、即ち、この物語の始まる前の出来事ということになります。(下図参照。)仮に、出した手紙がその日に届いたとしても2日前です。(…と、ここまで素人の私は考えたのですが、後に当会の代表である木下先生に聞いたところ、「母親がリャザン県のザライスクに住んでいるとして、当時の交通機関、郵便事情を考えても、早くて数日はかかるだろうと想像される」とのことでした。)

 

   物語の?日前 = 母親が主人公に手紙を出す。@マルファが急死する。

   物語の1日目 = 手紙が主人公の下宿に届く。

      2日目 = 主人公が手紙を受け取る。

      3日目 = A主人公が老婆とリザヴェータを殺害する。

 

これに対して『ノート』では、上図の@とAがほぼ同時であると断定しているのです。少なからぬ読者がこの間違いに気づいたのではないでしょうか。(念のため、母親の証言の信用性について付言しておきます。まず、この件について母親は嘘をつく必要もなければ、そもそも作者は母プリヘーリヤをそのような人物として造型してもいません。また、この証言は妹のいる前でなされ、彼女も会話に加わっているので、いわば保証人つきであり、勘違いということもありません。十分に信用に足ります。)ついでながら、マルファが死んだのは昼食後であり(新訳第2巻p.86)、これに対して主人公が殺害に及ぶのは夜の7時台(第1巻p.174〜)。同じ日でないだけでなく、同時刻ですらありません。

 

 確かにこれは単なる勘違いかもしれません。しかし、これに類した間違いが次々と(20数か所も)続くとなればどうでしょう。数の問題だけではありません。問題は、この勘違いに基づいて立論してしまうことです。これについて上記の間違いを例にとって説明します。

 新訳『罪と罰』は7月に第3巻が出て完結しました。私は第1巻だけは昨年末に試しに読んでいましたが、後はそれきりにしていたので、これを機に下旬に本屋に立ち寄った際に後続の第2巻・第3巻の読書ガイドをのぞいて見ました。見ると、『ノート』の間違いがあちこちで踏襲されています。(正確に言うと、第2巻は2月に出ているので『ノート』に先行している。)そればかりではありません。第2巻p.424には、ラスコーリニコフの犯行の日付を7月9日と特定して(『ノート』でも日付は同じ)、以下のように議論が展開されているのです。

 

〈興味深いことに、この七月九日という日付は、スヴィドリガイロフの妻マルファの死亡日と一致している。たんなる偶然の一致だったろうか。それとも、作家がなんらかの意味づけのために仕掛けたトリックだったか。トリックであるなら、なぜ、このようなトリックを仕組んだのか、スヴィドリガイロフとラスコーリニコフの分身性、ないし親近性(「同じ畑のイチゴ」)を強調するねらいがあったのか、あったとすればなんのためか、謎は深まるばかりである。〉

 

これはあんまりです。ここまでくれば、単なる勘違いでは済まされません。これを真に受けて思案した素朴で善良な読者こそいい迷惑です。そもそも、両者の日付が一致していると断定するからには、根拠を示さなければならないのに、読書ガイドにも『ノート』にもそれがいっさいないのが不可解です。どこでこの勘違いが生じたのでしょうか。

 

実はマルファの死についてはスヴィドリガイロフとの関連でさらに述べるべきことがあるのですが、長くなるので、それはこの小論の末尾で行うことにして、ここではもう一つ別の例を取り上げることにします。

 

*バカービンとは誰か?

『罪と罰』は、最初は、主人公の手記の形で一人称で書かれていました。『ノート』はこの第1稿に触れて、当初リザヴェータが妊娠6カ月の設定であったことを話題にしています。以下引用です。

 

〈そしてその「妊娠」の理由について彼(=作者)は、ザメートフの原型であるバカービンとリザヴェータが「できていた」事実をナスターシヤに暴露させている。そこでのやりとりを紹介しよう。(以下、第1稿からの引用…略)〉p.107

 

問題は下線部。バカービンが警察署書記官ザメートフの原型であるという記述です。この場面は、いま我々が手にしている三人称の決定稿では、第2部第4章に相当し、そこでは、数日間の人事不省からようやく意識を回復した主人公を前にして、女中ナスターシヤ、友人ラズミーヒン、そして、その知り合いの医者ゾシーモフとの間で交わされる殺人事件の噂話が描写されます。これに対して、第1稿でここに登場するのは、わたし(=ラスコーリニコフ)、ナスターシヤ、ラズミーヒン、バカービンの4人。もうお分かりでしょう。バカービンとは、即ち、後のゾシーモフの原型なのです。(ちなみに第1稿ではこのバカービンが部屋を出て行った後にナスターシヤが秘密を暴露するという体裁になっていますが、リザヴェータ妊娠のくだりを削除した決定稿では、後身のゾシーモフはそのまま居続け、第5章で主人公を訪ねてきたルージンとの議論にも加わります。)

今回、読書会に備えて、久しぶりに『罪と罰』の創作ノートをざっと読み返していたこともあったからでしょう、上記下線部には「あれっ?」と思いました。念のため、確かめてみると、新潮社版ドストエフスキー全集第26巻「創作ノート(1)」p.57には、〈そのときドアが開いて、バカーヴィンが入ってきた。それは今のところ勤め先がないが、たいへん腕のいい医者だった。〉とあります。間違いありません。この状況でなぜ勘違いをされたか、不思議でなりません。創作ノートの全部でなくても、該当の引用箇所の前後にさえ目を通していれば間違えようがないのですが…。

 とはいえ、不思議ではあっても、確かにこれだけならこれも勘違いで済みます。ところがそうではありませんでした。

 読書新聞「週刊読書人」09724日号に、「対談=亀山郁夫・三田誠広 『罪と罰』その最大の謎に迫る」と題して大型の特集記事が掲載されています。図書館でこれを読んだ私は、またしても、驚くことになります。三田誠広氏は最近、ザメートフ(ザミョートフ)の視点から書かれた『[新釈]罪と罰』を出されたとのこと。その発想に触れて亀山氏は対談でこう発言しておられます。

 

亀山 その着想が素晴らしいと思ったのは、ドストエフスキーのザミョートフに対する見方は、草稿を見るとかなり特殊で、たとえば、金貸し老女と一緒に殺される神がかりのリザヴェータは、草稿では赤ちゃんを孕んでいたことになっています。その相手が、バカービンという名前の人物で、これはザミョートフの原型のような人物です。言ってみれば、最終稿の向こう側に揺曳とイメージされていた『罪と罰』のもう一つの可能性が眼前に提示されたわけです。かりに、そこまで踏み込んで書いているとしたら、これはもう確信犯といってもいいわけですね。

(下記URLで、この対談の前半部分が読めます。)

http://canpan.info/open/news/0000004162/news_detail.html

 

これもあんまりです。勘違いの上に、想像を逞しくし、議論を築いても、それはまさに砂上の楼閣、妄想にすぎません。しかも、これは最初の例のそれよりもタチが悪い。なぜなら、最初に挙げた「日付の一致」の間違いは、注意深い読者なら誰でも気づくことができる、それに対して、この第2例は創作ノートを読むか、何かの『罪と罰』論で第1稿のこの箇所をめぐる記述に接した経験がなければ、見抜けない間違いだからです。つまり、大抵の読者は、「さすがは研究者。専門家ならではの指摘、知見だ」と思い込んでしまう。そうして、ザメートフの人物像を作り上げるかもしれません。罪つくりとはこのことです。僭越は承知で申し上げるのですが、地位のある方だけに、読者のためにも、そして、なによりドストエフスキーのためにも、もっと繊細な慎重さと責任を持って著述や翻訳に臨んでいただきたい。そう願わずにはいられません。『ノート』は、著者自身が断っているように『罪と罰』のディテールにこだわった著作だけに、これではどこが信用できるのかさえ疑わしくなってしまいます。

 さて、個々の間違いを一覧として列挙する前に、もう一つだけ、取り上げておかなければならないことがあります。

 

*7月15日はどこへいったか?

 物語の日付と日数の問題です。そもそもこの長編は何日間の物語なのでしょうか。数の象徴性にこだわる江川卓氏は『謎とき『罪と罰』』で、エピローグを除いて13日間としていますが、これと違って従来から14日説もあるようです。私自身は、どちらなのか何度読んでも分からず、いまでは、主人公の乱れた意識を再現すべく作者が意図的にそう仕組んでいるのだから、どちらかに決める必要はないのではないかと思っているのですが、さて、『ノート』ではどうでしょう。ここでも日数の件が扱われています。85頁を見ると、物語はエピローグを除いて正味13日間であり、1日目は7月7日、主人公が自首して出る13日目は7月20日、と記述されてあります。――これは妙です。なぜなら、1日目が7月7日なら、2日目は1日先の7月8日となり、…13日目は12日先の7月19日になるはずだからです。(ちなみに、江川説は7月8日から7月20日までの13日間で、日付との矛盾はありません。)それだけではありません。この先ではさらに妙なことが起こります。この混乱のせいでしょうか、p.172では「物語8日目にあたる7月14日」とあり正しく7日先になっているのに、p.202では「物語9日目の7月16日」と記されていて9日先になっています。つまり、日付が一日飛んでしまっているのです。もっともそのお陰で、13日目は7月20日となり、最後は「辻褄」が合ってしまうのですが…。消えた7月15日はどこへいってしまったのでしょう。そして、著者も、編集者もこの矛盾に気づかなかったのでしょうか。これも不思議でなりません。亀山説はいったい13日説なのか、それとも、14日説か。どうも混乱があるようですが、これについては、事情がだんだん分かってきました。

 話は少しさかのぼりますが、6月初めに私はAmazonにこの新書のレビューを投稿しました。ところが何度か試みたにもかかわらず1カ月以上たってもいっこうに掲載される気配がありません。そして7月下旬、新訳『罪と罰』第3巻・訳者後書きで、この新書をサブテキストとして薦める趣旨の一文を目にすることになります。『ノート』後書きに「本書でわたしが語りえたことは、おそろしく貧しい」と記されてあったので、著者にも拙速の自覚があるのではと思っていたので意外でした。両書の出版キャンペーンも行われるようです。これを見て、このままにしてもおけないと思った私は、数カ月ぶりに木下豊房先生(ドストエーフスキイの会代表、国際ドストエフスキー学会副会長、千葉大学名誉教授)に連絡をとりました。奇しくも先生はちょうどこの本を読んでいる最中であり、メールで相談して、まず私が、昨年の「新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」と同様の観点から、一読者にも分かる間違い、事実誤認に絞って一文を書くことになりました。この文章がそれに当たります。(ちなみに私のAmazonレビューはなぜかその直後にひょっこり掲載されました。日付は自動的に最初に投稿した日になるようです。それにしても全くどういう掲載システムになっているのでしょうか。不思議です。)

前置きが長くなりました。日付と日数の件にもどります。

さて、連絡をとった際に私は、この件についても木下先生に尋ねてみました。すると、すぐに回答があり、1日目を7月7日とし最後を7月20日とする説を唱えたのは、この新書の種本でもある『罪と罰』の注釈書を2005年に出したロシア人研究者で友人のチホミーロフであるとのこと(むろん彼は14日説です。なお、チホミーロフ氏は現在ドストエフスキー博物館副館長でロシア・ドストエフスキー協会会長)。亀山氏はこのチホミーロフ説に依拠しながら江川説にも引きずられたため、混乱が生じたのではないかとの説明でした。(日数の確定に際してチホミーロフ氏が挙げている根拠については後で触れたいと思います。日付の確定に当たって同氏が1日目を7月7日とした根拠の方(=マルメラードフの給料日からの算定)は、『ノート』でそのまま利用されています。)

 この説明で、納得がいきました。というのも、亀山先生もこの矛盾に気づかれたのでしょう、新訳第3巻の読書ガイドでは「物語は、十四日間(実質的な時間の流れとしては十三日間、エピローグはのぞく)にわたって繰りひろげられ(…)」(p.464)と、軌道修正しておられるからです。(「実質十三日」については、いっさい説明がありませんが、物語が7月7日の夕方に始まって7月20日の夕方に終わるからということでしょうか。)これはこれで結構です。ただし、そのあとがまた問題で、この読書ガイドでもどういうわけか7月15日は消えたままです(p.469)。478頁には部立ての表まで掲げてあって、そこでも「第4部 七月十四日」「第5部 七月十六日」となっています。この間、原作に空白の一日はありません。両部は時間的に連続しており、正確には、第4部が8日目の続き〜9日目、第5部が9日目の続きという構成です。ともかく、ここでも『ノート』の勘違い、「8日目=7月14日、9日目=7月16日」が踏襲されているのです。この明白な誤り・矛盾に、著者のみならず、『ノート』の編集者も、そして新訳の編集者も、なぜ気づかなかったのでしょう。平凡社新書のリニューアル第一弾、また、新訳のキャンペーンに間に合わせるために急いでいたからでしょうか。これでは読者は混乱をきたします。拙速、杜撰の感は否めません。本体の新訳が完結する(7月)前に、解説本が出る(5月)というのも妙な話です。

 

 

さて、以上三つの例を少し詳しく取り上げましたので、ここからはなるべく簡潔に、『ノート』のページに従って、事実についての誤りを列挙していきたいと思います。対象は本書の「本論」の部分に限ります。なぜなら、これに先だつ「序論」は時代および作品の成立事情をめぐるものであり、専門知識のない私にはその正否を問う資格も能力もないからであり、これに対して、原作の各編を追いながら叙述される「本論」では、原作の流れがなぞられますので、上の第1例のように、作品を丁寧に読んでさえいれば、私のような素人にもそれと齟齬する記述は自然に目に留まり、かつ、原作のテクストに照らして論拠も明示できるからです。

なお、『ノート』は新訳『罪と罰』各巻の「読書ガイド」の拡大版ともいえるので、後者の誤りは基本的に前者のそれに包摂されるとお考えください。例外はそれと断ります。

まず1行目に『ノート』の該当ページ数を掲げます。以下、@そこに出てくる問題箇所の引用、A間違いの指摘、B論拠となるテクストの新訳からの引用、という順で続きます。ただし、Bは省略する場合もあります。数が多いので、まずは特徴的なものを取り上げます。そのあとにその他の間違いをさらに簡略な形で挙げていきます。引用文中の(…)は省略を表します。Aは私のコメントですが、簡略さを重んじて、これまでの「です、ます」体から「だ、である」体に文体を変えさせていただきます。

 

 

 

 

p.82(主人公の紹介)

@ 青年の名前は、ロジオーン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ、二十三歳。三ヵ前に、ペテルブルグ大学の法学部を学費未納のため中退したばかりで(…)

 A  ラスコーリニコフが大学を中退したのは「三ヵ月前」ではなく、半年前のことである。このとき「犯罪論」を書いたと、予審判事ポルフィーリーに本人が語っている。

B 「ぼくの論文?(…)ええ、たしかに書きましたよ、半年前です、大学をやめるとき、ある本について論文を一本(…)」(第3部第5章、新訳第2巻p.157

 

p.88(物語第1日目に老婆のアパートを下見する場面の説明)

 @ なぜ、七百三十歩と正確に数えたか、という点にも、もしかすると数秘術的な意味が込められているかもしれない。(…)もっとも、その二日後、現実に彼は、殺人の現場に赴く際、下見のときとはまったく異なったルートをとることになった。

 A 主人公は、物語1日目の下見の際に、下宿からの距離を730歩と実測した、そして、その二日後に犯行に及んだ、という記述であるが、歩数を実測したのが第1日目というのが間違い。それはもっと前のことである。実測したのは、妹から贈られた金の指輪を質入れした第1回目の訪問(このとき老婆殺害の空想が芽生える)と、今回の2回目の訪問(その間およそ1カ月)の間のいつかである。つまり、ラスコーリニコフは今回の訪問以前にも、老婆の部屋こそ訪れないものの、歩数実測という形で「下見」をしていることになる。主人公の空想が次第に加熱していくさまを思い描く作者の想像力はまことにリアルである。余談ながら、外套に斧をぶら下げる紐の輪のことも2週間前には考えついたとも語られている。(新訳第1巻p.165

 B 距離はいくらもなかった。家の門から何歩かということも知っていた。ちょうど七百三十歩だった。この空想にすっかりふけり出したころ、彼はいちど数えてみたことがあったのだ。(第1部第1章、新訳第1巻p.15

 

p.94(物語2日目の情景)

 @ 翌日、ラスコーリニコフは遅くまで屋根裏部屋で眠りこけていた。昼近く、(…)女中のナスターシヤにたたき起こされた

 A たたき起こされたのは「昼近く」ではなく、朝の九時すぎである。このあと主人公は母からの手紙を受け取り、その内容に煩悶し、街へ出る。

 B 「起きるのよ、いつまで寝てるつもり!」枕もとで彼女は声を張りあげた。「もう九時を回っているわ。(…)」(第1部第3章、新訳第1巻p.71

 

p.102(主人公の運命を支配する偶然)

 @ ラスコーリニコフは、重なりあういくつもの偶然によって、犯行の現場にたどりつく。(…)かりに母と妹のペテルブルグ到着が三日早ければ、状況は別のものになっていた可能性がある。母親との再会の後に犯行におよぶことはよもやなかっただろう。

 A 母と妹が到着したのは、物語第7日目の夜。その三日前とは、物語第4日目。これは、ラスコーリニコフの犯行の翌日である。これではむろん犯行を抑止できない。ちなみに、新訳第1巻の「読書ガイド」(p.484)では、「かりに、母と妹のペテルブルグ到着が一日早ければ、状況は別のものになっていた可能性もある」と解説されている。

 

p.105(2日目の夜、センナヤ広場でリザヴェータの明晩の不在を側聞する場面)

   →著者は、ロシア語の近似性を基に、明日の再訪をリザヴェータに約束させた商人が「六時過ぎに」と言ったのを、「七時に」と主人公が聞き違えたと推論し、次のように傍証する。

 @ 彼(=ラスコーリニコフ)はのちにこう回想する。

   「あのとき、たとえば、いくつかの事件の期間や日時などの点で誤りを犯していたことを、彼ははっきりと確信した

 A これは間違いというよりトリックである。著者の論法は、あのころ自分は時間について勘違いしていたと主人公自身がのちに認めているというもので、確かにここだけ読めば下線部の「あのとき」の範囲内に、センナヤ広場でリザヴェータを目撃したこの日の出来事も含まれているように見える。ところが、事実はそうではない。ここで言われている「あのとき」とは、実はずっと後のことである。9日目に、ポルフィーリーとの「消耗」戦、マルメラードフの追善供養、カテリーナの死、と濃密な事件が続いたあと、物語は10日目以降の第6部に入り、カテリーナの葬儀に至るまでの数日間をラスコーリニコフは茫漠とした状態で過ごす。その冒頭部分に下線部の記述が出てくるのである。つまり、「あのとき」が指すのは、この10日目以降の数日間のことであり、傍証には成り得ない。(それにしても著者は、引用下線部の出てくる場所をなぜ明示しないのか?)なお、江川説のようにこの期間を2日間と考えれば全体は13日間、チホミーロフ説のように3日間とすれば14日間となる。― 以下は木下先生の解説の要約。

〈チホミーロフがこれを3日間とする根拠は、この第6部の初めで主人公が、その日(つまり今日)がカテリーナの葬儀の日だったことを思い出す場面で、「頭がすっきりして、気分もこの3日間よりも落ち着いていた」(直訳)と記述されていることによる。(新訳では第3巻p.204)つまり、9日目のカテリーナの死から、まる3日の茫漠たる期間を間に挟んで(即ち4日後に)彼女の葬儀の日に至るという計算になる。従ってカテリーナの葬儀は13日目、主人公が自首して出るその翌日は第14日目となる。因みに『ノート』の著者はチホミーロフの14日説に依拠しながら、江川説に引きずられてか、この期間を2日間としている。このため1日足りなくなる。それが7月15日の消えた原因であろう。〉

 B  ラスコーリニコフにとってはふしぎな時の訪れだった。目の前にいきなり霧がおしよせてきて、出口のない、重くるしい孤独に閉じこめられてしまったようだった。その後、それも長い月日を経たあとでこの時期を思い出すたびに、自分の意識がときたまかすんだようになり、なんどか切れ目はありながら、その状態が最後の破局をむかえるまで続いていたことに思いあたった。あのとき、たとえば、いくつかの事件の期間や日時などの点で誤りを犯していたことを、彼ははっきりと確信した。(第6部第1章の冒頭、新訳第3巻p.197。なお、江川訳では「あのとき」ではなく、「当時」という訳語が当てられており、これがこの期間を指すことがいっそうはっきりする。)

 

p.136(物語8日目の朝、母と妹が主人公を再訪した後、辞去する場面)

 @ ラズミーヒンは母と妹を慰めるために、彼の不健康を理由に旅館に戻るように頼みこむ。ドゥーニャに一目ぼれした彼は、旅館に送る途中、思わず彼女の婚約者をあしざまにけなす。ゾシーモフは、ラスコーリニコフにパラノイア的な兆候が表れていると注意し、彼女たちの到着で快方に向かうだろうと予言する

 A この記述そのものは間違っていない。間違いは、その位置。この一節が8日目の朝の状況説明(p.135〜)の中に置かれていることである。この一段は8日目の朝の出来事ではない。すべて前夜のことである。ラズミーヒンが母親とドゥーニャの前で婚約者ルージンのことをあしざまにけなしたのも、したたかに酔っていた前夜のことであり、翌朝彼は自己嫌悪とともにこれを反省するのである。また、宿からやって来た母と妹はもはや宿まで送られたりはしない。

 B (第3部第4章を参照。新訳では第2巻p.114辺りに、辞去した母と妹が二人だけで会話を交わす場面がある。)

 

p.227(10日目以降の、主人公が茫漠として過ごした数日間の出来事)

 @ (…)(=ラスコーリニコフ)何度かスヴィドリガイロフと顔を合わすことがあったが、とくに言葉を交わすことなく、死んだカテリーナの遺児たちの面倒をみることに奔走していた

 A 3人の遺児たちの処遇をめぐって奔走したのは、ラスコーリニコフではなくスヴィドリガイロフである。それも相当な自腹を切って。追いつめられた主人公には精神的にもまた経済的にもそんな余裕はない。

 B 最後に会ったさい、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフにこう説明した。カテリーナの子供たちは自分がかたをつけた。(…)三人のみなし児たちは、すみやかにそれなりの立派な施設に入れることができた、(…)自分が提供した金もけっこう役立った、と。(第6部第1章、新訳第3巻p.200

 

 新訳「読書ガイド」独自の誤りも2例だけ挙げておきます。ともに第3巻からのものです。

 

新訳第3巻p.498(死出の旅の途上、スヴィドリガイロフが婚約者の娘を訪ねる場面)

 @ (スヴィドリガイロフは…)「婚約者」の家を訪ね、「千五百ルーブル」相当の持参金とプレゼントを残して嵐の夜の町に繰りだしていく。

 A 下線部はともにケアレスミスであろう。額も違うし、深夜ずぶぬれになって突然現れたスヴィドリガイロフは金(かね)の他に贈物など持ってはいない。それに、このあと彼は一人でホテルに向かうのであり、町に繰りだしもしない。そもそも「繰りだす」のは誰かと連れだってのことである。

 B スヴィドリガイロフは、いきなり彼女(=婚約者)にこう告げた。(…)ここに、銀にして一万五千ルーブル相当のお金を持ってきた、これをわたしからのプレゼントとして受け取ってほしい。(…)(第6部第6章、新訳第3巻p.354

 

新訳第3巻p.502(火薬中尉=副署長イリヤ・ペトローヴィチの役割の説明)

 @ 『罪と罰』の脇役で魅力的な人物は何人もいるが、なかでもとくに豪放磊落で知られる人物が、右に挙げた火薬中尉ポーロフだ。姓のポーロフが「火薬」を意味するところから、火薬中尉とあだ名されているのである。

 A 私に限らず『罪と罰』に親しんできた人は、この箇所を読んで驚いたのではないだろうか。この小説には予審判事のポルフィーリー・ペトローヴィチを代表として、姓の出てこない人物が数人登場する。そして、火薬中尉イリヤ・ペトローヴィチもその一人のはずだからである。確認のため、ロシア語の達人NN(新出登)氏に尋ねてみた。モスクワ駐在中、『カラマーゾフの兄弟』のみならず『罪と罰』のロシア語原典も音読で読破したというつわものである。氏によれば、そのとおり、イリヤ・ペトローヴィチは作者から姓を与えられていない人物の一人である、とのこと。以下は氏の解説の要約。

  〈作品内で、「火薬中尉」の名称に使われている「火薬」の原語「порох」(ポーロフ)が出てくるのは全部で12回。最初の4回は(A)警察署長ニコジム・フォミッチ(これも姓は出てこない)の台詞中、続く8回のうち、6回は(B)ラスコーリニコフの台詞か独白中。残りの2回のみが(C)地の文での用例で本編最終章に出現する(但し、これは自首のために警察署への階段を上り、署内に足を踏み入れ、実際にイリヤ・ペトローヴィチと相対するまでの描写で、語り手と主人公の視野の境界が終局に向けて加速度的に揺らぎ、両者がほとんど重なっている感のある緊迫した叙述の流れの中でのこと。従って、これもまた明らかに主人公の独白の延長線上にあると考えて差し支えない)。「火薬中尉」の名称が最初に出てくる(A)を見ると、「火薬」の原語は4回とも「порох」と小文字で、つまり普通名詞として表記されており、これが「ポーロフ」中尉などではなく、「火薬」中尉というあだ名であることは明白である。ところが、その後の(B)(C)では8回とも「Порох」と大文字で表記されている。その理由は、警察署で聞かされたあだ名の「火薬」が、その後ラスコーリニコフの意識の中で最早イリヤ・ペトローヴィチという人間と切っても切り離せなくなり、その別名として擬人化されるに至ったから、と読める。これを表現すべく、作者は大文字表記を使用したのであろう。そこまで考えずとも、通称を大文字で始める例はロシア語にはままあること。従ってこの「Порох」もあくまで「火薬」である。それを、この大文字表記に惑わされて『ノート』の著者は、てっきり固有名詞、つまり「ポーロフ」という姓だと勘違いしたのであろう。なお、新訳では、第6編第8章で主人公がソーニャに対して「 ぼくはポルフィーリーのところへなんか行かない。(…)友人のポーロフ君、そう《火薬(注。「ポーロフ」のルビ付き)中尉》のところへ出向いていって驚かしてやるのさ」(第3巻p.402)と宣言する台詞が出てくるが、この「ポーロフ君、そう」の部分はむろん原文には存在せず、訳者が勝手に付け加えたものである。(即ち、原文では単に「友人の《火薬中尉》(注。より正確には《火薬》)のところへ」とあるのみ。)副署長イリヤ・ペトローヴィチの姓を「新発見」したとの思い込みから、それを明示すべく気がはやったのであろうか。〉

 

 さて再び『ノート』に戻って、ここからはさらに簡略化して@〜Bをまとめた形で挙げていきます。引用は〈  〉で示しします。

 

●原作の第1部を解説した「本論」第1章の末尾(p.111)に、〈こうして第1部は終わる〉とあるが、その直前で説明されるのは、マルメラードフの死の場面。つまり、第2部の終わりの情景である。

●8日目の夕方近く、ラスコーリニコフは部屋を出て門のところまで降りていく。すると、〈彼を、庭番が手招きし、町人風の服装をした男を指ししめす(p.138)というのは逆で、庭番は、主人公の方を指さして男に教えるのである。(第3部第6章、新訳第2巻p.190)不安に駆られた主人公はこの謎の男を追いかけて行き、いきなり「人殺し!」と面罵される。些細なようであるが、指さされる方が不安は大きい。なお、新訳第3巻読書ガイド(p.472)ではこの部分が〈彼は、庭番に手招きされ、町人風の服装をした男を紹介される〉と要約されており、原作との乖離はさらに大きくなっている。

●第4部が〈物語第八日目にあたる七月十四日、それもおよそ夕刻から夜にまたがる五時間ほどの記述に限られている(p.172)というはまったく不正確。これに加えて第4部では、翌9日目の、警察でのポルフィーリーとの息づまる心理戦、ミコライの突然の「自白」、そして、上述の謎の男が釈明するまでが描かれる。

●8日目の夜にルージンと訣別したあと、主人公一家とラズミーヒンとで話し合う場面の要約で〈ラスコーリニコフは、スヴィドリガイロフが、彼女(=ドゥーニャ)にあるまとまった金を用意していることを告げる。ラズミーヒンは、これから自分の金とその資金を使って出版業を起こそうと、夢を語る〉(p.174)というのは余りに乱暴。そもそもスヴィドリガイロフが寄贈を提案した1万ルーブルは主人公が言下に断っており、また、潔癖なラズミーヒンが、いってみれば恋敵に当たる男の出すいかがわしい金に手を付けるはずもない。彼が言う資金とは、マルファからドゥーニャに遺贈されるという3千ルーブルのことである。(第4部第3章、新訳第2巻p.286

●第5部の要約の中に〈ついに葬儀の席、カテリーナとリッペヴェフゼリ夫人の大喧嘩がはじまる〉(p.203)とあるのは、マルメラードフの「追善供養」の席の勘違い。さすがのカテリーナも葬儀の最中に喧嘩はしないであろう。ここの一節では「追善供養」が4回とも「葬儀」に化けている。(第5部第2章)

●死を前にしたカテリーナの台詞について、〈そして最後に、路上で彼女は叫ぶ。すでに正気ではない。「孤児たちをお助け下さい(…)」〉(p.215)とあるが、叫んだのは、運び込まれたソーニャの部屋で、である。(第5部第5章、新訳第3巻p.189〜)

●スヴィドリガイロフが自殺したのは〈アキレスの銅像の前(p.245)ではなく、〈アキレスふうの銅のヘルメットをかぶった小男〉(第6部第6章、新訳第3巻p.374)の前である。

●エピローグでの母の死について〈熱病がはじまったのだ。三週間後に彼女はこの世を去った〉(p.265)としているが、母親が死ぬのは発病して二週間後である。(新訳第3巻p.439(江川訳でも「二週間後」。新潮文庫の工藤訳では「三週間後」となっているが、これは誤りとのこと。)

 

不的確な表現、不正確な日本語の例も一つあげておきます。

 

p.94に〈@マルファの紹介でドゥーニャが見合いした相手でA少壮の弁護士ルージン〉と出てくるが、@には抵抗を覚える。遠縁のマルファの紹介でドゥーニャ宅を訪問したルージンの方にそのつもりがあったのは確かである。翌日にはプロポーズの手紙を届けるのだから。これに対して母親は〈最初はわたしたちも、ほんとうに驚きました〉と息子への手紙で述懐している(新訳第1巻p.86)。「見合い」したのならかくも驚くはずがない。あるいは明敏なドゥーニャはルージンの意図にうすうす気づいていたかもしれない。さりとて、彼女が自ら見合いしたと取れる@は、余りにも乱暴で大雑把すぎる。また、Aも不正確な表現である。ルージンはいったい何歳か?〈なるほど、お年はもう四十五歳ですが(…)〉(同上)と手紙の続きにある。つまり43歳の母プリヘーリヤより年上である。広辞苑によると、「少壮」とは、「@年の若いこと。20歳から30歳ごろまでの称。A若くて元気のよいこと。」と語釈されている。時代につれて年齢の幅は変化するだろう。しかし、いくらルージンが若造りとはいえ、45歳を「少壮」というのは無理がある。日本語の正しい語感を持った人がここだけ読めば大きな誤解をすることだろう。

 ついでながら、ラスコーリニコフ、ラズミーヒン、ソーニャの三人が歩道で立ち話をしているところにスヴィドリガイロフが通りかかる初登場の場面について、〈ひとりの男が遠巻きに見守っていた〉(p.136)とあるが、遠巻きにできるのは群衆など複数の人間である。また、ペトラシェフスキー事件に連座して練兵場で死刑判決を受けた様子を語って、〈ドストエフスキーは(…)会のメンバー三人が(…)銃眼にさらされるさまを目撃した〉(p.75)というのも「銃口」の誤り。「銃眼」は壁の穴である。

 

 

一覧は以上で終わりです。事実の間違いばかりではなく、最後の例のように不的確な表現、不正確な日本語が多いのも気になります。これらは編集者の責任でもありましょう。(言葉に対するこの大雑把さは、新訳『カラマーゾフの兄弟』についても言え、「一読者による点検」の本体や後書きでも触れました。)この他にも気になる箇所はまだあるのですが、繁雑になるのでここで措くことにします。こうして概観すると、時間にまつわる間違いがとりわけ多いことが分かります。自作のタイムテーブルを用意しておられないのでしょうか。

 

 

*再びマルファの死亡日について

 さて、最後に、冒頭に宿題として残しておいたこの問題について付け加えます。

 冒頭の第1例で示したように『ノート』p.264で著者は、ラスコーリニコフの犯行とマルファの死とをほぼ同時としていました。ところが、驚くことに、実はそのわずか32頁前に当たるp.232では、「興味深いのはマルファの葬儀日である」として、次のように述べられていたのです。

 

〈チホミーロフが指摘しているように、ラスコーリニコフによる二人の女性殺害とマルファの葬儀の日付が一致している。たんなる偶然か、それとも作家のトリックだったのだろうか。トリックであるなら、なぜ、そのようなトリックを仕組んだのか、謎は深まる一方である。〉

 

 これはいったいどういうことでしょう。死亡の日と葬儀の日が同じはずはありません。『ノート』でも、死んでから三日目に埋葬するのがロシア正教の伝統(p.190)と解説されています。それにもかかわらず、その同じ本の中で、ラスコーリニコフの犯行は、p.232ではマルファの「葬儀」の日と一致、すぐ後のp.264ではマルファの「死亡」とほぼ同時、と書かれているのです。近接したこの二つの記述の齟齬に、著者のみならず、編集者もなぜ気づかなかったのでしょう。それよりなにより著者はいったいどっちだというのでしょうか。新訳第2巻の読書ガイドは「死亡」日と一致として立論していました。状況から判断してどうも著者は、主人公の犯行の日とマルファの「死亡」日とが一致していると思い込んでいるようです。しかし、だとすると、著者はなぜ自説と異なるチホミーロフの指摘を持ち出したのでしょうか。ひょっとしてチホミーロフの指摘の「葬儀」の部分をうっかり「死亡」と取り違え、そして「死亡日」と一致と勘違いしたのでしょうか。まさに謎は深まる一方です。

 この「謎」は、木下先生に尋ねて、ほぼ解決しました。そもそも「葬儀」と犯行の日が一致しているとはチホミーロフはどこにも述べていない、ということです。つまり、著者がチホミーロフの指摘として掲げている上の箇所はその全文が間違い、どこにも存在しない陳述なのです。チホミーロフが述べているのは、スヴィドリガイロフの語りに基づくと、マルファの死亡日について次のような「推定」も成り立つということです。

 まず、スヴィドリガイロフの語りを私なりに整理してみます。関連の語りは、彼が物語8日目の夕方にラスコーリニコフの部屋を訪れて、マルファの幽霊の話をする場面に出てきます。発言内容をまとめるとこうなります。(第4部第1章)

  

  @最初に幽霊が出たのはマルファの葬儀の当日。(新訳第2巻p.226228

Aその翌日ペテルブルグへと出発し、明け方、駅で再び幽霊を見た。(同p.229

B明け方、駅で再び幽霊を見たのは一昨日。(同p.226

Cペテルブルグには一昨日着いたばかりである。(同p.212

(ソーニャにもこの日「この町にきてまだ三日目」(p.126)と言っている。)

  D三度目に幽霊を見たのは、今日、2時間前、宿でである。(同p.226

 

以上を総合すると、語りの今が8日目なので、逆算して、

 

 5日目(711)=マルファの葬儀

 6日目(712)=スヴィドリガイロフのペテルブルグへの

出発と到着

      …

   8日目(714)=スヴィドリガイロフのラスコーリニコフ訪問

(語りの今)

 

となります。日付はチホミーロフの日付設定に従って入れてみました。

さて、以下が、チホミーロフの「推定」について木下先生から受けた解説の、私なりの要約です。

〈チホミーロフは、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの「行動と言説」のシンクロニズムに着目しており、後者の語りに基づけば、マルファが死亡したのは、主人公が老婆を殺害したのと同じ日(つまり物語3日目の7月9日)であるという可能性も出てくると「推定」している。しかし一方でチホミーロフは、これに矛盾する母親の発言(手紙を出した日にマルファが死亡)および7日目の713日におけるルージンのラスコーリニコフへの質問(10日以上いや2週間も前に母親が出した手紙を受け取っていないのか?)にも注目しており、マルファの死亡が7月初めのもっと早い時期であったかもしれないとも述べている。つまり、チホミーロフは二様の仮説を立てている。〉というのが木下先生の解説でした。(ちなみに新訳第1巻の7日目のシーンを見ると、ルージン自身が主人公に手紙を出したように訳してある(p.342)ので、尋ねてみたところ、〈それは誤読である。手紙は「10日以上、いや2週間も前に出された」と受動態で書かれており、前後の状況から判断して母親の手紙を指すと推定される。チホミーロフもそう解釈している。〉とのことでした。)

『ノート』でも、ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの分身性が盛んに言われていますが、それはチホミーロフの着想でもあったのですね。そして『ノート』の著者は、上述の二様の仮説のうち「分身性」に合致する方にだけ飛びつき、スヴィドリガイロフの語りに基づけばマルファの死亡日とラスコーリニコフの犯行の日とが一致する可能性も出てくるとしたチホミーロフの「推定」を一挙に飛び越えて、両者は一致していると「断定」してしまったわけです。どうしてこんなことが起こったのでしょう。断定するからには論拠が要ります。それが、どこにもない不思議についてはすでに述べました。しかも、上掲の引用のように、チホミーロフの指摘として、犯行の日と「葬儀」の日が一致するという二重に誤った記述さえしてしまっています。チホミーロフさんもいい迷惑なのではないでしょうか。

以上がことの次第です。

このスヴィドリガイロフの語りのくだりを私はすっかり失念していました。やはり素人ですね。さて、木下先生の解説を受けて私は、では、スヴィドリガイロフか、母プリヘーリヤか、いったいどっちの発言が正しいのか、と考えました。その結果はこうです。これはあくまで素人考えなのですが、軍配を私は後者に上げたいと思います。なぜなら、冒頭で付言したように、彼女は嘘をつく必要もなければ、そんな人物造型もされておらず、かつ、発言を保証する人物(ドゥーニャ)がいるからです。これに対してスヴィドリガイロフはまさに謎の人物として作者が造型しており、かつ、彼の発言には、「葬儀の翌日出発した」という部分を除いて客観的な保証がないからです。これについてはルージンが、スヴィドリガイロフは葬儀を済ませてすぐに出発したと主人公一家に語っているので確かでしょう(第4部第2章、新訳第2巻p.253)。しかし、葬儀の翌日に出発したのが事実だとしても、それがいつとは語り手も他の登場人物も明かしていないのですから、すべてはスヴィドリガイロフのそれ以外の発言の真偽にかかってきます。仮に、ペテルブルグに着いたのが一昨日でなく、本当はもっと前であるのなら、あるいは、一昨日に着いたのが本当だとしても、出発と到着の間に実は日付のタイムラグがあったのなら、とにかく出発の前日が葬儀というのですから、それに連れて葬儀の日付もそしてマルファの死亡日も繰り上がっていくことになります。(実際問題として、スヴィドリガイロフの居住地と目されるダラヴォーエを出発してその日のうちに首都に到着するのは、当時の交通事情ではほぼ不可能、仮に前夜に発ったとしても無理だろう、というのが、数年前に同じコースを旅した経験のある木下先生の見立て。ただし、そこまで自然主義的に考える必要があるかどうかは別問題、とも。)

マルファが死んだのはいつか? それは、いつだと断定することはできず、これも、物語の日数と同様に、作者が仕組んだと謎と考えて、そのまま謎として受けとめる方がよさそうです。ただし、それはラスコーリニコフの犯行の日より前の出来事である可能性が高く、とにもかくにも、両者の日付が一致すると「断定」することは不可能なのですから、その行為は誤りであるという事実に変わりはありません。それでも一致すると主張するのなら、明確な根拠を示してもらわなければなりません。

 

 

 

 

事実誤認の指摘は以上で終わりますが、最後にもう一言付け加えさせてください。

今回の私のこの文章を読んで、これらは全て細部の誤りの指摘であって、肝心の内容に触れていないではないか、と思われた方もいるでしょう。それはそのとおりです。私も「内容については置くとして」と最初に断っています。それに、内容もむろん大事ですが、細部も大事であり、細部の誤りが上のいくつかの例のように大きな誤読につながり、そしてそれが広く流布されかねないこともまた事実です。また、細部と基礎基本が、内容と無関係のはずもありません。

ともあれ、『ノート』の内容について最後に少しだけ触れるならば、その印象はやはり「拙速」ということになります。

まず最初に私が感じたのは、読みにくいということでした。それは、これがまさに「ノート」(後書きの言によれば「覚書」)であって、十分に時間をかけてまとめ上げられた著作でないからでしょう。

「本論」で著者は、原作の各編を追いながら、翻訳作業の過程で作品の細部について「発見」したことを、これまでの諸人の研究成果をまじえながら、順次述べていきます。問題はこれらが、「発見」というにはあまりにも論証が不十分であり、思いつき、ないし、思い込みの域を出ていないことです。つまり、著者自身によって十分に考え抜かれていないのです。「〜だろうか」また「〜ではないか」という曖昧表現が多用されるのもそのせいと思われ、ところによっては、Aか、Aでないのか、主張が判然としないことさえありました。(スヴィドリガイロフは踏み越えたと言いたいのか、踏み越えていないと言いたいのか、など。)従って、私にとっては、あちこちが納得しづらく説得されえず、もやもやと疑問が重なり続ける結果になりました。参考になった点もいくつかあったものの、細部の説明が互いにばらばらで作品全体の理解にリンクしていかないのも、もどかしく感じられました。以上が、少なくとも私が読みにくいと感じた理由です。

それから、著者は作品の中にとにかく作者の自伝的ディテールを読み込もうとします。それはそれで作家論としては意味がありますが、それが分からなければ作品を理解できないというものでもありません。なぜなら、私小説を例外として、およそ優れた作品はそれ自体が一個の独立した小宇宙を成しているからであり、そうでなければ、作家にとって失敗作ということになります。本書においては作品解釈と伝記的理解とがないまぜになっており、その結果、作品の自立性が見失われているように私には思われました。『ノート』を手に取ったのは、たまたま刊行の直前に『罪と罰』を読み直していたからですが、その際に改めて抱いた疑問は残念ながら本書によっては改消されませんでした。

以上は、あくまで内容の感想にすぎません。それを超えて、内容の問題点についてきちんと立証して論じることは素人の私には手に余ります。それは専門家にお任せしたいと思います。(ちなみに、私のような一読者でありながら、新訳『カラマーゾフの兄弟』について、個々の誤訳でなく、訳者・亀山郁夫氏の「カラマーゾフ」理解、作品の読み自体の問題点を鋭敏な感性と強靭な思考力とをもって立証しているのが書店勤務の木下和郎氏です。氏の「連絡船」ブログ08619日付の記事(下記URL)を発端として、次の記事からの連載で、氏の説得力のある考察が読めます。

http://d.hatena.ne.jp/kinoshitakazuo/20080619

この連載は目次付きで下記のPDFにもまとめてあります。

http://www.kinoshitakazuo.com/kameyama.pdf#search

氏は、かつて新潮文庫版『カラマーゾフの兄弟』に帯の文言を提供したという人物で、人生において大きな意味を持ったこの作品が余りにも歪められている事態を座視できず、現在もなお粘り強く議論を展開しておられます。亀山郁夫氏の『カラマーゾフの兄弟』の解説がまさに内容的に信頼できるかどうかは、こちらでお確かめください。新訳第5巻の「解題」、また、昨年のNHKラジオ講座のテキスト『新訳『カラマーゾフの兄弟』を読む』などの問題点が、浮き彫りにされています。)

 

 さて、今回の作業の主眼は、最初にも述べたように、「一読者による新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」同様に、まさに素人にも分かる誤りを指摘する点にありました。確かに、たまたま読書会に備えて『罪と罰』を丁寧に再読していたので記憶も新しく、『ノート』の間違いが次々に目に入ったということもあるでしょう。(しかしながら著者は『罪と罰』を訳したばかりのはずです。)学生時代に作った自分なりのタイムテーブルも役立ちました。とはいえ、私は一愛読者にすぎません。新訳にしろ、『ノート』にしろ、なぜ一読者にも分かる誤りをかくも多く含んだままで出版がなされるのでしょうか。素人の私が気づくくらいですから、間違いは実際にはもっと多いことでしょう。改めて、著訳者、編集者、出版社の仕事の質を問いたいと思います。(新訳『カラマーゾフの兄弟』の場合は、書評等でこれを安易に推奨した文化人、とりわけロシア文学の専門家、加えてメディアのそれも問われると考えます。)これをアラ探しと評する方のおられることも知っています。しかしながら、事実は、アラを殊更に探しているのではありません。新訳『カラマーゾフの兄弟』やこの『『罪と罰』ノート』の場合、探さなくてもアラの方が目に入ってくるのです。(つまり、その量と質がレベルを超えているということです。そして「量」もさることながら、その「質」は読者を誤読へとミスリードしかねません。)それをもアラ探しというのならそれで構いません。ただし、一読者としての私の素朴な疑問は、そもそもなぜ一読者にも分かるそのアラを、プロであるはずの当事者自身が事前に徹底的に探し出して、取り除き、修正しておかないのかということです。本来そうあるべきでそれがベストです。ところが事態はそうならず、かくも多くのアラを含んだまま、新訳もそしてこの解説書も世に出てしまいました。あとはこれを当事者の方々が自らの責任で、しかるべき形で訂正なさるかどうかということです。事業として多くの読者に売り、対価を頂戴するのですから、これは職業倫理の問題だと思います。

私は一読者にすぎません。そしてその私に限らず、このサイトに登場している面々は、当事者に対して何の利害関係も持ちません。口幅ったいようですが、私たちにとって大事なのは、私も含めた読者の利害、そして、なによりドストエフスキーに対する利害です。事態が、読者とドストエフスキーとを益する方向に進むことを願っています。

 

 

【追記】❶

 新訳『罪と罰』については第1巻だけ読みましたので、そのレビューをAmazonに投稿し現在掲載されています。新訳『カラマーゾフの兄弟』第1巻については、後に「一読者による点検」でも触れたように、「yuzin」の名で投稿したレビューが一昨年末(0712)に掲載されました。ところが、その後、昨年5月にいつの間にか削除されていたので、その後の状況も取り入れて新たにレビューを投稿し、現在も掲載されています。その際、すでに「点検」を公開していたため半ば関係者でもあり気恥かしく感じて、名前を「のんき亭」に改めました。

 

【追記】❷

 

***

(参考資料)

文部科学省学術研究推進部会 人文学及び社会科学の振興に関する委員会(9) 議事録抜粋

日時 平成20215日(金曜日)1618

場所 文部科学省 3F1特別会議

 

以下は、上記会議における亀山郁夫先生の発言の抄録です。先に挙げた木下和郎氏のブログ「連絡船」でその存在を知りました。この発言がなされたのは、木下豊房先生によって前年の20071224日に新出登(NN)氏の「亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』を検証する」が公開されたあとのことです。見出しは森井がつけました。なお、議事録の全体は下記URLで読むことができます。資料のあとに私のコメントも付けました。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/gijiroku/08100707.htm

 

 

(1) 自分のドストエフスキー研究の最先端性について

【亀山東京外国語大学長】

 (前略)先ほどの「教養知」と最先端的研究という、この一つの実例というのを、自分に照らして提示したいと思うわけです。そこまで君はナルシストかとのそしりを恐れつつも、自分なりにひとつ言いたいことがあるんですね。私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去56年です。結局、ドストエフスキーの研究は、私の研究は今最先端だと自分なりに自負しているんですね、少なくとも日本においては。問題は、なぜそう自負できるか、という点にあります。私は、ロシア・アヴァンギャルド研究の後に8年間ほどスターリン文化研究に励みましたが、そのスターリン文化研究の構造をそのままドストエフスキー研究に持ち込んでみたわけです。そこでどういう発見があったかというと、例えば10代の後半、終わりから、大学時代から営々とドストエフスキー研究を積み重ねた人たちは、50代の後半になったら新鮮な想像力も何もすべて失っているんですね。ほとんどドストエフスキーのテクストになまで感動するということはない。テクストの細部から何か新しい真実を見出していくということがほとんどできなくなっていて、目新しい視点、発想はほとんどゼロなんです。(後略)

 

(2) 編集者の知性について

【亀山東京外国語大学長】

 (森井注。直前の別の委員の発言を受けて…)今、最後のところなんですが、極端な言い方として、つまり、大学で文学研究をしている先生方の、ある意味での文学的知性といいましょうか、教養というか、それが問題なんだと思うんですね。私はこれまでいろいろな編集者とおつき合いしてきましたけれども、編集者たちの知性というのはものすごいんですね。それにはもちろん理由があります。たとえば、新書ですと、年間に十何冊ぐらいつくっていくという作業を長い期間つづける。単行本ですと年間に6冊ぐらいでしょうか。著者の原稿を何度も何度も、まあ、3稿ぐらいまでは見るわけですよね。その仕事を20年やるとすると、その人たちがつくり上げた、持ち得る知性、教養というのにはかり知れないすごさが生まれて当然だと思うのです。すぐれた編集者というのは、ほんとうに日本の教養のかがみ、日本の宝だと思うんですよ。ところが、そうした出版の現場から一たん大学の世界に戻ってくると、これが、ほとんど会話が成立していない。大学の先生同士で教養ある会話というものに出会ったためしがない。ほんとうに不思議だと思います。

 そういう惨状を知っているので、私は編集者の方とお酒を飲むのが一番楽しいということになってしまうんですが、さて、この発言がどういう役に立つか。たとえば、「『カラマーゾフの兄弟』続編を空想する」という本を書いたときは、非常に面白かった。『カラマーゾフの兄弟』のゲラのやりとりが凄まじかった。中には5校まで行きましたので、ご想像いただけると思います。毎回毎回お酒を飲みながら、ゲラのやりとりをし、内容について意見交換をする。私と同年の編集者で、カッパ・ブックスでベストセラーをつくった方なんですね、『知恵の体操』とかいう本です。

 

 

 以上が参考資料です。

 以下、資料の発言を読んだ感想を申し述べさせていただきます。まず、(1)について。

 亀山先生の『罪と罰』論については、すでに本編で触れましたが、これに限らず私にとって先生の「最先端」とは、多くが思いつきと思い込み、または誤読にすぎず、その前に基礎基本をしっかりしてほしいというのが、本音です。(その誤読を綿密に立証したのが、20061月の「亀山郁夫氏の『悪霊』の少女マトリョーシャ解釈に疑義を呈す」に始まる木下先生の一連の論考であり、また、木下和郎氏による前記「連絡船」ブログの「カラマーゾフ」関連記事です。)それから日本のドストエフスキー研究に関して言うと、乏しい読書ながら、私はこれまで、優れた著作にずいぶん益せられました。中にはおっしゃるように、新鮮な想像力を失った研究者もいるかもしれません。ただ、不思議なのは、「最先端」を標榜する方が、なぜ、前者の例に触れず、後者をことさらにあげつらって批判し、それを基準になさるのか、ということです。前者を基準にしてこそ、真に「最先端」の優れた研究も生まれるのではないでしょうか。

 次に、(2)について述べます。

 これについては、もはや言うまでもないかもしれませんが、昨年の「新訳『カラマーゾフの兄弟』の点検」そして今回の「事実誤認の指摘」の作業をおこなって改めて私が感じたのは、上記の事柄に加えて、編集者の仕事があまりに杜撰であるということです。著訳者についてもそうですが、編集者にしても、なぜ、一読者にも分かる明白な誤訳や間違い、また、日本語の不備の数々を見過ごしているのでしょうか。その根底には、出版という文化事業においても質より量を追いかける商業主義がはびこっている実態があるのかもしれません。とはいえ、「編集者たちの知性」をめぐる上の発言は、作業をした私にとっては、正直に申しあげて、疑問符の付くものでした。

 

もう一件、付言したいことがあります。

最初の発言で亀山先生は「私がドストエフスキー研究に入り込んだのは、この過去56年です」とおっしゃっていて、このあとの省略した部分でも「私はドストエフスキー研究者でもないのに、今、いろいろなドストエフスキーの本を書いてくれという要求があるわけです」という発言が出てきます。これは正直な発言でしょう。しかし一方で先生は、例えばNHKの番組などでは、「ドストエフスキー研究の第一人者」と紹介されるままにしておられます。これはなぜでしょうか。学術会議の場で自ら「ドストエフスキー研究者」を名乗るには研究歴が浅いものの、一方では「ドストエフスキー研究の最先端」という自覚があるからということでしょうか。しかし、一般の読者や視聴者にはそんな事情は分かりようもありません。なにしろ、大学教授また学長という肩書なのですから、みんなアカデミズム公認のドストエフスキー研究者、中でも第一人者と目される人物と思い込みます。私はアカデミズムが絶対とは思っていませんし、そもそも自然科学と違って先端技術を競っているわけではないので、文学に第一人者も何もないと考えています。実際、ドストエフスキーに関しては、古くは小林秀雄、戦後では埴谷雄高など、錚々たる在野の文学者が連なり、それぞれ一家言をなしています。アカデミズム公認でなければ、ドストエフスキーについて発言も著作もできないということはありえません。これはどの作家についても同様です。したがって、亀山先生がアカデミズムの研究者であるかどうかはこのさい二義的な問題にすぎません。要はその人の文学的センス、そして、知的誠実さの問題でしょう。ただし事実の問題として、一方で専門の場ではドストエフスキー研究者ではないと言い、もう一方の一般市民に対する場では「ドストエフスキー研究の第一人者」と称されることを容認するというのは、後者に対する誠実さを欠くことになり、私にはやはり二重基準のように感ぜられます。

アカデミズムか、それとも、それを超えた研究か? この点に関して、新訳『カラマーゾフの兄弟』および『『罪と罰』ノート』の点検を通じて感じたことを最後に申し述べます。まず第一の点については、この学術部会の席上で「ドストエフスキー研究者でない」と自分で認めておられるとおりだ、ということです。事実、上の二冊の著訳書には、研究者としてはおよそありえない誤訳と誤りがあまりに多いのです。次に、第二点の、既存のアカデミズムを超えたとする「最先端性」はどうか。この点については、すでに述べたように、新訳の「読書ガイド」や『ノート』で提示された「最先端」の「発見や知見」のほとんどが、私にとっては、思い込みか思いつき、また、端的に誤読として解せられたのでした。

異論はあるでしょう。ともあれ、これが現時点での私の正直な感想です。(なお、この議事録での、より専門的な事項にかかわる亀山先生の発言の当否については、すでに、当サイトに公開中の木下豊房講演原稿「再読『カラマーゾフの兄弟』」で

http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost131.htm

詳述されていますので、そちらをご参照ください。)