■九〇年代の口語短歌にみられる共通性
荻原 ところで、活動をはじめてかれこれ一年半になるのですが、穂村弘さんと加藤治郎さんとぼくと三人で企画して、電子メールを主媒体にした「ラエティティア」という歌人中心のグループを作ったんです。ひとりごとのように語りますが(笑)。メンバーの数は八十人、年齢は平均して三十代です。そのグループでインターネットの機能を利用して歌会を何回かしているんです。
口語でいい作品を書く人がけっこう多かったものですから、あるとき、「口語で書く作品」をテーマにして作品を出してもらったら、不思議なことに全体の作品のパワーが若干落ちているような印象がありました。別のときに自由題で歌会をやったら、もちろん文語の作品も出たのですが、口語の作品もかなりたくさんあって、全体を、前に口語で書いてくださいねと指定したときに比べると圧倒的に元気だった、パワーがあったんです。
これは非常に興味深い現象でした。その理由はなぜか、簡単には言えないんですが、先に話をした熱湯をくぐったところで書くということと強く関連しているのではないかと感じています。つまり、あらかじめ準備されたものとしてそこに空気のようにある口語というのは作歌にとってはマイナス機能を発揮するんじゃないかと思うんです。文語定型というものがオーソドックスなスタイルとしてあるときに口語で書くのは何かそれを異物として機能させることが新しいものを生み出そうという力に変わっていくけれど、いきなり口語という前提があるときにはうまく力が出てこないように見えるんです。
もしかすると、ぼくの思い込みも影響しているからかもしれない。実際に作品を書いた人たちはそれぞれふだんと同じように書いていたのかもしれないのですが、やはり全体で見るとその人たちが本来もっている口語でよりいきいきとする個性を出し切れてなかったという印象をもちました。
ところで穂村さん、一九九〇年代の口語文体について具体的な作品をあげてみていただけますか。
穂村 「ラエティティア」というグループのメンバーとかなり重なるのですが、私が生身で参加しているのは「かばん」という同人誌です。五十人くらいの団体で、平均年齢が三十歳前後です。みんな圧倒的に口語で書いている。つまり五十人くらいの人間が毎月毎月口語で歌をずっと書き続けている集団ということになります。ぼくは毎月、その作品を読んでいるわけですが、そのなかから、最近の傾向を示すと思える歌を十首、あげてみます。
まず「過剰な比喩A」として三首をあげました。
<いっせいに油が界面活性剤にとけだしてゆくようなさよなら> 古野朋子
<逢うたびにヘレン・ケラーに[energy]を教えるごとく抱き締めるひと> 小林真実
<Wright brothersの発音されぬWのやうに君は僕らが見えなくなつた> 古谷空色
いずれもパッと見ておわかりのように「ような」「ごとく」にものすごく文字数を使っていて、しかも内容的にも過剰なことばを使ってます。それに対して、実際にそれがかかってくる、比喩されている本体のほうは「さよなら」「抱き締める」「君は僕らが見えなくなつた」という日常の感覚です。これは明らかに過剰な比喩だなと思うのです。過剰さとは単に長いというだけではなくて、界面活性剤はいまの環境問題で問題にされているし、ヘレン・ケラーやライト兄弟は歴史的あるいは実存的に重みのある、何らかの意義をもった存在です。そういうもののウェートというんでしょうか、社会的、歴史的、実存的な重みを自分の日常に奉仕させているということなんです。
次に「過剰な比喩B」として三首あげます。
<<人工衛星(サテライト)大破>みたいな何となく清潔で静かな壊れ方> 原浩輝
<レイアップもできない僕を見てリョウは虹の所有者みたいに笑う> 千葉聡
「レイアップ」はバスケットボールのいちばん簡単なシュートのやり方です。
<暁(あかとき)の我が腕のなか渦巻ける銀河のごとく眠る猫あり> 成瀬しのぶ
この三首の比喩はAに比べて長くはないのですが、すべて「人工衛星大破」「虹の所有者」「渦巻ける銀河」、つまり天体です。こういう天体や天象にかわる比喩がものすごく多い。はるかな、要するに「すごいもの」ということですね。壮大な、大きなもの。さっき社会的あるいは歴史的、実存的にウェートをもっていたものの代わりに、ここでは人間をはるかに越えた大きなものが何にかかってくるかというと、シュートがうまい友達、腕の中にいる猫といった<私>の身近なもので、構造はまったくAと同じになっています。
最後に「<我><君><僕たち>」として四首あげました。ここまでにあげた歌も「僕」とか「君」など身近なものがうたわれていますが、それをもう一度見ると、
<僕たちの痛い粒子を比べればほとむほとむと鳴る島宇宙> 成瀬しのぶ
ここでも「宇宙」が出てきています。この歌は前の文語の歌<暁のわが腕のなか……>と同一作者です。ですから、口語だからということよりも、むしろいまの世界の空気感がこの表現に連動しているなと思うのです。
<瑪瑙移植手術に失敗して以来きみの笑顔に皇帝が棲む> ゆきあやね
「瑪瑙移植手術」とは何か、はっきりわかりませんが、何かすごそうなものですね。しかも、それに失敗したのに「笑顔に皇帝が棲む」という。「皇帝」とはさっきの「ライト兄弟」や「ヘレン・ケラー」と同じような意味合いで、要するに値の高いものです。
<新宿に光の海が満ちるように我の身体を抱きしめよ君> 西村一人
これも「ヘレン・ケラー」の歌と同じような感じです。あそこでヘレン・ケラーだったものが「新宿に光の海」という壮大なものに変わっている。そして同じく「抱きしめよ」にかかる。
<降りだした雪ごと君は僕を抱く 口語短歌のようにふるえて> 千葉聡
この歌も「君は僕を抱く」です。口語短歌の特集だというので、この歌を選びました。
このように読んでいくと、同一作者のものもありますが基本的に別人だし、性別も違う作者ですが、明らかに共通のトーンが見られます。その共通性とは何か。五点、あげてみます。
第一に「<私>の価値の高騰」です。さまざまな壮大な重いものが自分の日常にかかってくる。その背後にあるのは、自分というものが生来的に価値があるものだという感覚です。もちろんそれは究極的にはだれでもいつの時代でもそう思っていたはずです。でも社会、歴史、家族、会社とか国でもいいんですが、そういった外部とのかかわりで存在していた価値のようなものが、第二の特徴である「歴史や社会といった<外部>の喪失」という状態で独立的に、自分が自分であるだけで自分には価値がある、あってほしいという願いが突出してきていると思うんです。いま「自分探し」というキーワードがありますが、そういった意味での価値の高騰です。
第三点として「イメージのインフレーション」はすべてにわたってこれらの歌に見られるものです。イメージの世界ではどんなに壮大なものでも人間は想像することは自由ですが、それが際限なく巨大化している。イメージがインフレになっている。つつましい比喩というものが本当に減っている。
第四に「関係性への希求」、ここでは社会とか歴史とかいった外部を求めにいくというドライブ感はほとんど感じられなくて、ひたすら「抱き締める」「君は僕が見えない」「抱きしめよ君」「猫を抱く」とか、ごく身近なマン・ツー・マンの関係に対する強い希求に欲望が絞られているということです。
最後に、それらのものと若干位相が異なりますが、「定型感覚の溶解」をあげます。八〇年代の口語の歌はもっと一人一人のアリバイのようなかたちで作られていた。一人一人が自分だけのパスポートを偽造するような感じで歌を作っていたと思うんだけれど、そういう感覚がなくなっている。さっきも出た口語を選び直す感覚の希薄化とも関係すると思います。
前の四つについてはこれ自体、善悪は言えないと思うんです。これを否定したとき、じゃ何ができるんだというと、もう一度、歴史や社会に対する強い感覚をもとうじゃないかということになってしまう。実際に馬場さん、篠さん、大島さんの御発言の根底にあるものは、その世界の空気の落差に対する嘆きだと思います(笑)。口語がどうというよりも、この変質が受容できないんだと思う。
それはまったくよくわかるのですが、では、歴史を認識し、社会を見る目を養い、そういうものをもう一度復活させようってだれかが言い出して、みんなもそうだ、そうだと言ったら、そうなるのか。それを表現上の問題にするためにはまた、違ったポイントの絞り方が要ると思います。モラルとは別の何か内的な<ひとりの規範>のようなものが発見されないとだめだと思う。イメージの豊かさと同時にその規範の厳密性が問われるんじゃないか。それが文体に反映するんだと思う。
いまぼくはかなり批判的にこれらの歌を読んだと思うけれど、ここにある要素は実は、ぼく自身のなかにすべてあって、おまえの歌はみんなこれでできているじゃないかと言われればまったくそうで(笑)、イメージのインフレしたものを恋人との関係性のなかにぶち込むという、作り方をしていますから、ひしひしとわかるのです。
ただ、もしぼくが自分はそうじゃないって主張しうるとすれば、最後の「定型感覚の溶解」だけで、これは定型内部への<私>の持ち込み方とも関わりますが、こういうレベルでの定型感覚の溶解は自分にはなかった。つまり、ぼくだけの口語を使っているはずだと思うんです。
荻原 今の話をふまえて、今回の全体を強引に図式化してみましょうか。まず、縦軸に「定型意識」の強弱、あるいは「定型感覚」の有無といったものを想定し、横軸には、歴史や社会といった「外部」への価値意識の高低を考えてみます。時間をさかのぼりすぎると図に収まらなくなると思うので、戦後の第二芸術論を受けて成り立った前衛短歌、一九六〇年代を起点とします。それがこの図のAの部分にあたります。定型意識が強く、歴史や社会への価値意識が作品に反映されていた時代ということです。
時間の順に言うと、七〇年代に「微視的観念の小世界」と批判された一連の作品や八〇年代の半ばあたりまで極めて盛んに展開されていた新しい「女歌」というのは、この横軸、つまり価値意識の変化があったわけで、図のBの部分に入るのではないかと思われます。「私」とか「女性性」といった価値意識が反映される作品が書かれていた時代ですね。それで問題にしてきた八〇年代の口語歌ですが、むろん差異はあるにしても、同じく図のBの部分に入ると思います。俵万智『サラダ記念日』や加藤治郎『サニー・サイド・アップ』や穂村弘『シンジケート』といった歌集は、従来の外部への価値意識からは大きく変わりましたが、定型意識という点ではきちんとつながっていたのではないでしょうか。作品を丁寧にたどって実証しないといけないことですが、とりあえずの見取図としてはわかりやすいのではないかと思います。
それから、さきほど穂村さんに作品をあげて読んでもらった九〇年代の口語歌というのが図のCの部分に入るわけなんですね。非・外部への価値意識を過剰なまでに表出しているんだけれども、どこかで「定型感覚の溶解」がはじまっている、ということでしたね。
七〇年代から八〇年代の短歌の変化の問題というのは、非常に大きな変化であったにもかかわらず、変化の様子自体はとても見えやすかったと思うんですよ。多少の変質はあったにせよ、定型意識という共通項がどこかにあって価値意識の変容を問題にしていたわけですから。ところが今は、価値意識が多様化した上に、「定型意識の溶解」といった状況にさえ直面している。従来の前衛短歌の位置からは、もはや批判の対象というのでもないような、まったく見えないところに現代短歌の一部が動きつつあるといった感触があります。
今回は、われわれにとって近いところにいて良質の作品をそろえている「かばん」の作者を対象にしましたが、もっと深く広く、そして静かにこうした傾向がじわじわ広がっていると思います。結社ベースで総合誌を通して見る短歌の世界では、ほんの一部という感じかもしれませんが、たとえば、歌壇的ジャーナリズムではほとんど名前を見ることがない枡野浩一さんが企画している「フーコー短歌賞」というのがありますよね。藤原龍一郎さんや林あまりさんが一緒に選考している。歌集一冊分の作品を応募して入賞者の作品を出版するというものです。あそこへの応募者、入賞者にも、九〇年代的口語文体の特徴というのが顕著に見られますね。結社的な場所にいると「先生」たちからの影響が大きいわけですが、外を見るとなんだか恐くなるほどです。穂村さんの言う「定型感覚の溶解」というのがどんどん増殖しているんじゃないでしょうか。ニフティサーブ(パソコン通信)の「短歌フォーラム」なども、この傾向が強いと思います。結社的・歌壇的な場所の外部が広がり続けるかぎり、この傾向もまた広がり続けるということかもしれませんね。
|