■これからの口語短歌

荻原 さて、それで、穂村さんはこの状態が続けば続いたでいいんじゃないかという感覚をもっていますか。それとも何か新しい指針のようなものを見つけださなきゃという感じですか。

穂村 うーん、さっきの内的規範の必要性以上のことはみえないけど、いまの荻原さんの話はよくわかる。八〇年代から九〇年代ということでいうと、「本当の私」というのか、そういうものに対する執着は共通しているわけだね。つまり、社会や歴史など知らんよ、自分だけが大事なんだよという勝手さというか、そこは仮に共通していても、当時は本当の自分というものが自然には提出できないんだという感覚があったわけです。
ところが「定型感覚の溶解」は、ぼくの体感でいえばなぜか本当の自分というものが自然にそのまんま提出できちゃうという感覚になっちゃった。でも、それは不思議だ。自分が自分であるだけで自然に振る舞っていれば他人に愛されるとか、その楽天性がぼくにはちょっとわからないなあ。

荻原 私は私である、というのは自明なことなんだけど、他者との関係のなかでそれを掴もうとすると本当の私というのが見えなくなりますね。つまり、表現によって私の私らしさを記述しようとすると、一般的に人間はこうである、しかし私はこのように特殊である、というスタイルを要求されて、一般論の外に出られなくなってしまう。柄谷行人が『探究』のなかで検証した問題ですね。「私」の記述を重ねることが、むしろ私の「単独性」つまり「この私」であるという根底の事実をずらしてしまい、「この私」を消してしまう。そのシステム自体がまったく把握されてないよ。恐らく、いまは、たくさん歌を書けば書くほど、没個性的になっていくような状態そのものが問題にもされてないんじゃないかな。
価値観を新しく構築する必要があるのか、それとも定型感覚みたいなものを回復する必要があるのか、そこは何とも言えないけど、あきらかに「私」が消失する方向に向かっているんじゃないかと強く感じますね。

穂村 自分というものを価値あるイリュージョンみたいなものとして立てなくてはいけないという点では前衛短歌の感覚と共通していたと思うんだ、自分のもっている感じってのは。

荻原 生の私をそこで表現できるかどうかという問題は別なんだけどね。

穂村 うん。そういうふうには思わなかったな。

荻原 自分がものを「書く」ということの意味は、短歌だったら「私」のイメージやイリュージョンを伴って出てきやすいわけですね。大切なのは文体なのかもしれないし修辞なのかもしれないしテーマなのかもしれないが、意識的に構築したかたちで「私」を出すことが自分たちの書き方の一部だったものだから、いまの状態はある意味では見えないというよりも理解を超越した部分に行っているところもあります。

穂村 さっきも言いましたが、「私」の問題はたしかに定形外の現実の問題として無化されちゃったけれど、定型の内部の問題としてもそれなりに豊かな解消を見せたと言えると思うんです。それに対して、口語でぼくたちが十年前に弱点だったと自覚していたものはすべて残っていると思います。どれ一つとして解決されていない。むしろそれが問題だという意識が失われた分、それに関しては悪化している。

荻原 さっき穂村さんがあげた、口語短歌の結句の問題、連体形と終止形が同一だという問題、描写に弱いという問題に関しては、積極的な意識をもって自分なりの答えを見つけだしていく必要が、短歌を口語のスタイルで書くときはあると思いますよ。

穂村 それから、きょうの話でそっくり抜けていたのは、モチーフみたいなもの。つまり文体って実際にはそんな純粋に、「オレは終止形の問題をクリアーするぜ」ってモチーフで歌集を作るやつなんかいないわけで(笑)、いわゆる内面の動機と言われているものに寄り添うかたちでしかつねに体現されない。でも、きょうの話ではモチーフというものが社会とか歴史という外部と「私」という二項対立のなかでしか語られてなかった。少なくともさっきあげた十首見るかぎりでは、「私」に対する執着とか身近な人間に対するシンパシーというもの以外のモチーフが出てないですね。そこに圧倒的なモチーフが導入されたときにどうなるかはわからない。
では、いま何がリアルなモチーフとしてありうるかというと、実は矛盾するようだが個と個の結びつきの問題、関係性に対する執着というようなところに行くしかないんじゃないか。つまり愛に対する異常な執着とか、ストーカーみたいになっちゃいますが(笑)。そうじゃなくて、もっと社会的な現実のなかでありそうなモチーフというものに対して言葉とのドロドロの結びつきの弱さという点で懐疑的です。

荻原 テーマやモチーフのことはもちろん気になってはいるんですけれども、ぼくは、文体の問題として、いまの口語短歌のこと、それにこれからの短歌のことを考えています。八〇年代の口語短歌は、たとえば前衛短歌とか、その前の時代の短歌をベースにして、異化効果を狙った表現をした、口語を入れることによって何かを壊して新しい何かを生み出したわけですね。そういう越えにくい山を越えた部分でパワーを発揮してきたと思うんです。もう一度あのパワーを発揮するためには、テーマやモチーフを探究するというだけではだめだと思っています。むしろ力のある文体を獲得したときにこそ、テーマやモチーフに対する視界もひらけてくるんじゃないかな。
今、口語で短歌を書くというのは、われわれのまわりにあたりまえのこととしてひろがっています。それから文語で短歌を書くというのも当然のことに歴史の流れにつながっています。価値意識にしてもどれがいい悪いという問題を超えて際限なく広がっているわけですね。しかも、定型意識といった、本来たしかなものとしてあるべきファクターさえ危うくなっている面がある。さきほど粗く図式化した各象限を、誰もが自在に動けるといった状態です。
これは、表面上は誰もがおのおの好きなポジションで短歌を書ける状態をつくり出しているように見えますが、実際は、あの平面上のどこに自分をポジショニングしても、もはや力のある文体を生み出せないという深刻な状態を意味していると思います。それぞれの信条にしたがった「秀歌」を生み出すことはできても。全体を圧倒するような文体にはなりません。
これから口語短歌、あるいは二〇〇〇年以降の短歌を考えるとすれば、あの平面を立体的に成立させるもう一つの軸を、仮にイリュージョンだとしてもつくりあげてしまうこと、見つけ出すことが不可欠の条件だと思います。

      (平成十一年十月一日 東京グリーンホテル水道橋にて)

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