日蓮(にちれん)をかくまった長南光重(ちょうなんみつしげ)

  1222年に房総半島の小湊(こみなと)に生まれた日蓮は修行僧として仏教を学ぶうちに、仏教の精神は法華経(ほっけきょう)の中にあることを信ずるようになり、1252年から街に立って自分の考えを話しはじめました。

  もともと仏教は538年に日本に伝えられ、弘法大師(こうぼうだいし)をはじめりっぱな僧が教えを広めましたが、地方に領地をもって、都にぜいたくなくらしをするする貴族階級が仏教を信ずるようになると、僧は貴族階級と仲良くして、寺院を建ててもらったり、生活費を出させたりして過ごすものもでてきましたからいきおい貴族階級へのサービスを重んずるように変わっていきました。

  これとは別に貴族のものである荘園領地(しょうえんりょうち)を守らせるために養った武装農民は、やがてぐんぐん力をつけて、戦争専門の武士団となり、主人である貴族の命ずるままに相手の領地に攻め入り勢力を広げ成長していきました。この頃の戦争は、相手の軍勢の首を、いくつとったかが手がらになるつまり首狩り族どうしの戦いだったのです。

  そのうちに都で暮らしている主人の言うこともきかずに、政治の力をうばった武士団が軍事政権を立て、武士が世の中を支配するようになったのが、源頼朝の幕府政治です。

  こうなると一部の僧は、こんどは武家勢力に近づき、人間どうしの殺し合いを正当化するような武士道という言葉のかげで、武士に都合のいいことを説いてまわりました。禅宗(ぜんしゅう)が剣の修行、つまり人殺しに役立つなどという考えがつくられたのもこの頃です。

  仏陀(ブッダ)シャカムニの教えは、人殺しを職業とする者たちとは、もとから縁がありません。この世で生老病死の4つの苦しみに悩む人々に、いかに救いを求めるかを教え正しい生き方にみちびく宗教なのです。

 

念仏無限(ねんぶつむげん) 「むあみだぶつ」とだけ唱えていればよいという 念仏宗は無間(いつまでもつづく)地獄に落ちる教えである。
禅天魔(ぜんてんま) 禅宗は悪魔の教えと思え。
真言亡国(しんごんぼうこく) 真言宗を信じていると国を滅ぼしてしまう。
律国賊(りつこくぞく) 律宗は、国を盗み取る盗賊のような宗教なのだ。

 

  これは日蓮が街に立って説教した言葉ですが、当時大いに流行していたこれら各宗派の僧たちはこれを聞いて火のように怒り、仲間の武士に頼んで日蓮のいのちをつけねらい殺そうとしました。

  日蓮は自分の考えを述べた「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」という文を書いて幕府に提出しましたが、これは法華経を仏教の正しい考えとして認めないと、やがて国家が滅びるような大事件が起こるいう予言の書です。幕府は、いよいよ驚きあわてて日蓮をつかまえようとしました。

  この頃、長南の岩附谷(いわぶだに)という所に長南光重という人がいましたが、逃げてきた日蓮が笠森寺にしばらくかくれていたあと自分の家に迎えて,かくまいました。

  日蓮と生活を共にして、その教えを聞いた光重はいよいよその信念に敬服して、家屋全員がねっしんな信者になりましたので、日蓮は光重に「長立山光重寺(ちょうりつざんこうじゅうじ)」という寺の号を与えました。これは「長南氏が立てた光重の寺」という意味です。

  そして日蓮自筆の「南無妙法蓮華教」と書いたお題目をくれたのですが、これはいまは長南町の長立山本詮寺(ほんせんじ)に大切に保存されています。(227頁)

  その頃中国を支配していた元(げん)の国王は、日本に対し家来になるようたびたび言ってきたのですが、幕府はその使者を殺したりして反抗しましたから、日蓮の不吉な予言はまもなく現実のものとなり、1274年に元(蒙古、高麗(もうこ、こうらい)連合軍)の軍船が北九州に押し寄せ上陸しました。

  今のようにテレビがすぐに全国に知らせるというようなことはありませんが、口から口へと伝わって日本国中が大さわぎになりました。ところがちょうど台風が来て、舟が200そう以上も沈んだので、元の軍勢は逃げ帰りました。しかし、さらに1281年にも再びおしよせましたがこの時も暴風雨になり、またまた逃げ去りました。

  幕府は、日本中の武士を集め、海岸に作った石垣の陣地を守らせ、上陸した元軍と戦ったのですが、関東から参加した軍勢の中では千葉氏が大きい力でした。 

  ところで、長南という武士が九州に住みついたという話もあり、また寒風沢(さぶさわ)(宮城県松島)の過去帳に「九州七百年前長南家」という書込みがあるところをみると、千葉市の軍勢として長南氏が九州遠征に加わったことがわかります。

  蒙古が攻めてきた事が今でも泣き止まない子に「そんなにいつまで泣いていると蒙古が来るぞ」と言っておどかしていることや、また津軽の子守唄に「泣けば山から蒙古が来らね」という節があるのをみてもわかります。

  1316年に長南常行(ちょうなんつねゆき)という人が、鎌倉の鶴が岡八幡宮に土地を寄進したという文書が残っています。この頃千葉氏の一族である庁南氏(ちょうなんし)が滅び、その城へ長南氏が入ったり、長立山本詮寺という寺を創建したりして、長南氏はなかなか勢いがよかったことがわかります。

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