福島市は四方を山にかこまれた盆地ですが、ずっとずっと昔は大きな湖水でした。そこへ向かって阿武隈川(あぶくまがわ)が流れ込んでいたのです。中央にある信夫山(しのぶやま)は湖に浮かんで島となっていました。 信夫山には神様がまつられていたので、人々は舟で渡って参拝しましたが、女の人はそうせずに岸で拝むことになっていました。ですからその場所は伏拝(ふしおがみ)といわれ、今でも地名として残っています。 湖水だった頃の地名が、このほかいくつか残っているのは福島市の人なら誰でも知っています。土舟(つちふね)というのはもとは着き舟(つきふね)という船着き場でした。船が着いたところの温泉は土湯となりました。舟引沢は舟つなぎ石もあります。ところが、湖水の東北のすみに阿武隈川が仙台方面へ向かって流れ出す所は、両側の山がせまっていてその間を猿がジャンプしてわたるというので「さるっぱね」と呼ばれていましたが、これに目をつけた当時の天皇が、両岸をくずして広げさせたので水が流れ出し、湖水はしだいに小さくなってゆきました。 その頃少しづつ干上がってできた浜辺が、新浜と呼ばれたほか東浜、腰浜なども町名として残っています。地名はこのように昔の歴史を物語ることが多いのですが、信夫郡、信夫橋などにまつわる伝説をここに紹介しましょう。 木村伊勢守という人が福島城を築いた頃の話です。 福島市の西郊外の笹木野(ささきの)という所に、赤ちゃんのお守をするために雇われた娘がいました。この娘はいつのまにかどこの誰とも知れぬ若い侍(さむらい)と仲良しになりました。その侍は毎晩娘のところにしのんで来ては、夜があけないうちに帰るのです。 娘がなんど聞いても、名前も住所も言わないのでとうとう娘はある夜侍が帰るときに小さい針を侍の着物のすそにさしました。針には細い糸がつけてあります。夜があけてから、娘が糸をたどっていくと糸の先についた小針は大きな大きな杉の木の根もとの所にささっているではありませんか。この杉の木が人間に姿を変えて娘のところにあらわれたのでした。 杉の木の精とわかっても、娘はこわくもきみわるくもありません。なにしろすてきな侍でそれにたいへんやさしかったからです。そして二人は結婚し子が二人となりました。 ところで、この杉の木はたぶん何百年というほどたった木だったのでしょう。高くて堂々としていて遠くからもよく見えました。ところがあまり大きすぎて、午前中は西側の田が、午後は東側の田が日かげとなり、米がよくみのらないのでこまるという話が、しだいに多くの人の意見になってきました。その頃の殿様はお城の大ほりにかける橋の材料の木をさがしていました。そこでちょうどよいというのでこの杉の木を切り倒すことになりました。 たくさんの木こりが呼び集められて、木を切りにかかり、大きな斧でコーンコーンと朝から仕事をして夜にひきあげます。ところが明くる朝来てみると、きのう切った所がもとどおりになっているではありませんか。これをくりかえしていてはいつになっても切り倒せるかわかりません。 木こりたちはすっかりこまってしまいました。ところが、ちえのある人がいて教えてくれたので、それから毎日しごとを終ったときに斧で削った木端(こっぱ)を集めて焼いてしまいました。 これでは杉もどうすることもできません。とうとう何日かあとに大きな音を立てて倒れてしまいました。 そこで、お城まで運ぶためたくさんの人がつなをかけて引くのですが、なにしろ重いのでいくらも行かぬうちに日が暮れます。ところがあくる朝には、もとの所に戻ってしまいます。すっかり困ったお殿様は、杉の精と結婚した女の話を聞いて、杉の木をお城まで運んでゆく責任者を命じました. 自分の夫を切り倒されて、毎日泣き暮していた彼女、つまり杉の妻はしかたなく杉の木をなでながら「あなた、おねがいですからお城へ行ってください」とたのみますと、あれだけてこずらせていた杉の木はその日からは人々の引くにまかせてするすると運ばれていったといいます。 お殿様は完成した城を杉妻城、かけた橋を裾焼橋と名づけました。この橋ができて喜んでいる人々の間に、またもやふしぎな話がひろがりました。夜中になると、誰か橋を渡る音がはっきり聞こえるのに、人の姿は見えないというのです。 そこでまた杉の妻が呼び出され、橋の渡り初めをたのまれました。彼女はそのときに一首の和歌をよみました。 裾焼きてゆきてかけたる橋なれば鳴らさでわたれ信夫の産衣(うぶぎ) このあと人々は何事なく橋をわたることができるようになりました。橋に用いた残りの杉の木で大仏を彫刻し、杉妻大仏として信夫山に安置しました。 杉妻の二人の男の子は人間の子ではないからといって殺され、埋められました。土地の人々はそこに塚を作り今も二子塚と呼んでいます。そのほかに伝説にもとづく地名が今でも残っているのを皆さんはご存知でしょう。杉がしのんで娘に会いに来たので「忍夫」が信夫となり、信夫郡、信夫山の名前ができました。小針、杉取(杉を引いて運んだ堀の名)、杉妻町などです。いまの信夫橋はたぶん裾焼橋がいつ頃か改名されたのだと思います。 |