1338年頃に上杉朝宗(うえすぎあさむね)という人が上総守護(かずさしゅご)となり関東地方に足場を作りましたが、上総国長南庄にいた長南氏の一部は、この頃に今の霞ヶ浦(かすみがうら)の西岸にも移り住みました。そして1387年頃に土岐氏が信太荘(茨城県稲敷郡)を領地としますが、それから200年間ここで栄えていた時代に、長南氏はその家臣として青宿に住んでいました。
土岐氏は1590年に亡びますが、江戸時代に入ってから1624年に、土岐氏にゆかりの人たちが江戸崎の管天寺に集まって、土岐氏の先祖を供養したことがあります。この法要に、青宿村から長南源三郎という人が参加しています。
つまり長南氏は、900年代前半に長南に土着して以来1300年頃には、いまの茨城県稲敷郡阿見町青宿から竜ヶ崎あたりに住んでいたことがわかります。
ところで、いまこの地方に住む長南氏は35世帯にも達しますが、土岐氏のことについてはわからないといっています。しかし300年後に里見氏が1614年に亡びて、主人を失った長南氏が、一族をあげて寒風沢に渡った1615年の頃に、ここに移住した先祖のことはよく語り伝えてきました。
この時は、長南氏6世帯と家臣12名が住みついたのですが、リーダーは長南左馬之介(ちょうなんさめのすけ)という人でした。それ以来、長南氏は努力して水田を開き、江戸時代を行きぬいてきましたが、昭和時代に入り、15年戦争の最後の段階で大きな災難を受けたのです。その災難というのは、1941年に海軍が長南氏の水田を強制的にとりあげ、朝鮮半島からむりやり人たちを働かせて、まわりの丘を削って埋め立て、飛行場を作ったことです。
これが有名な予科練基地ですが、そのために1944年にはアメリカの空襲をうけて、家も人も大きい被害をこうむったのです。
日本中の長南氏のうちで、青宿の長南氏ほどつらい目にあった人たちはほかにないようです。 (331頁)
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