笹山てるおの旅日記・過去ログ・
「ベトナム・ラオス編」 地下オンHP

2001年 5/31(ダッカ)(バンコク) 6/1タイ(バンコク) 6/5タイ(チェンマイ)6/10コ、コン(カンボジア) 6/14プノンペン(カンボジア)6/16 ホーチミン(ベトナム)6/30フエ(ベトナム) 7/5サバナケート(ラオス)7/10 バンビエン(ラオス) 7/12 ルアンパバーン(ラオス) 7/19 パクモン(ラオス) 7/20 ウドムサイ(ラオス) 7/21 ルアンナムター(ラオス) 7/22ムアンシン(ラオス)7/30ポンサリー(ラオス)8/3ルアンパバーン(ラオス)・
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・ダッカ(バングラディシュ)・

2001年 5/31(木) とりあえずA/C付の部屋で深い眠りに付く。何て快適なのでしょう。もういいや観光なんてと昼まで寝ていたが、ランチタイムに起こされ、食堂で会ったオランダ人のカップルが市内観光にタクシーで行くというので、のこのこついてゆく。たどり付いた旧市街はリキシャとタクシーの群れ群れ群れ。やかましいったらありゃしないがやはりふんいきはインドやパキスタンと変わらない。昔同じ国だったのだから当然と言えば当然だが、バングラディシュという何だかとんでもない国というイメージを抱いていたので、あっけなくくつがえされた気がする。タクシーを降りマーケットの中を入ってゆく。これもインドとパキスタンと同じ様に小さな店がずらりと軒を連ねている。そしてあちらこちらかせら掛かる人の声。西洋人と一緒のせいか好奇心の目も一段と強い。強いて言えば外見はインド人だけれど中身はパキスタン人と言うところか? 女性はサリーをまとい、パキスタンより遙かにたくさん街を歩いている。ダッカ探訪はほんの数時間だけだったが、インド・パキスタンと旅してきたせいか何となく納得してしまった。そしてバンコクへ・・

・バンコク(タイ)・

再び降り立ったバンコク、タイ人の顔しぐさ、きれいな道路、女の娘を乗せて走るバイク、ゲストハウスにあるプールバー。全てがあまりに新鮮で懐かしく、そして淋しくなった。確実に日本に近づいているのだ。あのとんでもない国は離れてしまったのだと、複雑な気持ちが心の中に渦まいている。

とうとうインドをはなれてしまった笹山君。さてまた新しい旅がはじまったようです(地下オン・青木 10/13)


・タイ(バンコク)・

6/1 飛び込みで泊まった宿が高めだったので、宿を移る。チャイディー・ゲストハウスというこりごりの日本宿。ちょっと照れ臭い位だが、どうせカオサン通りは日本人ばかりだし懐の中に飛び込んでしまおうと言う感じ。(大げさ)、今の間に帰りのエア・チケットについて調べようと思い店を回るがバリ経由は値段が高くて手が出ない。バンコク⇔バリ、往復はもとよりバンコク→バリ島→成田に至っては7〜8万と言われ、びっくり。"パリ〜バリへ"はどうも企画倒れに終わりそうな気配。とりあえずラオス・ビザを手配する。それからインドで買ったバリ島のガイドブックを売り、東南アジア全般のガイドブックを手に入れる。ちょっと無駄な出費だった。宿のドミで一緒になった日本人(俺と同年齢) と夕食へ。彼は仕事をクビにになりタイにひと儲けをたくらんで来たらしい。が、新しい仕事が見つからない事やら、淋しい話ばかり。そのひと儲けも何やら徒労に終りそう。俺も確かに帰ってからの生活については不安だけれど、目先の事ばかり気にして生きる喜び(大げさ)を忘れてしまったらどうにもならんのではと思う。旅人の中でも、何人か俺より遙かに年上の奴らが、(たぶん俺より金がなさそうなのに) 人生の素晴らしさについて語る時、そしてインド人達がその日を生きるのに必死になっている時、今日の金をポケットに入れながら明日の事を憂うなんて何て馬鹿馬鹿しくて、ちっぽけなんだと、とことん思いしらされる。何で今日こんなに幸せなのに明日の不幸を心配して、うじうじしなきゃいけないのか? 人生を楽しもうぜ日本人!! と俺は同年代の奴らに、エールを送りたくなるのであった。もつろん自分にも。

僕も同年代なので同感だ。(地下オン 青木10/20)


・タイ(チェンマイ)・

6/5(火) バスは午前6時半にチェンマイ到着。案の定、何処のHOTELの前へ。そんな所へ入らずトゥクトゥクへ乗り安いゲストハウスへ向かう。インドよりは押し弱く誰も追いかけてこないしトゥクトゥクも何も言わない。物足りないほど・・そう、何とも物足りないのだ、インドに較べて!! そんに事しても仕方がないのだが、あれもこれもインドと較べてあまりにも影が薄い。それなりに過ごし易いタイ北部の涼しさそして温厚そうな人々も旨い飯もすべてがインドの記憶に飲み込まれてゆく。結局する事なくビールを飲んで三軒茶屋(何だそりゃ?!) というふざけた名前の、日本人が経営するライブハウスに行き、ギター持って行って遊ぶが盛り上がらず、しけた気分で宿に帰る。ああ、この持ち余したPOWERを何処にぶつけよう? もっと国境の方へ行けば"面白い事"が待っているのかしらん?

6/6(水) 部屋でギター弾いていると、数々の破損発見。そしてああ、ついにブリッジがBODYからはがれはじめた。このまま、ラオスに入り悪路にはもう耐えられそうにない。表側のBODYが割れてしまう前にギターは休憩させる事に決定。バンコクへいったん戻り、ゲストハウスにギターを預けてカンボジア→ベトナム→ラオスと回ることにする。今まで、いつも共にあったギターが失くなってしまうのは、どんなに淋しいかと思うが、もうギターが疲れたよ〜体が痛いよ〜と悲鳴をあげているので、残された日々は一人で旅をしようと思う。夜行バスのチケットを買い、乗り込む。

ギターが壊れてゆくのはさびしいね。旅のハードさが伝わってきます。(地下オン・青木 10/27)


・コ、コン(カンボジア)・

6/10(日) 朝からスコール、朝5時すぎに出ればもっと先まで行けたかも(プノンペン)まででも急ぐ旅でもないので雨があがってから出発。国境はあまりにあっけなく、荷物チェックもなく通過。途中までは良かったがコ、コンへ渡るモーターボートの金額交渉で怒り爆発。川渡るだけで100バーツなどとぬかす。カンボジア人達はシェアしているのになんで俺だけ一人で乗らにゃいかんのだ。これは時間稼いで安くしようとする。茶を飲んで片言のクメール語喋り、何回か交渉するが川を渡るという他に手段のない交通手段なので向こうも強気。根負けして100バーツでOKする。しかし、何故かもう一人乗り込んで来た奴が20バーツ払うのを見て再び怒り爆発。文句を言うと、陸にいた奴が足でボートを川に蹴りやがった。川渡しも何でこれが100バーツなんだという。あっという間に到着。本当なら俺だって20バーツのはずだが、(もう一人の)そいつの払った20バーツを引いて80バーツを船にたたき付けて降りる。船頭は文句言ってたが構うものか!! トラートのゲストハウスは情報なかったので、一緒になったカンボジア人が80バーツの宿を紹介するというので結局ついてゆく。ひょっとしたらこれも失敗したかもしれない。そいつが明日トラート→シアヌークビルに渡るフェリーのチケットを買いにゆくというので、同宿の アメリカ人が15ドルだったと言うのを確認してそれに相当すね675バーツ渡してチケットを手に入れる。が、新しいガイドブックに15ドル又は500バーツと書いてあるのを発見。あいつ懐に175バーツ入れやがったじゃなかろうか? 疑心暗鬼。インドじゃチケットに関してはいつも自分で買っていたが、タイがあまりにもきっちりしていたのと、東南アジアの人々の日本人に似た顔形やその腰の低さを見ると、ついガードが甘くなってしまう。ふんどしを締め直そう。トラートは小さな街だが程良い汚れ方としょぼさが何か好きな雰囲気。夜になるとカラオケが流れて来て俺を誘う。東南アジアに入ってからどうもナイト・ライフがメインになってしまいそう。それも良いのだが、それでは金が掛かりすぎるので今日は我慢、我慢。

頭に来て、札を叩きつける。気持ちわかるなぁ。(地下オン・青木 11/3)


・ プノンペン(カンボジア)・

6/14(木) 朝8時過ぎのバスで、プノンペンへ。道はきれいでポニピングもなく、カンボジア=悪路という予想をくつがえす素晴らしい道だった。そして治安が悪い悪いと言われているプノンペンだが、確かに夜になれば危険なのだろうが、昼間は到って平和?な風景と言うかパキスタンのペシャワールあたりのやばさに較べればあまり問題は感じないが・・。東南アジアの中を旅すればきっとここだけが、殺気だった印象を受けるのかなと思う。ところで、カンボジア人のせこいボリ方にはがっくりする。宿のレストランで食事するより地元の食べ物の方が格段に旨いので、地元の人のために食堂で食ったのだが(たけのこと牛すじのしょう油煮、魚と青菜の煮込み・・日本の田舎調理みたいで本当に旨い!!) 会計で1$と言われる。たぶん入口にいたモーターバイクの兄ちゃんが吹き込んでいるのだろうが、"日本橋"と言うトンレサップ川に架かる友好橋を渡って食いにきたのに(関係ないが・・)、ちょこちょこツーリストからボロウとする、何と言うか、こう言っては悪いがクメール人に沁みついた負け犬根性みたいなのを感じて胸くそ悪い。もっと胸張ってプライド持って生きろ!! そのセコイぼり方はやめろよ!! と特に男共を見ていると強烈に感じるのだ。
それにしても東南アジアは飯食う以外、夜遊び抜かすとやる事がない。困ったものだ。

「日本橋」って考えた名前の橋だ。(地下オン・青木 11/10)


6/16(土) ホーチミン!! 俺には何だか甘い言葉。高石友也の唄を思い出す。(ホーチミンのうた。古い!!) ホーチミン→高石友也→URC→反戦フォーク全共闘 連想ゲームは果てしなく続く。プノンペンからのバスはツーリスト用のエアコン・バスだったので、たかをくくっていたがベトナム国境への道は非常に悪かった。ポンピングの連続。穴ぼこだらけ、雨が降ったら、きっと泥々にいただろう。乾いても舞い上がるほこりで前が見えないほど。うって変わってベトナム側はきれいな道。国力の差は圧倒的だ。たどり着いたホーチミンは活気がありとても良い感じ。ドミトリーの安い日本人宿に入る。さっそく何人かでビアホイ(ベトナム産生ビール。うすいが仲々いける) 飲みにゆく。たまには夜の街にでようとロックを大音量でかけてる東南アジアによくあるBAR(バックパッカーズ) に入る。やけにベトナム人のお姐ちゃんが多い。声をかけてきたので一緒にのんだがやはり素人さんではないみたい。その内、" マッサージ" とかいう話になってきたが適当にごまかして、一緒にいった日本人とそれなりに楽しい夜をすごした。真夜中でも治安は別に問題ないみたいだ。

6/17(日) やはりギターがないと淋しいので安いのを買おうと・・。通りを歩き10$のウクレレみたいなギターを見つける。そこそこに弾ける奴を選び、三回通って8$位まで値切る。そのあとは一日中ギターを弾いてすごす。他の階のドミトリーにギターを持っている奴がいたので一緒に遊んだりして。夜はまたビアホイへ行き、12時すぎまで痛飲。と言っても多分アルコール度数は低そうなのでそれほど酔っ払いはしなかった。

僕も旅の途中で、小さな赤いギターを買いました。(地下オン・青木11/17)


6/18(月) 午前中はバザールへ"果物の王様"のドリアンを買って帰る。久し振りのドリアン、品種改良されているらしく思った程臭くない。甘みも良い感じでとても旨かった。だんだんドリアン好きになってゆく。そういえば、ふ化する途中のにわとりのゆで卵もおととい食ったがめちゃ旨かった。ゆで卵と鶏肉ともつの味が微妙にブレンドして、えもいえぬおいしさ。
相も変わらず夜はビアホイ3連チャン。だんだん人数増えて、10人位で飲む。3人で2軒目に行き、インドの話をし、ラオスの話を聴いて盛り上がる。午前1時すぎに帰り、宿の扉開けてもらうのにガンガン叩いたせいか、下りてきた日本人の親父(何故かこのゲストハウスは本当の親父((俺を中途半端な親父しすれば))が多い。)にどなりちらされる。その後、一緒に飲んでた奴の部屋に行ってギターを弾き、隣りの部屋の奴にやめてくれと言われる。迷惑かけてごめんなさい・・・が、しかし、このきゅうくつさ何だかつまらぬ。東南アジアに入ってから旅人でない奴が急激に増え(金儲け組とか、売春組とか) そいつらとはぜんぜん合わない。その前はもっと大らかに楽しんでいたのにな。
明日メコン・デルタに向けて出発しよう・・田舎に行こう。

笹山くん。爆発してます。相変わらずでいいなぁ。(地下オン・青木 11/24 )


・ホーチミン(ベトナム)・

6/21(木) 朝6時に約束したが寝坊して6時半に宿を出る。おばちゃんは律儀にも宿の近くで待っていた。小さな船に乗り込み、また違うおばちゃんの運転で出発する。そう言えばインドのケララでバックウォーターしたのを思い出した。あの時は、生活感の無い? インド人のおかげで、まるで夢の様な時を過ごしたが、今回は両岸に家が立ち並びインドとは違い忙しく働く人々の間をくぐり抜けてゆくので何だかベトナムの日常を見ているようで申し訳なくなってしまう。と言うか、俺みんな事してて良いのかなぁ?という気分になって良くない。
それにしても、ベトナムの女性は細い体でよく働いている。舟をこいですれ違うのも女性ばかり。それがまた、何故か色っぽく、別に化粧をしていないのに不思議だなぁ。美人というわけじやないけれどみんな美しく見える。
フローティングマーケットを見てカントに戻り、ホームステイするはずの家を見せてもらうが、期待していたのとて違いがっかりする。街はずれの静かな家か、そうでなくとも川に沿って広がる水上家屋に泊まれると思ったのだが、おばちゃん達はどうも知り合いの立派な家に頼んだらしい。警察は問題ないらしいが、この家では今いるゲストハウスと同じなのでわざわざホームステイする意味もないし・・。結局、適当な理由をつけてホームステイは断わった。
夕方、ビールを飲み、ラーメン食ってマーケットをぶらぶらしていると、マッサージ屋の兄ちゃん達が酒盛りをしていて、仲間に入れと呼ばれる。今までなら絶対加わらないが、ベトナム人は俺が想像していたのと違うのではないかと思い、酒盛りに加わる。インドまで"チーティング"(ぼって、だまして) との闘いが続き、噂ではベトナム人は東南アジアで一番ひどいと聴いていたのでこちらもそのつもりで交渉してきたが、全然そんな事はなく(あっても、あきらめられる程度)、ちょっと ガードを下げてみようと思ったのだ。ビールをしこたま飲まされ、最後に"金払え!!"と言われると思ったが、そんな事はなく、じゃあ又な、と言って別れる。何だよ、良い奴ばかりじゃないかよと、どうしてそんな悪い噂が広がっているのか不思議でならなかった。

実際、行ってみないと、わからない事ばかり。僕も旅の噂は半分で聞くようにしてました。(地下オン・青木12/9)


・ダラート(ベトナム)・

6/26(火) 他の3人が先にニヤチャンへと出発したが、昨日下痢がひどかったので俺は一日出発を伸ばした。それもあるし、団体行動がかつたるくなったのもR。"クレイジーハウス"から明日ニヤチャンへのバスが出るホテルへと移る。ダラートは毎日雨ばかり。気分も滅入るし相変わらずインド後遺症が続き、何処に行ってもぱっとしないので、もう帰ろうかとも思ったりしたりして。
 ベトナムは政府が作ったルートの上を旅するのであれば、安く動けるが、ルートをはずれようとすると途端に値段も高く、アクセスも難しくなる。フエという町からラオスに入ろうか。皆の話ではラオスの方が自由に動けて田舎の方にも行けるみたいだし・・。

 6/27(水) ニヤチャン経由でフオイアンへとむかう。ニヤチャンはベトナム随一の ビーチのある町らしい。午後ニヤチャンに到着し、フオイアンへの出発までの間ビーチを歩いてみる。確かに波も静かでビーチも美しい。だけど頭はうわの空。全然違う事考えてる。このまま中国へ抜けてチベットへ行こうかな? 昆明→成都へ飛べば難しくないのでは? 東南アジアに入ってから一ヶ月、いつも何かがもの足りない。特にベトナムは政府の用意したツアー(シンカフェ)に乗っかれば安く、楽に行けるが、どこも金を落として下さいと言わんばかりに待ち構えていて気が滅入る。メコン・デルタのように一人で動くと時間もお金もかかるという矛盾。そしてインドで楽しんだ"心の旅"が恋しい。チベット、チベット、チベット・・。7時発のフオイアン行きのバス、最終部席で荷物に埋もれながら夜の町を出発した。

心の旅ねえ。そうそうそんな感じ。(地下オン・青木12/15)


・フエ(ベトナム)・

6/30(土) フォイアンからフエへ。実際は大した移動時間ではないのに、みやげ物やみたいな場所に何度も止まり遅々として進まない。このへんも国の経営するツーリストオフィスである故か? 宿はホーチミンと関係があるらしき日本人宿。ここでバラナシで俺を見かけたという男に会い一緒にギターを弾いて遊ぶ。彼はチベット行きは難しい、というか慌ただしすぎるので断念。このままラオスに入るかハノイ→雲南→ラオスのどちらかにしよう。夜は彼、その他数人でベトナム鍋を食いにゆく。カンボジアのもつ鍋に似て、牛すじを使ったとてもよい味の鍋であった。最後に玉子を落として食する。満足。このところ短期間の宿泊で移動を続けてきたのでバテ気味。ちょっとのんびりするかな?

7/2(月) グイーンとペースダウン。やはり、ここからラオスに入ろうと思う。まあそれが一番楽なルートではある。男2人に何だかギターを教えることになる。といっても初歩の初歩だけど。そんな事して一日すごす。ダラートまで一緒だった"コーチャン"がやって来る。さあ、今日もビアホイで飲み会だ。明日はその時の女の娘2人組も到着するらしく、またビアホイであろう。きっとベトナムの思い出は"ビアホイ"なのではなかろうか? たぶんラオスにはあさって向かう事になるだろう。

「ビアホイ」ね。いかにも毎日入りそうな名前だなぁ。(地下オン・青木12/22)


・サバナケート(ラオス)・

7/6(金) 朝になってもゲスト・ハウスは素晴らしかった。調度品といい、そのみがきのかかった古さといい、つげ義春の漫画に出て来てもおかしくない。ここで無料の自転車を借りて町を散策。WAT(寺)以外は特に何もなく、良いと言えば良いが、まだ半端に町らしくあってつまらぬ。ゲスト・ハウスが良いのでもっと居てもよいが、やっぱり明日ビエンチヤンへ行こう。夜はメコン川沿いでビア・ラオを飲む。何だか、まるで日本にいる様な気がする。それも、俺が子供だった頃の日本に・・・。

7/7(土) 今夜の七夕の夜。ラオスの首都ビエンチャンは噂通り灯りもなく、これが一国の首都かと思う程に人影もまばらで、でも、それが何ともいい感じ。カンボジア・ベトナムと歴史の荒波に洗われてきた国々に較べて、表舞台に出た事のない国は、やはり静かでのんび〜り、ゆった〜りとしているのであった。朝、サバナケートからビエンチャンに向うバスでみたび"えーちゃん"に出会い(くされ縁やなぁ〜) もう一人の日本人"ゆーいちろー" と共に国境→サバナケートとは較べものにならない美しい道を行く。1人3$で宿をシェアして、皆で "すき焼き"という鍋を食った。しばらくこのあしっど野郎"えーちゃん"との2人旅となるであろう。

七月七日の七夕って感じるのは、日本人だけ? 世界的にあるのかな。(地下オン・青木 12/29)


・ムアンゴイ(ラオス)・

7/16(月) ルアンパバーンからムアンゴイへ。この村はどこのガイドブックにも特に紹介されていないが、ホーチミンで会った日本人旅行者"みさと" が絶賛していたので訪ねる気になった。今日はとにかく雨。乗合トラック(ソンテウ) → ボートでムアンゴイヘ行く間、雨、雨、雨。びしょぬれになり、そして寒い。ムアンゴイは噂通りに静かで良い所だった、が、聞いてみるとずっと雨が続いているらしい。これで天気が良ければパラダイスだと思うんだが。電気も午後6時〜9時にて終了。こういうのって何とも素敵。長く居たい場所だけど・・晴れてくれれば。

7/17(火) 雨、雨、あめ、アメ〜。一日中降り続く雨。そのせいか体調もあまり良くない。実に久し振りに何か心臓苦しく午後は寝ていた。きっと晴れの時期ならばとても素晴らしい場所だと思うのだけれど、こうじとじとと降りつづく雨ではどうしようもない。今が雨期だと知って北に来たのだが、何処へ行ってもこんな調子なのだろうか? あまりに涼しくて水シャワーも浴びれず。

毎日の雨。一日中というのは、きびしいね。体調も崩れるのもわかるなぁ。(地下オン・青木1/5)


・ムアンゴイ(ラオス)・

7/18(水) 雨が上がったので、同宿の日本人"エイリアン太田" 君と一緒に魚釣りに行く。宿のラオス人2人にボートを出してもらい近くを流れる川の奥へと・・。ベトナムでボートに乗った時よりももっと良い感じ。何度場所替えをしても結局魚は釣れなかったが。昼飯に木でおこした火で魚(最初にもって来た)を焼き、ラオス名物カオシャオ(もち米) ととうがらしでそれを食べ、木になっているとてもあくの強いオレンジをデザートに、これをまたアルコール度数のめちゃ高い酒"ラオ・ラオ"を飲む。何ともワイルドなものであった。日中は日がさし、夜も星が見えて、こうなるとやはりここムアンゴイはとても良い場所である。まぁ明日になればまた天気は崩れてくるのだろうけどね。

・ムアンシン(ラオス)・

7/22(日) ラオスで一番来てみたかった場所、ムアンシンへ。ルアンナムタ→ムアンシン、60km弱の道だが、雨期のせいもあって道は相当悪く、約3時間かかった。到着したムアンシン、山にはさまれた小さな町を想像していたが、結構大きな町(電気も夜だけだし、電話はないけど) ちょっとがっかり。到着と同時に大雨が降り出してマーケットで雨やどり。昨日のバスで会った韓国人"ジュン" の言っていたムアンシンG・H(ゲスト・ハウス) がすぐそばにあったので飛び込む。
雨があがった後、ジュンの借りていた自転車をまた借りして町はずれのゲストハウスまで行ってみる。ここは少数民族の村へのトレッキング基地のようなものらしい・・。が、町はずれまで行く間に雲行きあやしくなり慌てて、G・Hに戻る。こんな空模様では遠くまで出歩けないぞな。ムアンシンで沈没するつもりだったが、さて、どうしよう? 場所としてはムアンゴイの方が良かったなぁ!! 食事はここの方が安くて旨いんだけど。
夜はジュンとあれこれ話込む。彼女は仲々に魅力的な女性でR。

沈没かぁ。いい言葉だ。(地下オン・青木1/13)


・ルアンパバーン(ラオス)・

8/3(金) ずっと雨が続く一日。インターネット、手紙を出し、みやげを買い(モン族の屋台で) またギター弾くなどして平和にすごす。夜はナイトマーケットで買って来た惣菜で夕食を夕食を摂り殆どゲストハウスから出ず。
これで殆ど一日終了のはずだったが・・・深夜に一大事発生!! 息苦しくて目がさめると俺のブランケットから煙が!!! そしてドミトリーにも充満!!! やばい、慌てて外に持ち出し火を消す。煙りが出たので皆起きてきた。燃え上がらなかったので幸いだったが何とも申し訳なく謝る。まさに不覚でR。蚊取線香の上にブランケットがのっかってしまったのであった。もし目が覚めなかったら、と思うとぞっとする。全く、何てこった。


過去ログ(2000年 9/6〜11/2まで) (タイ・ヨーロッパ編)
過去ログ(2000年 11/30〜1/13) (中近東編)
過去ログ(2001年 1/27〜5/29)(インド編)
過去ログ(2001年 5/31〜8/3) (ベトナム・ラオス編)
2001年 8/7〜9/15(旅の終わり)
 

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