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  拓殖大学教授の木村汎氏はまともな研究者なのでしょうか

  雑誌『世界週報』

  「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)

  『日露国境交渉史』  改定新版

  吉田全権の、サンフランシスコ条約受諾演説

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拓殖大学教授の木村汎氏はまともな研究者なのでしょうか




   拓殖大学教授の木村汎氏は、北方領土問題研究の第一人者です。
 この分野の研究として、木村氏は、まともな研究者なのでしょうか。良く分からなくなってきました。

 木村汎/著 日露国境交渉史 中公新書(1993.9) P102,103 に以下の記述があります。
ソ連式「クリール列島」理解
もうひとつ重要なことがある。スラビンスキーは、八月十八日、「クリール列島すべて」をソ連領とすることを改めて確認するスターリンの要求にたいして、トルーマンが同意をあたえたと書いている。しかし問題は、「クリール列島すべて」の範囲である。少なくとも現場のソ連軍司令官や兵士たちは、「クリール列島すべて」とはウルップ島までの島々のことを意味し、択捉以南にはおよばないと理解していた節がある。
そのことを証明するものとしては、まず、水津満陸軍少佐の証言がある。…(省略)…。また、先に引用した『元島民が語るわれらの北方四島』も、証言している。北方四島の各々に上陸してきたソ連兵が真っ先に日本人住民に尋ねた質問が、きまって「アメリカ兵は上陸していないか」という問いだった、と。もしこれらの水津少佐および引揚げ元島民の証言を採用するならば、スターリンはいざ知らず、当時のソ連軍の現場の人間の感覚では、択捉、国後、色丹、歯舞の北方四島は、ソ連軍が手に入れうる「クリール列島すべて」の範疇に入っていなかったといえよう。
 この本を読んだとき、木村氏ほどの高名な学者が、嘘・偽りを書くこともないだろうから、北方四島の各々に上陸してきたソ連兵は、きまって「アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねたと証言しているのだろうと思っていました。中公新書では、参考文献・ページの記載がなかったのですが、改訂新版の角川選書では、参考文献とページが記載されていました。

 『元島民が語るわれらの北方四島』シリーズの第一巻の「ソ連占領編」(一九八八)のなかでの証言(P153,P177)

 この参考文献は、東京都立中央図書館の蔵書にあったので、そこで読んでみました。驚いたことに、多数ある証言の中で、「アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねられたとの証言は、わずかに2件だけでした。そのうちの一件は、言葉が分からなかったが良く聞いてみると、日本兵はいないか、アメリカ兵はいないか、と尋ねられた、と記載されています。
 当時、ソ連兵の中に、日本語ができるものはほとんどいませんでしたし、英語のできるものも、ごくわずかでした。北方四島居住者の中に、ロシア語ができる人はおそらく絶無だったと思います。また、英語ができる人も、ごくわずかでした。このため、ソ連兵上陸時に、言葉が通じなかったため、手振り・身振りで意思伝達をしていたことが知られています。元島民の証言は、言葉が理解できなかったことが原因の誤解である可能性が高いものです。
 千島連盟初代会長の高城重吉氏は、早稲田大学で学んだことがあるため、多少の英語を解しました。高城氏は、ソ連軍艦が択捉島に接近したときに、日本人として最初にソ連軍に出会った人です。彼の証言によれば、片言の英語で会話をし、留別等の場所を聞かれたとありますが、アメリカ兵云々の話はありません。(還れ北方領土 高城重吉/著)。また、色丹村長だった、梅原衛氏は、ソ連軍が色丹島に上陸したとき最初にソ連兵と、身振り手振りで交渉した人ですが、彼の証言でも、アメリカ兵云々の話はありません。(北方領土 終戦前後の記録 北海道根室市発行)。
 木村汎氏の示した参考文献でも、他の責任ある人の証言でも、木村氏の書いているように「きまって、アメリカ兵は上陸していないか」と尋ねた、との証言はありません。

 木村汎氏は、ソ連の理解でも、千島に北方四島は含まれていなかったと説明しています。この、もう一つの根拠は、水津満の証言です。この証言は、かなり怪しく、おそらく日にちを、偽っている可能性が高いものです。 http://cccpcamera.asablo.jp/blog/2007/05/20/1520618

 さて、木村汎氏の記述をもう一度良く見てみましょう。
 『水津少佐および引揚げ元島民の証言を採用するならば』と前提条件をつけています。もし、間違いであったとしても、木村氏の責任では無いような書きかたです。嘘であることを知っていながら、さも事実であるかのように書いているのでしょうか。

 虚偽の引用で、結論を捏造しているのかなー。違うかなー。このあたり、何か知見のある方、教えてください。

2007年7月28日

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雑誌『世界週報』


 雑誌『世界週報』2006年11月21日号に、日ソ共同宣言・国交回復50年特集として、北方領土問題の論文が記載されている。拓殖大学教授の木村汎氏は『こちらから性急に動かず機が熟するのを待て』との記事の中で、「4島一括返還をまるでお経のように唱え続けるべし」と主張しているが、戦後61年も経つのに、何も進展していない状況を、いつまでこのまま持続させるつもりなのか。
 北方領土返還運動には政府の予算が投入されているため、返還運動をビジネスとして、自己の利益のために行っている人たちが存在している。このような人たちにとって、北方領土問題の解決は一番困ることである。北方領土返還運動に寄生している人たちにとって一番好ましい状況は、「4島一括返還をまるでお経のように唱え続け」「機が熟するのを待ち」、その結果、永遠に領土問題が解決しないことだろう。
 北方領土問題が解決しなかった原因の一つに、反共・反ソの問題がある。東西冷戦の時代、米国は日本に米軍基地を置き、米国の世界戦略に利用していた。朝鮮戦争・ベトナム戦争では、日本から直接、これらの国を攻撃したこともあった。北方領土問題は、このような米国の世界戦略や戦争追行のために、日本を利用するための手段として用いられた部分がある。実際、1956年に日ソ間で、領土問題を解決し平和条約を締結しようとしたとき、米国ダレスが重光外相を厳しく叱責して、それを阻止したことが知られている。東西冷戦は終結したが、未だに、領土問題を反ロシア戦略に利用する勢力も存在しているだろう。
 拓殖大学の木村汎氏が、北方領土問題の早期解決に批判的な本心はどこにあるのだろう。木村氏が日ソ・日ロの時代を通じてどんなことをしてきたかについて、詳しく知ることが必要のようである。

2006年12月10日


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木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)について




 北大スラブ研所長だった木村汎氏は北方領土問題の第一人者として知られています。木村汎氏は四島返還がライフワークなのでしょうか。嘘でもなんでも良いから、北方領土返還運動を日本国内向けに推し進めるために役に立つ情報がほしいと思っている人には、木村汎氏の著書は最適です。しかし、北方領土問題を正確に知ろうとする人は、木村説を無批判に受け入れると、とんだ誤りを犯すことになるかも知れません。


 木村汎著「日露国境交渉史」(中公新書1993.9)から、ちょっと首を傾げたくなる記述から、思いつくまま3点記します。

@「日ソ共同宣言」について。

「日ソ共同宣言」に関して以下の解説がある(P136)。

 ソ連が歯舞・色丹を日本に「返還する」のではなくて「引き渡す(ベレダッチ)」と述べていること。いったん自己の所有権下においた領土を返却するニュアンスをもつ「返還する」という言葉を避け、「引き渡す」というたんに物理的移転を示す中立的な用語としている。

 きわめて誤解を与える表現である。これを読んだ人は、歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではないと、誤解する可能性が高い。

 事実はそうではなく、ソ連は「すでに正当なソ連の領土になっている」との解釈をしていた。(実際、ソ連は1946年2月2日付命令で国有財産にしています。)また、日本は「本来は日本の領土」との立場だった。ソ連の立場だと「割譲」になり、日本の立場だと「返還」になる。
 そこで、どちらとも取られることのないような表現「引き渡し(ペレダーチ)」を使った、と説明されることが多い。当時の国会議論を見ると、そのようになっている。実際には、ヤルタ協定で、日本はソ連に千島を『handed over(引き渡す)』となっているので、同じ用語が使われたのだろう。

(参考)
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/19561125.htm
http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/HoppouShiryou/Kokuyuuka.htm


Aサンクト・ペテルブルグ条約(千島樺太交換条約)のタイトルについて

サンクト・ペテルブルグ条約のタイトルに関して以下の解説がある(P66)。

 サンクト・ペテルブルグ条約のタイトル自体「樺太千島交換条約」と略称されて、日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか。すなわち、これは、文字通り樺太における日本の権益を放棄することの交換において日本が新しく獲得した地域が千島であることを示している。

 サンクト・ペテルブルグ条約はフランス語が正文であり、日本語文は日本国内の私訳にすぎない。日本語文に便宜上どのようなタイトルがついたとしても、条約とは関係ないことであり、ロシアの預かり知らないことである。木村汎氏は「日露双方によって不思議と思われなかった」と書いているが、ロシアが日本語文を確認したと言う事実は知られていない。実際、条約本文には「千島」なる文字は存在しないので、「樺太千島交換条約」の略称は、条約交渉とは関係ないところで付けられたことが分る。
 和田春樹著「北方領土問題」(朝日選書)によると、『条約は1875年5月7日に調印された。条約正文はフランス語である。条約にはタイトルは付いていない。つまり「千島樺太交換条約」というのは俗称だということである。』
 木村汎氏は『日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか』と書いているが、要するに存在しなかったのだから、不思議と思われるはずもなかっただけのことである。

 ところで、サンクト・ペテルブルグ条約で日本が放棄した樺太とは、樺太すべてではないので、「獲得した千島は千島のすべてである」との主張が、全く成立し得ないことは明らかでしょう。


B西村答弁について
 国後・択捉が日本の放棄した千島含まれると答弁した、いわゆる西村答弁の解説について(P122)。

 一九五一年十月十九日の衆議院平和特別委員会の席上、高倉定助氏による「クリル・アイランドとはいったいどこをさすのか」との質問にたいし、西村氏は次のように答えた。「条約にある千島列島の範囲については、北千島と南千島の両者を含むと考えております。」西村氏が当時このように答えたことは、国会議事録の中に記録されている紛れもない事実である。条約局長という要職にある者のこの発言は、当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている。とはいえ、これはいわば国内における発言であり、国際法上の責任を問わるべき性質のものではない。しかも同局長は、直ちに続けて次のような但し書きをつけることも忘れなかった。「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違うことは、すでに(吉田)全権がサンフランシスコ会議の演説において明らかにされた通りでございます。あの見解を日本政府としてもまた今後とも堅持して行く方針であるということは、たびたびこの国会において総理から御答弁があった通りであります。」

 木村汎氏は「当時の日本の混乱ぶりを如実に物語っている」と、まるで西村条約局長に非があるような記述をしている。実際には国後・択捉は放棄した千島に含まれることで、政府答弁は一貫していた。何も混乱していない。
 自分の説を強弁するために、西村条約局長答弁に非があるかのような解説には、賛成できない。
 なお、西村答弁では、「しかし南千島と北千島は、歴史的に見てまったくその立場が違う・・・」と続けて発言したので、国後・択捉は放棄した千島に含まれないかのような誤解をする人がいた。このため、翌月の参議院において、草葉政府委員は再度、国後・択捉は放棄した千島に含まれるとの説明を行っている。




 ここで取り上げた3点はすべて二島返還論を否定するための記述です。これら3点が、直接、領土交渉に影響することはないかも知れません。しかし、四島返還運動には重要な箇所です。

@について:
 「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人が信じているならば、もし、二島返還論で妥結したら、日本の戦果はゼロとなってしまい、外務大臣も総理大臣も政治生命を失います。すなわち、「歯舞・色丹は、いったんソ連の所有権下においた領土ではない」と多くの日本人に信じ込ませることに成功すれば、二島返還論を封じ込めることが可能になります。
 実際は、日ソ共同宣言で二島返還、特に色丹島の返還が明示されたことは、鳩山・重光の大きな成果でした。

Aについて: 
 かつて、四島返還論の最大の論拠は、「サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれない」との、条約解釈でした。しかし、この主張は和田春樹氏らの研究で否定されてしまいました。
 木村汎氏の説明は、サンクト・ペテルブルグ条約では、千島列島に、国後・択捉は含まれないと、主張するものです。サンフランシスコ条約では日本の千島列島の放棄が明示されています。このため、四島返還論者は、どうしても、千島列島に国後・択捉が含まれないと主張したいようです。

Bについて
 1951年の西村答弁は国後・択捉の領有をきっぱりと否定するものでした。この論拠に立てば、二島返還しかありえません。ところが、その後の政府解釈の変更により四島返還論になったわけです。この歴史的事実に着目すると、四島返還論が絶対ではないことが分ります。このため、四島返還論に固執する人たちは、西村答弁をどうしても認めたくないようです。
 逆に、全千島返還論者も西村答弁に着目します。即ち、二島返還論が、政治的判断で四島返還論に変わったのならば、将来、全千島返還論が国是になることもありうるわけです。


2005年8月、11月


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 昨年10月、角川選書から改訂新版が出版されました。改定新版と旧版(中公新書)の違いを説明します。

 改定新版では、エリツイン時代の後半と、プーチン時代の領土交渉が加筆されています。さらに、解決策の部分がだいぶ変っています。序章も違います。それ以外の部分、日露の出会い・国境確定・戦後の占領・国交回復・田中ブレジネフ会談・ゴルバチョフ、と、これらの説明は、多少違いはありますが、大きく変ったところは無いようです。

 中公新書の旧版は¥754に対して、角川選書の新版は¥1995と2倍以上になっています。内容が2倍以上になったわけではないけれど、どちらかを入手しようかと思っている人は、最新の知識も加わっている、新版のほうがよろしいかと思います。

 北方領土問題に関心のある人は、『北方領土問題 歴史と未来』和田春樹/著(朝日新聞社1999.3) あるいは、『北方領土問題と日露関係』長谷川毅/著(筑摩書房2000.4) と、この木村汎著『日露国境交渉史』の両方を読むと良いでしょう。両方を読むことをおすすめします。
 和田春樹氏・長谷川毅氏の本は、正確な知識を伝える事を目的としているようです。木村汎氏の本は、四島返還論の正当性の根拠を理解する上で重要です。



 中公新書から出版されていた同書には、ちょっと首を傾げたくなる記述が多々見受けられます。思いつくまま、幾つかの点を指摘しました。


 このうちの1つは、サンクト・ペテルブルグ条約のタイトルの件です。
(中公新書P66の記述)
 サンクト・ペテルブルグ条約のタイトル自体「樺太千島交換条約」と略称されて、日露双方によって不思議と思われなかった事実は、どう説明したらよいのか。すなわち、これは、文字通り樺太における日本の権益を放棄することの交換において日本が新しく獲得した地域が千島であることを示している。

(解説)
 サンクト・ペテルブルグ条約はフランス語が正文であり、日本語文は日本国内の私訳にすぎない。日本語文に便宜上どのようなタイトルがついたとしても、条約とは関係ないことであり、ロシアの預かり知らないことである。木村汎氏は「日露双方によって不思議と思われなかった」と書いているが、ロシアが日本語文を確認したと言う事実は知られていない。実際、条約本文には「千島」なる文字は存在しないので、「樺太千島交換条約」の略称は、条約交渉とは関係ないところで付けられたことが分る。なお、フランス語正文には条約のタイトルは無かったと思う。(確認していないので誤りかも知れない。)
 ところで、サンクト・ペテルブルグ条約で日本が放棄した樺太とは、樺太すべてではないので、「獲得した千島は千島のすべてである」との主張が、全く成立し得ないことは明らかでしょう。

 昨年10月、角川選書から改訂新版が出版されました。
 角川選書の改訂新版では、この部分は欠落しています。誤りを削除することは当然ですが、何の断り書きもないのはどうしたことでしょう。旧版を真実と思い込んで学習した一般の人は、誤りを気づくことなしに、誤った北方領土返還要求にこだわり続ける恐れがあります。
 まともな学者ならば、誤りが分かったならば、こっそり削除するのではなく、きちんと説明すべきです。
 インチキペテン師はウソがばれたときには、こっそり削除するものなので、まあ、そういう類の図書であるならば、致し方ないのですが。(そういう本には思えないのです。)

 誤りではないが、多くの読者に誤解を与えると思われる表現の箇所は、そのままです。

 海外から強い批判を浴びている、扶桑社の歴史教科書は、言葉遣いによって、日本が正しかったのだと、言いくるめようとしている箇所が、多々見受けられます。右翼的歴史学者は、読者に事実を伝えることではなく、わざと誤解を与え、自分の考えを押し付けようとする傾向が強いのはなぜでしょう。



 『ウラジヴォストークは、東方を征服せよ』の意味であるとの説明がなされることがあります。『日露国境交渉史(新版)』P75には次の説明があります。

 ムラヴィヨフは、一八六〇年の北京条約によって清国から割譲された海参威をウラジヴォストークと名づけた。「東方(ヴォストーク)」を「支配せよ(ウラジ)」の意味である。これらの行動は、ロシアの一方的な拡張欲をしめすかのように解釈されがちである。だがすくなくとも部分的には、当時の北東アジアにおける米英の進出にたいするロシアの反応であった。防衛の要素もふくまれる攻撃、あるいは防衛にかこつけてはじめるものの結果としては当初の目的を逸脱して拡大に終わる。このような意味で、形容矛盾の表現のように聞こえるかもしれないが、「防衛的膨張主義」と名づけうる行動であった。

 ロシア政治史の専門家だけ有って、的確な説明です。ウラジの意味も、征服ではなくて、支配のほうが、より適切な訳語です。いい加減なロシア評論家の説明とは、わけが違います。

 木村汎/著『日露国境交渉史』は、一般向けに書かれた解説書ですが、知識豊富な、この道の第一人者の筆になるものなので、内容の正確さと、レベルの高さは、四島返還論を主張する北方領土解説本の中では、群を抜いています。
 二島返還論につながりかねない事実に関係する部分だけが、おかしな記述になります。著者は、よほど、二島返還論が嫌いなようです。


2006年2月



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木村汎著『日露国境交渉史』 より

 吉田全権の、サンフランシスコ条約受諾演説


 吉田全権の、サンフランシスコ条約受諾演説に関連して、木村汎著『日露国境交渉史』には次のように書かれています。(新版、旧版とも同じ。)

 吉田全権は1954年9月7日に、「千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張は承服いたしかねます」とのべた。同全権は、つづけて言明した。「色丹島及び歯舞諸島は、北海道の一部を構成し」「択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアもなんらの異議を挿さまなかつたのであります」。(新版ではP151、旧版ではP124)

実際はちょっと違って、吉田全権は次のように発言しています。

 千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。
 日本開国の当時、千島南部の二島、択捉、国後両島が日本領であることについては、帝政ロシアも何ら異議を挿さまなかつたのであります。ただ得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。1875年5月7日日露両国政府は、平和的な外交交渉を通じて樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。その後樺太南部は1905年9月5日ルーズヴェルトアメリカ合衆国大統領の仲介によつて結ばれたポーツマス平和条約で日本領となつたのであります。
 千島列島及び樺太南部は、日本降伏直後の1945年9月20日一方的にソ連領に収容されたのであります。
 また、日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島も終戦当時たまたま日本兵営が存在したためにソ連軍に占領されたままであります。

 木村本は、一見すると、吉田発言を短くまとめたように見えるでしょう。しかし、よく見ると、明確な意図に基づく細工がされています。

 吉田発言では、「千島南部の二島、択捉、国後両島」「北千島と樺太南部」「樺太南部」の順に説明し、「千島列島及び樺太南部は…」、とまとめています。その次に、「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」の説明をしています。
 重要な点が3つあります。
 @択捉・国後両島を「千島南部の二島」と説明している。
 A南千島・北千島・南樺太を「千島列島及び樺太南部」とまとめている。
 B歯舞・色丹を「日本の本土たる北海道の一部」と説明している。

 サンフランシスコ条約では、日本は千島列島を放棄しました。@Aでは択捉・国後両島が千島列島であるとの印象が明確です。Bでは歯舞・色丹が日本の本土である事を明確にしていますが、同時に、択捉・国後両島が日本の本土ではないとの印象になっています。

 木村本では、歯舞・色丹が先にきて、国後・択捉が後になります。歯舞・色丹の説明で、「日本の本土たる」が欠落し、さらに、択捉、国後両島を「千島南部の二島」と説明した事実が欠落しています。

 すなわち、木村本では、3つの重要な点が欠落されているのです。この3つの点は、すべて、二島返還論につながるものです。
 サンフランシスコ会議の前後に行われた、政府の国会答弁は、国後・択捉を放棄する二島返還論でした。この答弁の中心になったのは、西村熊雄条約局長です。そして、吉田演説の原稿を書き、英文を作成し、更に、演説の時、英語の同時通訳をしたのも、西村熊雄条約局長だったのです。
 木村本では、吉田演説の中で、二島返還論につながる部分を巧妙に削除し、四島返還が吉田演説の意図であったかのような細工がなされています。

 学者の書く解説本にしては、随分と細かい細工に驚きます。木村本のみに頼って、北方領土問題を理解したかのような錯覚にとらわれることなきよう、ご注意ください。


注)吉田全権の発言もおかしなものです。

@『千島列島及び南樺太の地域は日本が侵略によつて奪取したものだとのソ連全権の主張に対しては承服いたしかねます。』

 ソ連代表は、そんなことを言っていません。


A『千島南部の二島、択捉、国後両島』
 
 択捉、国後両島とだけ言えば、それで話は通じるのに、なぜあえて「千島南部の二島」と言うことにより、日本が放棄した千島列島の一部ととられかねない発言をしたのでしょう。


B『得撫以北の北千島諸島と樺太南部は、当時日露両国人の混住の地でありました。』
 
 事実に反します。北千島諸島はロシアの領土でした。また、当時日露両国人の混住の地は、樺太全島であって、南樺太だけではありませんでした。


C『樺太南部は露領とし、その代償として北千島諸島は日本領とすることに話合をつけたのであります。名は代償でありますが、事実は樺太南部を譲渡して交渉の妥結を計つたのであります。』
 
 事実に反します。このとき、樺太全島を露領としています。譲渡したのは「樺太南部」ではなくて、樺太の権利です。

 ABCはなぜ、このような発言をしたのか、今となっては知る由もありません。しかし、よく読んでみると、もし、事実が吉田発言の通りだとしたら、全千島返還論を有利にするものです。吉田発言は、全千島返還論のためだったのではないのだろうかとも思えます。
 サンフランシスコ条約で、千島列島を放棄することは、吉田にとって耐え難いことだったに違いありません。歯舞・色丹がすぐに返還されなかったことも不満だったでしょう。このとき、吉田の課題は、早期に歯舞・色丹を取り戻すことと、全千島の返還を将来の課題とすることだったのではないでしょうか。
 しかし、その後、日本は四島返還論に固執するあまり、北千島を完全に失い、歯舞すら返還されていない。 

2006年02月


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