『北方領土の幻覚』 和田敏明/著 叢文社(1981.6) P85 の引用です



 『休明光記』(1807年刊)は羽太正養(1754-1814)が寛政11年に蝦夷地取締掛を命ぜられてから、函館奉行、松前奉行として、蝦夷地経営の最高官僚であった時代の記録を要領よくまとめたもので、幕府の蝦夷地直轄の状況を知るのに見逃せない所領である。

 『休明光記』の開巻第一ぺ-ジには、蝦夷地総論として、ロシアの千島、樺太への進出の状況を略述し、これを幕府の蝦夷地直轄の動因としているので、つぎにそれを原文に忠実に列挙してみよう。

一、一七六五年(明和二年)オロシヤ人イバン・レエンチチがレシャワ(ラシヨア)島に初渡来、カムシリ(シムシリ)島で越年、翌年エトロフ島を調査、ウルップ島で乱暴を働く。

二、一七六八年(明和五年)オロシヤ大船がウルップ島東浦ワニラウに来航。

三、翌一七六九年オロシヤ人イバン・ホロシヒチ・ニイカノフ、ウルップ島へ渡来、長夷二人を鉄砲で打ち殺す。夷人が引揚げたのでオロシや人漁業を営み、一七七六年まで滞在。

四、一七七八年(安永七年)オロシヤ人ケレトプセ・メテリヤウコヘツを長とする大勢が、キリタップに来航、通信通商を申入れた。確答を得られないのでウルップ島で越年、翌年、アッケシ(厚岸)に来航回答を求めたが、松前藩はこれを拒否した。一七八一年(天明元年)までウルップ島に滞留。

五、一七八五年(天明五年)オロシヤ人シヨソノスケ、イシュヨハ、クカチ三人ウルップ島へ渡来、前二者はエトロフ島に至り、天明八年まで帯留。

六、一七九五年(寛政七年)オロシヤ人ケレトプセ、ソシリ、コンネニチ数十人が、ウルップ島ワニナウへ大船で渡来、三十四人は家居をつくり永住、ラッコその他漁業を営むとともに、厚岸の長夷イトコエらと交易を開始。

七、一七九五、九六の両年、異国船が相次いでエトモ(絵靹)に来航。