北方領土問題




2.千島列島が日本領土となった経緯

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 北方領土返還を叫ぶ日本人の多くは、「日本はロシアより早く、北方四島の存在を知った、北方領土はこれまで一貫して日本の統治下にあった」と思っているようであり、事実、日本政府外務省はそのように宣伝している。しかし、実際には、それほど単純ではない。
 この地域に人が住むようになったのが、いつ頃のことか不明である。サハリン・北海道オホーツク沿岸・南千島には、日本の奈良・平安・鎌倉時代前期ごろに起こった、オホーツク文化の遺跡が残っている。この文化の担い手はアイヌではなくて、現在アムール川流域に住んでいる人たちの祖先だろうといわれている。
 鎌倉時代、日本で元寇より少し前、樺太ではアイヌとギリヤークの対立に乗じる形で、元寇があったので、この時代には、すでにアイヌは北海道全域に広がっていたものと思われる。
 和人が最初に北海道東部諸島の存在を認識したのは、証拠が残っている範囲では、1644年に松前藩が幕府に提出した「正保御国絵図」とされる。この地図は、北海道東部に小島が固まって描かれていて、それぞれに名前が付けられている。クナシリ・エトロフ・キリタップ・カムチャツカと思われる名前も見られる。島の大きさや位置関係はほとんどでたらめで、この地図が、交易相手のアイヌの伝聞からまとめたものである事は明らかである。
 1700年にも、松前藩は、北方の地図を幕府に提出しているが、正保御国絵図と大きな違いはない。これらの不正確な地図を見た限りでは、少なくとも1700年までは、和人の千島進出はなく、交易相手のアイヌの知識の聞きかじりであるものと推定される。
 1788年に理学者 古松軒古川辰が松前藩に有った文献を元に作成した『蝦夷図』においても、千島の地図はさほど進歩していない。この時期以前には、和人の千島進出は、限定的に行われていた、国後への交易以外は、ほとんどなかったと思われる。
 一方、ヨーロッパ人では、1643年に東インド会社のオランダ人フリースが、エトロフ島・ウルップ島を発見している。フリースはその後この地域の地図を著しているので、ロシア政府もフリース探検からそう遠くない時期に、エトロフ島および周辺の存在を認識していたことは間違いない。ロシア人は、同じころオホーツクに到達しているが、千島に到達したのは、1700年ごろのアトラーソフが最初である。
 1715年に松前藩主は幕府に提出の上申書の中で、「北海道本島・千島・カムチャツカ・樺太は松前藩領で自分が統治している」と報告しているが、これは「和人としては松前藩が独占的に交易をしている」事を言っているだけであって、実際には交易すらも、その一部だけだった。1739年シパンベルクは色丹島と思われる島に上陸している。そのとき、日本の支配は松前島(北海道)のみであると報告しているので、この時期までは、日本・ロシア共に千島へ支配は及んでいなかった事がわかる。
 1754年、松前藩はクナシリに場所を開き、クナシリとの交易を開始する。一方ロシアでは、シパンベルク報告により、急速に千島への関心が高まり、北から順に支配を広げてゆく。1761〜64年、イワン・チョールヌイはエトロフ島までの詳しい調査をした。その中で、クナシリ島には毎年20人ほどの日本人が来て2ヶ月ほど滞在し交易するとの情報を得ている。チョールヌイは、このとき、多数の毛皮を税として取り立てている。さらに、1766〜69年、チョールヌイはウルップにハレムを作り、ウルップ・エトロフのアイヌを厳しく弾圧し、毛皮の他、食料や日本との交易品を取り立てた。このような仕打ちに耐えかねたアイヌはロシア人20数人を殺害、ロシア人をウルップ島から追い払った。
 1776年になると、ロシア人貴族アンチャーピンらはウルップ島を訪れ、アイヌと和解を果たした。この後、ロシアとクナシリ・エトロフとの交易が行われる。さらに1778年、ロシア人シャパーリンは、クナシリ島の首長ツキノエの案内によってノッカマップに来航、翌年にはアッケシに来航し、通商を求めて松前藩と交易交渉を行った。このとき、松前藩は鎖国を理由に交易をことわっている。しかし、1780年にウルップ島で地震が多発し、それを契機にロシア人は島から引き上げた。
 一方、和人の南千島進出では、1774年に飛騨屋久兵衛はクナシリ場所請負人となるが、クナシリ島の首長ツキノエから、交易を拒絶され、しばらくは交易が断絶していた。ロシア人がウルップから去った後の1782年に交易が同意される。
 1786年、幕府蝦夷地調査隊の最上徳内は、厚岸首長イトコイを案内人として、国後南岸を通り、エトロフ島に上陸、ここで、ロシア人が居住していること、現地人の中にキリスト教を信仰する者がいる事を確認している。さらにウルップ島へ上陸し、ここでも、ロシア人の居住跡を発見している(ただし、ウルップ島ではロシア人は確認していない)。最上徳内は択捉島で出会ったロシア人(イジュヨゾヨフ等)から、千島およびそれ以北の状況を聞いて、北方地図を作成した。この地図は日本が千島列島を正しく把握した最初の地図である。なお、記録が残っている範囲では、このときの最上徳内がエトロフ島を探検した最初の日本人である。
 飛騨屋久兵衛は、1782年にクナシリでの交易にこぎつけたが、途中幕府調査隊の関係で、十分な交易をする事が出来なかった。1786年本格的に厚岸・国後場所に進出した飛騨屋は、北海道東部・クナシリ島で極端な弾圧を行い、これが原因で1789年のクナシリ・メナシの戦いが起こる。この戦いは、アイヌの敗北に終わり、これ以降、和人のアイヌに対する支配は決定的になる。
 1798年、江戸幕府は対露緊張切迫に伴い、蝦夷地に調査隊を派遣した。一行中の近藤重蔵は、翌年、最上徳内を案内人としてエトロフ島に到達し、ロシア人の立てた十字架を引き倒した後「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。一般にはこのときをもって、エトロフ島が日本領になったと言うようである。また、エトロフ島のアイヌにロシアとの交易禁止を言い渡した。当時、択捉島アイヌの中にはロシア正教を信仰するものがあったが、幕府は島民の持っていた聖像を取り上げ、キリスト教を厳禁した。さらに、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、津軽・南部両藩が蝦夷地警備にあたる事となった。
 なお、1794年にロシアはウルップ島に基地を再建している。
 この後、1807年レザーノフ択捉島攻撃、1811年江戸幕府のロシア船長ゴローニンら8名のクナシリ島での逮捕、1812年ロシア帝国の高田屋嘉兵衛(エトロフ島場所請負人)のクナシリ沖での逮捕、と日露間で直接の衝突が有った。
 1855年、日露和親条約(日露通好条約、下田条約)が締結され、日露の国境はエトロフ・ウルップ間となった。このとき樺太では日露国境は未確定であった。
 1875年、サンクトペテル条約(いわゆる、千島樺太換条約)により、樺太の全権利をロシアに渡す代わりに、ウルップ島以北の千島も日本領となった。 

 以上のように、国後・択捉島では1700年代後半は日露双方が同じようにアイヌと交易をしていて、その時々で、どちらの支配が強かったり、どちらの支配もなかったりと、確定していない。1800年に高田屋嘉兵衛が択捉島航路を開拓すると、それ以降、幕府の支配は急激に強化されるが、日本の支配が確立したとは言いがたい。


注)『近藤重蔵はロシア人の立てた十字架を引き倒して、「大日本恵登呂府」の標柱を立てた』について。

菅原有悠、石井英二著『エトロフ島の青いトマト』に以下の記述がある。

 高田屋嘉兵衛と近藤重蔵がクナシリ島アトイヤに渡ったのが寛政十一年(一七九九年)、エトロフに渡ったのが翌年である。近藤重蔵はそれに先立つ寛政十年にすでにエトロフに渡り、蕊取村のカムイワッカ内の高地に「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。この標柱は、函館図書館に収蔵されていたといわれるが、実際に展示されているのは、安政六年(一八五九年)に仙台藩士らが新たに立てたもので、現在は函館市北洋資料館に貸し出されている。函館図書館の解説の文章によると、寛政十二年に近藤重蔵がこの地に標柱を立てる以前、すでにロシア人の立てた十字架があり、これを倒して重蔵は標柱を立てたということだ。




ちょっとわき道−松前藩の領地と領民

 江戸時代、北海道は松前藩の領地だったといわれることがある。これは、おおむね正しいけれど、厳密に言えば正しくはない。
 江戸時代、北海道の多くは蝦夷地と呼ばれ、アイヌを蝦夷あるいは蝦人などと呼んでいた。松前藩は、徳川幕府より、蝦夷との独占交易権を得ていたが、蝦夷の支配権を得ていたわけではない。慶長9年、松前慶広宛 徳川家康黒印状によれば、「夷之儀者何方へ往行候共可致夷次第事(アイヌはどこへ行こうともアイヌの自由である事) 」と、アイヌに対して行動の自由を与えているので、アイヌを松前藩が支配していなかったことが分かる。実際、アイヌは樺太経由で中国にわたり、独自に交易をしていたことが知られている(山丹交易)。もっとも、現実には、借金と弾圧でアイヌはがんじがらめにされ、山丹交易も実際には、松前藩の命令で、松前藩の利益のために、行われていた場合が多い。


参考  日本の北方地域侵出史


日露・日ソ関係 ゆかりの地

  北海道 根室     北海道 函館

  伊豆 下田      西伊豆 戸田

  福井 敦賀      飛騨屋久兵衛と下呂 

  長崎 稲佐      千葉県鴨川市





 ゴローニンの航海を記念して1994年にロシアで発行された切手。




日露・日ソ関係 ゆかりの人



 東京本駒込の蓮光寺にある最上徳内の墓。


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 蓮光寺の周辺には寺がたくさんあります。最上徳内とは全く関係ない寺などの写真です

近藤重蔵の墓     近藤重蔵の石像

川路聖謨の墓

高橋景保の墓     高橋至時の墓


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