参考:日本の北方地域侵出史


 もともと、北海道全域に日本人が居住していたわけではない。鎌倉時代から室町時代には、函館〜江差の海岸線付近地域に限定的された若干の進出があったにすぎない。1457年にコシャマインの乱を背信的謀略で鎮圧すると、以降、和人の多くは松前付近に集結し、後の和人地の原型ができた。

 松前藩は領内で稲作が出来ないので、アイヌとの交易により収入を得ていた。アイヌとの交易を独占するために、和人地と蝦夷地に分け、和人の蝦夷地立ち入り、アイヌの和人地立ち入りを規制し、両者の境界に関所を置いて、出入りを取り締まった。和人地の範囲は、松前城下を中心とする比較的狭い範囲だったが、徐々に拡大し、ほぼ渡島半島全体に広がるまでとなった。しかし、北海道全体からみたら、江戸時代を通して、和人地は、一部に過ぎなかった。
 松前藩は領内で稲作が出来ないので、アイヌとの交易により収入を得ていた。他藩では、家臣に禄米を渡していたわけだが、松前藩では、代わりに場所(区域)を指定して、その場所での交易利益を禄米の代わりとした。場所とは、利益を得るための区域の事である。

 江戸時代、和人地は日本の完全支配下にあった。しかし、蝦夷地には松前藩の統制はある程度及んでいたが、松前藩とは独自にロシアと貿易をするなど、日本の領土と言える状況ではなかった。
 松前藩は蝦夷地に「場所」を設定して、独占的に公益をしたのであるが、「場所」は北海道全域にはじめから設定されたわけではなく、徐々に範囲を拡大したものである。「場所」が置かれていない地域には、松前藩の勢力はまったく及んでいない。
 これらのことから、和人地は完全に日本の領土、「場所」の範囲外は完全に外国であると考えられる。「場所」の置かれた蝦夷地は、日本の領土内か領土外か判然としない。

 時代と共に、和人地がどのように拡大したのか、また「場所」が置かれた地域(知行地)がどのように拡大したのかを図示する。これらの図は、「日本北方史の論理(海保嶺夫著)雄山閣、1974年」から引用した。




蝦夷ガ島における「和人地」の拡大

 江戸時代を通して、和人地の進出は渡島半島どまりだったことが分かる。
 すなわち、江戸時代に確実に日本の領土だった地域は、渡島半島のみである。



松前藩の知行地(商場所・運上場所)拡大状況図

 これらの図は、松前藩の「場所」が置かれた範囲を示している。実際には、海岸地域のみであり、内陸には「場所」は置かれていない。

 これらの図に示す範囲内には、松前藩の勢力がある程度及んでいたことが多い。しかし、1700年代後半の国後島のように、場所は置かれても、実際にはアイヌに追い返されて貿易ができなかった地域もある。
 これらの図の範囲外には、日本の勢力は及んでいない。

 択捉島に日本の勢力が及びはじめたのは1799年か1800年以降である。


 江戸時代、日本北方の領土範囲はどこまでだったのだろうか。和人地は日本の領土であると言うことができる。 場所が置かれていた範囲内は、日本の領土であるとの認識がなされていた場合と、外国であるとの認識がなされていた場合がある。 場所以外の地域は松前藩の支配は及んでいないので、今の考えからすれば日本の領土ではない。 しかし、場所の範囲以外の地域であっても、交易が行われていた場合、松前藩は自藩の領土と認識していた場合もある。
 江戸時代の領土意識に現代の領土概念を厳密に当てはめようとしても無理がある。

 



山越内関所



 1801(享和元)年、函館市亀田から八雲町山越に関所が移設された。1861(文久元)年に廃止されるまで、蝦夷地との境界だった。
 現在、JR山越駅は関所をイメージしたデザインになっている。実際の関所跡は、駅の南側にある。





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