飛騨屋久兵衛と下呂

下呂温泉ふるさと歴史記念館



 根室、厚岸、クナシリ島で、最初に交易を行った商人は、飛騨国増田郡湯之島村 (現:岐阜県下呂市)飛騨屋の武川久兵衛である。松前藩は、飛騨屋に借金があったため、借金返済の変わりに、クナシリなどとの交易権を飛騨屋に与えた。
 このころ、ロシアは毛皮をもとめて千島列島に進出していた。1778年にはロシア人シェパーリンが クナシリアイヌの首長ツキノエの案内で、ノッカマップに来航、日本との交易を求めた。ツキノエは、ロシア商人との結びつきを松前藩や飛騨屋に誇示し、飛騨屋の交易は頓挫した。
 しかし、ロシア人がいなくなると、ツキノエは飛騨屋にわびを入れ交易が行われるようになったが、飛騨屋は過酷なアイヌ使役を行った。毒殺などの脅迫で魚肥製造に駆り立て、越冬食糧の準備の暇も与えないほどに酷使し、アイヌの生活は飢餓に瀕した。飛騨屋使用人によるアイヌ女性への強姦も多発し、大規模蜂起が発生した(クナシリ・メナシの戦い)。蜂起したアイヌは、松前藩の兵力の前に恭順の態度で臨んだが、松前藩は中心的なアイヌ37人を死刑した。
 アイヌ蜂起の責任を取らされ、飛騨屋は蝦夷地からの撤退を余儀なくされた。
 このとき以降、道東・クナシリ島での、松前藩の支配が確立し、この地域のアイヌはほとんど絶滅させられることになる。

 以下は『下呂温泉ふるさと歴史記念館』展示パネルの記述。

 この記述は、飛騨屋を賞賛する一面的な記述である。特に、クナシリ・メナシの戦いは、飛騨屋のアイヌに対する横暴が主たる原因であったにもかかわらず、その点に対する記述が無く、飛騨屋が一方的な被害者であるかのごとき記述になっている。




北海に雄飛した飛騨屋久兵衛

 武川家の祖、武川長助倍紹は、戦国時代の雄・武田氏の家臣でしたが、武田氏が織田・徳川の連合軍に破れたため、1583年(天正11年)下呂郷湯之島村(現在の下呂町湯之島)に逃れました。倍紹は甲斐国の釜無川上流にあった武川郷(現在の山梨県北巨摩郡武川村のうち)の出身でしたので、武川を姓とすることを条件に、湯之島村の庄屋であった中島家の養子となり、武川家を興しました。
 武川家は現在で14代を数えています。

 江戸時代のなかば四代目を継いだ倍行は、飛騨や江戸で学んだことを活かして、誰もが思いつかなかった奥州や蝦夷(北海道)で、木材の伐採搬出事業を営むことを決意し、飛騨屋を開業しました。飛騨屋は倍行以後四代にわたりおよそ90年間続き、下呂の楢本を本店として、江戸、大阪、京都、大畑、松前、秋田、宗谷に店を構え木材の伐採搬出事業に加えて、蝦夷の海産物と内地の産物との交易事業を展開しました。
 こうした飛騨屋の事業は、北海道の開発に先駆的な役割を果したばかりでなく、松前藩の財政運営や江戸時代中期の日本経済の発展にも大きな功績を残しました。
 飛騨屋の足跡は、今も各地で研究されています。

初代飛騨屋久兵衛倍行


 飛騨屋を興した倍行は、1674年(延宝2年)、下呂郷湯之島村に生まれました。倍行が19歳になった1692年(元禄5年)、豊富な森林や鉱山資源に目をつけた徳川幕府は、飛騨を天領にすると、新たに検地を行なって石高を増やし、これまで認めていた木材などでの物納を金納にするなど、年貢の取立てを厳しくしました。また飛騨や近隣の商人が請負っていた木材の伐採も、江戸商人に独占させました。
 こうした幕府の政策により、飛騨の住民は年貢が増加したうえに、現金収入の道を狭められ、苦しい生活を強いられました。庄屋であった武川家も、村民の未払年貢の弁済をせまられ、そのうえ御用金まで課せられて、その財産も底をつくほどでした。
 こうした地域の窮状のなかにあって、青年倍行は、収入を図るため事業を興そうとしますが、厳しい封建体制とわずかな耕地しかない飛騨には、若者が羽ばたく場所はありませんでした。

 1696年(元禄9年)、倍行は他国での事業開拓を志し、弟藤助をともなって江戸に旅立ちました。この時、倍行は23歳、藤助はまだ18歳でした1炉に出た倍行は、木材商栖原角兵衛と知り合い、木材商の経営を学ぶなかで、飛騨で身近に見聞した木材の伐採と販売事業を、未だ充分な開発がなされていない、奥州や蝦夷で興そうと決意しました。倍行と藤助は、江戸に四年間滞在し、木材をはじめとする物資の消費状況や流通経路を調査し、資金の調達に取組みました。
 こうして準備をすませた倍行は、1700年(元禄13年)、南部藩大畑(現在の青森県下北郡大畑町)に木材商飛騨屋を開業し、南部藩、津軽藩、秋田藩と交渉して、檜や欅など木材の伐採を請負い、伐り出した木材はその地方で販売する一方、江戸や北陸地方にも運んで販売しました。事業は順調に進み2年後の1702年(元禄15年)、待望の蝦夷に渡り、松前藩の城下町、福山(現在の北海道松前翻松前町)に飛騨屋松前店を開店しました。故郷の下呂をたってから7年の歳月が過ぎていました。

 倍行が飛騨屋松前店を開店した当時、松前地にはすでに近江商人が進出し、良好な場所を請負い主要な交易を握っていましたが、木材には手を出していませんでした。
 倍行はさっそく松前藩の許可を得て、尻別山の木材や海産物を江戸や大阪に廻送する事業を開始しました。そして蝦夷地の山々を十数年にわたって調査し、1719年(亨保4年)山田庄兵衛と共同で東蝦夷地の臼(有珠)山の伐木を、運上金(商人が藩に納める税)一人あたり一年825両、期間8年の条件で請負いました。その後更に、東蝦夷地の沙流、久寿里(釧路)、厚岸、西蝦夷地の石狩、夕張、天塩などの場所を請負い、巨船数隻を造って木材及び海産物を、江戸をはじめ各地に搬出し、内地からは米、酒、その他の諸物貨を蝦夷地に運んで、収益を伸ばしていきました。
 事業が順調に発展し、江戸、大阪、京都、秋田にも店を置き、飛騨屋の基盤を作った倍行は、1728年(亨保13年)、京都から下呂に帰る途中、故郷を目前にして55歳の生涯を閉じました。 


請負場所制度


 武士の時代、領主はその家臣に米を俸禄(給与)として与えるのが基本でした。しかし当時の北海道では米がとれません。そこで松前藩では領地内を区分し、その地域における漁業権やアイヌの人達との
交易権を、俸禄として与えました。つまりその場所での漁業や交易であがる利益を俸禄としました。
 この場所を商場と呼び、後に場所というようになりました。松前藩では、こうした場所を家臣に与えるだけでなく、運上金という税を徴収して、商入にもその場所での事業を認めました。場所での事業に
漁業や交易のほか伐木業を開拓したのが、初代飛騨屋久兵衛倍行でした。



飛騨屋 請負場所・請負山

二代飛騨屋久兵衛倍正

 飛騨屋を継いだ倍正は、初代倍行の弟倍則の長男として、1698年(元禄11年)に生まれました。倍行には子供がなかったので、夫が急死すると、妻さわは甥の久蔵、伊兵衛、小太郎の三人を養子にして、久蔵を当主にしました。そこで久蔵は、二代目久兵衛倍正を名乗りました。
 飛騨屋を継いだ倍正は、初代が請負った山林の伐採を進める一方、1728年(亨保13年)山田庄兵衛らと共同で、白山請負跡山を期間8年で請負ったのを始めとして、1737年(元文2年)には、尻別山の伐木を、一年あたり運上金1.800両、伐採量15.000石(20p四角長さ3mの材木で計算して約35.000本)、期間3年で請負い、1742年(寛保2年)には、尻別山請負跡山を期間6年で請負って、運上金を毎年2000両納めました。
 倍正は、その年45歳をもって福山で没しますが、木材の伐採搬出事業を、益々発展させ各地の支店へも資本の支出を行ない、初代の意志をついで飛騨屋の隆盛に尽くしました。

飛騨屋成功の背景


 飛騨屋の事業が成功したのは、誰もが手を付けなかった、僻遠の蝦夷に目をつけたこと、蝦夷松は材質が良く、唐檜と呼ばれ檜の代用として珍重されたこと、丸太で運ばれていた木材を、寸甫(寸法)材として、巾や長さを決った規格にして販売したこと各地に支店を置き直接販売をしたこと、各店を独立採算制にしたこと、作業は伐採、搬出、製材、輸送に分業し作業能率をあげたこと、賃金の前渡しを行ない、杣人や人夫の確保をしたこと、地元や近在の人を雇用して、地元に利益をもたらす配慮をしたことなど、新しい方法をうちだして、現代にも通じる近代的な企業経営をしたことがあげられます。

三代飛騨屋久兵衛倍安


 飛騨屋の三代を継いだ倍安は、二代倍正の長男として、1737年(元文2年)、下呂郷湯之島村で生まれました。1742年(寛保2年)倍正が病死すると、翌年、わずか7歳の倍安が継ぐことになり、花池村(現在の岐阜県益田郡萩原町花池)の、今井所左衛門が後見人となりました。
 飛騨屋の事業は順調で1745年(延亨2年)には、松前地の厚沢部目名山を、江差の山師とともに、期間5年、一飛騨屋の運上金2.300両で請負いました。更に1750年(寛延3年)には厚岸山、1752年(宝暦2年)には尻別山その翌年には、石狩山の請負いを、期間8年1年あたりの運上金600両、切出量12.000石で出願し、1755年(宝暦5年)から伐採を開始しました。
 しかし、倍安の代後半になると、いろいろな事件がおこり、事業は大きな転換と困難を迎えることになりました。

 1766年(明和3年)大畑店の支配人が、店の金を不正に使用していることがわかり解雇しました。この元支配人は福山に渡り、松前藩の勘定奉行らと結託して、飛騨屋の請負山を奪おうとたくらみました。そのため1769年(明和6年)、ついに請負山を返上し、伐木業を中止せざるを得なくなりました。
 そこで倍安は、1773年(安永2年)松前藩に用立てしていた、8,183両にのぼる貸金のうち2,783両を献納し、残る5,400両で絵靹厚岸、霧多布、国後の四場所を、期間20年で請負うことにしました。飛騨屋は伐木業から漁業へ、事業の転換を図りました。

 しかし、松前藩が飛騨屋にわたした場所は、松前から遠く離れた辺境が多く、国後では交易船が暴行を受けて、6年間交易が不能になったほか、1778年(安永7年)には霧多布の請負場所に、通商を求めてロシア人が上陸し、場所経営ができなくなったばかりか、諸費用として3.800両を負担することになり、莫大な損害を受けました。
 更に翌年、飛騨屋に請負山の返上をさせた元支配人が、今度は松前藩の役人と称して、飛騨屋の手船伊勢丸に乗込み、積んであった宗谷の産物を没収し船頭が自殺するという事件がおきました。倍安はこの元支配人の妨害に耐えかねて、1780年(安永9年)幕府に公訴しました。翌年幕府は裁決し元支配人には死罪、関係のあった松前藩元家老、江戸留守居役、勘定奉行には重罪を言い渡しました。
 倍安は、事業が最も盛大な時期の経営にあたったが、困難な事件にも直面し、1784年(天明4年)48年の波乱に満ちた生涯を終えました。

四代飛騨屋久兵衛益郷

 益郷は、1765年(明和2年)下呂郷湯之島村に生まれ、18歳で二代目今井所左衛門を後見人として、飛騨屋四代目を継ぎました。
 益郷が飛騨屋を継いだ翌年から、天明の大飢饉が始まり、特に奥羽は悲惨でした。このため、飛騨屋大畑店では他の有力商入とともに米を集めたりして窮民の救済にあたり、南部藩その他から褒賞を受けました。
 また、益郷は事業を盛りかえすため、松前藩の負債を延期したり、藩に新たな金主を紹介するなど、松前藩との関係修復に努め、藩は宗谷場所の請負期間を延長して、その功に報いました。1783年(天明3年)からは国後場所の交易も再開しました。
 しかし、江戸時代も後期にはいると、幕府も諸藩も財政が窮乏し、1785年(天明5年)には、幕府が飛騨屋の宗谷場所を1年休業させて直接蝦夷交易を試み、松前藩も絵靹場所を取りあげました。更に翌年になると、幕府は飛騨屋の厚岸、霧多布、国後の三場所を休業させ、交易を行ないました。

 こうした窮地にあって、益郷は父祖伝来の不屈の精神で、1787年(天明7年)には、資金を借りて請負場所の漁業を拡張し、大網を開発して漁獲量の増大を図り、新たに久寿里(釧路)場所を請負い、時代や北海の=激浪濃霧と闘いながら事業を続けました。また幕府が交易を試みた三場所も返還され、翌年には白糠場所も請負いました。
 1789年(寛政元年)、飛騨屋が事業の継続に懸命の努力をしているさなか、国後でアイヌ人が蜂起し、寛政蝦夷の乱と呼ばれる大きな騒動が起りました。この騒動により、松前藩の役人や、飛騨屋の使用人71名が犠牲になったほか、アイヌの人達も37名の犠牲者を出しました。幕府は辺地取締に怠慢があったとして、松前藩を強く叱責しました。

(注意)下呂温泉ふるさと歴史記念館の展示パネルでは『寛政蝦夷の乱』と書かれているが、『クナシリ・メナシの戦い』ともいう。
 納沙布岬に立つ、クナシリ・メナシの戦いで死亡した日本人71人の墓標(碑)の隣にある説明看板には、以下のように、説明されている。
 『寛政元(一七八九)年五月、国後島とメナシ(現在の標津町付近)のアイヌの人々が、当時この地域の場所請負人であった飛騨屋久兵衛の支配人らに脅されて、僅かな報酬で労働を強いられ、やむなく蜂起し和人七十一人を殺害した。 松前藩は、ノッカマップ(根室半島オホーツク海側)にアイヌの人々を集め蜂起の指導者三十七人を処刑した。このできごとは、"寛政クナシリ・メナシアイヌ蜂起"と称されている。
 『下呂温泉ふるさと歴史記念館』展示パネルの記述は、あまりにも飛騨屋を美化しすぎているので、このページの最後に、クナシリ・目梨の戦いの説明を記載する。

 

 幕府からとがめられた松前藩は、騒動の全責任を、場所請負人の飛騨屋に転嫁し、全ての請負場所を取りあげてしまいました。
 益郷は、被害者の家族救援や事業継続のため、「人指し遣し願」「船差し廻し願」「場所営業継続願書」など、再三にわたり提出しましたが、全て不許可となりました。
 蝦夷地における場所経営を、断念せざるを得なくなった飛騨屋の損害額は、69,923両に達していました。このため請負場所の返還と騒動による損害賠償を求めて公訴しましたが幕府は、請負場所の返還や損害賠償は認めず既に納めた運上金2000両のみ、返金されることになりました。また1790年(寛政2年)松前藩と藩士に対する貸金9,267両の返済を求めて再び訴えましたが、翌年益郷は江戸に上り、わずか70両を受け取って残りを放棄し訴えを取り下げました。
 1791年(寛政3年)益郷は「天時人事共に其の宜しきを得ず」として、ついに福山、大畑の店を閉め、1700年(元禄13年)以来四代92年間にわたる奥州、蝦夷での事業に終止符を打ちました。益郷27歳の年でした。

 8200両にのぼる膨大な負債を抱えて、故郷下呂に帰った益郷は、地域のために一層力を入れました。益郷は1793年(寛政5年)から7年間にわたり、十数回江戸に上って幕府に嘆願し、1799年(寛政11年)ついに、官材の伐出再開にこぎつけ、飛騨の人々が山稼ぎをできるようにしました。
 また、下呂郷六か村の庄屋を務めるかたわら、これら官材の川や海上の輸送を請負うなど地道に事業を行ない、1822年(文政5年)には、莫大な負債の返済を済ませました。益郷は学才も豊かで、飛騨屋代々が引継いだ文書に加えて、「北信記聞」「雑記」などの著書や、数々の記録も残しました。
 1827年(文政10年)益郷は、130年前初代飛騨屋倍行が、北海での雄飛に備えた江戸で63年の生涯を終わりました。





第14代武川久兵衛氏(本名だそうです)が営む、マルス写真室  


下呂市温泉寺にある武川家代々の墓所
(温泉寺には長い石段がありますが、武川家の墓所は下から120段くらいのところにあります)


武川家古文書

現在、武川家古文書は岐阜県歴史資料館に収蔵されている。

 女帝エカテリーナ肖像
 1792年に帰国した漂流民・大黒屋光太夫が持ち帰った
 ものを飛騨屋が模写させたもの。原本は所在不明。
 ラックスマンら4人の肖像
 1792年漂流民・大黒屋光太夫らの送還を機会に、
 通商を求めて、根室に来航した。



下呂  (温泉寺境内から)



和菓子屋『たけ川』
武川久兵衛家の分家に当たるそうです


下呂の町にあったストリップ劇場の看板


クナシリ・メナシの戦い


 飛騨屋は、クナシリ場所を確保すると、アイヌに過酷な労働を強制した。さらに、アイヌ女性の強姦、宝物の詐取、それに松前藩足軽の権力をかさにきた脅しなどが積み重なり、アイヌたちが蜂起した。これを、クナシリ・メナシの戦いという。
 この事件に対して、『下呂温泉ふるさと歴史記念館』展示パネルの記述は、あまりにも飛騨屋を美化して、事実を伝えているとは言いがたいので、クナシリ・メナシの戦いの背景と概要を記す。

菊池勇夫/著

 日本列島における国内市場の展開のなかに蝦夷地が資源略奪的に組み込まれ、それまでの交易レベルとは質量ともに明らかに違う段階がやってきていた。そのことが、アイヌ民族を交易主体から引きずり降ろし、場所請負の商人経営のなかに雇いの労働者として編成替えしていった。その矛盾が露呈し、アイヌ民族の強い反発を招いたのが、一七八九年、(寛政元)に飛騨屋請負のキイタップ場所メナシ地方、およびクナシリ場所で発生した騒動であった。
 この事件では、松前藩足軽、出稼ぎの支配人・番人ら七一名が襲われて死亡した。下北地方から雇われた者たちが四〇人ほど含まれていた。東北地方の下北・津軽・秋田・三陸沿岸などから、天明の飢鰹以降、松前・蝦夷地への出稼ぎが増え始め、十九世紀になると一層さかんになった。最初は支配人・通詞・番人として、現地のアイヌの人々を鮭・鰊漁などに雇い使役する立場にあったが、労働力が不足してくると「稼方の者」も多くなっていく。彼らは、決してアウトローではなく、勤労民衆というべき者たちで、蝦夷地の奥に行けば行くほど高収入が得られたので、競うように出稼ぎした。松前・蝦夷地に入るには松前三湊(松前・箱館・江差の三港、ただし近世前期は松前のみ)で旅人改めを受けなければならなかったので、松前稼ぎと呼ばれた。
 騒動の直接の原因は、このような和人出稼ぎによる過酷な労働の強制、雇代の安さと未払い、女性への性的暴力・宝物の詐取、それに松前藩足軽の権力をかさにきた脅しなどが積み重なり、これに耐え兼ねたアイヌの人々が立ち上がったものであった。道東地域はまだ松前藩の支配力が弱く、アイヌの自尊心や自立性が旺盛だったことも戦いを可能にしていた。松前藩は材木商であった飛騨屋から多額の借金があり、その引き当てとして飛騨屋がキイタップ場所・クナシリ場所を請け負ったという経緯があった。飛騨屋は貸金回収のため鮭・鱒の〆粕生産を導入し、早く利益をあげようという事情のもとで発現した出稼ぎ民衆による横暴だった。資本の論理のもとでの出稼ぎ和人とアイヌの対立的・差別的構図が浮かびあがってくる。蜂起したアイヌは有力アイヌに説得され、ノカマッフに出陣した松前藩鎮圧隊に投降しているが、意に反して三七人のアイヌが現地で殺されている。
 十九世紀に入ると、鰊・鮭を中心とした漁業経営がいっそう活発になり、アイヌの人々は、場所経営の拠点である運上屋(または会所)・番屋の周辺に呼び集められ、鰊・鮭漁などに駆り出された。近世後期・幕末期のコタンは場所経営によって再編された集落であった。かつてのアイヌのコタンには老人や子供だけが残され、廃村となるところも少なくなかった。場所請負制による漁場経営は幕末にかけて東方ではエトロフ島まで、西方ではカラフト南半まで展開していく。
 こうした集住は過酷な労働に加えて、庖瘡などの流行を招きやすく、アイヌ人口を急減させた。一八〇四年(文化元)のアイヌ人口は、東蝦夷地が一万二七五三人、西蝦夷地が一万一〇一四人(カラフトニ一〇〇人含む)、合計二万三七六七人であったものが(『向山誠斎雑記・丙辰雑綴』)、一八五四(安政元)には、東蝦夷地一万四一〇人、西蝦夷地四三八四人、北蝦夷地(カラフト)二六三九人、合計一万七四三三人となり(『蝦夷家数人別産物船数牛馬其外取調帳』)、人口調査の精度という問題もあるが、四分一の人口が失われた。場所ごとにみれば、日本海側や道東のようにもっと激しくアイヌ社会の衰微が現象していたところもあった。
 アイヌ社会にとってみれば、和人の漁業経営のなかに呑みこまれ、生き残り困難な時代の到来であったことは否めないが、その一方で自らの船と網などの生産手段を持って鰊・鮭漁を「自分稼ぎ」するアイヌの人々も存在した。また、熊皮・熊胆や鷲羽などの「軽物」を獲るための狩猟も、和人出稼ぎ者には取って代わることのできない「自分稼ぎ」として存続していた。雇われ酷使されるだけのアイヌ社会の従来のイメージに変更を迫るものがある。ただし、売却する相手が場所請負人という特定の相手に限られ、開かれた販売市場ではなかったことや、見かけが自分漁獲物を交易するかたちでも、出来高賃金とほとんど変わらないケースもある。「自分稼ぎ」であってもきびしい労働環境であったのを軽視してならないが、アイヌの人々が近代社会に持ちこたえていけた条件の一つではあろう。

     蝦夷島と北方世界 (日本の時代史) 菊池勇夫/編 (2003/12) 吉川弘文館  (P74〜P77)



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