北方領土問題


北方領土とは

 日本政府の説明では、北方領土とは、日本が領有を主張している、択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島の北方四島のことを言います。

 現在、ロシアが施政をしており、日本の行政権限は及んでいません。このため、日本の中には、ロシアの不法占領と言う人もいます。1956年、日本とソ連との間で条約が締結され(日ソ共同宣言)、日本とソ連の間に国交が回復しました。この条約の批准を審議した国会で、日本政府は日本政府の公式な立場として、「日本政府は、ロシアの占拠は不法とはいえない」と、説明しています。

日本政府の見解


ブリタニカ百科事典の説明  (Kuril Islands)

千島には最初にロシア人が住み着いた。これは17、18世紀の探検に引き続いて行われた。しかし、1855年、日本は南千島を奪取し、1875年には全千島列島を領有した。1945年、ヤルタ協定に基いて、島々はソ連に割譲された。日本人は引き揚げ、替わってソ連人が移住した。日本は、今でも、南部諸島に対する歴史的権利を主張し、島々に対する日本の主権を回復することように、ソ連・ロシアを、繰り返し説得している。(原文はここをクリックしてください


  注意) 日本政府は、北方領土は「日本の固有の領土」と主張しているけれど、実際には アイヌが北方領土の先住民 です。



1、日本政府の主張と根拠

 日本政府はクリル列島南部諸島(南千島)を日本領であると主張しています。いわゆる「北方領土」です。日本政府の主張に対して、各方面から批判があります。日本共産党も全千島の返還を主張しています。
 日本政府の主張は、たいへん分りにくい主張ですが、このような主張の根拠をどのように説明しているのだろうかと思って、外務省のホームページを見てあきれました。

日本政府外務省の「北方領土」の説明には、次のように記されています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html
(1)日本はロシアより早く、北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。また、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。

 私は、この記述に驚愕しました。この地域にもともと住んでいた人たちの存在が全く無視されています。明治政府は北海道アイヌなど北方人を「旧土人」と称し差別してきました。(旧土人保護法が廃止されるのは、平成9年7月1日です。)
 もし、この地域の領有権が、日本天皇にあるのかロシア皇帝に有るのかと言うならば、どちらの考えも間違いです。これらの地域は、本来の居住民の領地か、現在の住民の領地かのいずれかです。歴史の変遷のひとこまに、日本天皇の支配下にあったと言う事実があったとしても、だからと言って、未来永劫日本の領土と言うのは無理があります。
 この地域の本来の居住民は「北海道アイヌ」なのか「オロッコ」なのか、あるいは別系統のアイヌなのか、はたまた、別の人達だったのか。明治になってから、この地に進出してきた『日本人』(和人)でないことは確かです。

 ところで、現在ロシアは正式にはRussian Federationだと知ってますか。単一の国家ではなくて、複数の共和国の連合国家です。だから、ロシア人と言った場合には、スラブ人だけではなくて、「オロッコ」や「ギリヤーク」も含むことになります。当たり前ですよね。日本人も、大和民族だけではなく北海道アイヌも含んでいます。現在の日本・ロシアと歴史上の日本・ロシアの概念には若干の違いがあります。

 繰り返しになりますが、もう少し、外務省の記述を詳細に検討してみます。

『日本はロシアより早く、北方四島(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)の存在を知り』
 ここでは、何を日本と言っているのか不明ですが、知床あたりに住んでいたアイヌには、かなり以前から北方四島が知られていたことは間違いありません。でも、知床にはオロッコ岩があって、ここにかつてオロッコ達が砦を構えていたという伝説があります。だから、北方四島の存在をどちらが先に知ったかという問いかけは、資料が残っていないので、知る手がかりがない、と思います。(おそらく旧石器時代には北方4島の存在を知っていたのではないでしょうか。)
 もし、ロシアというのがスラブ人の国家と言う意味であるならば、この意味でのロシアがオホーツクに到達したのは江戸時代初期頃なので、ロシアが北方4島の存在を知ったのは、たかだか数百年前でしかありません。

『多くの日本人がこの地域に渡航する』
 この文章がいつの事を言っているのか不明です。1785年幕臣が択捉に始めて渡ったときには、択捉にはロシア人が居住しており、アイヌにはロシア宗教を信仰するものがいたことが知られています。このとき、幕臣はロシア人と接触しているので、ロシア人もこの地域に渡っていたことは確かです。
 また、明治以降の千島樺太交換条約以前に、どれだけの和人がこれらの諸島に渡ったのか、疑問です。実際、千島に郵便局が開設されるのは、国後が最初で、それも千島樺太交換条約以降の、明治9年です。択捉に郵便局が開設されるのは、はるかに遅れて、明治18年(振別)です。さらに、明治20年以前に千島で使用された郵便物を見つけるのは困難で、多くの人が渡航していたとはとても思えません。明治20年以降になると使用された切手なども、ある程度残っています。(択捉島・紗那が多い。)

『(日本は)徐々にこれらの島々の統治を確立しました』
 帝国主義支配だけを統治であるというならば、そのとおり間違いありません。前にも書いたように、明治政府は北海道に進出し、土地の強制収容、和人への払い下げ、アイヌの差別・弾圧を行いました。アイヌの文化が明治政府により、めちゃめちゃに破壊されたことは間違いありません。
 しかし、明治政府以前に、アイヌは彼等独自の方法で、自身や土地を管理・統治し、交易も行っていました。アイヌの他、オロッコ・ギリヤークなどの北方諸民族も同じことです。
 日本政府は、現地の文化を破壊し、住民を弾圧したから、日本の領土であると主張しているのでしょうか。このような考えは、絶対に受け入れられません。

『ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありません』
 オロッコ、ギリヤーク、カムチャツカ人たちが、明治以前に南千島に進出していたことは常識です。
 もし、ロシアをロシア皇帝の支配する国家と狭く捉えるならば、確かに、ロシアの勢力が択捉以南に及んだ事がないとの主張が全く間違いと言う事もありません。しかし、前にも書いたとおり、択捉にはロシア人が居住し、アイヌの中にロシア正教を信仰するものもあったのだから、ある意味では、ロシアの勢力が及んでいたわけでもあります。(択捉のロシア人はその後、幕府・松前藩により追い払われます。)


ちょっとわき道

 北方領土問題の啓蒙資料として、外務省は冊子「われらの北方領土」を無償配布しています。この中の記述に、、

 『わが国はロシアより早く、北方四島、樺太及び千島列島の存在を知り、既に一六四四年には、クナシリ島、エトホロ島等の地名を明記した地図が編纂され、幾多の日本人がこの地域に渡航していました。わが国の松前藩は、十七世紀初頭より北方四島を自藩領と認識し、徐々に統治を確立していきました。
 これに対しロシアの勢力は、十八世紀初めにカムチャツカ半島を支配した後にようやく千島列島の北部に現れてわが国と接触するようになりました。一七九二年にはロシアの使節ラクスマンが北海道の根室に来訪してわが国との通商を求めています。…しかし、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。』

 これを読むと、歴史的に見ても日本に正当な領有権があるように思うでしょう。しかし、よく読むとおかしなことが書いてあります。「わが国」「日本人」に対して「ロシアの勢力」になっています。択捉島は、日本人が認識⇒ロシア人が認識⇒ロシア人が到達⇒ロシア人が一部支配⇒日本人が到達⇒日本人が完全支配、の順になります。だから、「日本人」と「ロシアの勢力」を比較したら、日本が先だけれど、「ロシア人」と「日本の勢力」を比較すると、ロシアが先になります。
 外務省冊子では、「日本人」と「ロシアの勢力」という、異なったものを比較して、あたかも日本が先であるような印象を持つように細工されています。

 北方領土問題はきわめて政治的な問題です。事実を明らかにするよりも、特定の政治家・特定の圧力団体の利益のために、情報操作することが行われても不思議ではありません。政治家の口から国民をだます嘘が言われる事もあるでしょう。十分注意が必要です。



外務省の他にも、公的機関のホームページを見ると、異なったものを比較して、あたかも日本が先であるような印象を持つように細工された記述が多いのに驚かされます。

 そのうちの、いくつかを掲載しました。ここをクリックしてください。
 


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