いろいろな公的機関等のインターネットページに見る恣意的な歴史の解説(あるいは捻じ曲げ)

このページは2005年1月末現在の各インターネットページの記述をもとに作成しました。その後変更になっている場合があります。

ここに掲載している機関は国民の税金が流れているところも多いと思います。税金を浪費するのは仕方ないとしても、もう少し、真面目なページを作ってもらいたいものです。


外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/hoppo/hoppo.html

 日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)の存在を知り、多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。また、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。

注意)「日本」「ロシアの勢力」と違うことを比較して、あたかも日本が先であるかのように細工されています。


北方領土復帰期成同盟
http://www.hokuhoku.ne.jp/hoppou-d/rekishi/rekishi1-2.htm

 現存する地図のうち、北方領土及び千島列島が表された最も古いものとして、1644年(正保元年)、松前藩から幕府に献上された「正保御国絵図」があります。この地図には、知床半島と納沙布岬の東方に「くるみせ」と呼ばれる大小39の島々が書かれていて、そのうち34の島には「くなしり」、「えとろほ」、「うるふ」など、現在の島名とほぼ同じ名前がつけられています。
 これは、ロシアのスパンベルグたちが最初に千島列島を調査し、地図をつくったという、1739年(元文4年)より、約100年も前のことです。

注意)「松前藩が伝聞により地図を作った」「ロシアのスパンベルグたちが調査し地図をつくった」と違うことを比較して、あたかも日本が先であるかのように細工されています。



北方対策本部
http://www8.cao.go.jp/hoppo/hoppo/hoppo4.html

 1635年(寛永12年)、北海道を支配していた松前藩は、北海道全島および千島、樺太を含む蝦夷(えぞ)地方の調査を行いました。1644年(正保元年)の幕命により諸藩から提出された国絵図に基づいて、幕府が作成した日本総図(いわゆる「正保御国絵図」)には、「くなしり、えとほろ、うるふ」などの島名がはっきり記載されています。
 ロシア人が初めて得撫(うるっぷ)島に来て、長期滞在して越年したのは、1766年(明和3年)ですが、住民の反抗にあって翌年帰国しています。

注意)「伝聞により地図を作った」「長期滞在して越年した」と違うことを比較して、あたかも日本が先であるかのように細工されています。「調査を行い」と書くと実地調査のように取る人もいるでしょう。伝聞だって立派な調査ですから、この記述はウソではないのです。



神奈川県民会議
http://www.cityfujisawa.ne.jp/~kanaken/

 日本が北方の島々のことを知ったのは、今から360年以上も昔のことといわれています。これは松前藩の「新羅の記録」によって明らかです。
 1,644年(正保元年)幕府は「正保日本国図」を編纂するため、諸藩に「国絵図」の提出を命じましたが、このとき松前藩が幕府に提出した自藩領地の地図には「クナシリ」、「エトロホ」など39の島々が書かれています。
 ロシア人がはじめて千島を探検したのが1,711年(正徳元年)のことですから、その100年も前から日本は北方の島々とのかかわりをもっていたのです。

注意)「日本が知った」「ロシア人が探検した」と違うことを比較して、あたかも日本が先であるかのように細工されています。


北海道庁    引用はこのページから


(18世紀)
■ロシアは、18世紀のはじめ頃から「千島」に進出を開始し、しばしば、探検隊を送り調査しただけでなく、ラッコの捕獲などを行ったこともありましたが、択捉島のすぐ北の得撫島を越えて、南下してきたことは、一度もありませんでした。
 これは、江戸幕府が、択捉島及びそれより南の島々に番所を置いて、外国人の侵入を防ぎ、これらの島々を治めていたことによります。

注意)この記述だと、ロシア人が択捉島に来たことが無いようになってしまい、誤りです。
 さらに、この記述だと、18世紀の一定期間、江戸幕府が、択捉島に番所を置いていたように読めるでしょう。実際には江戸幕府が択捉島に番所を置くのは18世紀最後の年、1799年か1800年です。


再び北海道庁
 北海道本島に生息しないラッコを貢物としたことは、北方の島々に住むアイヌの人たちと北海道の間に交易があったと考えられます。

注意)「北方の島々に住むアイヌの人たち」「北海道の間に」恣意的な表現です。普通に考えたら、ラッコを貢物としたことから、千島アイヌ=北海道アイヌ=和人という長大な交易ルートの存在が推定されます。北海道庁の記述は、北方の島々には「アイヌ」とつけて、北海道にはアイヌを省いています。日本人が千島アイヌと直接交易していたと誤読するように仕組まれた記述です。(国後アイヌが厚岸にやってきたときに、たまに訪れた和人と直接交易をした可能性はありますが、あくまで可能性です。)


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