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大学図書館きのうの話 第6回
発売頒布禁止本のゆくえ その2
(「大学の図書館」16巻8号 1997/8)

 東京高等農林学校の図書館の蔵書で、発売頒布禁止となった図書が、閲覧禁止の目的で「別置」されていたことは第2回に書いた。このような処置が一般的であったのか、特別であったのか。ほかの学校ではどうだったのかと思い、調べてみた。

 「私立大学図書館協会史」に次のような記述がある。全国私立大学図書館協議会第4回(昭和16年:1941年)の議題に関する記録である。

4 左翼出版物の一斉取締に対する学校図書館の立場について(國學院大學提出)
<提出校より、最近各大学で、所蔵の左翼出版物の一斉調査が行われ、その全部を内務省宛提出するよう夫々勧奨されているが、各館は如何なる態度をとっているのかとの質問があり、各大学から、自館の処置態度に発言があったが、結局、私大図書館はなるべく協同して同一態度をとることを申合わせた。>

東京帝國大学の場合
 1977年4月号の「大学図書館問題研究会会報」に東京大学の篠原茂弥さんが紹介しているところによれば、帝國大学附属図書館協議会は同様の協議を昭和2年、6年、15年、16年、17年に行っていたという。残念なことに、この協議会の議事録は刊行されていないらしく、筆者は見たことがない。協議した内容も、どのような処置を決めたのかも分からないのである。しかし、薄久代編著「色のない地球儀」(同時代社刊)には、昭和15年に東京帝國大学附属図書館は発売頒布禁止になった蔵書についての取扱を決めたと書いてある。ここでは該当図書を別置し目録には特殊記号を付して、許された人だけに指定の場所で閲覧させた。薄さんによると、昭12年にいくつかの大学附属図書館が話し合い、処理の仕方を表にしていたそうだ。先の協議会とは別の場で話し合いがあったのだろうか。いずれにせよ、旧帝國大学のいずれかの図書館に参加者による記録が残されているのではないかと思う。どなたかが発掘してくださるのを待ちたい。

慶應義塾大学の場合
 さすが私学の雄、と言われるだけあって、慶応、早稲田の2大学は始まりが古いだけではない。早くから図書館活動が活発で、職員数も多く組織も出来ていた。蔵書を充実させることにもたいへん熱心であった。
 「慶應義塾図書館史」(昭和47年刊)には昭和15年の「発売頒布禁止」の時のことが次のように書かれている。

 ”三田の警察署員がやって来て、部厚な禁制書目を館員につきつけ、これに登載されているような”本があったら”至急、警察署に供出するように命じた。” 慶應義塾の図書館は”殆ど全部を所蔵して居った。”
 警察官はあきれかえって、帰ってしまったという。警察署とやりとりがあったらしいが”辛くも供出を免れた。”

 そして10月に5日間かけて目録カードを”撤去”した。

 ”学生及び一般閲覧者の利用は出来なくなったが、(本は)隔離されなかったので教職員は書庫内で見ることが出来た。”

これらの本は”終戦後いち早く日の光に浴し姿を現した”という。
 慶應義塾の図書館では昭和11年には「第二特別書」という区分が既に出来ていた。前掲の図書館史によれば、第一特別書は稀覯書に属するもの、第二特別書は国策遂行上害があると見なされるもので一般の閲覧は禁止された。第二特別書は”禁閲の扱いだったが教員は許可を得れば見ることが出来た。”
 昭和15年7月の記述では「別置」はしなかったようだが、第二特別書と同じなのか定かでない。

早稲田大学図書館の場合
 早稲田大学ではどうだったか。
 「早稲田大学図書館史 写真と資料で見る100年」(平成2年刊)に6カ所ほど記述がある。まず、昭和15年7月の「発売頒布禁止」の時の記事である。
 ”戸塚署特高検閲係が来館。左翼図書の調査をし、該当図書の報告をするよう求められた。本館のみ調査(69部156冊)し、学部図書は現状のままとした。”
 同じく7月の記事。
 ”文部省教学課より禁止図書目録の回付があった。照合の結果、本館に備付あるものは43部43冊。
 さらに9月の記事。
 ”禁止されるものが増加し、調査の結果、153部273冊となる。引渡しを求められたが、特別図書扱いとして閲覧禁止措置をとり、当局との妥協を図った。”

 早稲田大学ではこれより以前、昭和10年4月に戸塚署が美濃部達吉の著書3部計10冊を差し押さえに来たことがあった。”交渉の結果、差押えはせずに、別置・閲覧禁止の処置をとることで合意した。””差押えの命令に対して、「別置」の処置がとられたのは異例と思われ、事に処しての図書館としての対応が窺われる。”と編者は書いている。

その他の大学の場合
 「一橋大学付属図書館史」(昭和50年刊)には「発売頒布禁止」にどう対処したかの記述はない。但し、昭和18年4月に、前身である東京商科大学において「三商大図書館協議会」の第1回連絡会議を開催したことが書いてあり、そこでの議題に、戦時下図書館運営上の具体策として、たとえば発禁本の取扱いについて共同で考えようとしたとある。三商大とは東京、神戸、大阪の各商科大学である。大阪商科大学(現大阪市立大学)は自由な学風で知られ、昭和15年前後にはのちに岩波書店から出された「経済学辞典」の編集がされていた。昭和17年にマルクス主義研究会が作られ翌18年には関係者100人あまりが検挙されたことがあった。その大阪商科大学の、昭和15・16年と思われる図書館の様子を、狂言役者の茂山千之丞さんが書いている(「狂言役者 ひねくれ半代記」岩波新書)。
 ”大学は期待どおりでした。他の大学では撤去されていた社会科学系のマルクスやエンゲルスの本が図書館にまだ並んでいました””アカデミックな空気がまだまだ生きていました。” 昭和15年の「発企23号」通牒に対して大阪商科大学はどのように対処したのだろうか。 

 全国の状況については、もっと多くの事例を見なければ、なにも言えないが、大学と専門学校では「発売頒布禁止図書」は閲覧禁止にすれば没収されずに済み、しかも、閲覧禁止の方法については学校側が警察署と相談する余地があったらしいことが、推測される。
昨年(1996年)、三重県立図書館が起こした「書庫入れ」事件との類似点と相違点に興味がもたれる。(1997年3月17日)■

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大学図書館きのうの話 第7回
東京大学も東京農工大学も筑波大学も農学部の図書館はいっしょだった(明治10年/1877年ー昭和10年/1935年)
(「大学の図書館」17巻1号 1998/1)

 この秋、10月16日から12月14日まで東京大学は創立120周年記念展示「学問の過去・現在・未来」をおこなった。1877年(明治10年)からかぞえて120年という。1877年というのは東京開成学校と医学校を合併して「東京大学」がつくられた年である。法学、理学、文学、医学の4学部が現東京大学の始まりということになる。
120周年記念展示も4学部の史料がほとんどであった。農学部を農事修学場までさかのぼる例にならえば、開成学校と医学校も、まだその前があり、そこまでたどって行くと、120年というには、きりが悪くなる。
 農学部について見れば、「東京帝國大学農学部」が誕生したのは1919年・大正8年であるから、農科大学時代を除いて78周年というわけだ。だがそこにいたる以前の、明治初年から始まる農学教育の歴史を含めれば120数年をかぞえることができる。かぞえかたは難しい。

 ところで筆者は、東京農工大学の図書館史を調べていく過程の一部として、関連年表を作成し分量の関係から明治大正時代の分をまず「大図研論文集」第16号に載せてもらった。学校の歴史を理解し、その中で図書館の歴史を見るためであった。原史料に直接あたることが思ったより困難で、多くの項目が既刊の大学史からの引用に頼ることになった。
 1997年の夏、博多の大会の分科会でおおいに反省の弁を述べたところであるが、このような方法が重大な見落としというか不十分さを生んだ。それは次のようなことだ。

農学教育の多様な変遷
 はじめに書いたように、現東京大学農学部は、もと東京帝國大学農学部であり、それはもと帝國大学農科大学であり、もと東京農林学校、もと駒場農学校、もと農事修学場なのである。たとえば「東京帝國大学五十年史」を読むと、東京帝國大学農学部には以上のような歴史がある、と書いてある。しかし、農事修学場にさかのぼる、この学校史は、東京農工大学農学部の歴史そのままでもある。東京農工大学関係の学校史を読んでいくと、東京農林学校は東京大学に一時併合されるが、やがて分離・独立して東京高等農林学校になるのである。つまり、農事修学場に始まる併合以前の歴史は「東京高等農林学校」の前史という見方でまとめられている。ひとつの同じ歴史上のことがらが、どちらの大学の立場から歴史を書くかによって別のもののように読めてしまった、ということである。論文集の年表で筆者が「東京農工大学の歴史」として記載していたことがらは、明治大正年代に限れば、「東京大学農学部の歴史」としても共通なのであった。この点の認識が不十分であった。たしかに、農事修学場の時代までさかのぼっても、農学教育には断続的だが、ふたつの流れがあったことは事実である。しかし、図書館と呼ばれたものは、ひとつしかなかった。ふたつの学校として、両者が明確に分かれたのは、昭和10年・1935年である。現在の両大学にある農学系の図書館の歴史はこの時点で初めて独自のあゆみを始めたと理解しなければならなかった。そのとき、蔵書をどのように分けたのか。図書館の職員はどうなったのか。大学史には何も書かれていない。

それだけではなかった
 以上のような話を分科会の準備中に筑波大学の加藤さんとメールでやりとりしているうちに、いろいろ学ぶところがあり、またもやはずかしい思いをすることになった。筑波大学の前身は東京教育大学で、文学部・理学部・教育学部が文京区大塚にあった。この3学部の前身は東京文理科大学と東京高等師範学校である。これは東京帝國大学の前身が東京開成学校と医学校だという言い方に似ている。東京教育大学の場合には、ほかに体育学部が渋谷区幡ヶ谷にあり、これの前身は東京体育専門学校と言った。では農学部(目黒区駒場)の前身はなにだったのか?
 いまの駒場は、京王線の線路をはさんで北側にもとの東大教養部(現在は教養学部、前身は第一高等校で、もうひとつ前は東京帝國大学農学部)など、南側にもとの東京教育大学農学部(現在は大学入試センター)などがある。こちらの前身が「東京農業教育専門学校」である。この学校もまた、農事修学場に端を発する流れの中から生まれた学校であったというわけだ。年表風に書けば次のようになる。

1899年4月(明治32年)
  農業教員養成所が駒場の東京帝國大学農科大学構内に開設された。
1902年3月(明治35年)
  農科大学の附属になった。
1935年7月(昭和10年)
  農学部が本郷へ移転した。農学部実科が府中へ移転した。農業教員養成所は駒場に残された。農学部跡に第一高等学校が移転してきた。
1944年4月(昭和19年)
  農業教員養成所は東京農業教育専門学校になった。
1949年5月(昭和24年)
  東京教育大学農学部になった。

そして現在は筑波大学第2学群生物資源学類と呼ばれている。ついでに触れておくと、東京工業大学の前身とされる東京職工学校も1886年4月から1887年10月までの間、帝國大学の附属学校となっていたことがあった。

ルーツの違い
 東京帝國大学農学部と東京高等農林学校のルーツの違いは本科と実科の違いであった。
東京高等農林学校の独立記念祭における初代校長麻生慶次郎の祝辞に以下の一節がある。

<元来実科は実験実習を主とし我国農山村に於ける中心指導者を養成するを以て目的とし心身の鍛練と我国体国情に適応する堅実なる農民精神の陶冶を期するを以て大学の目的とは自ら其趣を異にする(中略)。今や農山村の振興は国家経営上重要視せらるるの時に当り農民を指導誘掖すべき人士を養成する本校の創設は最も機宜を得たるもの(後略)>

 麻生校長は同じ祝辞の中で、実科のルーツを明治9年4月設立の試業科としている。おおかたの理解がそのようであったのだろうが実科が独立を求めるに至るほど、本科との違いが社会的に明確になってきたのは大正時代に入ってのちのことであろう。本科と実科は服装も分けられていたようで、なにかと区別されるようになっていたらしい。大正7年の卒業生鈴木元助氏が次のように書いている。

 <毎朝教室街道に出ると角帽が巾をきかせているせいか我々は無帽にインキ瓶を袴につりあげて教室へ通ったものだが、各種の実験も継子扱いにされている気分で面白い事はなかった。しかし一度農場に出ると畑も作物も我等のものだという感じで思う存分実習をした。(中略)秋の運動会には本科打倒の一本調子で、実科全員ここぞと応援をしたものだ(講農会々報第172号個人通信)>。■


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大学図書館きのうの話 第8回
図書館の使命は「思想善導」である(昭和3年/1928年)
(「大学の図書館」17巻2号 1998/2)


 70年ほど前の高等・専門学校の図書館での話である。
 図書館長が集まって図書館運営について、あれこれ話し合う会議が当時も毎年おこなわれていた。まえにも書いたことがある全国高等諸学校図書館協議会のことだが、ここの議題は図書館資料の選択、収集、分類、目録、職員、奉仕など全般にわたるものであった。第1回から第16回までの議題一覧を大学図書館問題研究会東京支部の歴史研究グループが1983年に作成したことがある。「論文集」に再録しても良いかもしれない。たいへん興味深いものである。
 その中で注目したいのが図書館の「思想善導」に関する議論である。思想善導というのは、国家権力をくつがえすかもしれない危険な左翼思想に学生・生徒を近づけないだけではなく、もっと積極的に愛国的思想・行動に導くことを意味していた。大正時代半ば頃からの歴史年表を参照していただきたいが、不穏な事件があいつぎ大学や高等学校に警戒の眼がそそがれた。関東大震災の翌年、高等学校長会議は校内の社会科学研究団体を解散させることを決めた。翌年、治安維持法が成立、さらに次の大正14年には文部大臣が学生の社会科学研究絶対禁止を通達した。15年、京都大学の学生検挙(京都学連事件)。2年後の昭和3年が3・15事件、4年には4・16事件があり高等学校・専門学校生徒の中からも検挙者が出た。このような状況であったから、文部省は高等学校長会議はもちろん、全国高等諸学校図書館協議会においてもことあるごとに「思想善導の方策」を考え実行することを求めたのである。図書館長たちが考え出す具体策がどうこう、というよりは図書館長に対する思想教育の側面が大きかったと思われる。

図書館はなにを、すべきか
 昭和3年10月、第5回協議会が金沢市で開催された。このとき出席した文部省の近沢督学官は「図書館というものの機能の上から申し上げますと、生徒訓育に資するというのはあるいは邪道であるとお考えのお方もあるかもしませんけれども」と、すこし退いた言い方をしながらも、教官全部で協力し「図書館も尽くし得る限り尽くし」なんらかの手段を講じるように求めたのである。もちろん、図書館長の側からも、ごくあたりまえに、積極的に協議したいという意見は出た。事前に募集した協議題の中に第六高等学校(岡山大学の前身のひとつ)が出した議題がある。それは「思想善導に関し図書館として採るべき方法如何」というものである。提出の理由が次のように書かれている(カタカナ、旧漢字を改めた)。
「近時学生の気風一変し、教育に従事するものは常にこの点に関し周到の注意を怠らざりしも、遂に危険思想を抱くもの逐次増加し検挙せらるるものあるに至る。文部当局においても今回いよいよ訓育上多大の改善を加え、思想善導に全力を挙げんとせられつつあり。このときに当たって学校附設の図書館も相当の施設をなし、両々相まってはじめて其の効果を奏するものなりと信ずるを以て、この問題を提出し諸賢の充分なるご審議を乞わんと欲するものなり」

発言 東京高等蚕糸学校の場合
 文部省の諮問(生徒訓育に資すべき方策)と第六高等学校の議題は、全体会であわせて議論された。10人の方の発言が同協議会会報第5号に記録されている。詳細はここでは省くが、自館史研究の便宜のために発言者の学校名とお名前を書いておこう。敬称は略させていただいた。
神戸関西学院(中島猶次郎)、山口高等商業学校(宇野久亮)、海軍兵学校(三島和介)、神戸高等商業学校(鞠谷安太郎)、東京高等蚕糸学校(鈴木美雄)、松山高等学校(川畑思無邪)、神戸女学院大学部(横川四十八)、天理外国語学校(中西喜代造)、高知高等学校(市来義彦)、女子学習院(佐藤幹二)、第六高等学校(河合尭永)

 実はこの第5回(昭和3年)と次の第6回(昭和4年)に学生生徒の思想問題に図書館はどう対処するか、という協議が連続しておこなわれたが、第5回のほうはそれほど危機感が感じられない。読書指導係をおいたらどうか、図書の選択が大事、図書館職員の質を高める、閲覧室を巡回する、貸出を増やす、多様な本を用意するなどの意見が出た。
 現在の東京農工大学附属図書館小金井分館の前身である、東京高等蚕糸学校の鈴木教授(図書標本課長)は要旨、次のように発言した。
<図書館員が少ないので課長自ら監督指導に当たっている。購入した新刊書はほとんど見るから大体の傾向は知れる。学生どころか、職員もどういう本が来ているか聞いてくる。
「共産党事件で1人あげられたものもありますが、これなんか図書館へ1日もきたことがない。」「こういう危険思想を持っている人は図書館へ決して来ない」。教授が直接生徒の相手になる(から無事である)。>
 昭和3年当時の蔵書の状況も調べてみないと鈴木教授の発言は解釈のしようがない。
第六高等学校の提起は、大上段に思想善導を図ろうと言うのではなく、実は他の学校の処置を知りたいという程度の、実利的な意図であったようだ。河合教授は、思想善導が問題になっているが、では、マルキシズムを批判した本を学校で読むのは許すのか、学校で禁止している本を市や県の図書館で読むものが多数いたというが良い方法はあるのか、とたずねている。議長は、たいへんデリケートなところがある、と論評した。しかし、この質問についての他の学校の発言は記録がない。

 3日目の全体会議で文部省に提出する答申が決まった。
1 専任の読書指導係を設くる事
2 図書の購入及その貸出に関して生徒訓育上の立場より一層注意を払う事
3 常に生徒の読書傾向を調査し統計を取りて教官に報告する事
答申の第2項は原案では「思想上の図書の購入及貸出を一層厳重にする事」とあった。思想上、厳重、の語を言い換えゆるやかな表現にしようという意見が名古屋高等商業学校(高島佐一郎)と横浜高等商業学校(下田礼佐)から出て修正されたのである。言い替えの意図がどこにあったのか、会報の記録からは読みとることができない。
 第6回は昭和4年11月7日に名古屋市で開催された。前日の11月6日朝刊に半年も前の、4月16日共産党大検挙の記事がはじめて載った。禁止していた発表を当局が解除したのである。協議会初日、名古屋高等商業学校の渡辺龍聖校長は祝辞の中で、いまや思想国難である、図書の購入選択は充分に考えよ、と訴えた。文部省の菰田督学官も、左傾的図書の取扱は学校の種類によって程度は違うように考えられるが「図書館に備え付けても生徒には閲覧を禁止するのが当然のことである訳であります」と教育指導を強調した説明をした。(1997/11/4 )■


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大学図書館きのうの話 第9回
閲覧禁止図書をめぐって(昭和15年/1940年)
(「大学の図書館」17巻4号 1998/4)

 昭和15年7月19日付「発企23号」で発売頒布を禁止された図書のことを第2回と第6回に書いた。くどいようだが今回も、この件にかかわる別の話を紹介しておきたい。どういう理由からなのか、東京高等農林学校の、この時期の文書が東京農工大学の図書館(本館)に数点、残っている。当時の状況が分かる貴重な手がかりである。ほかの大学には残っていないのだろうか。

 昭和14年12月8日付の「発指28号」という文書は、次のようである。
 これは文部省教学局指導部長発の通牒で東京高等農林学校長宛になっている。宛名の部分はゴム印である。内容から見て他の直轄学校へも同様に送付されたものと思われる。要旨は、「今般読書指導上の参考に資するため学校図書館の調査を致したく、左記様式により1月10日までに報告されたい」というものである。調査項目は以下の11項目であった。

1 図書館職員(教授、助教授、司書官、司書、書記、嘱託、雇員、計の人数)
2 蔵書(冊数を和書、漢書、洋書、計の別に記入。文庫の名称、冊数も)
3 閲覧室(室数、面積(坪)、収容人員数)
4 閲覧時間(何時から何時まで。夏期、冬期、特別の場合)
5 図書購入費(昭和14年度)
6 図書館利用状況(昭和14年1月より12月までの在学生数、1年間開館総日数、1年間入館総人員、1日平均入館人員、利用率を記入。利用率とは1日平均入館人員割る在学生数である)
7 閲覧状況(6と同じ期間の閲覧図書数を分類別に記入する。備考として、分類は各学校の分類による、とある)
8 特に閲覧奨励のため取りつつある具体的施設または方法
9 教学局刊行各種資料ならびに選奨図書の利用状況
10 閲覧禁止図書
11 その他参考となるべき事項

 以上のうち、7番目の質問にはさらに、各分類ごとに「最近最も多く読まれた図書3冊につき、書名・著者名・閲覧延べ人員を別表として添付する」よう求めている。また10の「閲覧禁止図書」の項目では、
(イ)風俗に関するもの      冊
(ロ)思想に関するもの      冊
と当該学校の閲覧禁止の実施状況を書かせ、別表としてそれらの図書の書名、著者名、発行所、発行年月日を記入、提出させた。

 あらためてコメントするまでもないかもしれないが、近代日本の言論思想統制は明治政府の政権樹立と同時に始められた。大正末期に治安維持法がつくられ、昭和に入って最大限、利用された。大学・高等学校・専門学校の教師、学生生徒を対象とした思想取締事件は、もはや珍しくなかった。思想善導の元締めである文部省教学局のこの調査は、学校及び図書館の思想調査そのものと言える。

「閲覧禁止図書」ナシ
 東京高等農林学校では、この文書を12月8日に収受した。しかし、どのような事情によるのか分からないが、1月10日の期限までに回答しなかった。年が明けた昭和15年1月24日付で文部省から催促が来た。「標記の件に関し未だ御回答に接せず」整理の都合があるから至急ご提出あいなりたし、という一見ていねいな催促の文書を庶務課が1月29日に受け付けた。この時までには図書館でも回答を準備していたのであろうか、翌1月30日付で図書館嘱託の野沢隆氏が起案し、学校長(小出満二教授)までの決裁を経て2月5日には回答を発送した。当時の図書館長は望月岑教授であった。
 回答の内容は、ざっと次のとおりである。

1 図書館職員
  教授1、嘱託1、雇員2、計4
2 蔵書 
  和漢書 13、256
  洋書   3、209
  資料   7、101
  計   23、566
3 閲覧室
  室数1、56.862坪、80人
4 閲覧時間
  毎日午前8時30分から午後4時まで
  2月1日より11月30日までは午後9時まで開館
5 図書購入費
  予算総額 10、000円
  内訳 農学科  2、200円
     林学科  2、000円
     獣医学科 2、500円
     拓殖学科 1、000円
     図書館  2、300円
6 図書館利用状況
  在学生数       406人
  1年間開館日数    300日
  1年間入館総人数 2、926人
  1日平均      9.75人
  利用率        2.4%
7 閲覧状況
<筆者注:こまかいので省略。年間5、656冊閲覧。最多は農学1、032冊、最少は美術音楽運動で31冊。ほかに資料314冊がある。9番目の項目に関連。別表は、みつかっていない>
8 閲覧奨励の特別施設・方法
<以下に全文を引用。読みやすく表記した>
「本校は技術を主とするがゆえに日中は学科のほか実験実習に多くの時間を要するにつき図書館は年中の大部分夜間の開館をなし閲覧に便にす」
9 教学局刊行資料・選奨図書の利用状況
<以下に全文を引用。読みやすく表記した>
「右は文部省刊行物として前記資料中に特設す其の状況前記示数のごとし」
10 閲覧禁止図書
   「ナシ」
   「気象台報告類ハ当分閲覧ヲ禁ス」
11 その他参考となるべき事項
   「ナシ」

 昭和時代の初めから高等諸学校図書館では思想善導の手段としての読書の奨励が盛んに求められ、図書館協議会などで議論と経験交流がされていた(きのうの話第8回参照)。3-9の設問は、これらの学校の実態を文部省が把握しようとしたことを意味する。10の閲覧禁止図書の項には全国から、どのような回答があったのだろうか。たいへん知りたいところである。この調査が行われた翌年の昭和15年3月には、教学局の「禁止図書の処置について」の通牒が出される。結果は公刊されなかったのではないかと思うが、なにかに報告されていないだろうか。ご存知の方があったらぜひお教えください。

 それにしても東京高等農林学校の回答「ナシ」は、なんだかぶっきらぼうに過ぎるような気がする。(1998年1月30日)■


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大学図書館きのうの話 第10回
非常時のなかの学生生徒・教師 昭和15年-昭和20年(1940-45年)
(「大学の図書館」17巻7号 1998/7)

 新制大学の前身であった大学、高等学校、専門学校、師範学校などの図書館の歴史は、個別にも全体にも、まだほとんど書かれていない。五十年史、百年史などの大学史・学校史の中で図書館に触れているものはあるが、どうしても制度や建物、記念行事などの記録に傾きがちで、生きた活動が見えてこないことが多い。
 図書台帳を繰ってみれば、選定し購入し登録し分類した結果が残っている。本屋さんの名があり当時の価格がある。記入した職員の筆跡を見ることができる。目録カ-ドだっていろいろある。先輩の見覚えのある筆跡もまじっていて懐かしくなる。書庫に行けば、その番号の本があり、蔵書印が押してあってラベルが貼ってある。よく読まれた形跡があったり、なかったりする。分類表を決めたり変更した経過やら、夜間開館や休日開館の状況など、どういういきさつがあったのだろう。当時、実際に使われていた分類表や目録規則の本を見てみたい。
 わたしが知りたい歴史とは、図書館のサ-ビスがどのように展開してきて、あるいは挫折して今に至っているのか、現場で働いていた職員にはどういう人がいて、その人はどういう生活をし、どのように仕事をしたのか、それが今の日常の図書館にどのように伝わっているのかが分かるような、そのような歴史である。

勤労「奉仕」から勤労「動員」へ
 大正から昭和の初めにかけて、図書館活動がたいへん盛んな時代があった。だが、それもつかの間で、読書どころか学校教育などにかまっていられない時代が到来した。

 昭和7年(1932年)に満州国がつくられた。日本政府は満州国を外国扱いしてみせたが、実質は属国であり、日本の植民場所であった。貧しい農民と失業者が、まず開拓民として送り込まれたのだが、渡満した人々のなかには希望と使命感を見出した人もいた。統治機構の構成員として多くのインテリも渡満し都市生活がいとなまれた。満州・朝鮮に職を求めた図書館員もすくなくなかった。
 開拓と言っても、まったくの原野から始めたのでもなかったらしい。すでに出来ていた畑を取りあげて開拓村を作った。それにしても、土地の生産性は低く労働力にも不足したので奨励されることになったのが学生生徒の「勤労奉仕」だった。中村薫編著「学生義勇軍(農村更生協会 1987)」によれば昭和8、9年頃に文部省の外郭団体が組織した千人規模の視察見学旅行があった。実際の農作業は2週間ほどの手伝いであったから、なにほどの力になったとも思われない。しかし意識高揚の効果は大きく、これがやがて大規模な運動に発展した。昭和12年の夏に行われた満州移住地学生実習団20名のなかには東京高等農林学校の生徒が9人も参加している。翌13年には学生義勇軍と称して訓練をしたが134名中37名(最多)が東京高等農林学校生徒であった。実際には他校をあわせ250名あまりが渡満したらしい。
 どうも、この学生義勇軍運動と東京高等農林学校はかなり深い関係にあったように思われる。参加した生徒ばかりでなく、役員名簿には当時の学校長小出満二教授の名も見られるのである。この民間ベ-スの運動(と言っても年間予算の約4分の1は国の補助金だった)は以後も続いた。他方、文部省も昭和14年と15年に直接、学生の勤労動員に乗り出し、興亜青年勤労報国隊を満州、蒙彊、北支へ派遣した。東京高等農林学校と東京高等蚕糸学校も生徒を選抜し教師が引率して、これに?チわった。昭和16年になると、もはや戦時非常態勢で緊縮財政となり、国内でも学生生徒たちはなにかというと勤労動員に駆り出されることになっていった。
 以上のように社会の緊張が日々、高まっていく非常時でありながら、ごく普通の暮らしもあったようだ。ひとの暮らしでは、これで当たり前なのだろうが歴史書などで読むと、ふだんの生活が見えないことがある。若かった山田風太郎でも中年の永井荷風でも、あの東京大空襲の頃に、焼け跡を見て歩きまわったり、読書にふけったり、うまいものにありついたり劇場や演奏会に行ったりという生活があった、と書いている。東京高等農林学校の先生と生徒のある日はこんな具合だ。

船遊びとウサギ狩り
 日本軍がアジアの各地に上陸し都市を次々に占領していた昭和17年。しかし4月18日に東京は早くもアメリカ軍の初空襲を受けていた。4月28日、東京高等農林学校の先生方には春の旅行会のビラが配られた。5月3日の日曜日午前9時に千葉の浦安は船宿・吉野屋に集合して舟遊び、というのである。江戸川を上り下りしたのだろうか。ちょっと不思議なのは昼食で、「船中でマグロのてんぷら料理」だそうである。江戸前のマグロなんて聞いたことがない。当時をしのばせるのは「有働先生のご厚意による日本酒もあり」「白米1合各自持参の事」という注意書きである。米は配給制になっていたが、学生寮などではどんぶり一杯限り(お代わりなし)という程度には、まだ食べられた時代であった。2年もたたないうちに、米の飯などは食べられなくなってしまったが。
 生徒のほうの話では、同じ昭和17年1月24日の土曜日に全校生でウサギ狩りに行ったという話がある。前日が学校の創立記念日で祝いの遠足だったのだろうか。「駒場の青春 駒場寮三十年」の中の「寮長日誌抄録」に次のように書いてある。
1月24日(土)晴 絶好の天気にめぐまれて、全校生が青梅の兎狩に行く。寮生は六時半起床。この日の収獲、兎六匹。
 ロ-カルな話題で申し訳ないが、56年後のいま、青梅(市)は東京のベッドタウンである。もっとも、いまでも野ウサギがいそうな野山がないわけではない。
 防空演習、勤労奉仕、農作業、教練に明け暮れる学校生活のつかの間のたのしみと言うべきか。

おしまい
 貴重な誌面をながく使わせていただいた。今回でこの連載をひとまず終わる。つたない筆にこめた思いが伝わっただろうか。心許ない。掲載を許してくれた編集部と、読んでくださった方にお礼を申し上げたい。
 参考書のいちいちは字数の関係もあるのであえて記さなかった。引用は出所を明記しておいたつもりだが、もし疑問があれば、お答えする。(1998年2月17日)■


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