大学図書館きのうの話 目次

第1回 図書館のレコ−ド鑑賞会(昭和12/1937年)
(「大学の図書館」15巻9号 1996/9)

第2回 発売頒布禁止本のゆくえ(昭和15/1940年)
(「大学の図書館」16巻1号 1997/1)

第3回 夜間/日曜開館・公開(昭和7年/1932年)
(「大学の図書館」16巻2号 1997/2)

第4回 図書館協議会消滅の時代(昭和16年/1941年)
(「大学の図書館」16巻5号 1997/5)

第5回 垣間見る先輩方の横顔(昭和12年/1937年)
(「大学の図書館」16巻7号 1997/7)

第6回 発売頒布禁止本のゆくえ  その2(昭和15/1940年)
(「大学の図書館」16巻8号 1997/8)

第7回 東京大学も東京農工大学も筑波大学も農学部の図書館はいっしょだった
(明治10年/1877年ー昭和10年/1935年)
(「大学の図書館」17巻1号 1998/1)

第8回 図書館の使命は「思想善導」である(昭和3年/1928年)
(「大学の図書館」17巻2号 1998/2)

第9回 閲覧禁止図書をめぐって(昭和15年/1940年)
(「大学の図書館」17巻4号 1998/4)

第10回 非常時のなかの学生生徒・教師(昭和15年−昭和20年(1940-45年))
(「大学の図書館」17巻7号 1998/7)

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大学図書館きのうの話 第1回
図書館のレコ−ド鑑賞会(昭和12/1937年)
(「大学の図書館」15巻9号 1996/9)

まえおき
大学図書館で働いた過去35年ほど(そのほとんどが東京農工大学の図書館であった)の問に覗き見た古い書きつけや図書台帳などは、タイムカプセルのように先輩方の仕事ぶりを目にあざやかにみせてくれた。それらは今の時代の大学と大学図書館のありように照らしてたいへん興味深い。特に大正の終わりから昭和15年(1926−1940年)ごろに至る時代に私は強い関心を持っている。大日本帝国の中国・満州への領土拡大政策にともなう国家間の緊張が高まり、昭和16年の対米英戦争へ突入していくこの時代は、すでに治安維持法が恐ろしく、出版物規制も行われていた時代であったが、図書館活動は自由活発であったようだ。しかし昭和15年前後から20年の敗戦に向かっては、すべてに統制が強まり図書館活動も息をひそめた。そのとき、いまの大学の前身と言うべき専門学校、高等学校、師範学校などの図書館では、どのような日常があったのだろうか。

3枚の集会通知書
 東京農工大学のふたつの図書館には沿革資料の置き場所があるが、実は図書館員でさえここに何があるのか、詳しくは知らない。大学の百年史編纂委員の老教授や同窓会の役員などが以前、集めたか見たかしたらしい資料が雑然と置いてある。一部分、10年ほど以前に、S係長が精力的に目録を取って戸棚にしまったものもあるが、その後は誰も手をつけていない。その部屋の棚に茶色の汚い模造紙で荒っぼく包まれた書き付けがあった。B5版で和文タイプ謄写版の書式に毛筆で記入した1枚もので、次のように書いてある。

    集会通知書
1、日時 1月28日木曜 自午後5時
            至午後8時
            3時間
1、会名及会場 文芸部レコ−ド音楽鑑賞会  図書館閲覧室
1、目的 音楽鑑賞
1、講師 無し
1、会員の種類及人数 本校生徒、約50名
1、代表者 農学科3年大橋宏(印)
1、紹介教授 永井威三郎(印)
  昭和12年1月26日

(余自にゴム印で「生徒主事、学生課、会計課、図書課、教務課」とあり、生徒主事に大沢という印、学生課に伊東という印が押してある)。このほかに、同様の通知書が2枚あり、1枚は年の記入がなく6月16日水曜、午後6時から9時、約30名とある。もう1枚は昭和12年9月17日付で同じ時間、約30名とある。この9月17日付けの通知では、左下にゴム印で「東京高等農林学校学生課」と押してあって左上にペン書きで「図書館御中」と書いてある。つまり、生徒が紹介教授の印をもらい学生課に届け図書館に閲覧室の使用を求めた文書であった。昭和12年の1月、6月、9月に閲覧室で行われたレコ−ド鑑賞会の「集会通知書」が3枚だけ残されていたのである。はじめの集会通知書に紹介教授として記されていた「永井威三郎」教授は学友会の文芸部部長であり、生徒主事の捺印「大沢」は大沢竹次郎教授、学生課の捺印「伊東」は学生課長の伊東正勝助教授(翌年教授)であると思われる。学友会というのは、今で言う部活のようだが全生徒の加入が決められていたようだ。昭和10年度の資料で見ると、学友会には16の部があり、会長には校長が、部長には教授または助教授が、委員として生徒が1名決められた。学友会費として新入生は13円、2・3年生は年10円を払っていた。授業料は年80円、寄宿料は年22円であった。昭和12年当時のレコ−ドはもちろん現在SPと呼んでいるもので、裏表で約10分、手巻きのぜんまいを動力とする「蓄昔器」で聞いたのだろうか。昭和12年度には全国で27万台あまりが生産されていて、昭和13年に新発売されたビクタ−のポ−タプル型蓄音器は45円、電気蓄音器は140円であった。昭和14年に入学した大塚米次さんは寮史に、学生寮(駒場寮と言った)の娯楽室でよく名曲を聴いたと書いている。昭和12年の寮委員のひとりだった小磯秀一さんは娯楽室の洋間に電蓄の備え付けを自治活動として手がけたということである。図書館に蓄音器が備えてあったのかどうかは分からない。レコ−ドはどこから手に入れたのだろうか。当時文芸部が編集・発行していた「菊桐」という年刊A6版、160ペ−ジ前後、活版印刷の雑誌が保存されている。ただ、どういう訳か、昭和12年の号だけが欠けているのだがこの雑誌の昭和11年発行の号に、レコ−ド音楽鑑賞会が文芸部に編入されたという文章があり、その中に「斯界の大家藤田不二先生は我々の会の顧問として常に親身となりご指導いただき(中略)先生の御大切なレコ−ドもお貸しくだされ」云々とある。藤田先生とは何者なのか調べてみたがまだ分からない。レコ−ド盤は昭和12年まで1枚1円50銭という値が続いていたようで、既に中古も出回っていた。それにしてもたとえば、ベ−ト−ベンの交響曲第7番が4枚組、第9番は7枚組である。図書館がレコ−ドを買ったらしい記録はまだ見たことがない。

鑑賞会プログラム
生徒たちは何の曲を鑑賞したのだろうか。前記のように昭和12年の号だけが欠けているので、1年後の昭和13年の「菊桐」を見ると巻末に学友会の各部の活動記録があり、文芸部の「レコ−ド音楽鑑賞会」の曲目が記録されている。略述すると次のようだ。
◆第11回(4月25日)ラロ−:スペイン交響曲、ベ−ト−ベン:交響曲「第5」運命、奏鳴曲「熱情」、シュ−ベルト:弦楽四重奏曲「死と少女」、小夜曲そのほか全部で18曲。
◆第12回(6月13日)バッハ:トッカ−タとフ−ガ、メンデルスゾ−ン:フィンガルの洞窟、シベリウス:交響曲第2番そのほか全部で11曲。
◆第13回(予定)
ハイドン:交響曲「軍隊」、ベ−ト−ベン:洋琴協奏曲第5番「皇帝」、サンサ−ンス:提琴協奏曲第3番など全部で8曲。

第11回の曲目が多いのはこの回が新入生の歓迎会だったかららしい。この年度は第14回まで、4回企画されていた。クラシック音楽ファンおなじみの曲目が並んでいるが、当時の洋楽のはやりかたは相当なものであったと伝えられている。寄り道になるが、たとえば昭和13年9月21日の東京朝日新間でラジオ放送番組(東京・JOAK)を見ると朝7時台に行進曲6曲、正午から第2放送で管弦楽ほか7曲、6時25分名曲鑑賞(モ−ツアルト・ピアノ協奏曲)、夜8時に第1放送で合唱と管弦楽などとクラシック音楽が組んである。この夜の曲目で合唱とあるのは当時来日中であったヒットラ−ユ−ゲントがナチス党歌「いざ掲げん我等の旗を」ほか2曲を放送するというものであった。ちなみに管弦楽のほうは近衛秀麿指揮の日本放送交響楽団となっている。昭和12年当時、東京高等農林学校図書館の開館時間は「校長が定める」ことになっていて、ふだんは夜間開館は実施していなかった。当時の閲覧室は鉄筋コンクリ−ト平屋建て56坪(約185平方米)、教室とは別棟で独立していた。愛好者が多く閲覧室では狭くなったのか、良い音響効果を求めてであるのか、文芸部のレコ−ド音楽鑑賞会はこの後、合併教室(昭和14年)、第一製図室(昭和15年)と図書館の外へ出ていった。学友会という組織は昭和15年11月の文部省の指示を受けて全国の学校で一斉に(自主的に)解散した。■


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大学図書館きのうの話 第2回
発売頒布禁止本の行方(昭和15/1940年)
(「大学の図書館」16巻1号 1997/1)

 昭和15年7月19日付けで文部省教学局長官が出した通牒「発企23号」は次のようである。漢字はおおむね常用漢字に直し、縦書きを横書きに変えた。

  発売頒布禁止処分図書ノ取扱方ニ関スル件
 別記図書本月10日附ヲ以テ出版法第19条ニ依り発売頒布ノ禁止、刻版及印本ノ差押処分ニ付セラレタルニ付テハ貴学(校)ニ於テ該当ノモノ有之ラバ図書館ニ備付アルモノハ勿論其ノ他学生生徒ノ閲覧シ得ベキ場所ニアルモノハ直チニ閲覧、貸出ヲ禁止シ之ガ保管ノ場所、方法等ニ付テ適当ナル処置ヲ講ジ以テ学生生徒ノ指導上遺憾ナキヲ期セラレ度此段及通牒
 追而右処置相成リタルトキハ図書名拉ニ処置シタル方法等ニ付報告有之度為念申添フ

 この通牒には、「記 発売頒布禁止処分図書名」という、別冊の綴りがあり、全部で157冊の図書名、著者訳者名、判型、冊数、出版社名と所在地、発行日が記載されていた。(参考:「発企23号」の前に出された「発企9号」の冒頭部分)。

 東京高等農林学校では、この通牒は22日に受け付けていて1週間後の昭和15年7月29日に図書館の野沢隆書記によると思われる次のような回答案が起案された。

  別記ノ件 左案ヲ以テ報告相成可然哉
     案
  年月日  校長名
教学局長宛
  発売頒布禁止処分図書ノ取扱方ニ関スル件
本月19日付発企23号ヲ以テ御通牒有之標記ノ件ハ本校ニ蔵書セルモノ及之ニ対シ今後ノ取扱ニ就テハ左記ノ通リニ取斗(はからい:引用者注)致シ候間此段及報告候也
    記
  1、図書名
    山田盛太郎著 日本資本主義分析 岩波書店発行
    野呂栄太郎著 日本資本主義発達史 同
  1、取扱
    閲覧及貸出ヲ禁止ス
  1、保管ノ場所及方法
    特別ノ蔵置所ヲ設ケ其ノ鍵ハ校長之ヲ保管ス

 この起案書には起案者の欄に「野沢」の擦印がありさらに、「成田」「内山」の捺印と「図書館」のゴム印の下に「望月」、庶務課のゴム印の下にXX(判読不能)、活字印刷した「校長」の文字の下に「小出」の捺印がある。発送の欄には7月29日の記入があり取扱者欄には「吉田」の捺印がある。東京高等農林学校一覧(昭和15年度)によって以上の捺印の主を推定すれば以下のようである(敬称略)。
小出=小出満二 学校長(教授)
望月=望月岑  図書館長(教授)
XX=深沢重六 庶務課(嘱託)
野沢=野沢隆  図書課(嘱託)
内山=内山善一 図書課(雇)
成田=成田文夫 図書課(雇)
吉田=吉田孝祐 庶務課(雇)

 教学局通牒のリストに掲載されていた157冊は、東京高等農林学校の図書館には回答した2冊しか所蔵されていなかったらしい。リストを見ると当該の2冊には書名の上、欄外に鉛筆のチェックがあり、「農」という文字を書いて○で囲んであった。
 「特別ノ蔵置所」に別置された2冊の図昔は、その後どうなったのか。OPACと未入力の古い本の目録カードとを探してみたが、該当する図書は無かった。しかたがないので図書台帳を昭和15年からさかのぼって1ページづつ見てみた。登録された書名や納入者名を見ていくと、連想が湧いて、ついほかのことに気を取られてしまう。数日かかってやっとめざす本の記入にめぐりあった。抹消されたりはしておらず記入されたときのままで、分類番号も旧分類のままであった。旧分類というのは高等農林学校時代の分類表による分類である。高等農林学校時代の蔵書は、新制大学になった後、大部分がNDCで再分類されたが、もとの分類のまま書庫に閉架してあるものもある。これらの本のなかには明治大正から昭和初期に購入された文学書なども含まれていて背表紙を見ているだけでもなかなか楽しい。余談であるが書庫に入ってブラウジング出来るのは、実は現役図書館員の最大の特権であることが退職してよく分かった。再分類がいつ、なぜ、誰によって行われたのか、まだ分かっていないのだが同じことが現工学部の前身である東京繊維専門学校(当時)でも行われていた。ふたつの専門学校が昭和24年・1949年5月に東京農工大学になったわけだが、ふたつの図書館が大学の組織として一体化したのは昭和24年6月である。別々の分類では具合が悪かったのだろう。

 さて、先ほどの2冊の図書であるが、昭和15年から図書台帳をさかのぼって見てゆくうちに、次の記述をみつけた。(カッコ内は筆者注)。


 昭和11年2月7日 1598(登録番号)
 野呂栄太郎(著)日本資本主義発達史 昭和10(年発行)東京 四六(版) 仮(綴) 431(分類番号)N63−1(図書番号)1(冊)90銭 農学科(備え付け) 波多野重太郎(納入者)

図書台帳の右端にある備考欄まで目が行ったところで、「あった」と思った。そこには黒インキのペン字で「昭和十五年七月廿九日発禁本トシテノ特別保管ヲナス」と書いてあり「野沢」という小判型の印が朱で押してあった。勢いを得てさらに前のページを繰ってゆくと次の記述もみつかった。

 昭和11年2月5日 1522(登録番号)
 山田盛太郎(著)日本資本主義分析 昭和10(年発行) 東京 菊版 洋装 432(分類番号)Y44−1(図書番号) 1(冊)1円20銭 農学科(備え付け) 波多野重太郎(納入者)

備考欄には、「昭和十五年七月二十九日発禁本トシテ特別保管ヲナスタメ特定場所ニ移管ス」と、より詳しい注記がしてあって同じように捺印がしてあった。記入したときは、登録番号が若い方から備考を記入したので、こちらが詳しくなったのだろう。「野沢」の印は、前記起案書の「野沢」印と同じものである。さて、現物はどうだったか。旧分類の図書は、書庫の電動集密書架に保管されているはずである。謎解き気分で探しに行くと、正しく所定の場所にそれぞれ並んでいた。本そのものには、なんの変わりもない。特別のしるしも記入も何もない。校長室の戸棚にしまって鍵をかけただけだったのだろうか。このような処置が野沢書記の考えだけで行われたとは考えにくい。校長はじめ図書課長や生徒主事がどのような協議をしたのだろう。そして5年以上経過した戦後のいつに、誰がもとの棚にもどしたのだろうか。■

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大学図書館きのうの話     第3回
 夜間/日曜開館・公開  (昭和7年/1932年)
(「大学の図書館」16巻2号 1997/2)

 昭和7年(1932年)10月6日(木)から8日(土)に、関西学院大学図書館で第9回全国高等諸学校図書館協議会が開催された。高等諸学校というのは、大学・専門学校・高等学校等の総称で、昭和7年当時、この協議会には官立・私立あわせて163校が加盟していて、第9回の会議には57校71人が参加した。参加者の大部分は今で言う図書館長に当たる職務の教員(教授)であったようだが、毎回、図書館運営の実際的な問題を話し合っている。第9回当時には、協議会で「標準分類表」を作る作業が行われたりしていた。
 この協議会に提出された協議題は実に多岐にわたるが、「夜間開館」が議題となったのは第9回、第11回、第13回、第15回である。およその内容を紹介しよう。

第9回:1932年(名古屋高等商業学校提出、高島佐一郎氏出席)
 物価高で学生生徒が本を買う余裕が無くなり図書館利用の要求が高まった。夜間3時間延長するには、従事者、電灯、暖房の経費がかかるが支出増は認められないところが多いと思う。多くの学校ではどう処理されているのか。
第11回:1934年(京都高等蚕糸学校提出 見波定治氏出席)
 図書館延長及び夜間開館の実況承りたし。
第13回:1936年(名古屋高等商業学校提出 高島佐一郎氏出席)
 夜間開館の場合、出納手がたの出勤時間、相互の組み合わせ時間をいかに処理するを適正となすかを承りたし。
第15回:1938年(鳥取高等農業学校提出 山根 信氏出席)
 夜間の開館にご経験あらば開館時間および生徒の利用状況等承りたし。

 以上のほか休日開館については第1回:1924年(彦根高等商業学校提出)第4回:1927年(文部省諮問)、第13回:1936年(東京高等商船学校提出)に協議が行われた。
 一方、この協議会とは別に、帝國大学だけで組織されていた帝國大学附属図書館協議会では、その第3回:1926年に東京帝國大学から「夏休、日曜等の閲覧に関する件」が出されたほか、第4回:1927年(北海道帝國大学提出)、第8回:1931年(東京帝國大学及び北海道帝國大学提出)第12回:1935年(九州帝國大学提出)に夜間・休日等の開館問題が議題になった。
 医科大学附属図書館協議会では第6回:1932年に「夜間閲覧室時間外勤務者に弁当料(1食分)支給方促進の件」、東京私立大学図書館協議会では、第3回:1934年に「公開に関する現状又はご意見を承りたし」という議題があった。
 「公開」の歴史については知識がないが、東京専門学校(今の早稲田大学)では、明治37年:1904年11月に図書館の一般公開を始め、翌年には毎月400人前後の利用者があったそうだ。
 
夜間開館の状況で照会
 昭和12年(1937年)2月4日付けの「京高蚕発図第15号」という文書が東京農工大学の図書館に残っている。京都高等蚕糸学校(今の京都工芸繊維大学)図書課名でタイプ印字されたこの文書は東京高等農林学校御中、と手書きされていて時候の挨拶に続き御繁用中誠に恐縮だが当課の参考にするので回答して欲しい、と次のような質問が書いてある。

1、図書館の夜間開館を(日曜祭日除く)毎日行はれて居りますか。
2、或は又特定の時期に限り図書館の夜間開館を行はれますか。
3、若し貴館に於て夜間開館を行はれ居る場合
 イ、閉館時間は何時ですか。
 ロ、夜間開館中生徒の図書閲覧者は一日平均何人位ですか。
 ハ、図書館係員中昼間勤務者と夜間専門の勤務者との区別の有無
 ニ、若し有りますれば前記二者間の勤務又は交代時間、職名係員数等
                                  以上

 2月17日付、東京高等農林学校の回答は以下の通りである。

1、定期ノ夜間開館ヲ行ハズ
2、夜間開館ノ必要アリト認ムル場合(例ヘバ学期試験ノ際ノ如ク)ニハ臨時ニ之ヲ行フ
3、イ、特定夜間開館ノ場合ニハ午後四時ヨリ同九時マデトス
  ロ、現在マデ行ヒタル夜間開館ノ際ニハ生徒ノ閲覧者ハ一日平均約十五名位トス
  ハ、同開館ノ場合ニハ現職員三名ガ一名宛交代居残勤務ス
  ニ、ナシ

 昭和12年当時の生徒数は358名、蔵書数は約1万8千冊であった。ここにいう「現職員三名」とは野沢隆、内山善一、佐藤敏也という当時の図書館の職員で、野沢氏は嘱託で他の2氏は雇という身分であった。直轄学校の事務系職員では、「書記」という身分に「判任官」という「官位」が与えられた。天皇の「官吏」とされたのは正式には判任官までである。書記の定員は7人であったが、当時、庶務課と図書館には書記は、ひとりもいなかった。夜間開館に当たっては図書館長から庶務課宛に「居残勤務に関する件」という文書がそのつど出されている。この文書によれば、9月末と2月末に夜間開館を実施していたことが分かる。手当が出たのかどうか、分からない。「官吏」にも超過勤務手当の制度は、まだ無かった。

65年経過して
 現在多くの国立大学附属図書館では、昼間の8時間前後のほか平日の夜間3−4時間、土曜日3−7時間開館し、さらに休日開館がじわじわと拡がる気配である。そして多くの図書館が時間給だけの学生アルバイト・パ−トタイム職員か、民間への委託でまかなっている。私立大学でも似たようなものらしい。
 1996年6月1日に行われた東京支部6月例会で佐藤一也さんが独力で実施した「夜間開館業務の実態調査」結果が報告された。この調査は東京支部の研究部補助金を受けたもので、要旨が東京支部報の第173号に掲載された(論文集に掲載予定と聞いたが、この文章執筆時には未刊である)。主として会員がいる全国の国公私立68大学の回答による結果から、佐藤さんはおよそ次のように総括した。
1、現在の大学図書館の夜間開館は主として非専任職員に任されサ−ビスに活気がない。
2、専任職員が交替で従事している所も多いが、子育て中の女性などの場合、生活が圧迫されているというケ−スが多い。
3、大学図書館の休日開館には相当の困難を伴うであろう。■

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大学図書館きのうの話     第4回

図書館協議会消滅の時代(昭和16年/1941年)
(「大学の図書館」16巻5号 1997/5)

 昭和天皇は1926年12月25日、26歳で天皇となった(即位は1928年11月10日)。その日から1945年8月15日の敗戦を経て翌年の人間宣言に到るまでの19年間を、国家元首であり、アジア・太平洋各地で戦った日本軍の最高指揮官であり、人の姿をした神として、国民に君臨した。御真影と呼んだ肖像写真が教育の場に恩恵として配布されたのは明治天皇に始まるが、これに対する礼拝は学校の儀式において君が代の斉唱と共に必須行事であった。
 東京高等農林学校が発足したのは昭和10年・1935年だが、昭和12年12月24日「御真影拝戴ニ関シ」学校長が文部省に呼ばれた。当日学校長は次のような申請書を持参した。原文はもちろん縦書きである。

天皇陛下
皇后陛下ノ御真影拝戴仕リ度候ニ付御下賜相成様御取計被下度別記関係書類添付此段申請候也
       記
一 御真影奉護規程
一 当直規程抜粋

翌年1月27日付で許可が出た。

貴校ニ対シ
天皇陛下
皇后陛下御真影御下賜可相成ニ付来ル二月三日午前十時半拝戴ノ為係員ヲ当省ヘ出頭セシメラレ度
 
「天皇陛下」「皇后陛下」が行の頭に書いてあるのは最高の尊敬の意味である。昭和13年2月3日、東京高等農林学校長は正装して文部省に赴き御真影を頂いてきた。学校到着の時間(午後零時)に合わせ教職員学生一同は服装に威儀を正し学校の玄関先に整列して「奉迎申上」げた。2月7日にはあらためて「御真影奉戴式」を行い、天皇・皇后の肖像写真は当分の間校長室に「奉安」された。その後全学生加入の組織である駒場学友会は募金を行い「御真影奉安殿」(約3.3平方メートル、鉄筋コンクリートの神社風建物)を学校に寄付した。明治天皇の誕生日で祭日であった11月3日、学校は奉安殿の修祓式を行い「御真影」をここに祭った。以後、この奉安殿も拝礼の対象とされた。

紀元2600年奉祝
 1940年・昭和15年はそれまで次第に作り上げられてきた「国民が一体となって国のためにつくす」という政治の総仕上げ的意味が与えられた年である。2600年間続いた天皇統治の記念すべき年として、国は「紀元2600年」と呼び、大がかりな奉祝行事を行った。そして、これを機会に国民個々とすべての団体が国のために「団結」する事を求め、業種ごとに複数あった団体は、それぞれ、ただひとつの全国組織に再編統一するよう指導した。書籍の出版、販売業界はもちろん、図書館界も同様であった。

 紀元2600年の中央式典は11月10日に東京の宮城外苑で行われた。この年の10月1日付で文部省が出した「発社378号」という通達がある(実際は9月なかばに発送されていた)。「各種大会総会等ノ開催並ニ之ニ列席スル人員制限ニ関スル件」というもので、多人数が一地方に集まると鉄道や自動車の輸送や物資を消費するなど各方面に影響が大きいので制限することになった、というのである。大会総会等はあらかじめ2カ月前に文部大臣宛の協議書を出すように求められた。これによって、10月18日から開催を予定していた帝國大学附属図書館協議会(第17回・京都)と全国高等諸学校図書館協議会(第16回・宇治山田)が中止になった。全国図書館大会(第34回・奈良)も10月21日から開催の予定であったが中止になった。日本図書館協会は、会員のうち紀元2600年式典に参加を許され、上京する機会を得た人々で会合を持とうと計画した。しかし10月9日付「祝文8号」で文部大臣文書課長から同協会理事長宛に、式典及奉祝会前後の催しは一切控えるよう通牒があって、この計画も中止になった。当時の図書館雑誌には「時間と会場の都合がつかず」中止したと書いてある。高等諸学校にもこの通牒は届けられた。
 翌年、1941年に全国高等諸学校図書館協議会の第16回協議会は、文部省の許可を得て伊勢神宮がある宇治山田市の神宮皇學館で開催されたが、この第16回を最後に、この協議会は自然消滅してしまった。

集会のときの「儀式」
 高等諸学校図書館協議会の大会は、まず開会式が有り、主催校と来賓の挨拶のあと記念講演があるというのがほぼ通例であった。1939年・昭和14年に小樽で開催された第15回協議会(大会)からは、おもむきが変わり厳粛に開会の儀式が行われるようになった。第15回の議事録には「大会順序」として以下のように書いてある。

第1日 昭和14年8月3日(木曜日)
 午前
開会式(午前9時)
 1、国歌斉唱
 1、宮城遥拝
 1、護国ノ英霊ニ対スル黙祷
 1、開会ノ辞(司会者)
 1、式辞(小樽高等商業学校長)
 1、文部大臣祝辞
 1、来賓挨拶
 
 さらに第3日の閉会式終了後、全員で官幣大社札幌神社参拝という行事が組まれた。第16回になると、場所柄ということもあったのだろうが、第1日には午前9時集合で、まず皇大神宮(伊勢神宮・天皇家の祖先が祭ってある)に全員で参拝し、11時から開会式(順序は15回と同じ)となっていた。
 1940年10月に文部省が主催した中央図書館司書講習研究会の様子を後の日野市長有山 氏(当時文部省嘱託)が図書館雑誌に書いている。

 6時、太鼓で起床。寝具整理、洗面。寮(宿舎)内外掃除。6時半、太鼓の合図で整列、宮城遥拝、黙祷、国旗掲揚、国歌斉唱、公園一周、体操。7時半、朝食。8時、講義。10時半から12時、心身鍛練。昼食。1時から4時、講義。心身鍛練、入浴、夕食。7時から10時、研究会。消灯。
 今から57年前、町村図書館の指導にあたるべき道府県中央図書館司書研修の際の日課はこのようであった。儀式とは行動を介した統制にほかならない。

 これは、ごく最近のような気がするが、昭和34年(1959年)というと今から38年前だから、若い図書館員にはこれも昔話になるのかもしれない。名古屋で開かれた全国図書館大会の開会式で壇上に日の丸の旗が飾られ、君が代斉唱が行われた。学習指導要領が改訂されて、小中学校の儀式には君が代斉唱・日の丸掲揚が望ましいとされた翌年のことであった。■  
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大学図書館きのうの話     第5回
垣間見る先輩方の横顔(昭和12年/1937年)
(「大学の図書館」16巻7号 1997/7)

 「職員出張ノ件」と書いた1枚の半罫紙が残っている。

   職員出張ノ件
一、出張先 福島県
一、事由  図書館学講習会出席ノ為
一、期間  自昭和十二年八月二十日
      至 同  年八月二十六日
一、出張者 雇 内山善一
 右出張ノ儀御承認相成度候也
昭和十二年七月十七日 図書館長 近藤康男
東京高等農林学校長 松岡忠一殿

 内山善一氏の名は野沢隆氏の名と同じように、残された文書の上だけではあるが、なじみ深い昔の図書館員として私には懐かしく思われる。先輩方の生活ぶりは分からないことばかりであるが、このような1枚の紙切れから垣間見られることがらも捨てがたい。

昭和12年は日中戦争が始まった年である。8月には上海で日本軍と中国軍の交戦が始まった(のだそうだ)。この時まだ、私は生後1年にもなっていない。当時の世の中というものを、知識の断片で想像するばかりなのだが、いつの時代も同じと言えば同じなのかなあ、と思うことが多い。「決戦下のユートピア(荒俣宏)」「幻の朱い実(石井桃子)」「戦中派不戦日記(山田風太郎)」などを読む時、戦争があり大虐殺があり徴兵があり、思想弾圧、出版物規制が行われた同じ時代に豊かで平穏な生活も有ったらしいようすに驚くのだが、今の時代に置き換えてみれば、そういうものかも、と納得するのである。

昭和12年の図書館学講習会
 昭和12年の「図書館雑誌」7月号と8月号の、表紙をめくった裏側に「文部省主催図書館学講習会開催」の全面広告がある。<公共図書館員、学校図書館員、其他学校教員ニシテ地方長官又ハ学校長ノ推薦アルモノ>各約100名を募集した。各、とあるのは長崎と福島で開催したからだ。この夏期講習会は昭和5年から毎年行われていたが、特に昭和12年は福島と長崎の2カ所で開催されている。受講の要望が多かったのだろうか。
 同じ年の図書館雑誌10月号によれば、この講習会は福島高等商業学校(現福島大学)を会場に8月21日から5日間で次の5科目を教授した。

社会教育概説(3時間)文部省社会教育官 水野常吉
図書館通論(3時間)・図書館関係法規(2時間)帝國司書官 原忠篤
図書分類法(6時間) 帝國司書官 加藤宗厚
図書目録法実習(9時間) 帝國大学司書 土井重義

同号には、この講習会の修了者名簿もあり、「出張を許可」された内山氏が他の53名と共に無事、講習を修了したことが分かる。そして、講習終了の翌年、昭和13年9月現在の事務分掌が「職員調」に残されている。内山善一氏の分担事務は次のようである。

<購入及寄贈図書の受入、分類、目録作成(事務カード、書名カード、著者カード作製、カード箱配列等)。書架配列(各図書の記号作製添付を含む)。各部局への図書貸付。閲覧図書の出納。>

 2年3カ月ほど先輩の野沢隆氏は、寄贈雑誌、購入雑誌、寄贈印刷物を担当し、ほかに事務一般の担当となっていた。内山氏より5カ月ほどあとに入った佐藤敏也氏は、内山氏の事務を<随時分担>した。
 東京高等農林学校で図書館雑誌を購読していた形跡はなく、図書館協会の会員がいたようすもない。昭和12年8月当時、図書館に入って1年足らずであった内山氏が講習会に派遣されたのには、相応の背景があったに違いない。

意気上がる「母校独立」
 東京高等農林学校の母胎である「駒場農学校」の開校は、明治11年:1878年と古いが、東京高等農林学校となったのは鹿児島・岐阜・鳥取其の他の農業/農林学校にくらべ10年以上も遅い。東京帝國大学に吸収されたり、一部課程が廃止されかかったり曲折を経たのち、昭和10年になってようやく独立を果たし、都心から遠く離れてはいたが東京の西部に新キャンパスを開き新築校舎に移転したのである。なにもかも新しく、学校中が意気盛んであった。図書館の建物も新築の鉄筋コンクリートで独立していた。昭和11年に「規程」を改正し、「図書課」を「図書館」とし「図書課長」を「図書館長」としたことにも新鮮な意欲が感じられる。大正12年に発足していた「全国高等諸学校図書館協議会」に、この年(昭和11年)12月に加盟したのも、意欲のあらわれであったのだろう。

鈴木美雄図書標本課長
 東京農工大学のもうひとつの前身である東京高等蚕糸学校の方は大正3年に成立し、同時に図書標本課が置かれた。「全国高等諸学校図書館協議会」の創立時、第三高等学校の呼びかけにいちはやく参加を回答し議題を提出したのが東京高等蚕糸学校の図書標本課長であった鈴木美雄教授であったのは、それなりの実績が、既に積み重ねられていたことを示すものだろう。東京高等蚕糸学校が提出した議題は「各学校蔵書目録発行交換の件」というもので蔵書の相互利用を前提とした提案であった。東京高等蚕糸学校は同協議会の第1回・第2回の理事校を勤め鈴木美雄教授は第1−6回、第8回に参加した。第9回以後、開催最後となった第16回までは第11回に伊東広雄教授が代理参加したほかは参加していない。鈴木教授はこの間、在外研究員としてアメリカに2年間滞在したほか、昭和14年には第1次の興亜青年勤労報国隊北支蒙彊班で10名の生徒の引率者を務めた。

魚落源治氏
 天野敬太郎編「図書館総覧」(昭和26年刊)に日本図書館協会が行った表彰の記録がある。昭和13年5月10日、20年以上の勤続功労者として表彰された人々の中に東京高等蚕糸学校・魚落源治氏(勤続21年1月)の名前がある。逆算すると魚落氏は大正6年4月に図書館に入ったらしい。鈴木教授が先の図書館協議会に参加して得たであろう情報は、きっと魚落氏にも伝えられ、図書館運営に活かされていたのではないだろうか。
 ところで、魚落氏の名前が1982年4月発行の工学部図書館(現・東京農工大学小金井分館)「図書館報」52号に載っていたことに最近、気付いた。終戦直前に図書標本課長をしていた岡野正一郎教授(故人)が退官2年後に寄稿した「図書館と私」という文章の中に、次のような一節があった。
<図書館には永い間魚落老人がいたが退任した。一時女子補助員がいたが、やがて館長一人だけとなる。>
 これらの先輩の暮らしや仕事について、もっと知りたいと思うのである。■



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