足尾町(2006年3月、平成の合併により日光市足尾)
ashiomati
5年毎に開催
原小学校
同窓会

その記録
1996年閉校
足尾も昭和29年頃の神子内川沿いの山は、こんなにうっそうとしたブナ林がありました。その時代に国道122号から5キロも山奥に、炭焼きの息子として雨の日も、雪の日も、風の日も、そんな天気を恐れることなく、学校へ通いたくましく生きた少年がいました。(左写真クリック)
   あしお・・・・・・神子内川周辺地図が出ます
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プロフィール
1945年
生まれる
母のお腹の中で
ころは1945年3月、幼き2人の姉妹を連れて買い物に出かけた帰りの出来事、それは東京大空襲の夜でした。その空襲を受けた中心部より少し離れていた巡りに大きな腹を抱え、身重な母は7歳と9歳、2人の姉妹の手ををしっかりと握り締め逃げ惑う。
逃げ惑う最中、周りの人々の多くが風に乗って飛んでくる焼夷弾のかけらをまともに受け、衣服に火が付き地面を転げ回る人、そしてその近くの水場で、焼けてただれた体にそしてその火を消そうと水桶を必死に掛ける人と、そんな光景を後にしてその場から命からがら逃げ帰った話、その時に焼夷弾をまともに受けていてなら母共々、この世に存在していなかったと、その場の難を逃れた母の話を小さい時に何度も聞いた記憶が生々しく脳に焼き付いている。
身重であつた母は翌月に自宅が在った品川・立会い川駅付近で1945年4月に私をその防空壕で生んだのです。
当時、父は軍の物資を製造していた技術者で、身長180cm近くもありましたが、軍工場の重要な技術者と言う理由で出兵は免れました。しかし終戦と同時に足尾の山中に引きこもり、木炭製造業として生活を営む事になってしまいました。物語はこれから始まる。
(立会川駅周辺はかつて、旧・土佐高知藩 山内家の下屋敷があったことで知られる。土佐といえば、幕末の英雄・坂本龍馬抜きには語れない)
父の武勇伝? 2012年2月に追加〜父と母のエピソードも沢山あり、ほんの一部です
人生、希望の星
私の母は2010年11月、96歳で亡くなったが女優の「北林谷枝さん」と同年齢域で、顔もそっくりさん、若い頃はよく似ているので間違われた事がしばしばでした。

ノーテンキ性格、お気楽度の高さは母親譲り、大酒飲みと喧嘩が大好き、そして賭け事大好き親父には、相当の苦労をさせられたがその苦労を苦労と思わず、楽しさに変えていた。

私が幼き頃、苦労しているだろうと推察した場面でも、その母親の明るさと笑顔は「そのまま私に引き継がれて」どれほど今まで生きてきた過程で、その笑顔、勇気づけられたか計り知れない。

終戦も間近い頃、父は母に頼まれた金属製の「鍋」、苦労の末、やっとのことで入手し家に帰る列車中での事件。
その列車、品川駅付近で特高警察が乗り込み一斉検問、そのうちの一人が、幼い子供連れの中年の女性を捕まえ、人前で執拗な詰問、それに腹を立てた親父は、苦労して手に入れた鍋でその「警官袋叩き」にし、品川駅に差し掛かる直前、その列車から飛び降り、難を逃れたと、母からも、生前の父からも「自慢話の一つ」として聞かされた。

現代ではとても逃げ失せる芸当ではないが、しかし当時は情報網の欠如と戦時中のドサクサで、まんまと逃げる事が出来、その後、平穏無事でいられたとの事であった。しかし、鍋は「ボコボコに凹んだ名誉の傷跡」を残していたが、当時は金物不足状態で貴重品、その後、それは便利に使わせて貰ったと母の弁でした。

父の口癖、男は高い志と正義感!と、これがもとで私の知っている限り、沢山の武勇伝・・・
明治生まれの父は、身長180pもある当時とし稀な大男、腕力には相当の自信を持ち、志の意に反したり不正義行為には喧嘩を売り、時として酒を飲んでは大暴れしていた。体中、傷だらけの親父で、その傷も自慢の種であった。

しかし、そんな親父とは正反対の息子、喧嘩嫌い、賭け事嫌い、酒のんべ〜嫌い、とただお酒は毎日飲まないが、付き合い酒はたしなみ、また気を許す仲間との「ワィワィガヤガヤ酒」は大好きである。

喧嘩はも勿論の事、親父の反面教師で「喧嘩した事無し」で、喧嘩になりそうになるとその場を逃げ、今まで殴った事もなし、ただ殴られた事は一度だけある。しかしこれも私が悪かったので、殴られたが私が謝り「負けるが勝ち」のスタンスであった。

ノーテンキの母とやたら喧嘩が大好きの親父を見て育った息子は、人と人との営みは、どのようにしたら上手に共生が出来るかと、その父の生きざまで、しっかりと学ばせて頂いたのが大いに役だっているといつも感謝の念である。

今まで歩んできた67年を振り返り「苦労とは」「幸せとは」と、問い直した時、苦労に当たる部分は全てが、楽しかった思い出に変質している。生まれながらにしての「死との直面」がそうさせてのだろうか。
この楽天さ!何でだろうとフッと思うと、それは母の遺伝子がそっくり受け継がれている事に気付くのである。

苦労も苦労と感じず、それが全てパワーとエネルギーに変えてしまう特技!と信じ、自己暗示は偉大な源と思う。
本来は誰もが「逆境」と解釈される現象であっても、その現象は私のエネルギーの源として信じそして結果を伴って体に付いて来る。何としても不思議と思うのである。

毎日が楽しく、また健康そのもの、50歳代前半までは軟弱病弱体質で、体への執刀は9回あったが、今は30歳代の「活力ある精神そして肉体に蘇生」と本当に摩訶不思議である。
この具象、全てが「考え方」によって得られ、誰もがその事を習得できると信じている。

常に物事を「良いように解釈」する事が幸せを生むと、悪く考えたらその方向に向ってしまう。しかしその逆であれば、全てが楽しく、心も豊かになり、毎日の生活が楽しい、精神衛生上、ベストと考える。

元気の源は全てが最初の発想にあると、そして誰もが得られることの出来る手法で、常に心が明るくなる発想に務める、これが「その壺」でキーワードと思っている。

毎日が楽しい!ライフスタイル、誰もが憧れる部分であるが、それは「考え方」に尽きると信じて人生を過して来た。
人生は120歳!120歳!
今「人生折り返し7年生」、本当の人生の熟成はこれからと常に考え、
健康健全106歳の昇地三郎さん曰く「90歳はハナタレ小僧、本当の人生は100歳から」とか、すばらしい人生を歩みを続けている人生達人、良き希望の星、そして光!である。
母に苦労を掛けた父、しかし、一本気!筋を通す!はピカ一、であった。
父の出生地〜富山県八尾・・・・風の盆で今はメジャーな地、しかし昔は雪深く貧しき地であった
 春雄と言う人物、これは「進一」を指しています。
生まれて4ヶ月未満で死に直面
空を見上げると数機の攻撃機が低空で飛来し家の近くの工場らしき建物に突然、機銃照射を浴びせ襲い掛かってきた。それは夏の暑い日、終戦までアト僅か数週間足らずの出来事でした。
私は6歳年上の兄の背に、生まれて4ヶ月も満たない時であっただろうと兄は回想し語りました。
母から私の「子守」を頼まれた兄は家からそれほど遠くない立会い川駅付近に差し掛かった時、空襲警報のサイレンがけたたましく鳴り響き、兄が自分の身の置き所を考える暇もなく、攻撃機の轟音と共に「バリッバリッ」と言う機関銃の銃弾を発射する音を耳にするのです。
とっさに石垣と道路の四隅に身を潜め、背にしている私と兄はその銃弾から逃れるのに必死であったと、その様な死に物狂いの中に、一発の銃弾が私と兄の身体をかすめて、身を潜め、ジッとしているその道路上に「ビシッ」と言う不気味な音を発し叩きつけるのです。兄はこの時、まだ6歳そこそこの幼子でしたが春雄とここで一緒に死んでしまうのか!と覚悟を決めかけたと、私が60歳も過ぎた頃に話してくれました。
私を背負って子守をしながら遊んでいた場所は立会い川駅近くの兵器工場らしき建物で、その土台となっている石積み、高さが80〜100pあったであろうか、石積みと道路の直角部分に身を潜め、ジッと身動きせず堪えていました。
その様に隠した身のつもりであったであろうか、低空で飛ぶ攻撃機からでは隠れる意味もなく、むしろ恰好の餌食で、空から見たら的の一つに過ぎなかったであろうと想像するのです。しかし、無防備で無抵抗な兄と私は、ただただ身動きせずジッとして時の過ぎるのを、機銃照射の雨を止むのを、待つ以外、手立てはありませんでした。
その時間はどれくらいであったであろうか、一瞬の時間ではあったと思いますが、しかし一歩間違えれば死に直結する瞬間で、死との紙一重でした。
兄曰く、随分と長く感じたと延べていましたが、幸いな事に運良くその攻撃機は、その場所に再飛来する事もなく、はるか遠くに飛び去り「ホッ」とするのです。
道路に叩きつけた飛来弾、兄と私の身体から僅か1cm程度の差で「体をかすめた」そして道路に着弾したと言うのです。その弾が私と兄の体に命中していたならば、恐らくこの世にはもう存在していなかったであろうと感慨深く、兄は語るのでした。

私にとっては、これから人生を歩む第一歩と言う、この世に生まれ4ヶ月そこそこの時、生死の境目に立たされていたとは知る由もありません。
記憶に残されている多くの物事は5〜6歳以上になってのこと、頭部の毛が生える部分、半分以上が損傷し、火傷の後遺症として「ハゲ状態」を認識するのも5歳頃、この損傷は生まれつきと心得て、第三者が気遣うほど私は悩む事もなく深刻さは認識せず、天真爛漫にそして無邪気にその事については無頓着に時を過ごすのでした。
その火傷事件、終戦間も無く、都会から奥深い山村に住まいを移し、生活の営みを始めて、私が2歳未満の春先に生じた事件でした。
母の苦悩
1947年ごろ
火傷事件と母の苦しみ  
終戦間もないこと、小さな村でも戦争の影響は計り知れない心の傷跡を残し、そこで営む人々の生活は苦しいものがありました。
都会から疎開しそのままその地に居座り、9歳と8歳の姉妹、6歳とまだ生まれて2歳未満の兄弟、そしてその父と母、6人家族のある日の出来事です。
まだ冬の気配から抜けきらない3月のその日はとても寒い日でした。母、千代は2歳未満の春雄が久しぶりに生まれた子供であることで、久しい母性本能の目覚めがそうさせたのだろうか、その子がとてもいとおしく、その子の可愛い眼差しは、もう眩しいくらいでした。
上の男の子と6歳、離れて生まれ、特別な思いを寄せ愛情を注いでいたのです。
近所の美代子ちゃんがハィハィする可愛い盛りの春雄を見にやって来ていたので「美代子ちゃん、一寸だけ春雄を見ててね」と、
まだ5歳そこそこの子は「ハィハィ行動」の乳飲み子と言え、5歳の子にはハィハィするスピードに追いつかないのは母として承知していましたが、
表の母屋から少し離れた水場で、一寸した用事を済ませる為、その美代子ちゃんに春雄の面倒をお願いしたのです。
「春ちゃんウンコして臭い!」と当然オムツをしているが五歳の幼子は正直に母にその事を告げに、春雄から離れ、こちらにやって来るではないか、、母はそれを見るなり、
ウワァー!大変と大声を叫びながらその水場に母を呼びに来た美代子ちゃんを見て青ざめた。
それは一瞬の出来事です。慌てて表の水場から母屋に一目散でつっ走り、駆け戻ったさなかに、「ギャァー」と叫びとも悲鳴ともつかない声がしたのです。
囲炉裏にはまだ寒さが残り、暖を取るために炭と蒔がこうこうと火を放ち、火の勢いも強くその火の威勢の中にすっぽりと、顔は上に向け後頭部が火の中に埋っているではないか!
また囲炉裏に付き物の「自在鉤」には煮い立ったお湯をいっぱい入れた鉄瓶がその我が子の顔の上に掛かっているではないか!
その母の動転ぶりは想像を絶するものがあったに違いない。後頭部が火の中に落ちてる我が子、手と足をばたばたさせながら断末魔の悲鳴をあげ、もがき苦しんでいるその様子を目にし、母はパニック状態ですぐさまその火中から我が子を救い上げたが、時すでに遅しでした。

春雄のハイハイは予想をはるかに超えるスピードで畳の上を進み、美代子ちゃんが母親を呼びに行っている隙に、囲炉裏に落ちたのです。
畳の間と囲炉裏には段差があり、その段差から落下、後頭部だけがコウコウと放つ炭火の中に入っていた!と母の言葉でした。

目に入れても痛く無い、愛する我が子が、火で皮膚が焼ける独特の臭いを放ち、そして焼けただれたしまった後頭部は真っ赤に火となっている炭が付着し、それを手で払い退け、
必死でその後頭部を撫でるのでした。この撫でてしまった行為が後日、思いも寄らぬ事を引き起こすとは・・・・・
母は自分の不注意で、また5歳も満たない近所の美代子ちゃんに我が子を見てて欲しいと安易に頼んだのが、どれほど後々まで悔やむか、その時はまだ気が回りませんでした。
焼け爛れたしまった我が子の後頭部を見て、悲しみに暮れ、そして遊びから戻った2人の姉妹と兄は母の泣き姿と悲しみくれる容易ならぬ現状を見、「春ちゃんが死んじゃう」と一緒に泣け叫ぶのです。
母、2人の姉妹、そして6歳の兄、起きてしまった事はどうにもならず、しかし幼児期の中でも一番かわいらしく愛くるしい時期、母は3人の子供を育てた経験から「ハィハィのスピードが早く目が離せない」と知り尽くしていたはずが、自分の不注意でもたらした責任に苦しむのです。
後日、母の言葉は、余りにも春雄が可愛そうなのでいっそのこと一緒に死んでしまおと、何度も考えたと述べていました。
それは春雄が治癒する段階に於いて、後頭部の火傷が「やけど跡」として毛髪が生える見込みが無く、後遺症とし「ハゲ状態」は避けられないと医者に告げられていたからです。
火傷は本人に知る由もない、本来あるべきツムジを中心に後頭部2分の1は焼けただれ、親は何とか治そうとあらゆる手段を講じ、最後は祈祷師にと、その親の対処の努力にはすごく感謝するのみである。
しかしそれは組織が破壊され傷が治癒した時は、火傷独特の光を放ち、どう見ても「頭にお皿」が載った状態と、まるでカッパであった。
幼少期を知る多くの近所の方々は、その傷跡のお皿状態を見て、余りの気の毒さに同情し、母と一緒に泣いていたと聞かされました。
この傷は春雄に一生、付きまとい離れない!と思うと、我が子が成人しその時の悩みを察しそのつらい母の心、それは言葉では表せないほどの我が子に対して、申し訳なさと、自分の責任を感じるのです。
幸いな事に、その我が子は天真爛漫に育ち、そんな傷、何処吹く風かと、気にすることも無く、元気に健全に育ち、それが母にとってどれだけ救われたか、これは後日、母の談でした。

20歳頃からはこの傷に悩み、治そうとパワーを全開し、傷の修復に取り組むのだが、大変、お金のかかる事で、この治す裏にも秘めたドラマが・・・

現在までにその悩みでつぎ込んだ累積はら3000万円以上ほど、丁度、家一軒分に相当するくらいお金がかかってしまったが、今思うと「アホな事にお金を費やしたなぁ〜」とその事だけしか残っていません。
超越の心境では、そんなハゲどうでもいいことで、何でそんな事に悩んでいたのだろうとその悩みもアホらしい、と思うのです。
貧乏だった? 父は私が生まれる前は有名企業の工場長と言う職に着き、その工場は軍に関係する物資を製造した企業と言う事でした。
当時としては180pもあり、また頑強な体を備え、一番最初に召集令状が来るタイプであったにも関らず、それは免れていた不思議な親父でした。
工場の重要な役割がそうさせたと、その任務がまた経済的な裕福さも生んでいました。これは私が生まれる前の事で、私以外の姉や兄はお嬢ちゃん、お坊ちゃんとして経済的な中で豊かに育ったのです。
私が気がついた頃には「山の家」でした。そしてはっきりとした記憶の中で3歳頃であっただろう、歩かされて、歩かされて、もう歩くのがいや!と駄々をこねている記憶が鮮明に、そしてその記憶は時々、夢の中で出てくるのです。
この件で過去に母に確めたことがあり、それは昭和23年ごろ、買出しに私を「ダシ」に連れて歩いたそうでした。それは3歳のヨチヨチ歩きを連れて行くと可愛いものだから、その可愛さにその買出し先では、同情しまた母が所有していた高価な着物と食料の「物々交換」がスムースに行なわれたようでした。
また買出しを監視する「警官」も、見て見ぬ振りで、何度も摘発を免れ、時には摘発されても、私の可愛い顔を見た警官は「行ってもいいよ」と、これに味をしめ私を「買出しは私は必需品?」のようであったと・・・・・。
その食料と物々交換された高価な着物が、食料の無い時代に、農家からその食料を得る手段として家族の生活を支えたと母は話してくれました。
高価な着物は戦前の私が生まれる前、豊かな生活の象徴であり、母は着物が大好きで、それはそれは「高価な着物ばかりを沢山」購入していたようで、母自身も裁縫が得意とし、自分で仕立てたり、仕立てを頼まれ縫い上げたりしていました。その着物は買出し先の農家で大好評と、そして私の可愛さが手伝って食料は難なく入手出来たと言っていました。
農家へ2度3度と足を運ぶうちに、次はこんな着物をと、リクエストされるほど、又そのリクエストに応えられるほど着物を持ち合わせていたと言う事でした。それは経済的に豊かな生活を送っていた裏返しでもあったのです。
しかし、私が物心つく頃には足尾に疎開してその地にそのまま居座り、足尾の山中で炭焼きを行う事になり、都会で生活した当時とは大きく変貌してしまうのです。
終戦6年目
1951年
1951年(昭和26年)春雄が6歳の時、一番上の姉は中学校を卒業するとすぐに母の友人が経営する理髪店に住み込みでお手伝いさんとしては働きに出てしまいました。兄は小学校6年生、2番目の姉は中学校3年生、まだ幼稚園も保育園も無い時代です。
父や母は木炭生産業と言う職業柄、山中に篭もり、弟は乳飲み子で母の手から離せません。その3人は山中の山小屋を仮住まいとして生活を贈るのです。
終戦6年目、社会全体が食べるのにやっとの苦しい経済状況、国民全体が耐乏生活を強いられてその中でも貧乏の筆頭が我が家ではなかっただろうかと当時を振り返るとそう思えるのです。
しかし、物資やお金の無い時代でしたが、人々の多くが人としての思いやり、優しさ、気配りと更には高い志を、現代人のように失う事無く「人間味に満ち溢れた豊かな心」を持ち合わせていました。
その心豊かさを垣間見、象徴する生活を私は6歳の時に大変貴重な体験するのです。

私と姉、そして兄は親とは離れて平地にある住まいで生活を共に過ごすのですが、姉や兄が小学校や中学校に行ってしまうと6歳の私が一人取り残され、それでは私の事が心配!と言う理由により、時には姉の中学校へ、そして別の日には小学校6年生の兄に連れられて小学校へと未就学前の私はそれぞれ別の日に学校へと足を運んだのです。
鮮明に記憶していますが中学3年生になる姉の机の横に私の机が、そして小学校6年生の兄の隣りにも私の机が置かれ、兄や姉の1日の授業が終了までその横にある机で静かに絵本を見たり、ひらがなの練習をしてりして、1日を過したのです。勿論、小学校も中学校も位置する場所の方角は異なり別々の所にあるのですが、私の家庭事情に考慮し、学校側や兄、そして姉の担任教師の計らいで受け入れて頂いたとッ理解しています。
同じ様な環境の生徒は、私の兄や姉以外の生徒は見当たらず、学校側も放って置けず特例として当時は許された処置と考えますが、それ以前に「人として心温まる特別配慮」が優先されたと思っています。これには親も学校側に深く感謝していたと思われます。別の側面から私の家庭状況が学校側を動かすほどの「同情論」が働き特例と言う現実があったと推察します。
私は兄や姉に連れられて一緒に学校へ行くのが嬉しくて嬉しくて、楽しかった事ばかりが思い出されます。
兄や姉の学校へどのような間隔で通ったかは定かでありませんが、しかし、物静かに大人しくしノートに文字や絵を書き、又、飽きてしまうと校庭の砂場で砂遊びなどをしていました。
机に向って文字や絵を書くノート、鉛筆、消しゴムも兄や姉の担任教師が私にプレゼントでした。
この頃より物に対し「大切に扱う」という習慣を身に付けたのだろうと、先生に頂いた大切なプレゼント、大事にしなくてはと言う意識、そのノートに何度も何度も書いては消し、書いては消し、その繰り返しでノートは汚れ真っ黒になり擦り切れるほど使いました。
そんな様子を見た兄や姉の担任教師、見るに見兼ねて
「ハイ春雄ちゃん、新しいノート、プレゼント」と、私は嬉しさの余り、目に涙をいっぱい溜め、泣き出すのをこらえながら「先生、ありがとうございます」としっかりと答えるのが精一杯でした。
このような嬉しい記憶、感動として心に残り、今でも感謝の念、忘れる事はありません。
現代ではあり得ない事かもしれませんが、それは時代が許した行為であり、人の心の温かみが溢れていた時代でした。
まだ未就学の子供が兄や姉に連れられて一緒に学校へ行き、机を並べ授業を受けている、この状況を見て兄や姉のクラスメートは好意的でイジメや意地悪する子も存在しなかったのです。
私の場合、頭に大きなハゲがあり、カッパ頭が幸いしたのでしょう。子供社会の中であってもそのハゲには誰も触れず、授業の合間の休憩時間、一緒に遊んだり、話し相手に付き合ってくれたりと楽しいひと時を過せました。
ツムジ周辺を頭部の3分の1程を焼失、その火傷痕の後遺症、光を放ちハゲておりヘアースタイルもおかっぱ頭、見た目もどう見ても「カッパ」であったにも関らず、誰一人として私の心に傷を付ける言葉を発することなく温かく見守って頂いたのです。
子供の特性は、見た目で感じた事を正直に言葉で発し、その言葉で誰が傷が負おうがお構いなしの辛辣性がありまたそれが子供で、私はそのような心に傷を負う経験を得ませんでした。
兄や姉のクラスメート、その学校の生徒達はカッパ状態の頭を目にして、同情で優しさや思いやりを優先させたと言うか、当時の子供たちには「温かい人の心」が備わっていたと思うのです。

国民の生活は苦しく全体的に大変、貧乏でしたが、当時、子供であっても「人の優しさ、思いやり、心の痛み」は充分過ぎるほどに理解していたと、この時の過した生活を振り返りその様に思っています。
私自身、物心がわかる頃にはいつもニコニコと、人に何を言われようが嬉しそうに笑顔を振る舞い、この6歳頃より私なりの処世術が生きる手段を、イジメや意地悪されない処方が、備わったのだろうと想像します。
優しい人と人との営みの経験、人が大好き!と人を信じ性善説が芽生えたと思えるのです。多くのことを教えて頂いた多くの方々、その方々が私にとって人を信じる要の基であり、この65年間、人に騙されたり裏切られたりした意識は無く、人は信用するものと常々、思っています。
しかし、裏切られたり騙されたりしていたが、生まれつきにして楽天主義、嫌な事は一晩だけ苦しむが、それ以降は忘れてしまうノーテンキ性がもたらした「おめでたい性格」私にとっては都合の良い性格と思うのです。
人の多くは心温まる方々と、そして人は誰でも信用し疑念を抱かず接する!父から教えられた「人として生きていく為の教義」それは大切な教えの財産と心に染み付いています。
ぶな林の宝庫
1955年
足尾の山は今ではとても想像できませんが、世界遺産の白神山地と同じで、ぶな林や、樺の木、にれの木等の自然木が豊富な落葉樹林で、秋には豊かな自然の実りの恩恵を受け、アケビ、山栗、くるみなどいたるところで拾う事が出来ました。
そんな自然環境の真っただ中で、父がその山中で「炭焼き」を営んでおり、勿論本人も炭焼き職人として生活をしてますので、その息子である以上その父との生活は、切離しては考えられ無かったのです。
足尾と聞くと「白神山地と同じ?ウソ」と以外に思う方が多いのではないでしょうか。
足尾には大きな川が2本流れていて、一つの山を境に「渡良瀬川」と「神子内川」に別れ、「川の名前」が違う流域の世界では、大きく異なっていました。
鉱毒でいつも足尾の代名詞となっているのは「渡良瀬川」源流で、色々な写真や書物そしてテレビのドキュメントでもご存知かと思いますが、鉱毒で「死の山」と紹介され、また「日本のグランドキャニオン」と形容された顔を持つ流域でした。
もう一方は「神子内川」流域で、沿岸の山々では豊かな自然がいっぱいでした。国道122号を利用して日光方面に車を走らせてわかりますが、田元と言う場所から日足トンネルまでの間には「死の山」を感じる光景は見当たりません。
その途中に「神子内」と言う集落があり、今は廃校になってしまいましたが、その地区の学校「神子内小学校」がこの物語の舞台です。
神子内小学校周辺の山中で、大きな自然の恵みを受けながらその少年はスクスクと育ったのです。
当時その周辺の山々は(下の写真をクリック)こんなすばらしい光景がゴク当たり前に、あらゆるところで見受けられました。多くの人々は足尾をイメージする時「荒廃のはげ山・足尾」「公害の原点」と、どちらかと言うとネガティブな側面で形容しますが、それは間違いで、「渡良瀬川源流の足尾」と言う表現が適切です。
幼き頃の自分の体験に基ずき、また当時は白神山地同様な広葉樹林で育った生き証人として、このサイトを通じ「公害の足尾」には無縁であった別の「神子内川流域」での生活を営んだ実態を綴っています。
当時、昼でも暗いくらいにぶなや白樺がうっそうと生い茂っていました
その小学校4年生の1年間、国道122号から7キロほど山中に入った場所に父は炭窯を構え、その炭焼き小屋に寝泊りし「製炭作業」をしたのです。勿論母親も父の梃子として手伝い、弟、そして私と4人で苦楽を共にし貴重な体験を得たのです。
弟は5歳で未就学でしたが私は10歳で、世の中の全てに好奇心旺盛で「多感」な時期でもあり、振り返ると楽しかった事が全て、で「オヤジよ!母よ!なかなか体験できない事を、経験させて頂きありがとう」と感謝の念が一杯です。
思い出 時は1955年、父親の仕事の関係で、生活環境が現代の青森県白神山地と同じイメージの場所で時を過ごすのだが、ぶな等の落葉樹林を原資として父親の職業「木炭製造業」と言う専門職を営む山小屋から学校へ通う出来事である。
小さな校舎は夏の終わりの時期にやって来た台風の影響で、校舎全体を揺らし、その窓枠は「ガタガタ」と音を立てていた。都会の学校であれば8月いっぱいが夏休み、まだその休みは続いているが、山村の小さな小さな分校では、すでに2学期は始まっていた。
冬の降雪量が多い寒冷地や地方の学校では冬休みが長い分、夏休みが短く、8月21日が2学期のスタート、始業式となっている春雄は、本来、生徒数が100名ほどの小規模小学校に在籍しているのだが、父親が木炭製造業と言う職業の関係で、その小規模小学校より更に小さな分校へ、1年間だけ転校して来た。
この物語物はその小さな小学校が舞台で、その中心にたくましく生きる少年、春雄が主人公でもある。
2学期が始まったばかりの8月末日、今日の最後授業が終わり、一斉にその学校の生徒は帰宅する準備をしていた。全校生徒数が50名も満たないその子供たちの殆どが、学校周辺に自宅があり、子供の足で歩いても30分以内に自宅に帰れると言う生徒ばかりであった。
そんな中に一人だけ不安そうな表情をし、今にも泣き出しそうな子供がいた。校舎の表玄関で、帰宅する準備で忙しく動き回っていた生徒を見守っていた先生の一人が、その不安そうな表情の生徒を見落とさなかった。「春雄君、どうしたの?」とその先生は春雄少年に尋ねたのであった。
山村の小さな小さな小学校。48名の生徒数で成り立ち、クラスも2組だけ、そして教師も校長先生を含め、たったの3名。低学級は「1年、2年、3年生」とそして高学級は「4年、5年、6年生」に分けられ、2クラス編成。校長先生は他の教師2名のそのサポート役で、2人の教師がそれぞれの「低」「高」の学年クラスを受け持っていた。
春雄は4年生であった為、4年生、5年生、6年生が一緒に授業を受ける高学級で、その担任教師は大沢と言う女性の先生であった。不安な表情の春雄は
『先生、川の丸太橋が台風の雨の増水で、流され、山の家に帰れない』と半分、泣きべそをかき、訴えていた。朝、登校時は晴れて青空が覗き、台風の気配など少しも感じる事はなく雨などは気にも留めなかった。しかし午後に入ると一気に風は強まり、それと同時に激しい雨が降り続いた。
春雄の頭の中は、そんな風雨に揺れる窓を気にし、その窓に激しく打ち付けている、なぶりかかりの降る雨を見つめながら、もう授業どころではなかった。
10歳の子供にも丸太橋を渡してある「川」は氾濫し、その橋は流さされていると想像出来た。川の両岸の大きな石と石の間に渡した簡素な橋、2本の丸太で造られ、その橋は春雄とその家族にとり、学校へ通う唯一の手段であり、その家族の生命線でもあった。
春雄はこの雨では橋が流されている、どうしょう、とあせりに似た心の動揺に、いても立ってもいられないほど、ソワソワと落ちついてはいられなかった。
親と弟がいる山小屋に帰れない、帰ることが出来ない場合の事を考えると、心細さと不安だけが頭の中を占拠し、もう授業どころではない。
最後の授業が終わり、ランドセルの中に教科書を入れ帰り支度しながら、同じクラスのみんなが「春ちゃん、また明日ね」と声をかけるのです。皆からの帰りの声を上の空で聞きながら、靴のある下駄箱が置いてある玄関に向うのであるが、表は風も雨も更にその激しさは増すばかりであった。
「帰れない、どうしょう、どうしょう」と気はあせり、心の中はもうパニック。もう半分、泣いているが元来の負けず嫌いな性格は、そんな泣きべそ顔を見せまいと必死であった。
それを見透かしたように、玄関先で生徒の帰りを見送っていた校長先生が、春雄に優しく声をかけたのである。
「春雄君、どうしたの?」春雄の心細そうなそして悲しそうな顔を見て、いち早くそれを察し、またその生徒の細かい心の動きを見逃さず、その子供の心を読み取るのであった。
人一倍負けず嫌いな春雄は、人前では泣き顔を見せまいと必死にこらえたいたが、その校長先生の優しい眼差しが伴った言葉に、思わず嗚咽と同時に小さな小さな声で『か細く泣く』のであった。
春雄にとってその一言がどれほど嬉しかったか、頼りになったか計り知れないほどの希望の言葉であった。「春雄君、大丈夫!心配しなくても先生の家に泊まれば良い」と思いも寄らない、そして予想もしなかったその言葉に春雄は、抑えきれないものがこみ上げて来るのを覚えた。
昭和30年(1955年)小学校4年生の1年間、父の炭焼き小屋から、7キロある道のりを、毎日神子内小学校へ通学しました
炭焼き小屋から通学した1年間、一度も休まず通ったその学校、今は・・・・・
空地となっている小学校跡地と朽ちた校長の家であった官舎 特別に配慮して頂いた
当時のやさしい校長先生は
確か「大西先生」で、足に傷害がありその奥さんも先生以上に大変やさしい方でした。
校庭の面影が何か無いかと探すと、少し離れて・・・・・・・ 滑り台が唯一校庭の名ごりを残してます。懐かしい! 台風の時家に帰れず、1週間泊めて頂いた校長の官舎が 人生の中で、かけがえの無いひと時を過ごした場所、感涙極める。
山小屋
その炭焼きの山小屋は・・・・・
山小屋といってもそれは粗末な雨風が凌げる程度のバラックと表現したのが正確です。最も炭を焼く木々が無くなると次の場所に移動して、また小屋を建てその周辺の木々を伐採、その木材を炭の原料として使うのでした。簡易な宿泊小屋は今で言うと「テントの代用」と考えたのが理解し易いであろうと思います。当然、その繰り返しで山は無残な「ハゲ山化」で次第に神子内側流域でも、渡良瀬川流域とは異なる「自然破壊」が生じていました。
日本全体が同様な方法で落葉樹の自然林は失われ、大きく変えてしまった時代でもあり、その変貌ぶりをしっかり見届け、そこで生きていた「一少年」でした。
この山「立ち山」が当時のホームグランドです。昭和29年(1954年)に約7キロの道のりを、雨にも、風にもそして雪にも、負けず通いつめた山だ!
この写真では、丁度谷間になっている「奥の方」からテクテクと歩いて神子内小学校へ通った。その時同学年は2名だけで、全校生も全部で40数名しかいなかった。
クリックすると「たち山」の沢に入る登り口だが、昔はこんなに大きな沢では無かった。この沢の7キロ先が「我が炭焼き小屋」があったが河川改修で大きく変わってしまった。
クリックすると「沢の登り口」の写真を見る事が出来ます
その生活は
1955年
住まいとしている山小屋から学校までの道のりは7`もあったでしょうか。毎日の通学路として、片道7`の往復は10歳の子供に決して楽な道のりではありません。しかし、季節の移り変わりで、その環境の自然がもたらす恩恵、その美しさは脳の隅々まで焼き付き目を閉じ思い浮かべればその情景、走馬灯の如く映し出され流れてゆくのです。

7`の道のり、その山深い中ほどに若い夫婦が営む炭焼き小屋があり、その夫婦は私に何かに付け気を止め、色々と施しをしてくれるのです。共に30歳の後半であっただろうと想像しましたが、ただ鮮明に記憶しているのは美男美女で都会的雰囲気を漂わせ、身につける服装も、奥深い山中で炭を焼く職人とは似てもにつかぬおしゃれな夫婦でした。
子供にながら大人になったらあのお兄ちゃんのようになろうと憧れでした。

「春ちゃん、学校帰りに美味しいお菓子があるから寄って!」と朝の登校途中、大きな声を張り上げて鼻歌を歌って通る私の姿を見かけると声を掛けてくれるのでした。
当時、大変な貧乏社会でそれぞれの生活は大変であっただろうと思うのですが、私にはその貧乏の実感が、体験がほとんど無く、又火傷の後遺症で頭に「お皿」と形容しても不思議でない肉体的損傷は、人々の同情を誘い、多くの大人は優しく包み込み労わって頂いたと言う恵まれた時代でもあったのです。人の優しさの情感だけが私の心に深く刻み込まれていました。

体質的に楽観主義で嫌な事は全て忙殺すると言うこの特性、ポジテブ的な事柄だけが記憶されるご都合主義、カッパ状態の大きなハゲであってもヘッチャラさ!と、そのたくましさも手伝い、屈折した心が潜まず、歪まなかった大きな理由と思うのです。

通学する山道と言っても道無き場所に道をつくり、沢沿いに木炭、薪、木材を運び出すためにソリ道を、そのソリ道を利用しての通学です。
トレッキングや登山とメジャーなスポーツとし現代は定着してますが、その愛好家が歩む整備された登山道とは大きく異なり、簡易な荷物搬出路なのです。
ソリと言われる梯子形状に物を載せ、それをソリ道に滑らせ山奥から運び出す道具ですが、ソリを操る技術者を「ソリ師」と呼んでいました。
高額な報酬で木炭、薪、木材を山深い山中から運び出す仕事を請け負い、時には事故で命を落とす事も度々あり危険な職業でした。
ソリ師は谷に簡易な桟橋形態の橋をかけ、その上にソリを滑らせ運ぶのですが、その桟橋は数十メートルの高さになる事、しばしばです。
そんな高さの桟橋を利用しても通学ですが、当初はその高さに怯え、4つんばいで這いつくばっての歩行はその高さに慣れるまで当分続くのですが、数日も経過すると恐怖心は薄らぎ2足歩行が出来るようになるのです。
何度かその桟橋の隙間から落下し、今でも高度恐怖症はその時の記憶がトラウマとなり要因の一つと考えられます。

通学途中で声をかけてくれる若夫婦のそのご主人、炭焼きもしながら「ソリ師」でもありました。
ある時、学校帰りにその夫婦の小屋は私の父や母、そして山仕事の仲間、ソリ師、炭焼き職人、木こり、などの多くの人が集まっていました。
小屋の中からは聞き覚えのある悲しみに暮れた泣き声、嗚咽が聞こえてくるのです。子供であっても「これはただ事ではない」と察し、そのうち状況が把握でき、私も声を揚げて泣き、悲しみに引き込まれていくのです。
今朝、「春ちゃん、帰りに寄って」と思いやりと優しさを滲ませ声をかけてくれたばかりのあの憧れの人が、死んでしまったのです。
この衝撃的な悲しみは10歳にして初めての体験、それはショックで数日、涙があふれ出て悲しみに明け暮れるのです。
今でもあの時を思い出すと涙腺が緩みウルウルとしてしまいます。その死に方も大変、悲惨で、ソリで木材を運び出す途中の事故でした。
ソリには必ずブレーキの役割を果たす丸太が取り付けられ、ブレーキはソリ道に沿いワイヤーロープが張りめぐらされ、急坂や滑りやすい箇所、より危険な場所に差しかかったとき、ソリに取り付いた丸太にワイヤーロープを巻き付けてソリにはスピードが出ないように速度を制御するのです。
憧れの若きご主人は、ブレーキの役割を果すワイヤーロープが切れてソリの下敷きになり、首の骨を折って「即死」と聞かされてのです。
この事故は10歳の私にとり後々まで尾を引き、なかなか立ち直れず、父のこの地域の山の仕事が完結するまで悲しむのです。

本来、平地にある自宅から、通う小学校に戻るまでその悲しみは心の傷として残り、その小屋の前を通ると自然に涙が溢れ出るのですが、若夫婦のご主人が亡くなって間も無く、その小屋は取り壊され、美しい奥さんの姿を見ることもなくなり、平地の小学校に戻った頃には、本来の元気な快活な姿に回復するのです。
おしゃれでどこか都会的なあの若きご主人、憧れであったイメージは成人となっても私の心の中に生き続け、その感性と人としての優しさは、大きく影響を受けたのです。
美意識と言う感性、その方に養われたと言っても決して過言ではありません。現在の自分の装い、仕草にしても「かっこよく活きる、かっこよく振舞う」と言う哲学、学ばさせて頂きました。

台風で山小屋に帰れず校長先生の住む官舎に5日間、泊めて頂いた事、そして山奥で出合った美しく知的で都会的センスに溢れた若夫婦、小学校4年生、10歳と言う感性豊かな年齢の1年間の出来事でしたが、これは「人情」と言う人として最も大切な部分に触れ、そして体験した貴重な1年間、今は亡き父に母に貴重な時間を与えた頂いた事に深く感謝し、声を大きくして「ありがとう」と叫びたい。
全ての掲載した内容は「健康日記」より抜粋したものです
銅山の歴史
映像で見る足尾銅山物語〜 [田中正造直訴事件〕  〔栄華の頃〕   〔閉山
この映像はブロードバンドの環境ではスムーズに見られますが、ナローバンドでは少し時間が掛かります。mpeg4に高圧縮をかけ軽くしてますが少々重いかも知れません。またWindowsMedPlayerで見ることが出来ます
現在の渡良瀬川源流周辺は、緑化作業が進んで以前と比べたら「みどり」が多くなったが・・・・・・
精錬所前 東洋一の砂防ダム 公園より下流を望む
18歳まで育った地域「切幹」の変貌
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