「壬、生?」
抱き締めてもいいのかと、そっと伸ばされた腕を邪険に払う。
足枷も外して、首輪も外す。
所在なげに手首を摩る蓬莱寺さんの、尋ねる視線は僕から離れようとはしな
い。
縋る視線もしぐさの一つで断ち切って、洋服一式と、木刀は、ベッドの端に置
いた。
「君はもう自由だ、蓬莱寺さん。皆の元へ帰ると良い」
「それって?え?どういうことだ?」
ぼんやりと僕を見上げていた瞳の中、急速に正気が宿ってゆく。
狂気の淵にいる人間に真実を告げるほど、空虚な思いはしたくない。
正気に返ってくれてありがたいばかりだ。
「もう龍麻に抱かれなくなったから、君に抱かれて憂さ晴らしをする必要は
なくなったんだ」
「は?」
「知らなかっただろう?龍麻の言う想い人が君だったなんて」
龍麻が必死の思いで隠し続けてきたことを、べらべらべらべらとしゃべる。
自分以外の口から、こんな風に告げられるなんて思ってもいないだろう。
どれだけ自分が僕を追い詰めたか、気がつけばいいけれど。
きっと気がつかないんだろうな……。
「龍麻は自分が告白して、君が変わるのが嫌でね。ずうっと僕を身代りで抱
いていたんだ。もう何年も。蓬莱寺さんとするようになってからもつい先
刻まで」
これで、やっと。
やっと、終われる。
「幾ら男と寝て正気を保つ僕でも、身代りはきつかったんだ。ましてや半身
が大好きな友人の身代りは、ね。だから君と寝たんだ」
「ひーちゃんが駄目だから、俺だったんじゃなくて……」
「そう。龍麻が僕を君の身代りにして壊すから。僕も龍麻の大切な君を壊し
たかったんだ。復讐はなった。君はもう龍麻の知る君じゃあないから」
そんな事ぐらいで龍麻が蓬莱寺さんを手放すとは思えないが。
もう、いい。
懸命で従順な蓬莱寺さんを自分の好みに躾たところで。
それは龍麻の趣味に仕上げてしまったのと何ら変わりはないのだ。
これ以上自分が磨耗するのはたくさんだ。
龍麻にも、蓬莱寺さんにも、他の誰にも抱かれなくとも。
否、抱かれない方が正気でいられる。
随分と遠回りしたけれど、大した成果じゃないか!
これで僕は、生きてゆくのに何も必要としなくていいのだから。
「さよなら、蓬莱寺さん」
驚くほどの開放感に包まれて、僕は自らをも戒めていた牢獄の扉を開く。
何だか空気まで新鮮に感じるのには笑えた。
「紅葉!」
扉を閉める背中越し、初めて呼ばれた下の名前は、血を吐くような叫び声
にまみれ。
僅かな余韻だけを僕の中に残して、ふうっと消え失せた。
「長期休暇をいただきたいのですか、よろしいですか?」
ぴしりと背筋を伸ばして広い館長室に響き渡る声で、館長に尋ねる。
「珍しい事もあるものだな。仕事熱心な君が。どんな心境の変化なんだ?」
「……少し、疲れました」
「ますます珍しい。疲れた君が休みを取るとは、な」
疲れた、と口に出すことも珍しいし、疲れて休みを取るのも珍しい。
いつもなら仕事を限界まで入れて、倒れる寸前まで体を痛めつけてから眠
りにつく。
そうすれば何も考えずに、ぐっすりと熟睡できるからだ。
館長のことだ、僕が今どんな状況に置かれているかなんて、調べなくとも大
方の予想はつくのだろう。
怒るでもなく、憐憫に満ちたまなざしで見つめられ、居たたまれない気分に
なる。
「期限は?」
「……長ければ長い程、いいです」
「ほう。お母さんの見舞はしなくていいのかね」
今の状態で母に会って、やすらげるはずもない。
罷り間違って、八つ当たりなんかした日には自分が許せなくなってしまう。
「電話を、します」
「どうにも重症なようだ。よろしい。1ヶ月あげよう。一切の連絡を絶つこ
とも許す」
携帯ぐらいは持って行けぐらいは、言われるに違いないと覚悟を決めてい
たので、拍子抜けした。
「ありがとうございます」
腰を折って深く頭を下げる。
ドアを背中にするまで、館長の細めた目線が語りかけてくる無言の慈しみ
は、ひたすらに、うっとおしかった。
誰にも行先を告げずに僕が決めた休息の場所は、人里外れた山の中。
と、ある会社の廃棄寸前の別荘。
拳武に月に一度は依頼をたてて寄越す物騒な会社には、拳武を名乗ら
なくとも僕を知る人間が何人かいた。
本来なら会わずにすませる暗殺完了の知らせと共に、簡潔に事情を話
せば、料金もとらず、こちらが言い出さないうちに『他言無用』をも持ち出
しては、古びた別荘を紹介してくれた。
全く、暗殺業様々だ。
廃棄寸前で古臭いとはいっても、人間が住むには十分過ぎるほどに整
ってはいた。
だいたい廃棄の理由が、外見が古臭くなって新しいものに買い換える
からというもの。
基本的な調度品、電化製品を含め、ガス、電気、水道も通っている。
一人で生活するには広すぎる場所だったので、自分の寝る所だけ掃除を
しようかと思ったが、性分なのか他の部屋の埃が気になって、結局丸一
日かけて掃除をしてしまった。
車で2キロほど離れた、年老いた別荘の管理人から蒲団一式を借り出
した他は、全部自分で用意をした。
いつもならば『無駄金を……』と自分自身を忌々しく思うのだが、今回は
微塵も感じなかった。
余程、疲れているらしい。
出版関係の別荘だったせいか、数千冊はありそうなの蔵書が魅力的だ。
少なくとも一ヶ月、何の気兼ねもせずに活字三昧で過ごせるだろう。
ここのところ、のんびりと活字を楽しむ余裕も無かった。
一人寝が寂しいと疼く体も、それはそれで仕方ないものだと苦笑して寛
容にもなれる。
ただ僅かな時間。
わずらわしい事は全て忘れて、穏やかな時間を堪能したいだけ。