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思ったこと、感じたことを適当に並べています。
反論のある方もおられると思いますが、「ひとり言」ですから・・・ (#^.^#)




密かに・・・・・(^^ゞ                             2004.10.12(火)


学校からの帰り、小学1〜2年生とすれ違います。
悠くん、中学生。
彼らにとっては大きなお兄ちゃんです(#^.^#)

この間、悠くん、なぜかご機嫌で、突然歩きながらふふっと笑い出しました。

思わずサリーは心の中で、

 バカに見えるから、やめて・・・小学生が怖がるでしょ!!

と思いました。
・・・が、すぐに・・・自分の間違いに気がつきました(^^ゞ

 バカに見える?・・・・・・・うーーん(--;)
 バカじゃないみたいやん・・・・
 バカはバカなんだから、「バカがばれるからやめて」と思うのが正しいよね・・・

と、しばらく考えてしまいました。



親がこんなことを思うなんていけないことかもしれませんね・・・・でも、ついつい(^^ゞ
悠くんぐらい知能が低いと、世間一般に「バカ」と呼ばれることは知っています。
だから、ダメだとかいけないとかいうことは思いませんが、ついついそういう言葉を何気なく使ってしまうなぁ・・・と思ってし
まいました(^^ゞ
親でさえ、ふっとそう思うのですから、障害者に全く関わりのない人たちがそう思っても仕方ないなぁ・・・とは思います。



構造理解                                              2004.10.12(火)


私が書いている「構造化」「構造理解」という言葉、皆さんが考えているのと違うのではないかと思います(^^ゞ

実は、悠くんが療育に入ったのが5歳。
その2年前からTEACCHプログラム研究会などの例会で勉強していましたので、「構造化って何?」ということについて
は、ある程度理解したつもりでした。
療育が始まってからは、親の勉強会がありましたので、そこでも勉強しました。

知っているつもりだったのですが、悠くんが3年生ごろに、初めて「そうか、構造化ってこういうことだったのか!!」と、構
造化について、本当の理解が出来た思った時期がありました。
取り組みをしていない状態での「構造化とは」の意味理解が、実際に悠くんがステップアップして行く中で学んで、いかに
薄っぺらな理解だったのかを思いしました。
「構造化って、本当はこういうことだったのか!!」とやっと気がついたいうことです。
スケジュールやコミュニケーションの取り組みがそれなりに上手く行っていると思っていましたので、だいぶん出来てきた
と思っていた頃です。
初めて実践報告の機会をいただいたのもこの頃です。
ところが今やっと療育のスタートラインに立ったという程度だということに気がついて、愕然としました。
これから始まるの?
やっとスタートラインにたどり着いただけなのか・・・とちょっとショックでしたが(^^ゞ


それからもいろいろしてきたつもりです。
ところが数年後、また同じことに気がつきました(^^ゞ
5年生の終り頃です。
構造化ってこういうことだったのか・・・と今までの構造化についてのサリーの理解が全然だったということにまた気がつき
ました。
私が悠くんに見せて伝えてきたことは、こういうことだったのか・・・・と、その時、また構造化の意味がやっと解ったような
感じがしました。

そして現在に至ります。
最初の頃考えていた「構造化」と実際に悠くんを通して感じた「構造化」とは月とすっぽんという感じです。
最初の頃は構造化のごく一部、部分的なところだけしか私には見えていなかったなと感じます。
それと同時に、そんな程度で「構造化出来てる」なんてとてもじゃないけど堂々と言えるもんじゃないよな・・・ということに
も気がつきましたが、その時はすでにHPを公開ていましたので、そんな程度で公開するなんて怖いもの知らずでした。
今考えると、すごい勇気です・・・・(^^ゞ



数年ごとに、目からうろこが落ちるように、「そうだったのか・・・環境の構造理解を支援するというのは、こういう意味だっ
たのか・・・」という状態に陥って、今までの自分の知識の浅さを認識せざるを得なくなってます。

さて・・・そろそろ3年。
また次のステップが待っているのかもしれませんね。
覚悟しておかないと・・・
私のしていることってまだまだこの程度だったの・・・と気がつくのって、結構ショックですから(^^ゞ

現在のサリーが考えている「環境の構造理解を支援する」の「構造」の意味は、それぞれの時期を越えてきて、サリーが
そう考えているということです。
最初に学んだのはTEACCHプログラムからですが、そのTEACCHプログラムの「構造化」が本当はどんな意味なのか
ということについてはサリーは良く知りません。
サリーが悠くんを通して思った「構造化」「構造理解」はこんな感じです(^^ゞ



**********************************

サリーの考える「構造化」「構造理解」の説明をもう少し・・・

からくり人形ってありますよね。
「環境の構造」なんて見えないものについての話は解りにくいので、環境をからくり人形に例えて書いてみます。

立体のからくり人形の立体ジグソーパズルがあったとします。
パーツ(キューブ)がばらばらで何が何か解りません。
これが、全く構造を理解出来ていない状態です。
パーツは一部のみ見えます。
全部のパーツは見えません。
でも、パーツだけでは何なのかすら解らないですよね。
情報が点で存在するというのはこういう状態だと思います。

そのパーツを、これが手、手はこういうように動くのよ、これが足、足はこういうように動くのよ、これが身体、身体はこうい
うように動くのよという感じで、パーツとパーツははめていきながら、足りないところのパーツも埋めていき、それぞれの意
味を伝えていきます。
これが「構造化」という仕事です。
全部の部分を構造化すれば、人形の形になっているということが解るということです。
悠くんが4年生までにしてきたことは、この部分だったと感じます。
各部分の構造は理解していますので、どう動くかは解っていますが、人形としての全体の動きの中で、それぞれの部分
がどう関連して動くのかがまだ解っていない状態です。

人形の全体像が見えている状態で、今度は、手が動くと頭や足はどうなるのかという構造を伝えていきます。
これも構造化ですよね。
基本ベースを元に、それぞれのパーツの関係を教えていくということになります。
これが「○○だから△△」という見えないルールということになります。
そして、この全体の動き全部が見えるようになったら、からくり人形についてのかなりのことが理解出来ているのではない
かと思います。

5年生ぐらいからは、この、基本ベースを元にしてルールを教えていくということをしてきました。
あっちが動くとこっちがどうなるかという構造を教えていくということです。
例えば、運動場での体育という今からするスケジュールで、急に雨が降ってきた場合には、悠くんの頭の中で、「雨が降
っている」−「運動場の体育は中止になる」−「教室で勉強をする」というように繋げられるということです。
雨が降ってきた時点で、これを頭の中で考えることが出来れば、運動場で体育のスケジュールが変更になっても、突然
の変更ではなく、推測していた当然の変更ということになり、混乱することもありません。


サリーは、構造理解ってこういう感じで捉えています。
悠くんの構造理解のステップはこんな感じでした(#^.^#)





悠くんの「構造理解」                             2004.10.12(火)


悠くん、もともと自由にやりたいタイプでした。
ですから、何もすることがないことで問題が起こるということはありませんでした。
何でも勝手にしたいので、していいこととして悪いこととが解らなくて問題は起きましたが・・・

悠くんは自由に好きなようにやりたい、そこに制止が入るとパニックになりますし、ストレスになります。
歯磨きをさせるだけで、「やらされている」ストレスになった子どもです。
でも何でも好きなように自由に出来るわけではありません。
ルールがあります。
ルールを守ってするなら、OKなのですが、5歳児にルールなど解りません。
野生児状態です。
そこに無理やりルールを入れてきたことになります。

なんでも自由に出来ると思い込んでいる悠くんが、何かするたびにサリーからの「制止」と「修正」が入るという感じです。
何かしたら制止または叱られるという経験を積んで、悠くんは混乱しました。
悠くんが勝手にしていいと思い込んでいたことを全て叩き潰したという感じですね・・・・
そのせいで、何がしていいことなのかが自分では解らない状態に入り込みました。
小3〜4の頃の悠くんは、全て許可を取らないと自分では怖くて自発的な活動が何一つ出来ないという指示待ち状態に
入り込みました。
いつもビクビクしながらの行動でした。
今要求していいのかといいうことについても解らなくなったみたいで、ビクビクしながらの表出でした。
自分では何の判断も出来ない・・・
何をしていいのか悪いのかすら解らない・・・・
やりたいけれども勝手にしたら怒られる・・・・
押さえ込まれているというストレスは、いつか爆発します。
大人しくしているのに突然爆発するということがこの時期はまだまだありました。


全て許可を取らなくては、自分では怒られるかもしれない不安で、何一つ勝手には手を出せないという状態から、これは
自由にしてもいい、ここは自由に主張できるという枠が解るようになってきて、この枠の中では自分の判断で自由にして
いいということと、それ以外の許可を取ればやってもいい活動というようなことが解るようになりました。
自分を取り巻く基本的な環境の構造が理解出来るようになったという感じです。
時間、場所、その中に存在する他者といったものを含めての環境の構造です。
その中には、基本的な学校や家庭でのルールも含まれます。


今、悠くんは、悠くんが理解した構造をベースに、今何をするべきか(誰かに許可を取る必要があるのかどうかも含めて)
を判断して行動しています。
この構造理解が出来たことで、自由にストレスなく、余計な干渉を受けずに過ごしていると思います。
自由に出来ることについては、干渉を拒否することが出来ます。
我が家では、フリータイムの使い方と、その中身については、決められた枠の中では悠くんの自由です。
フリータイムの決められた枠とは、遊ぶ場所、遊ぶ道具とそれぞれの使い方などのことです。


基本的な構造の理解があるということの重要性を、今とても感じます。
判断を間違わなくて済むということは失敗しないということに繋がります。
それが自信に繋がって行くのではないかと思います。
それに、解らなかったら聞いてくるようになりましたので、勝手にして失敗するということもなくなりました。

悠くんが理解したこの構造自体を、もっと広げていくことがソーシャルスキルだと思っています。
その中で、きちんと枠を決めて、その決められた枠の中で自由に活動できるということを増やせればなあ・・・と思ったりし
ますが、家庭の外となると悠くんの能力ではなかなか難しいですね・・・




写真が理解できるということ                             2004.10.12(月)



「悠くん、今でも写真や絵の理解は出来ません。」と言うと、「えっ、まさか・・・だって、写真使ってるでしょ?」と皆さん思う
みたいです。
あんなに細かい写真のスケジュールを使っているのに・・・と思う人が多いです。
でも、悠くんの知的レベルは、具体物提示のレベルです。
知的障害が軽くなるということはないのですから、それ以上は上がりません。。
「写真を理解する」ということはものすごく難しいことです。


悠くんの使っている写真は、「具体物」です。
写真を理解しているのではなく、あるものを表す立体の具体物を平面の具体物にステップアップさせただけです。

ある活動をする時に、そのものを表す具体物を示し続けることで、その具体物がその活動を表すシンボルになります。
その活動に名前がつくということです。
言葉のでている子どもさんはこれが「言葉」になりますが、悠くんは「具体物」です。
その具体物を、今、悠くんは、立体のものではなく、平面状のカードを使っているだけです。
写真の中身を理解しているのではなく、写真Aと写真Bが違うものということが解るので、ある活動と写真A、別のある活
動と写真Bというマッチングをさせているだけです。


極端な例を挙げると・・・
運動会を表すシンボルにするカードを、お祭りで太鼓を叩いている写真でも、ポケモンの絵カードでもいいのです。
その場面にマッチングさせれば、悠くんは、そのお祭りの太鼓の写真が、今している運動会のことを表すというように理解
してくれます。
写真が理解できませんから、「えーーー、運動会の写真じゃないじゃん」とか、「うそ・・・全然関係ないお祭りの写真じゃ
ん・・・」なんてことは思わないのです。
その写真の中に中が描かれているのかということの理解は出来ないのですから・・・・
ただ、こういう中身と違うものをシンボルとしてマッチングさせると、支援者(サリーを含む)が大混乱しますし、覚えるのも
大変ですからそんなことはしませんが、悠くんの理解はその程度です。
「写真が解る」とはいえないですね。
「写真を理解できる」と「写真を見ることが出来る」というのとは全然違うということです。

悠くんは今、具体物を通らずに、直接、場面と写真とをマッチングさせていますが、視覚情報を使いこなしてくると、相手の
伝えようとすることを何とかして理解しようという姿勢が出来ます。
この姿勢が出来てくると、目に留まりやすいわざわざ具体物を目の前に出さなくても、こちらから示したカードを一生懸命
に見ます。

ただ、その視覚情報を本人が大切な情報と認めて、視覚情報を信用してくれるようになるまでに時間がかかるのです。

自閉症ですからもともとの状態は、情報がわからないから、自分の過去の体験を優先するします。
そのためにパターン化するのですよね(^^ゞ
でも情報交換の手段が別の方法、視覚情報をやり取りすることで情報を仕入れるということに切り替えてくれると、パター
ン化しなくなります。
「いつもはこうだけど、今日はこうね」と視覚的に伝えるだけで、「あっ、今日はこうなのか・・・」と思ってくれます。

ですが、今までに身につけた情報収集手段を全て手放して、新たな方法に切り替えるということは、誰にとっても大変な
ことだろうと思います。
過去の体験を頼りにする状態から、他人からの視覚情報を頼りに生きていくように切り替えてもらうためには、本人に必
要な情報は全て適切に視覚情報として伝えるということです。
本人に「人からの視覚的な情報は信頼できる」と信用してもらうためには「絶対にだまさない。うそはつかない。」というこ
とは大切です。
信用できない手段には切り替えてはくれませんよね(^^ゞ
この中には、情報を与えないということも含まれます。
伝えていない、伝え忘れた・・・ということも当然含みます。
大切なのは、こちらが伝えたいことではなく、本人がどの情報がないから混乱しているかということです。

本人が必要としている情報が全て、「人から視覚情報として提示される」という状態を続けて初めて、視覚情報を信用して
優先してくれます。
その経験をしてはじめて、人との信頼関係も築けます。
「人」というものを信頼しないかぎり、「人」からの情報も信頼できません。
「絶対に嘘はつかない」ということ、すごく難しいことなのですが、すごく大切なことなのです。


・・・で、もう一歩進んで、人からの視覚情報に絶対的な信頼を持ってくれれば、知りたい情報を人に求めるという行動が
出てくるのではないかと思います。
悠くんが、最近サリーに情報を請求するようになったのは、そういうことなのではないかな・・・と思っています。
というより、やっとそこまで信用してくれた・・・・という感じですね(^^ゞ

・・・で、人からの視覚情報を優先してくれるようになると、自閉症らしくなくなるのです。
パターン化しない、こだわらなくてもいい、人に伝えてくる、人からのメッセージを理解しようという姿勢がある、解らないこ
とを聞いてくる・・・などなど、そうなると、全然自閉症らしくはないですよね。
自閉症の特徴的な行動が出なくなりますから(#^.^#)




視覚的に支援するということ                       2004.10.12(火)


言葉や文字を理解できない悠くんのような子どもに対しての視覚的支援って絵カードというイメージに結びつきます。
確かに悠くん絵カードを使ってます。
でも、「絵カードを使う」ということと「視覚的に支援する」ということと違うという感じがします。
なかなか上手く行かないという人の話を聞くと、絵カードを使おうとしているだけで視覚的に支援しているわけではないの
で、上手く行かないのです。
こちらから伝えたいことに絵カードなどの視覚的なものを使うということではなく、本人が理解できないことに視覚的支援を
使うのです。
同じじゃないか!!と思われるかもしれませんが、実は「本人が理解できないこと」というのが、私たちが思っているほど
簡単ではないです。
「粘土遊びするよ」と粘土を見せる・・・まだ視覚的支援ではないです。
ただ具体物を見せているだけです。
これが絵カードでも同じことです。
視覚的に支援しないといけないのは、粘土遊びという活動がいつ始まっていつ終わるのかという活動の枠をしっかり見せ
て理解させて、その活動の枠に「粘土遊び」という名前がついているということを理解してもらわないと、「粘土遊び」という
概念の理解は出来ません。
その一瞬ではなく、始まりと終りのある幅のある時間に、「ある活動」という名前がついているということを見せないといけ
ないのです。
絵カードや実物をただ見せただけでは、この始まりと終わりを伝えたことにはなりません。
全ての活動に始まりと終わりがあり、それにそれぞれ名前がついていて、その活動が切れることなく続いているというこ
とを理解させることが時間の流れを理解させることになります。
情報を点で入れるだけではダメです。
活動と活動が切れることなく繋がっている時間の構造を見せて伝えないと、視覚的に支援したことにはなりません。
この辺りを誤解している人が多いのではないかと思います。
絵カードでも具体物でも、それを言葉の代わりにするためには、その概念を理解する必要があります。
「粘土遊び」とはどういうものなのかということを見せて伝えないと、「粘土遊び」という概念の理解は出来ません。

一枚のカードをサッと見せただけでは無理なのです。
「粘土遊びの次がおやつね」と伝えたい場合、粘土遊びの始まりと終わりが解っていないと、「次におやつ」がいつ来るの
かが解らないのです。
いつ来るか解らないおやつばかり気にして、粘土遊びに集中できない・・・・ということになるかもしれません。
ですから、1枚のカードや具体物をただ見せて伝えるというだけでは、いつまでたっても時間の見通しが入らないままなの
です。
概念としての「粘土遊び」、いつ始まっていつ終わるのかということを、見せて伝える必要があります。
活動には始まりと終わりがあり、それぞれの活動には名前がついていて、その活動たちが繋がって一日を形成している
という時間の構造を理解できれば、かなり本人は楽になるはずです。
混沌とした中で、点としてしか存在しない情報をきちんとした構造にしていくための支援が視覚的支援だとサリーは思っ
ています。




「構造化」って?                                       2004.09.29(水)


「構造化」の捉え方の違いで、話をしていてもずれると感じることが増えてきました。
構造化って何?ということになりますが・・・
環境の見えない構造の理解が自力ではなかなか出来ないので、その見えない環境の構造を解りやすくしてして、理解し
やすいようにするということですよね。
見えない環境の構造理解を支援するのが構造化するということですよね。
構造化して、その見えない環境の構造を本人が完全に理解してしまえば、支援が不要になります。
理解したから支援が不要になる・・・これを脱構造化と捉えています。
あることを理解させるために、Aという場面で構造化して解りやすくした。
般化させるためにBという場面でも構造化した。
というように、構造化していきます。
そして、完全にその事を理解したら、Aという場面でもBという場面でも構造化する必要はなくなります。
完全に理解したということは、般化出来るということですよね。
ということは、初めてのCという場面でも構造化しなくとも、その事については「できる」ということです。
構造化して、理解したら構造化が不要になる(脱構造化)・・・それの繰り返しでいろいろな事を理解していくものと思って
います。
こちらからわざわざ脱構造化する必要はないですが、本人が理解したらその構造化は不要になってしまって勝手にいら
なくなります。
脱構造化脱構造化できないということは、理解できていないとサリーは思っています。
構造化して理解させて、いらなくなる・・・構造化と脱構造化とを繰り返しながら、次々と新しいことを理解していく。
構造化は理解力の支援と思っています。

なのになぜ、構造化が不要だという人がいるのか・・・・と考えてしまいました。
たぶん「構造化」の捉え方が違うのですよね・・・・

サリーの考える構造化と脱構造化は上記のようなことです。
脱構造化出来れば出来るほど、支援の手がいらなくなるのではないかと思います。

悠くんの脱構造化は、なかなか時間がかかります。
構造化してから、悠くんがそれを本当に理解するまでに数年はかかります。
その間は、ある事柄の理解を支援するために、いろいろな場面に般化しながら構造化していくということになります(^^ゞ




使えないって・・・・・                                   2004.06.14(月)


施設などを何件が見学しました。
利用者に対して職員の数が少ないためでしょうか・・・
悠くんのスケジュールやコミュニケーションブックを使ってもらえないようです。
「家では使っておられるかもしれませんが、ここではそういうものは使えません」という返答をもらいました。

視覚的なものは悠くんにとって必要なものです。
言葉に代わる大切なものです。
これがないとコミュニケーションが全く取れません。
「使える」とか「使えない」とかいうレベルのものではないのです。
悠くんにとっては、言葉の代わりです。


「ここでは使えません」・・・その言葉の意味を解っているのでしようか・・・・

悠くんにとって、コミュニケーションブックやスケジュールは、悠くんとコミュニケーションを取るためには必要なものです。
今日何をして、何をしないか・・・何が出来るか、何が出来ないかというようなことを伝えるためにはスケジュールは必須で
す。コミュニケーションブックは、悠くんが意思を表出するための手段です。
それを使わないということは、「こちらから何も伝えにないし、本人には何も言わせません。」という事になります。
今日、自分が何をするのかということすら教えてもらえないということです。
「悠くんには知る権利、主張する権利はありません。」と言われたことになります。
悠くんには何の権利も与えませんということを平気で言ったことになるのです。


しゃべったら大変だから言葉を取り上げる。
知らせたら大変だから知らせない。
普通は、そんなひどいことをしませんよね。
そんな事をしたら問題です。

人の手が足りないから、それは当然のことなのでしょうか・・・
そんな、人権を無視したようなことを・・・堂々とそれをしますと言うのですから、驚きました。
悠くんのように言葉が理解できない重度の知的障害児には、人としての権利などないということなのでしょうか・・・
悠くんは何も聞かず、何も言わずに、ただ決められたことを文句も言わずに黙々とこなしていればいいということなのです
よね・・・・
強制収容所のようですね・・・・
そんな人生が楽しいのでしょうか・・・・・


手がかかるのに人の手が足りないという現状はわかります。
視覚的なものを使っての支援が、手が足りなければ難しいことも解ります。
だからと言って、「権利などありません」と堂々と宣言する・・・・・あまりにもひどすぎます。

悠くんの将来を託さないといけない施設の現状を知っても、それでも親亡き後はそこに入れなければいけない現実。
サリーが悠くんの世話を出来ないぐらいの年齢になったときには、悠くんを連れて逝くか、置いて逝くか・・・かなり迷うの
だろうなぁと思います。
悠くんにとってはどちらが幸せなのでしょう・・・・・・


その決断の時は何年後に来るのでしょうか・・・・
10年か、20年か・・・そのぐらいで決断の時が来るのでしょうね・・・





                    

ひとり言その3
ひとり言その2
ひとり言その1


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