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「トカラ」という名前を聞いて、それが日本のどこであるか即座に分かる人はほとんどいないだろう。
 

 「トカラ列島」・・・正式には鹿児島県鹿児島郡十島村。
 
日本に離島は数え切れないくらいあるが、ここはまさに離島中の離島。行政上の区分は「最高僻地5級地」。これ以上の僻地はないというクラスである。

 定期的に村営汽船が各島々を結んで運航されているが、天候が悪ければ4〜5日船が来ないこともある。天気のいい日でも2〜3日おきの運行である。生活物資や郵便物などを鹿児島から運ぶことも義務付けられている村営汽船は多少の海の荒れくらいでは滅多に欠航しないが、それでも台風銀座の東シナ海では欠航せざるを得ないこともある。それが続くと、島には食料が無くなる。だから、トカラの島々の各家庭には驚くほど大きな冷蔵庫や業務用の冷凍庫といったものまである。それほど「トカラ」は遠い地なのである。


トカラ列島は北から、「口之島」「中之島」「平島」諏訪之瀬島」「悪石島」「小宝島」「宝島」の有人7島と、臥蛇島、小臥蛇島、小島、上ノ根島、横当島の無人5島からなっている。
人口は全島で1,000人にも満たない。典型的な過疎の村である。
 交通といえば、たった一隻の村営フェリー「としま」が鹿児島と奄美大島の間の島々を週2回往復するだけである。
 病院といえば、小さな診療所が全島にあるものの、手術を要する急患の時は自衛隊鹿屋基地(鹿児島県)からヘリコプターが飛んできて、患者を鹿児島の病院まで運ぶのである。そのためか、どの島にも立派なヘリポートがある。


トカラの語源については諸説あるが、沖縄・奄美地方で沖の海原を意味する「トハラ」から派生したという説。宝島に乳房の形をした女神山があることから、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」に由来するものなど。

トカラにいつごろから人が住み始めたのか?
「中之島」には縄文後期と思われる遺跡も発見されているから、少なくともそれ以前から人がいたことは間違いない。
「文化果てる島」といわれ、草木も生えず、文化も育たない未開の国のように言われるトカラだが、「日本書紀」にもトカラの記述が見える。少なくともその当時の中央政権には認識されていたのである。

トカラの各島には「平家落人伝説」が伝わっている
平氏の流れをくむ「平田」「日高」姓の人も多い。源氏に敗れた平家の武士たちがここまで流れてきたかどうか定かでないが、墓から刀が出てきたなどの話は後を絶たない。島々が置かれている自然の状況がそうさせるからなのか、島の人たちは実にゆったりとしている。まるで、いにしえの貴族を彷彿とさせる。それからも、「この人たちは平家の・・・」と思わせるものがある。


先に「文化果てる島」と紹介したが、その時々の政府や社会から忘れ去られてきたトカラでもある。本土で小学校が施行されたのは明治5年(1872)だが、トカラでは昭和5年(1930)になってからである。本土に遅れること実に50年あまり。
電灯が灯り、本土との電話が通じたのは昭和35〜36年以降のことである。
戦後、最北端の島「口之島」の北端(北緯30度)から南の島々はアメリカ統治領となり、昭和27年に返還されるまで本土との自由な往来は遮断されたのである。
(詳しい歴史については、「トカラの歴史年表」をご覧ください)


いま、自然ブームで、「トカラ列島」の手付かずの自然や固有の文化、多彩な生態系が脚光を浴び、釣りブームによる大物釣りのメッカとしてようやく日の目を浴びようとしている。

 沖縄、石垣島など海のきれいなところはいろいろ紹介されているが、ここトカラこそまさに生まれたての自然の海を見ることができる。なんといっても観光客がほとんど訪れることもないし、島の人たちも滅多に海に潜ることなどないのだから。

 
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