其の一
紀元前〜1885年

年号 西暦 事             柄
  紀元前 宝島大池遺跡(縄文時代前期)、中之島タチバナ遺跡(縄文時代後期)、宝島浜坂貝塚(縄文時代晩期)等から当時の人々の狩猟や漁労の生活が推測される。
白雉5 654 4月、トカラ国の男2人、女2人が、舎衛女1人と共に日向に漂着した。
文治元年 1185 平家は、壇ノ浦の戦いで大敗。平家一統が、十島の島々にも落ち延びて、島に住み着いたといわれる。
嘉禄3年 1227 十島は、川辺郡に属し、平氏のうちの川辺氏が支配。
応永3年 1396 口之島郡司肥後氏の妻が京都に上り、観世音像を購入。
享禄年中 1429〜1440の頃 宝島の平田権二郎定宗が琉球へ渡り、布や酒を購入して鹿児島の藩主へ献上し、以後、琉球の案内約を務める。
享禄8年 1436 島津氏は、臥蛇島と平島を種子島氏に与える。
宝徳2年 1450 臥蛇島に漂着した朝鮮人4人は、同島が薩琉の中間にあるという理由で、二人は薩摩へ、二人は琉球へ送られる。
文明4年 1472 宝島のトカラ観音堂に仏像が安置される。
永正10年 1513 臥蛇島より種子島氏へカツオ節5連、カツオ煎汁の小桶、綿18把(実際は9把)を上納。
弘治〜
天正年間
1555〜
1585頃
日向油津の海賊東与助等が、中之島や宝島をはじめ七島の島々を荒らし回ったので、中之島郡司日高太郎左衛門が討ち、その功により島津氏より鎧、刀を下賜される。
弘治5年 1559 大隈古江の山伏慶元が口之島に来島したが、乱暴したという理由で殺害された。その後、災害が続くので、万治3年(1690)、鹿児島の僧を招いて供養した。
慶長14年 1609 島津藩の琉球出兵に際し、七島の人々が水先案内をした。
宝永元年 1704 口之島、中之島、宝島に薩摩藩の異国船番所を設け、在番を置く。七島の島役は、郡司、横目であった。
文化10年 1813 諏訪之瀬島の御岳が大噴火し、溶岩が流出した。島民は島を脱出して、以後明治の初めまで無人島となる。
文政7年 1824 宝島でイギリス坂の戦いがあった。イギリス捕鯨船が宝島の牛を欲しがっての争いであった。これを機に幕府は異国船打払令を出した。
文政9年 1826 七島の蔵入高は(船手支配)831石であった。但し、七島は用心米真米36石余、年貢は鰹節、煎汁、真綿となっていた。
嘉永6年頃 1853頃 初代池田助八が屋久杉の苗を育て、前岳と横岳連山の沢に植え付ける。
明治4年 1871 廃藩置県が実施される。十島では、在番がそのまま郡司、横目と共に行政を担当する。
明治8年 1875 在番が引き揚げ、口之島、中之島、宝島、硫黄島に戸長が置かれた。副戸長は、どの島にも置かれ戸長を補佐さうる。
明治12年 1879 中之島に惣代の役が生まれる。中之島、口之島、宝島の戸長取扱事務所が戸長役場となる。
明治13年 1880 川辺郡十島の戸長が、統治上の都合により官選で任命されるようになる。
明治17年 1884 鹿児島県勧業課長白野夏雲は県令渡辺千秋の命により川辺郡十島を調査し、「七島問答」「十島図譜」を著して報告。
明治18年 1885 地租改正による地押調査が十島でも実施される。それに基づき、十島も税を納めるようになる。それまでは、民費だけを納めていた。十島のどの島にも私学の小学が開設される。
川辺郡のうち十島は、川辺郡のまま金久支庁管轄となる。

次のページ  
 歴史年表TOPにジャンプ

 
Copyright(C)2004 Aruzou All right reserved