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今月の一言

バックナンバー/2006年

#8テーマ:クリスマス

  石坂 美樹 先生(家庭 H2.4〜 )

 高等部では11月の下旬からPS講堂ロビーや図書館前にツリーが飾られ一足早くクリスマスの雰囲気。今年の学院の点火祭は12月1日の金曜日に行われました。この時期は期末に向けて忙しいということもありなかなか参加できずにいたのですが今年初めて最初から最後まで参加してみました。式は粛々と、でも華やかに進められていきました。翌月曜日から高等部生は期末試験を控えていましたが聖歌隊、ハンドベル部の人達をはじめ多くの生徒たちが色々な場面で奉仕していました。キャンドルサービスの時に司式の方に促されて全員でろうそくを上方に翳したときの灯りの煌めきの美しかったこと。思わず参加者の間から感嘆の声が上がりました。今校内のあちらこちらにリースが飾られています。部長室前のギャラリーにはクリスマスに因んだ作品が展示され背後には静かにクリスマスソングが流れています。待降節の到来です。

 沼田 美南 (3年HR304)

 高等部での3回のクリスマスを通して私が感じたことは、「真のクリスマス」を皆で祝うことがいかに大事か、ということです。無宗教が多い日本では、クリスマスはまるでサンタクロースのお祭りのように祝われていて、私もその中の一人でした。しかし、この3年間キリスト教の精神を基にするこの高等部で学び、点火祭やクリスマス礼拝に参加し、クリスマスの本当の意味が少しずつわかるようになって来ました。特に点火祭では、ブラスバンド部として演奏を奉仕するという貴重な機会をいただきました。聖歌隊やハンドベル、オルガン、ブラバンの奏でる音色と、そこに集う大勢の人々の歌声が混ざり合った時の響きや、一斉につけられた蝋燭の明かりを雛壇の上から見たときの感動は、今でも忘れることはできません。そしてこの時、「真のクリスマス」は、イエスの誕生を心から喜ぶことであり、そして何より皆が心をひとつにして幸せな気持ちで共に祝うことなのだなと実感しました。この高等部で学んだ「真のクリスマス」を心にとめて、これからのクリスマスも大事に過ごしていきたいです。

 

   大場 美和 47期) 

「毎年必ず」、クリスマスは約束事のように訪れる。自分にとってそれを最も印象付けたのは、この季節「毎年必ず」開かれる聖書のページ、イエス・キリスト降誕の物語である。目には見えない光景だが、言葉が綴る登場人物それぞれのドラマがあり、それらが組み合わさりながら、新しい始まりの物語へと至る。
かけがえのない地球上のささやかな瞬間にかつて秘められ、託されたのは、未来への可能性ではなかったか!?そんなことを思い浮かべるたびに、自らの成すべき方向性を見つけるとともに、私は想像力を豊かにすることができる。
目の前の華やかにイルミネートされた現実からひとたび離れ、イメージを超え、再び世界を見つめてみる。そうすることで、私たちは与えられ、真に照らされたものの在り処を見つけることができるのではないだろうか。「毎年必ず」、その好機は訪れる。




#7テーマ:修学旅行

  藤井 徹也 先生 (英語 H2.4〜 )

 11月。今年も修学旅行の季節が来た。高等部の卒業生なら、この4文字にみな胸が踊ることだろう。また、クラスの仲間とあんなに身近に過ごした5日間を懐かしく思い出すことだろう。私は、担任としてこれまでに修学旅行を5回引率した。ご一緒した皆さんからはわからないだろう、しかし、今までに心から満足できた旅行が一度もないことが自分でも不思議だ。参加した生徒はみんな満面の笑みを浮かべつつ帰路に着くのに、みんなと別れた後の私は、疲れとともに、いつも十分にやり遂げ切れなかった思いで何か釈然としない。そんな思いは一体どこからくるのか・・・。書いているうちに、なんとなく心の整理ができてきた。「クラスの生徒たちには心底楽しんでほしい」と思う担任としての気持ちと、学びの場として旅行に望む参加者の姿勢と、クラスというコミュニティーに対する私の期待感とが微妙な不協和音を奏でるからなのだと思う。「楽しきゃいいじゃない」という思いと、私のこのクラス最大の行事にかける気持ちが微妙にかみ合わないのだ。それだけにいつも次の修学旅行にかける思いには熱いものがある。いつか、きっと・・・という思いがある限り、私自身の「修学旅行」には終わりがないのだ。いつかクラス会でお会いしたとき、大人になられた皆さんとは、本音であの時の修学旅行を語ってみたい思う。

 前川 古都乃 (3年HR310)

 私は昨年修学旅行委員を務めました。高等部の修学旅行はクラスごとで行く場所を決めるため、私のクラスはアンケートをとりJTBさんや先生方と話し合い見学場所が決まりました。5日間でさまざまな場所に行き、その中で印象に残った風景は大観峰です。少し冷たい気温と朝日が気持ちよく、その朝日に照らされた黄金色に輝く草原とそこから見下ろす街が朝霧の中とても綺麗でした。ホテルではクラスメートと楽しく語り合いました。稲佐山の夜景は天の川を見ているようでロマンチックでした。平和学習で原爆資料館を見学し、事前にいくら調べても実際に見学するのはとでは違い、とても衝撃的でした。そして原爆を体験された方のお話を聞きました。原爆を経験した方のお話は今まで耳にしたどの言葉よりも戦争の恐ろしさが心に強く伝わりました。最初は修学旅行委員として九州各地を調べていましたが、調べていくうちに段々興味深くなっていきました。実際行くと調べた事との出会いが嬉しく、また想像以上の発見や貴重な体験をしました。
 


   土田(樋口) 亜紀子 46期 HR302 

 「修学旅行」というテーマをいただき、久日ぶりに修学旅行のことを思い出してみた。行き先は、九州。修学旅行委員を中心に、細かなプランは各クラスで決めた。それから・・・私たち46期は、飛行機を使った初めての代だったと思う。ただ、行きは、東京駅から博多まで新幹線。帰りだけ、試験的に?!飛行機を使った。行く前は、往復飛行機の方が楽でいいなと思っていた。けれど、あの飽きるくらい延々と乗り続けた新幹線での往路も、良き思い出になったと、後から感じた。宿では、友達とこっそり男子の部屋に行き、あやうく先生に見つかりそうになって、必死に隠れたのが思い出深い。今度、クラスメイトに会ったら、そんなエピソードを語りつつ、懐かしの修学旅行に思いを馳せるのもいいかもしれない


#6テーマ:文化祭

  浅井 義継 先生 (国語 H1.11〜H9.3)
 文化祭という名称に違和感があるという。成程と思う。私は終戦の翌年旧制中学に入学したが1948年には新制高校の併設中学になるという慌しい学校生活を過ごした。高1の2学期初めて音楽会が開催された。一流プロの演奏とテノールの歌唱に恥ずかしくもカルチャーショックを受けた。そのすぐ後、大津のZ高校から福岡のS高校に転校した。クラブ活動の発表会で理科部が造ったテレビジョンの実験に正に驚愕の一語。両校とも文化祭とは言わなかったが、未来の描き方は明治以来欧米の文化吸収の流に確実に沿っていた。高等部の学校祭で感じる強烈なエネルギーが在校生の何を触発するかによって、その名称は決められてよいのではと思っている。

 稲本 洵 (3年HR301)
 青山学院だけでなく、日本の全ての中高生にとって、文化祭というのは特別な行事の一つに数え上げられるのではないでしょうか。去年の夏、HR201では、教室全体にレールを敷いて、2人乗りのジェットコースターを走らせるという無理矢理な案が出ました。チーフでもサブチーフでもなかった自分ですが、出案を進めたことに対する責任もあり、それからは朝起きてから夜寝るまで、必死で企画について考え続けました。高校2年と言う学年で部活動が忙しく、準備にもなかなか人数が集まらない中、何人かの生徒が本当によく参加し、手伝ってくれたことに今でも感謝しています。そのおかげで、完成は遅れ、途中何度か故障したものの、ジェットコースターは最後まで無事に走り終えてくれました。結果として賞は取れませんでしたが、精一杯文化祭に取り組んだ夏は高校生活の良い思い出です。文化祭において、一人一人が同じ方向を向き、同じ目的を持つということは最も大切な点です。また、文化祭の意義もそこにあると思います。今年もまた、文化祭の時期が徐々に近づいてきました。準備も始まりだしました。終わった後で、ああすればよかった、こうすればよかった等ということがないように、そして文化祭に訪れてくださった方々、なおかつ自分たちも去年以上に楽しめるように一生懸命頑張っていきたいと思います。
 

   竹谷 尚人 (45期 HR305) 
 「文化祭」という言葉を聞くと頭が痛くなるのは職業病であろうか。私が高等部にいたころ、クラスのみんなが一生懸命準備していたのに、ほとんど手伝いをしなかった覚えがある。そのツケが回ってきたようだ。あれから10年以上過ぎ、今では生徒を指導する立場になった。文化祭は休日、祝日返上で準備や実施をするために、この時期は2,3週間休めない。それに加えて自分の担任する生徒に限っていうことを聞かないのだから、疲労はピークに達する。しかし、一見憎らしい生徒もかわいく思えるときがある。年を取ったせいであろうか。ともかく学校というところは先生の影響は大きい。彼らもだらしないように見えるが、怒られながらもクラスメイトと準備をしていく過程で大人になっていくようだ。自分自身も当時は高等部の多くの先生に迷惑をかけたかもしれない。しかし、すばらしい環境の中で成長させてもらえたからこそ、今の自分がいると思っている。せめてもの恩返しに、今年の文化祭も、未来ある生徒のためにがんばろうと思う。そして楽しい楽しい平日の代休にゴルフにでも行くことにしよう。


#5テーマ:夏休み

  棟居 正 先生 (英語 H1.4〜H7.3)
  高等部での夏休みというと、ブラスバンド合宿。苗場に行った。夏休みが終わる頃コンクールがあったと思うが、その為随分気合いが入っていた。涼しいはずの苗場も練習場は熱気でむんむん。しかし、そこで音楽が段々できあがっていくのを聞いているのは本当に楽しかった。普段の練習、毎日やっているとはいえ、放課後とか授業前。時間はごく限られている。合宿ではそうではない。曲が仕上がってくるにつれて、唇が切れてきたりする。特に歯列矯正などしている生徒にとっては大変だった筈。管楽器は吹けば、その音が出るわけではない。一つ一つ息の吹き入れ方でピッチが変わる。だから、神経を研ぎ澄ませて、他の人の音を大切にしていないと、ハーモニーが生まれない。あの緊張感。みんなの生き方にそれはきっと大きな影響を与えていたと思う。皆が一つになって最高の音楽を作ろうとしていたあの日のこと。わたしもあれを無駄にしたくない。

 徳増 はる菜 (3年HR311)
  夏は暑い。けれど私の夏休みはずっと温いものだった。小学校の頃は毎日のラジオ体操やプールなんて習慣はなかったし、中学・高校も例えば野球部のようなハードな部活でもなかった。ただただ憮然と過ぎ行く日常に手を伸ばしてみてもどうすることもできなくて、意味を見出すことなく去ってゆく日々を惜しみながら夜更かしをしたりした。朝が来るのが憂鬱だった。また不毛な一日が始まるのかと。
 そんな私が今回原稿を書かせていただくことになってしまい、ありもしない暑い夏の思い出をこれみよがしに書いて奇麗事を並べ立てようと思ったはずが、思いの外、たくさんの思いだが浮かんできたことに気づいた。
 蝉の鳴きしきる畦道。まだ青い果実を涼しさ求め夢中で頬張ったこと。気の抜けた私の声を反響させるさびれた扇風機。ラムネのビー玉をもどかしく舌で転がしたこと。塩をかけすぎたしょっぱいスイカ。かき氷が溶けた安っぽいジュースを飲んだこと。クレープ片手に歩いた竹下通り。マルキューのベンチで友達とサーティワンのアイスを食べたこと。
 気怠くも愛しい思い出ばかり。温い夏もいいかもしれない。そう思う十七の夏。
 高等部最後の夏休みが楽しみだ。

   竹中 一樹 (44期 HR301) 
  
夏がくれば思い出す はるかな菅平。そうですラグビー合宿の聖地菅平。へたくそながら3年間続けたラグビー部。高等部時代の夏休みはラグビー一色。足の皮がむけて歩くのが困難でも、肋骨にひびが入っても楕円球を追って走り続けた。高等部卒業後10年経った今でも共に戦った戦友とは思い出話を肴に杯を傾ける。また ラグビーやりたいねなどと盛り上がるがラグビーが全てだったあの頃とは違い皆それぞれの道で忙しい毎日を過ごしている。よし 今年の夏休みは皆を誘ってラグビー部の練習に顔でもだしてみようかな。


#4テーマ:ときめき

  樋口(松田) 玲子 先生 (数学 H2.4〜 )
  外部受験を目指し、放課後の図書館で勉強にはげみつつ、窓の外で部活に汗を流す(?)くんにときめいた高等部時代。
 スキーサークルに入り、春夏秋冬、昼も夜も、寝ても覚めても、スキーをし、スキーを見、スキーを読んでは憧れの選手の滑りにときめいた大学時代。
 そして子どもの頃からの夢だった教員という仕事に就き、授業、クラブ活動、礼拝、学校行事などを通して沢山の生徒たちと出会い、ときめく今。幸せなことにこの仕事は毎年新しい出会いがあり、何年経っても「ときめき」は消えません。
 人はいくつになってもときめくことが出来るのですね。この幸せを神様に感謝しつつ、今日もワクワクしながら教室に向かう私です。

 長島 朋恵 (3年HR305)
  あなたがときめきを感じるのはどんな時ですか。それともそれ以前に、ときめきなんて感じないでしょうか。
私がときめきを感じるのは、バレーボール大会や文化祭を終えた達成感に満ち溢れる、友達の笑顔に触れた時です。クラスTシャツや、試行錯誤した文化祭の出し物の一つ一つが、かけがえのないものであることを実感して、とても幸せな気持ちになるあの瞬間です。
 私はいつもときめきを感じている人は、年をとらないと思います。というのは、そのような人はいつもでも心が初々しく、魂から人生のすばらしさを味わっていると思われるからです。さらに、ときめきを感じる心を持った人こそ、周りの人にもそれを与えられる人だと思います。
 なので私は、毎日が同じことの繰り返しに思われてしまう日常生活の中で、笑顔というときめきを見過ごすことのないように生活していきたいです。

   田辺(岸本) 有加 (43期 HR309) 
   
高等部を卒業して12年が経ち、大学進学、就職、結婚、出産と人生の大イベントも一通り終わり少し落ち着いてしまった私にとって、今、最も「ときめき」を感じる瞬間は、息子である悠真がにっこりと微笑んでくれるときです。
 7ヶ月になった息子が、一緒に遊んでいて声を出して笑うとき、泣いてばかりだったベビースイミングを1回も泣かないで頑張れたとき、抱っこしたら泣き止んでくれたとき、今までには感じたことのない、何か温かいもので心が満たされるような気持ちになります。
 高等部生だったときは、30歳になった自分がこんなことにときめきを感じるとは想像もつきませんでしたし、社会に出て仕事が楽しい時期もありましたが、今のこんな「ママ生活」もまた気に入っています。


#3テーマ:入学

  神森 三喜子 先生 (家庭科 H2.4〜 )
 入学式といえば、満開の桜の下、真新しい制服を身にまとい、正門の前で記念撮影をする親子の光景が思い浮かびます。
 「中学生とは違って、少し大人になった気分。知っている友達は誰もいなくて、少々心細い。新しい友達をたくさんつくろう。勉強頑張ろう。クラブ活動もしっかりやろう。3年間、どんな学校生活が待っているのか少し心配、でも楽しみ。」親も子もいろいろな思いで迎える入学式です。
 今年は、5回目の担任として高等部の入学式に臨みます。どんな出会いがあるのか、子ども達と同様、不安と期待で胸を膨らませています。

  井上 航 (3年HR302)
  入学。二年も前だからよく覚えていないな。入学っていうと「桜の木の下を…」とか「新しい制服に…」ってのが定番なんだろうけど、そんなの嘘だろ。俺は桜なんか見てなかったし、制服の着心地なんてどうでもよかった。気にしてたのは人のこと。人を見て、人のことを考えていた。
  席は一番前だった。その周りを女の子にぐるーっと囲まれちゃって、やりづらかったな。初日は誰とも話さなかった。近くにいる人を見て、向こうにいる人を見て、値踏みしてた。表現悪いけど、本当にそんな感じで見てた。最初ってみんな嫌な奴に見えて、特に内部生が仲良さげに話してるのを見ると「けっ」って思ってた。羨ましかったんだな。
  でも三日もたつと色んなやつと話してた。話し始めると、どんどん好きになって、6月には「バレ大絶対優勝すっぞ!」なんて先頭に立って叫んでた。もちろん優勝した。
  高等部でのスタートはこんな感じだった。

   久保毛 ふみ (42期 HR305 
   
私は、中等部からの内部進学でしたので、高等部の入学式は新鮮さに少し欠けていた気がします。しかし、制服はグレーから紺のブレザーに変わり、カバンも学校指定のものから自由に。どことなく自分がお姉さんになった気持ちになったのを覚えています。当時は、どんなカバンで通学しようか、そんなことが一番の悩みだったりもしましたが、自分で選べるようになったのは、カバンだけではありません。自分の在り方、進む道、そんなことを自ら考え選択するようになったのもおそらく、高等部の頃。社会に出て8年が過ぎ、「入学」という言葉に縁のない生活を送っていますが、今でも4月になると、フレッシュな気持ちをふと思い出し、背筋が伸びる思いです。


#2テーマ:卒業

  高橋 美智江 先生 (保健体育 S63.4〜 )
 同窓会から原稿を依頼された時、どうして私なのか伺ったところ、勤務年数の順で行くと・・・とのことでした。数えたら勤続18年経っていました。ショックで口が聞けません。
 初めての卒業生は2年生の時から担任した39期生。生徒になめられたくないと、力が入っていたのでしょう。若気の至りでいつも注意ばかりしていました。
卒業式の間もきちんとお辞儀が出来るだろうか、賛美歌を大きな声で歌ってくれるだろうかと心配しながら壇上から生徒の顔を見続けていた私でしたが、式の最後に「卒業生退場。起立。」の声で一斉に生徒が起立し、クルリと出口の方を向いたその瞬間、「ああ・・行ってしまうんだなぁ」と涙が溢れて止まりませんでした。
 胸を張って扉に向かって歩いていく生徒の後ろ姿はまさに未来に向かって進んでいく姿そのもので、自分の手の届かないところへ行ってしまう私の寂しさよりも、3年間の高等部の誇りを身にまとった生徒の成長が優った瞬間でした。

  西山 猛 (3年HR308)
  卒業を目前にして、自分の高校生活を振り返ってみるとなんと多忙で充実した日々であったことだろうと思う。とにかく毎週、いや毎日が新たな物語の1ページであり、僕の青春時代を内容の濃いものにしてくれた。高等部で参加した行事はいろいろある。クラスの運営委員に始まり部活動、バレーボール大会、グリーンキャンプ、全校礼拝でのお話、学校説明会のツアーガイドなどそれぞれにおいて違った実のある収穫を自身にとって得ることができた。その中でも、僕が最も充実感と達成感に満ちた行事は3年時の文化祭である。今年度の文化祭、僕には2日間で4つもの仕事があった。
その中で最も印象に残っているのは英語スピーチコンテストのスタッフである。コンテストの司会に興味を持って申し込んだのだが、なんとスタッフの仕事はコンテストの進行から当日の構成まで自分らで一から作り上げていくというものであった。与えられた時間は1ヶ月。スタッフ会議は当日司会を担当することになった僕とUさんを中心に進められ台本作りから照明・音響の設定、テーマとなっている「信仰・希望・愛」と歴史に残る3人(マザー・テレサ、ヘレン・ケラー、クリス・ムーン)をどのように紹介・組み合わせていくか、選手の順番・紹介はどうするか、審査員の先生方は誰にするか、など幾分か顧問の先生方の補佐があったとはいえ全て自分らで話し合い、決定した。結果は大成功であり大満足の一言であった。一方、最も苦労したのはイベントショーであろう。前年のショーが夏休み前から打ち合わせを始めていたのに対し今年度は一月前から台本作りに入ったのであった。実際のアクションも練習しなければならなかったので本当に時間がなかった。本番直前でも満足のいくリハーサルは一度もなく、出演者とスタッフの間でも意思の疎通がうまくいっておらずとにかく不安要素だらけであった。それだけに当日成功を収めたときはどのパートよりも嬉しかった。この二つのイベントから僕は自分らで0からのスタートを切り一つのものを作り上げていくことが多大な労力と苦労が必要なことを思い知らされた一方で、終わってみるとこれほどの充実感というか達成感・満足感が味わえるのかと感動した。スピーチコンテストからはリーダー的役割を担ってマネージメントに関することも学んだと思う。
残りの二つ、部活の招待試合の審判では、仕事の合間をぬって体力を作っていくにあたって自己管理、いわゆるセルフマネージメントについて大きく学ばされた。また、クラスにおける活動では人間一人一人の個性の豊かさと皆で団結すれば少人数では実現し得ないことも簡単にこなせてしまうということ改めて実感させられた。
この文化祭は僕の高校生活を象徴するイベントだったといえる。たくさんの幅広い人間関係の中で、たくさんのことに挑戦し、その各仕事において自分を成長させていく。これはまさに僕が高等部に出願する志望動機そのままであった。しかし、僕はもう一つ当初予定していなかったことを学んだ。それは苦労続きで苦しんでいるときに支えてくれた人への感謝の心である。1ヶ月間毎日分刻みのスケジュールの中、多忙でなかなか会う機会がなくとも彼女は静かに見守ってくれた。時折くれた差し入れや励ましの言葉はとても大きな僕の支えとなった。このことは、将来の人間関係においても大きな財産になると思う。

 さて大学では何をするか、また高等部で得たものをどのように活かしていくか、これといったものはまだ正直決まっていないが今のところの目標は:@国際経済学科に入ったので志望動機としてあげた「南北問題を解決」できるよう勉強に励む、Aより大きな人間関係を形成していく、Bバイトもしてみようかと思う。とにかく無駄な時間はすごしたくはない。まだ世間から見たら若く色々なことに挑戦できる今、なるべく多くのものを経験・吸収し最後に自分自身が満足できる人生の完成図を描けるように努力して生きたい。

  川邊 健太郎 (41期 HR303) 
 中高一貫でしかも付属大学への進学率が高いと卒業は正直、そんなに悲しいものではありません。
ただ、やはり恩師との別れは辛く、卒業式も終わった後に先生たちとずっと話をしていた記憶があります。
さらに寂しさを感じるのは"渋谷キャンパス"です。41期生は卒業後、ほとんどの人が厚木キャンパスへの進学でしたからしばらくの間、渋谷キャンパスとはお別れになります。
2年後、渋谷キャンパスに戻ってきて最初に寄ったところが高等部でした。"校舎の影、芝生の上"は何も変わらず健在でした。


2006年#1 テーマ:礼拝

  片山 光子 先生 (数学 S63.4〜 )
 着任して初めて話した礼拝のテーマは「自分の足で立つこと」。チャップリンの映画ライムライトを引用し、がちがちに緊張して話し終わった後は、緊張が解けてぐったりとしたのを覚えています。(今でもそうですが。。。)PS講堂で話した後の授業で教室に入るときはいつも怖いような恥ずかしいような気がするものですが、そのとき私を迎えてくれたのはHR202でした。生徒達の笑顔と「ライムライト」というつぶやきに、新米教師に対する寛大な温かさを感じとてもありがたく思いました。
 今では礼拝の中でビデオ上映や音楽を流すことが何の抵抗もなく受け入れられていますが、初めて礼拝で音楽テープを流したときは大変でした。ブラームスのドイツレクイエムを聴いていただいたのですが、当時は初めての試みですから「こんなことをして大丈夫だろうか」ととても不安でした。受け入れていただくことができ、その年は芸術を通してキリスト教に触れてもらいたいと3回の名曲シリーズをさせていただきました。今、様々な形の礼拝が受け入れられていることを嬉しく思います。

  飛田 貴基 (3年HR307)
  18年間生きてきた。さて、いったい何回くらい礼拝をしてきただろうか?長期休み中の平日などを除けば、初等部に入学してからはだいたいの日は礼拝をしてきたに違いない。幼稚園から青山学院に通っている僕は、礼拝をすることが当たり前だという感覚になっている。僕は高等部の礼拝で寝たことはほとんど無い。とりあえず話は聞く。礼拝の話への慣れというものあると思うが、良い話を聞きたいという気持ちがどこかにあるからだと思う。キリスト教以外の学校と違い、毎日様々な先生の話が聞けるということは、とてもおもしろいことである。悲しいことは、礼拝後に友達に向かって「今日の礼拝の話でさぁ…」と切り出しても、たいてい寝てて聞いてないことだ。高校生にもなれば、みんなそれぞれに違った考えを持つようになるわけで、礼拝に対しても『ウザい・時間の無駄・神なんていない』など言うこともある。思想の強制はできないし、その考えでも良いと思う。まぁしかし、青山学院に入学して強制的に礼拝を受けねばならないのなら、逆に礼拝を楽しむ方向で受けていきたいと僕は思う。そういう考えだったからであろうか?それとも初等部の頃からの習慣であろうか?今でも、毎週日曜日には教会に行っている。最初のうちはただ行っていただけだったが、だんだんとキリスト教自体にも興味を持ち始め、2004年4月には洗礼も受けた。中には、「うまく洗脳されたな」などと言う人もいるが、洗礼を受け、キリスト教学校に通っている間にキリスト教徒になったということは、いままで礼拝を受けてきて掴んだ、立派な自分の財産であると思っている。今まで初等部・中等部で9年間受けてきた礼拝、そして、青春真っ盛りの時に受けてきた高等部3年間の受けてきた礼拝は、卒業して毎日は受けなくなっても、心に刻まれていることだろう。   

  日野 陽子 (40期 HR311) 
 初めて礼拝に出席したのはもう二十年ほど前。その厳粛な雰囲気と、オルガンの音色、「お祈り」をするということすべてが新鮮で、青山学院に入学した、という実感を得た時でした。その新鮮だった感覚も6年間でいつしか日常となり、聖歌隊として活動することでさらに生活の一部となっていました。
 礼拝で得られたものは知識だけではなく体感として残っています。わたしの専攻した建築という分野は工学的分野のみならず、芸術や西洋思想にまで及ぶ考察を必要としますが、より深く理解できたのはその体感あってこそ、だったように思うのです。
 今年は設計者という立場でチャペルの建設に関わります。今まで私が得たものをこの仕事に存分に生かしたい。そうすることで、今までの人生に関わってくださったすべての人への感謝の気持ちを形にすることができれば、と思っています。
 



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