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 「アダムの創造」は、史上最も有名な絵画です。映画「ET」のヒントになったのはご承知のとおりです。神がアダムに息を吹き込む瞬間だ、とよくいわれるのですがそうでしょうか。アダムはすでに生きています。そして神の呼びかけに答えて手を延べています。人は息してるだけで生きてるとは言えない。神との応答関係にあってこそ活きるのです。よく見ると、神の左腕は若い女性の肩を抱いています。アダムをジッと見つめるエバの姿です。



 次の場面は地上での「エバの創造」です。エバは祈る姿で神の呼びかけに答えています。神は地上に降り彼女の目線に立っています。地に来られたキリストを彷彿とさせます。



神の姿はこれで見納めです。これ以降、神は姿を消してしまいます。次の場面は「誘惑と失楽園」です。人の罪が神を見えなくしてしまったのだ、というのがミケランジェロのメッセージではないでしょうか。その結果の楽園追放。老け込んで胸で両腕をクロスさせるエバ。X(キリスト)の十字架(クロス)によってしか救われない罪が示唆されているかのようです。



 天井画の最後を飾るのは「ノアの洪水物語」。



 その大画面は迫力ある洪水のシーンです。箱船ははるか彼方に見えるだけで、手前に大きく描かれているのは洪水から必死に逃れようとする人々の姿です。着の身着のままで他人に手を差し伸べ、助け合う姿が印象的です。この人たちは滅んでも自業自得の罪人には見えません。いや、われわれと変わらない普通の人々としか思えません。そう、われわれにとってこの出来事は他人事ではない、とミケランジェロは訴えているのではないでしょうか。遠くに見える箱船は船というより水に浮かぶ大きな家に見えます。これ、システィーナ礼拝堂ではないですか。古来、教会堂は船に譬えられます。ミケランジェロは人々が災いにあっている只中での教会の在り方、役割を問うているのです。2011年の3月11日、テレビに映し出された光景にこの絵は重なります。あたかもミケランジェロもあの光景を目撃していたかのようです。彼の視線は箱船ではなく被災する人々と共にあります。ノアとその家族が救われたのだって彼らが賢こく偉く聖なる人たちだったからなんて思えません。現に次の、天井画の最後を飾る場面でのノアは裸で酔いつぶれ息子たちに迷惑をかけるみっともない老人です。そんなノアが救われたのはなぜ?ラッキーだったから?それが神の御心であったから、としかいいようがないのではないでしょうか。
 ミケランジェロは復活ということを強く信じていました。「永眠」してもその永い眠りから目覚めるときが必ず来る。それはキリストが再臨する「最後の審判」のときです。この世の死は誰もが必ず迎えます。でもそれが人生の終着点ではない。ミケランジェロは究極の到達点を核心し、後にそれを祭壇画として描くのです。



 さて、天井画は1512年の10月31日、ハロウィーン(Halloween「諸聖人の祝日」)に披露され、感動した人が「神のごときミケランジェロ」と称賛したと記録にあります。そこから日本では「芸術神ミケランジェロ」とか、彼は神だと思われていたなんていわれたりします。キリスト教では人間を神扱いする筈はありません。MICHAEL-ANGELOという名はミカエル・アンジェロ「天使・ミカエル」という意味です。「ミカエル」は「ミカ(〜のような者は誰か)」「エル(神)」で「神のような者は誰か?」、つまり「神のような者はだれかって?君こそミカエル-アンジェロ!」という見事な掛け詞での賞賛だったわけです。







 『天井画』は三十代半ば、脂の乗り切ったときの作品です。それから三十年の歳月を経て、六十代の彼が5年の月日をかけて完成させたのが『最後の審判』です。







 四階建ての高さ、百畳敷きより大きなこの壁画には古今東西の四百人が描かれていると言われます。

 その真ん中でひときわ目立つのがキリストと聖母マリアです。キリストの手足、胸には十字架の傷跡が見られます。まさしく受難と復活の主ご自身が再臨されたのです。しかし短髪で髭のないその顔はわれわれの親しんでいるキリストのイメージとは違います。そう、天井画のアダムそっくりではないですか!キリストは「人の子」とも呼ばれます。ヘブライ語では「ベン・アダム」です。「最初のアダムは命ある者となったが、最後のアダムは命を与える霊となった」という第一コリントのパウロの言葉そのままの光景です



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