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野 球 部 現 役 情 報

2023年度東京都夏の大会(東東京)ご報告

高等部野球部、初戦は2回戦、対都立江戸川高校、7月12日(水)9時より江戸川球場で行われました。
5回までは1対3と拮抗した戦いとなりましたが、6安打を放つも1点に抑えられ、3人の投手の頑張りにも拘わらず1対9、7回コールドで敗れました。
都心でも37℃を記録した猛暑の中、会場で応援戴いたOB・OGのみなさま、お疲れさまでした。そしてすべてのOB・OGのみなさま、有難うございました。
3年生の夏は終わりましたが、1・2年生での秋の大会が控えています。
引き続き、青学高等部野球部!応援をよろしくお願いいたします。
   
      2023年07月13日      OB会会長 伊藤正道


   

   

   

   


   



         本年度主将からのメッセージ
    
 青山学院高等部硬式野球部OB会の皆様

 日頃から私たち硬式野球部を応援し、支えて頂き誠にありがとうございます。
 現在部員は、3年生6名(マネージャー1名)、2年生8名(マネージャー1名)、1年生10名(マネージャー2名)の計24名で活動を行なっております。
 主な活動場所は、平日は学校グラウンド、週末は青山学院大学町田グラウンドです。今の時期は様々な学校と練習試合をさせて頂き、実践感覚を養っております。
 日頃、私達は茂久田監督から「野球は確率のスポーツだ」という事を常に言われております。自分達は、強豪校などに比べ、練習時間も限られており、技術や体格の面では劣っている部分が多くあります。しかし、チームが勝つ確率を上げるため自分には何が出来るのかという事を全員が常に考え、勝ちに向かって一つになれば必ず活路を見出すことが出来ると思います。そして、今のチームにはそのように歯車が噛み合って1つになれば大量得点をして、一気に流れを持ってくることも出来るチームです。それでも、まだ接戦で勝ち切ることができなかったり、悪い流れになった時にそれを断ち切ることが出来ないといった精神面での弱さもあります。
夏の大会に向けて、練習から厳しさや、緊張感のある中でも、雰囲気良く取り組んでいく事を心がけ、どんな状況になっても明るく、元気に、チーム一丸となって、勝ち切っていくことの出来る力を身につけていきます。
 最後にOB会の皆様へ。秋、春と思うような結果を残すことが出来ませんでしたが、着実にチームも成長しております。最後の夏は、何よりも勝利に拘って、自分達だけではなく、歴代の青山学院高等部硬式野球部の先輩方全員の最大の目標である甲子園出場を勝ち取ります。
 応援宜しくお願い致します。

  青山学院高等部硬式野球部 第71期 主将 竹澤 結仁


 (高等部野球部OB会
    

 
 
連    載 
 
日本最古の中学野球チーム
青山学院高等部野球部のあゆみ  (4)

青山で野球を教えたのはだれだ

 「日本の野球の祖」といわれる平岡熈(ひろし)が日本人として初めて野球をアメリカから持ち帰ったのは明治10年(1877)だった。7年間の留学中、ボストンで夜学に通いながら機関車工場で汽車製造技術を磨き、そのかたわらニューヨークのダイヤモンド・クラブなどで野球を楽しんだ平岡は帰国後、技師として工部省に入り、新橋にあった鉄道局の工場で車両の製造に当たった。
 翌11年、平岡は車両工場の技師や新橋駅員を誘って野球チーム「新橋アスレチックス倶楽部」を組織し、15年には工場の近くに日本初の野球専用グランドをつくり「保健場」と名づけた。平岡は監督・コーチであり、主将でありエースだった。同15年、新橋倶楽部は駒場農学校(明治11年設立。東大農学部・東京農工大などの前身)と初めて日本人チーム同士の試合を行った。それまで試合といえば、同じチームが二つに分かれて戦ったり、横浜の外国人チームと対戦したりしていたのだ。
 平岡は在米中、プロチームのボストン・レッドストッキングス(現アトランタ・ブレーブス)のエース、同時にスポーツ用品ビジネスを手がけていたアルバート・スポルディング氏と親交を結んでいた。そのため、新チームをつくった平岡の元にはスポルディング・ブランドの用具だけでなく、改定されるごとに野球のルールブックが無償で送られてきた。
 本場の用具と最先端情報を備えた新橋倶楽部には最新の野球技術を学ぼうとする学生が各校から集まり、平岡に教えを乞うた。
 ところが、明治20年(1887)、平岡は独立して車両製造会社を創設するため鉄道局技師の職を辞する。これをきっかけに新橋倶楽部は解散した。しかし、同倶楽部の旺盛な活動に刺激され、前出の駒場農学校や、溜池にあった工部大学校(明治10年設立。東大工学部の前身)など国立の学校以外でも野球をしようという機運が高まり始めた。青山学院もそのうちの一校だった。


 青山学院の草創には三つの学校がかかわっている。(以下、本節と次節は青山学院・青山学院校友会共同発行『AOGAKU Chimes No.4』による)
 三つの学校の第一は、明治7年(1874)東京・麻布に開校された「女子小学校」である。米国メソジスト監督教会の婦人外国伝道局から派遣された宣教師ドーラ・E・スクーンメーカー先生が、宣教と女子教育のため設立したものだ。女子5名と男子2名が最初の生徒だった。明治10年、築地の外国人居留地に移り「海岸女学校」と改称され、明治女子教育のパイオニアとして語り継がれるまでに発展していった。
 第二は、やはりメソジスト監督教会から来日したジュリアス・ソーパー先生が中心となって明治10年に開設した「耕教学舎」。築地の三軒長屋を教室として15名の男子生徒で始まり、14年には「東京英学校」と改称された。
 第三は、ロバート・S・マクレイ先生によって明治12年、横浜・山手に誕生した「美曾神学校」だ。同先生はメソジスト監督教会から日本伝道総理として全権を託され来日していた。同校は「横浜の神学校」といわれ、広く知られるようになる。
 明治15年(1882)、美曾神学校は東京英学校と合同することになり、校名は「東京英学校」を引き継いだ。新・東京英学校のため、マクレイ先生のよき理解者だったジョン・F・ガウチャー先生の私財によって東京・青山に約3万坪もの広大な土地が購入され、校舎の建設が始まった。
 青山学院の中心部となるこの敷地は、江戸時代には伊予西条藩主・松平左京太夫の中屋敷が置かれ、明治4年以降は明治新政府の「開拓使官園」(北海道開拓に適した作物を探るための官立農園)となっていた。


 明治16年(1883)青山の地に移った東京英学校は校名を「東京英和学校」と改めた。
 
(写真:横浜の美曾神学校から青山に移設した校舎兼寄宿舎)



 また、生徒数の拡大によって手狭になった海岸女学校も明治21年、青山の敷地に間借りする形で上級生用の校舎を建設し、「東京英和女学校」として開校した。
 東京英和学校はのちの明治27年(1894)「青山学院」に、東京英和女学校は翌28年「青山女学院」に、それぞれ改称されることになる。


 そこで、野球のことである。本校の野球史について調べているうちに、青山学院大学名誉教授の気賀健生先生が書かれた文章に出会った。先生は青山学院宗教センター刊行の『Wesley Hall News』に「青山学院資料センター所蔵のキリスト教貴重文献・史料」のタイトルで連載執筆しておられ、No.91(07年3月5日)に掲載された記事に次の1節があったのだ。
 「彼は1882年に来日し、滞日中、東京英和学校時代の青山学院に奉仕しました。1886年帰米、カリフォルニアのマクレー神学校教授をつとめました。彼は青山学院で野球を教え・・・」。
 彼とは、ジェームス・ブラックレッジ先生。初めて青学の学生に野球を教えた宣教師の先生としてお名前は以前から知っており、その経歴を知りたかったのだが、まさに灯台下暗し、旧制中等部時代の野球部の大先輩、気賀先生の文中でブラックレッジ先生にお目にかかれるとは思っていなかった。

 
(写真:東京英学校神学部の卒業生と教師。
後列真中がブラックレッジ先生。明治16年ごろ)



 気賀先生のご研究によりブラックレッジ先生が明治15年から19年まで4年間、東京英和学校で教鞭をとっていたことを確認できたのは、本校の野球活動の端緒を知るため、このうえなく貴重な一歩となった。

以下次号。(文責:保科隆夫) 
 


   

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