したがって軍隊のどのような部署にもつかず、兵器や戦争用資材を製造したり、取り扱う職業につかないことを決意する。また国家の戦争遂行に、直接役立ったり助けることの一切を拒否し、それゆえ戦争や兵役から自由になろうとのぞむ人を助け、その行為の達成に協力する。
戦争は、侵略的、競争的、経済組織や、階級、人種、民族、宗教、イデオロギー、差別、そして特に国家についてのあやまった一般的観念がその原因となっている。
私は、たんに戦争を否定するのではなく、戦争原因と闘い、相互扶助の自治管理社会をめざす方向において、戦争を消滅させるため、自分の努力をつくす。
国家間で行われる戦争は、暴力の最大のものであり、それは又権力が自己を維持するために最後のより所とする人民抑圧の装置でもある。
もし権力と闘って、かりに人民の側が勝利することができたとしても、それが暴力によるものであるかぎり、かならず新しい権力装置を生みだすことになるだろう。歴史はその方向が決して人類に真の自由と解放をもたらさないことを教えている。とすれば、いまどのように困難であろうとも私の取る道は、暴力の悪循環を断つ非暴力直接行動以外にない。
以上の三つの立場にもし私が反するようなことがあった場合、それを自覚すると否とにかかわらず、私はWRIメンバーである資格を自動的に失う。
しかし、その時もなお私はWRI支持者としてとどまり、あやまりを正すことによって再びメンバーにもどる最大の努力をする。
WRIの真の力は、個人が自立して自分の責任において行動する個人の自覚のうちにある。従って個人はWRIに所属するのではなく、自己をWRIとして発揮するのであるから、WRIに対しての責任、義務は自己に対しての責任、義務として、みずから履行すること以外に一切ない。もちろん任務や活動についてどんな強制も課せられない。このことが以下の前提である。
WRIメンバーとしての私の任務は、第一に〈戦争抵抗運動〉〈反戦平和運動〉〈反核・反自衛隊・反基地運動〉およびそれと関連し提携する各種の反権力運動を支持し、自分のなしうる方法で具体的に協力することである。
それらの運動は、国家権力とその組織一般がもつ権力主義的傾向によって、しばしば分断され、時には対立している。その切断された間隙を埋めるために周辺の運動に積極的に接触し、WRIがその役割とする組織間の情報交流、共同行動、分業的提携、相互支援の関係をつくりだし、その自由連合の媒体となることである。
第二に、軍務忌避や戦争抵抗者、さらにひろく国家権力との闘争によって逮捕された者の、投獄、監禁、処刑、追放に救援の手をさしのべ、自由を回復させるために働くことである。
そのために独自の、またはすでにある救援組織に参加し、具体的個別的救援活動をおしすすめる。
第三に、非暴力直接行動を実践し発展させ、日常における力として具体化することである。
その第一歩は、いまほとんどその力としての意味を失っている非暴力直接行動を自覚的にとらえなおすこと――であり、それと併行した研究会、集会、トレーニングセミナー、宣伝行動である
さらにWRI宣伝誌「直接行動」その他をひろめ、できうれば新しいメンバーと支持者をつくることである。
第四に、WRI日本の特徴は、第一に〈反戦〉〈反権力〉と〈個人の決意‐責任〉。第二に〈運動の連合〉〈抵抗者との連帯と救援〉。第三に〈非暴力直接行動〉、そして第四は〈インターナショナル〉である。
WRI日本の小さな活動は、各国WRIと〈不可視の連合〉によって結ばれ、相互に力となりあうことによって、世界的な活動の一翼としての意味をもっている。
その確信はまた私に、各国WRIの活動やその訴えに関心を向け、自分の可能な方法で応える努力をひろげるだろう。
これは1976年9月に〈WRI日本からのよびかけ〉として、「直接行動」2号に載せたものです。
このところ、WRIとしての活動はまったくしていなかったのだけど、日本がアメリカの報復戦争にはっきり参戦態勢をとったのに何もしないわけにはいかない。それで、まず個人としてあらためて自分自身の「非戦」を決意し、WRIメンバーとしての任務を想起するためにここに再録したものです。
* ウリの歴史
WRIはウリと読み、戦争抵抗者インターナショナルの略称である。第一次大戦が終った直後、戦時中反戦運動のために弾圧迫害をうけたヨーロッパ各国の人々がオランダに集った。その結果、イギリス、フランス、ドイツ、オランダの団体が中心となり、主唱者ランハム・ブラウンを代表とする〈パーッオ〉(エスペラント語=平和の意味)という国際組織が生まれた。ブラウンは当時四十二歳、二十歳の時イギリスの南ア戦争に反対して闘い、第一次大戦も獄中で秘密の回覧新聞をつくって、最後まで反戦の闘いをやめなかった歴戦の闘士であった。
一九二三年三月改組されて名称をWRIと改め、事務局はイギリスに移った。二五年、イギリス・ホッデストンではじめて国際会議がひらかれ、世界各地から九十名の代表が出席、評議員会が選出された。それ以来、三年毎に国際会議が継続して開かれ、昨年(一九七五年)はアムステルダムでその第十五回が開かれている。
日本におけるWRIは、戦時中、会員イシガオサムさんの兵役拒否が知られているが、一九五三年アナキスト連盟国際部責任者であった故山鹿泰治によって、はじめてWRI日本がつくられ、原水禁運動を中心に活動をしはじめた。インドで開かれた第十回国際会議(六〇年)には代表を初めて送っている。山鹿死後、遠藤、向井と書記がひきつがれ、機関紙「戦争抵抗者」を十五号まで出したが中絶。ベトナム反戦、七〇年安保闘争をへて、七四年、核反対ヨット・フリー号の来日などにより、再組織と活動がはじまった。
WRI日本機関紙「非暴力直接行動」は、1994年に192号を出したまま現在に至っている。
2001年10月
War Resisters' International JAPAN