
31号
2001.9.26
立場としての非戦
水田ふう
九月十一日のお昼、たまたまテレビをつけたら、NY貿易センタービル(なんてことは知らんかったけど)に最初の飛行機がぶち当たってビルから煙がでてるとこやった。それから、もうずっとテレビばっかり観てる。新聞もすみからすみまで(というのはオーバーやけど、なにしろいままでは新聞なんてほとんど読まんかったから)読んでる。
初めは、「飛行機が上の方にあたっただけで、なんであんなふうにこなごなに崩れてしずんでしまうんやろ、こういうのを砂上の楼閣というんや、それにしてもよう命中したもんや」なんてひとりぶちぶち思とったけど、だんだんアラブのひとたちは、毎日こんな目に合ってるんや、と気付いた。しかしアメリカがどんな仕返しをするやろ、と考えたら持病の不整脈がひどなってとても落ち着かん気持になってきた。
そして、やっぱり小泉政府の自衛隊の派遣や。これぞチャンスとばかりの早業やんか。「海自艦、新法待たず派遣」(二十五日朝日朝刊)やて。
で、なんかせなアカンいう思いがあんねんけど、昔みたいに一人で町に出てビラまく元気もないし、とりあえず「風」でもつくらんとおれんような気分になって…
テロのことやけど、これはアカンいうのは簡単やけど、普通?の犯罪でも、東アジア反日武装戦線の時もそうやったけど、たいがいの出来事は、わたしらが自分の手で起すんやなくて、起きてしまった出来事を突然、目の前につきだされるわけやんか。それをけしからん、テロは反対いうても、もともと自分はそんなことせえへんねんから。でも、命を賭けてやる人がおるいうこっちゃな。それはそうとうな事情と背景があってのことや。わたしらはまずそのことを知らなアカンし、そのことをこそ問題にせなアカンのやないか。
人の死を数で比較でけへんけど、アメリカがやってることなんてのは、死者の数からいっても、こんどのテロどころではないやんか。アメリカ中が報復報復いうてるように、アメリカにやられてるとこは、当然報復感情をもつわいな。いまのこういう状況が続く限り、いいとか、悪いとか言っても、テロはいつでも起るいうことや。
そやから、日本の参戦に反対する場合でも、まずテロをとりあげて、テロ反対の立場を明かにした上でないと何も云われへんような雰囲気にはちょっと私には違和感がある。
それから、やっぱり結果として、シモーヌ・ヴェーユが云うように(それしか知らんのやけど)戦争というのは、どんな戦争もまず自分の国の人民、兵士に対して自国家が戦争をしかけているという事実や。いったいどうしたら戦争をなくすことができるか――ほとんど絶望的な思いやけど、とりあえず、まず、自分自身の非戦を決意し守る、ということを言おうと思う。(9月25日記)