アナキズムFAQ

1.ネストル=マフノとは誰か?

 マフノ叛乱運動は、この運動の始まりから重要な役割を果たしてきたウクライナのアナキスト、ネストル=マフノの名前にちなんで命名された。マフノフシチナは文字通り、マフノ運動を意味しており、彼の名は永遠にウクライナ南東部の革命と結びついているのである。では、マフノはどのような人物だったのだろうか?

 ネストル=イヴァノヴィチ=マフノは、ドニエプル川とアゾフ海に挟まれたウクライナ南東部のエカチェリノスラフ県に位置するグリャイポーレで1889年10月27日に生まれた。多くの歴史家にはグリャイポーレを「村」と呼ぶことが通例となっているようだが、実際には人口三万人、いくつかの工場と学校を有する町だった。

 マフノは貧農家族の息子だった。彼の父は彼が10ヶ月の時に亡くなり、残されたネストルと4人の兄は母の手で育てられた。家族が極度の貧困だったため、ネストルは7歳で羊番として働かねばならなかった。8歳で、グリャイポーレ第二小学校に通い始めたが、それは冬の間で、夏は地主の下で働いていた。彼は12歳で学校を卒業し、様々な貴族の地所と入植者のドイツ人クラーク(富農)の農場で農場労働者として終日雇われることになった。17歳で彼はグリャイポーレで働くようになり、最初は見習い塗装工として、次には地元の製鉄所の未熟練労働者として、最終的に同じ製鉄所の鋳造師として働いた。

 彼が革命政治にかかわるようになったのは、この製鉄所で働いているときだった。1905年革命以後の嵐の歳月の中で、マフノは革命政治に引き込まれたのだった。このように決心した根底には、彼自身が働いていた時の不公正の経験や1905年の出来事の最中にロシア政権によるテロルを目撃したことがあった(グリャイポーレでは重大な混乱はなかったものの、政権はこの町での集会や会合を弾圧すべく騎馬警官の分遣隊を送り込み、捕まえた人々を街灯で鞭打ち、囚人をライフルの銃床で殴るなどして住民を怯えさせていた)。1906年、マフノはグリャイポーレのアナキスト集団に参加しようと決意した(この集団は前年に結成され、そのメンバーは主として貧農の息子たちだった。

 1906年の終わりと1907年に、マフノは逮捕された。政治的暗殺で告発されたが、証拠不充分で釈放された。1908年、アナキスト集団内にいた警察のスパイ告発によって彼は逮捕され投獄された。1910年3月、マフノと他の13名は軍事法廷にかけられ、絞首刑を宣告された。マフノは若く、母親の努力のおかげもあって、死刑は重労働を伴う終身刑に減刑された。彼はモスクワのブトゥイルキ監獄に服役したが、可能な限りあらゆる手段を使って監獄当局に抵抗した。この経験のために、マフノは監獄に対する激しい憎悪を確実に発達させたのだった(後に、革命の最中に町や都市に入って彼が行った最初の行動は全ての囚人を解放し、監獄を破壊することだった)。

 マフノがピョトール=アルシノフと出会ったのはブトゥイルキ監獄にいるときだった。アルシノフはアナキスト同志の囚人であり、後にマフノ叛乱運動の活動家・歴史家になった。アルシノフは1887年にウクライナの工業町エカチェリノスラフに生まれた。彼の父は工場労働者で彼は金属工だった。元々はボルシェヴィキだったが、彼は1906年にアナキストになり、工場労働者を主導して組織し、政権に対する行動を行った。1907年に彼は逮捕され死刑を宣告され、西欧へ逃げた。1909年、ロシアに戻ってきた彼は再び逮捕され、再び逃亡した。1910年に彼は逮捕され、ブトゥイルキ監獄に投獄されて、マフノに出会ったのであった。二人のアナキストは親密な個人的・政治的友情を築き、アルシノフはマフノが自分のアナキズム思想を発展させ深化させる手助けをしたのだった。

 1917年3月2日、8年8カ月の獄中生活の後、2月革命のおかげで、マフノは他の政治囚全員と共に釈放された。モスクワでモスクワのアナキストたちと3週間過ごした後、マフノはグリャイポーレへ戻った。革命によって家族の元へ戻った唯一の政治囚として、マフノは故郷の町でとても尊敬されるようになった。数年間の投獄によって苦しみ・学んだマフノは、もはや経験の浅い若い活動家ではなく、社会闘争と革命政治について強力な意思と強力な思想を持つ試練を経たアナキスト闘士だった。彼は思想を即座に適用しようとし始めた。

 マフノはグリャイポーレ帰るとすぐに革命的活動に献身した。当然、アナキスト集団の他のメンバーと多くの農民が彼の元を訪れた。彼らと共に思想を議論した後、マフノはグリャイポーレの農民とその地域との結び付きをアナキスト集団を使って強化すべく、すぐさま組織的活動を開始する計画を立てた。3月28日から29日にかけて農民同盟が創設され、マフノは議長となった。その後、同様の同盟をこの地方の他の村や町で組織した。また、彼の昔の上司が所有している工場で木工・金属労働者のストライキを成功させる上でも大きな役割を果たした(ストライキに敗北することで、他の社長たちも労働者に降伏するようになった)。同時に、農民は地主に対して地代を支払うことを拒否した。[Michael Malet, Nestor Makhno in the Russian Civil War, p. 4] グリャイポーレでも他の場所でも地域農民集会が招集され、8月5日〜7日にエカチェリノスラフで行われた地方大会で、農民同盟を農民と労働者の代理人からなるソヴィエトへと再組織することが決まった。

 このように、「マフノとその仲間たちは社会・政治的諸問題を民衆の日常生活と結び付け、そのことで民衆はマフノの活動を支持し、大規模私有地の収用を早めることを期待した。」[Michael Palij, The Anarchism of Nestor Makhno, p. 71] グリャイポーレでは、革命は他の場所よりも速く進展していた(例えば、ペトログラードで叛乱が起こった7月、アレクサンドロフスクのソヴィエトは臨時政府の活動を支持していたが、グリャイポーレの集会は叛乱兵士と労働者を称賛していたのだった)。近隣ヴォロスト(郷、帝政時代の行政区域)の農民は助言と支援を得ようとグリャイポーレにやって来た。農民は大地主とクラーク(富農)の土地を奪取したがった。マフノはこの要求をグリャイポーレで開催された地区ソヴィエトの最初の開催期間で提案した。8月、マフノは地区の地主と富農(クラーク)全員を一堂に集め、財産(土地・家畜・設備)に係る全ての書類を没収した。財産目録が作られ、地区ソヴィエトの会議に、そして地方ソヴィエト会議に報告された。全ての土地・家畜・設備は、以前の所有者も含めて平等に分け合うこととされた。これが、この運動の農業プログラムの中核だった。つまり、地主とクラークの財産の清算である。自身の労働で働くことができる以上の土地は誰も所有できなかった。これは全く、地方政府に対する断固たる反逆であり、地方政府はこれらの問題すべてを憲法議会に委ねると断言した。自由コミューンは元地主の地所にも作られた。

 当然、地主とクラークの反対のためにこうした決定の実行は遅れた。地主たちも頭を働かせ、臨時政府当局に訴え出たのである。コルニロフ将軍がペトログラードを行進し、権力を奪取しようとしているとき、グリャイポーレのソヴィエトはイニシアチブを取り、マフノを指導者とする地元の「革命救済委員会」を形成した。真の目的は、地元にいる潜在的な敵−−地主・ブルジョア階級・クラーク−−を武装解除し、彼らが所有している民衆の富(土地・工場・施設・印刷所・劇場など)を収用することだった。9月25日、グリャイポーレで行われたソヴィエトと農民組織の郷大会で、地主の土地の没収とその社会的財産への変換が宣言された。ドイツ人入植者を含めた富農や地主の私有地への急襲が始まり、収用者の収用が始まったのである。

 マフノの活動は、レーニンがブレスト−リトフスク条約に調印した後の春に停止した。この条約は、和平と引き換えに、ウクライナを含めたロシア帝国の相当部分をドイツとオーストリアに与えるというものだった。同時にこの条約によって、大規模なドイツ・オーストリア軍がウクライナを侵攻し、3カ月経たずにウクライナ全土を占領してしまった。マフノは1700人規模の軍隊をいくつか上手く編成したが、グリャイポーレの占領を止められなかった。4月の終わりにタガンログでアナキスト大会を行った後、5人から10人の農民・労働者戦闘部隊を組織し、敵から武器を徴収し、ドイツ・オーストリア軍に対する全般的農民蜂起の準備をし、最終的にソヴィエト=ロシアに少人数のグループを派遣してボルシェヴィキ支配の下で革命とアナキストに何が起こっているのかを直接見てくることが決められた。マフノはこのグループに参加した。

 6月にマフノはモスクワに着いた。彼はすぐさま多くのロシア人アナキストを訪問した(その中には旧友のピョトール=アルシノフもいた)。モスクワのアナキズム運動は脅しに屈していた。4月にチェカに襲撃され、運動の基幹が破壊されたためだった。そして、ボルシェヴィキに対する左翼からの政治的脅威はなくなったのだった。言論と組織の自由が当然となっている地域からやってきたマフノにとって、お粗末なレベルの活動はショックだった。彼はモスクワを「革命」の首都だと思っていたが、そのお役所仕事と無意味さがアナキストにさえも影響していた。マフノは、ピョトール=クロポトキンも訪ね、革命活動やウクライナの情況について助言を求めた。マフノにとって「モスクワは『紙の上の革命の首都』、一つの政治政党が武力とペテンによって支配階級の立場に昇りつめながら空っぽの決議とスローガンを製造する巨大な工場だと思われたのだった。」[David Footman, Civil War in Russia, p. 252]

 モスクワで、マフノはレーニンと会った。この会談は偶然行われた。列車への無料乗車と宿泊の許可を得るためにクレムリンを訪れた際、全露ソヴィエト中央執行委員会議長のヤーコフ=ミハイロヴィチ=スヴェルドルフと会った。彼がレーニンとマフノの会談を用意したのである。レーニンはマフノに「君の地区の農民は『すべての権力を地域のソヴィエトへ』というスローガンをどう理解しているのか」と聞いた。マフノの答えはレーニンを「驚かせるものだった」とマフノは述べている。

「農民はこのスローガンを独自に理解しています−−私は答えた−−農民から見て、地域のソヴィエト権力とは、生活のあらゆる領域において勤労者自身の意識と意思を直接に表す権力のことです。農民にとって村ソヴィエト、郷ソヴィエト、地区ソヴィエトとは、ブルジョアジーとその手先−−右翼社会主義者とその連立政府−−と闘う勤労者の革命的結集と経済的自立の手段であり、それ以上でもそれ以下でもありません。」

 これに対してレーニンは答えた。「なるほど、それならば、君の地区の農民は無政府主義に感染しているわけだ。」[アルシノフ、前掲邦訳書、287ページ] その後の会話の中で、レーニンは述べた。「一体、無政府主義者は自分が現実の『現在』に足場を持っていないのだということを一度でも自覚したことがあったかね?彼らはそんなことは考えたことさえないんだ。」マフノは答えた。

「しかし、同志レーニン、私は、無政府主義者は『現在』をリアリスティックに理解していないし、現在と現実的な繋がりを持っていない等々という貴方の主張は全く間違っている、と主張します。ウクライナの無政府共産主義者(中略)が『現在』にしっかりと根を下ろしていることの証拠はすでにたくさんあります。革命ウクライナ農村の、中央ラーダに対する全闘争を思想的に領導してきたのは無政府共産主義者であり、また部分的には、左翼エスエルなのです(中略)貴方がた、ボリシェヴィキは、我々の農村ではほとんどゼロに等しい存在です。彼らが入りこんできている村でも影響力は全くない。ウクライナのほとんど全てのコミューンや農民組合(アルテリ)は無政府共産主義者の宣伝によって作られ。たものです。また、オーストリア・ドイツ侵略軍に代表される反革命に対する労働大衆の武装闘争は、思想面でも組織面でも、ひとえに無政府共産主義者の指導の下にはじめられたのです。

 こうしたことを認めるのは確かに貴方がたの党の利益ではないかもしれませんが、これは事実であり、貴方がたもこれを否定することはできません。ウクライナの革命的戦闘部隊の数と戦闘能力については貴方もよく知っているはずです。なぜなら、我々の革命の成果を英雄的に防衛するにあたって彼らが発揮したところの、その革命的な勇敢さについては貴方の方から私に強調したくらいですから・・・。ウクライナの革命部隊のゆうに半数以上は無政府主義の旗の下で戦っていたのです。

 これら全ての事実が反駁の余地なく示しているのは、同志レーニン、貴方の考え、我々無政府共産主義者は「未来」についての夢想に耽っているばかりで「現在」については無力で哀れな存在であるという貴方の考えがいかに間違っているかということです。私がいま述べたことは疑うことのできない事実です。それは事実なのです。そしてそれは貴方の我々に関する結論とは逆のことを示しているのです。その事実が貴方も含めた全ての人々に示しているのは、我々無政府共産主義者が全身全霊を持って「現在」に取り組んでいること、「現在」のなかで働き、未来−−我々が思い描くところの、真摯に思い描くところの−−への道を「現在」のなかにこそ探し求めているということなのです・・・。」

 レーニンは答えた。「なるほど、私の間違いかもしれないね・・・」[アルシノフ、前掲邦訳書、291〜293ページで引用]

 ボルシェヴィキはマフノがウクライナに帰れるよう手助けをした。故郷までの旅には大きな苦労が伴っていた。マフノは殺されかけたこともあった。ドイツ・オーストリア軍に逮捕されたが、その際にリバータリアン関係のパンフレットを持っていたのである。グリャイポーレに住んでいるユダヤ人が、以前にマフノを知っており、釈放するために相当の金を支払って上手く彼を助け出してくれたのだった。グリャイポーレに戻ると、彼は、ドイツ・オーストリアとその傀儡政権の、ヘトマン=スコロパツキー率いる占領軍に対してレジスタンスを組織し始めた。このレジスタンスと共にマフノ叛乱運動は出現したと言うことができよう(マフノの名に因んで命名された経緯についてはセクション2を参照)。1918年7月から1921年8月まで、マフノはボルシェヴィキ・白軍・民族主義者といったあらゆる抑圧者に対して労働者階級の自由のための闘争を主導したのだった。この闘争の中で、「極度に有能なゲリラ指導者」[David Footman, 前掲書, p. 245] であることを示したのだった。この運動の軍事的歴史についてはセクション4で論し、この運動の他の側面については別なセクションで論じる。

 1921年のマフノ叛乱運動の敗北後、マフノは西欧に亡命した。1925年、最終的に彼はパリに行き、余生をパリで過ごした。パリでもマフノは、軍刀の代わりにペンを持って(アレクサンドル=スキルダの色鮮やかな表現を使えば)アナキズム運動に関わり続け、様々な雑誌、特に『労働者の大義』というアルシノフがパリで始めた無政府共産主義新聞に寄稿していた(論説の多くは、The Struggle Against the State and Other Essaysという本になって出版されている)。マフノは死ぬまでアナキズム運動に関わり続けていた。

 1927年、パリでマフノはスペインの有名アナキスト、ブエナベントゥラ=ドゥルティとフランシスコ=アスカソに会った。マフノは、スペインには「ロシアよりも強力なアナキズムの内実を持つ革命が起こる条件がある」と主張した。スペインには「状況に対する対応にその政治的成熟さを見て取れるほどの革命的伝統を持ったプロレタリア階級と農民階級」がいるからだけでなく、スペインのアナキストが「ロシアには欠落していた組織感覚を」持っているからだった。「あらゆる革命の徹底的成功を保証するのは組織なのだ。」マフノはグリャイポーレのアナキスト集団の活動と革命ウクライナにおける様々な出来事を詳しく話した。

 我々の農民コミューンは、同時に、我々の社会システムの経済的・政治的に不可欠な中核だった。こうしたコミュニティは個人のエゴイズムに基づくのではなく、コミューンの・地元地域の・地方の連帯という原理に基づいていた。コミュニティのメンバーが互いに連帯感を持っていたのと同じやり方で、コミュニティ同士も互いに連合した。(中略)我々のシステムについて、ウクライナで継続できたのはそれが農民だけに基盤を置いていたからだと言われるが、これは真実ではない。我々のコミュニティは農業と工業の混合であり、工業だけのコミュニティもあったのだ。誰もが戦士で労働者だった。民衆集会が意思決定を行った。軍隊生活では、稼働している全てのゲリラ部隊からの代理人で構成される戦争委員会が意思決定を行った。要約すれば、誰もが集団的活動に参加し、権力を独占する管理者階級の誕生を阻止しようとしたのである。そして、我々は成功したのだ。[Abel Paz, Durruti: The People Armed, p. 88-9 で引用]

 アラゴンの社会革命で分かるように、ドゥルティはマフノの助言を真面目に捉えていた(スペイン革命については、セクション I.8を参照)。当然、1936年にはマフノ叛乱軍にいた数多くの熟練兵がドゥルティ縦隊で戦っていた。残念ながら、1934年にマフノは死亡し、二人のスペイン人たちに伝えた最後の言葉を守れなかった。「マフノは一度たりとも戦いを拒まなかった。君たちが闘争を開始したときに私が生きていたら、私は君たちと共に戦おう。」[Paz, 前掲書, p. 90 で引用]

 亡命中のマフノの最も有名な活動は、彼が「リバータリアン共産主義者の組織綱領」(「綱領」として知られる)に関わり、それを擁護したことであろう。セクション J.3.3で論じたように、綱領はロシア革命での失敗を分析しようという試みであり、将来のもっと強固なアナキスト組織を示していた。綱領が出版された後、この考えは激しい議論を引き起こした。大部分のアナキストは綱領を拒否した(この問題に関するマフノとマラテスタの議論は、Freedom Press から出版されているThe Anarchist Revolutionを参照)。この議論は結果的に辛辣な論争となることが多く、綱領に反対のヴォーリンのような数名の友人からマフノを孤立させることとなった。しかし、彼は1934年に死ぬまでアナキストであり続けた。

 マフノは7月25日の朝に死に、3日後に火葬された。遺骨はパリコミューンの墓地、ペールェーズの中の骨壺に安置された。ロシア人・フランス人・スペイン人・イタリア人の同志たち500人が葬儀に参列し、フランスのアナキスト、ベナル(Benar)★とヴォーリンが弔辞を述べた。ヴォーリンはこの機会を使ってボルシェヴィキがマフノは反ユダヤ主義だと述べていることへの反駁を行った。マフノの妻ガリーナは余りに参っていて何も話せなかった。

 このようにして、労働者階級の自由を求めた一人の偉大な戦士の生涯は終わった。ドゥルティがマフノに次の言葉を捧げたのも無理はない。

 私たちはあなたに、ロシアにおけるアナキズム思想の実現のために戦った全ての革命家の象徴であるあなたに敬意を表すために来ました。同時に、私たちはウクライナの豊富な経験に敬意を表すためにもやって来たのです。[Abel Paz, 前掲書, p. 88 で引用]

 マフノの人生についてもっと詳しく知りたい人は、ピョトール=アルシノフ(マフノ運動史)、ポール=アヴリッチ(Anarchist Portraitsに収録されているNestor Makhno: The Man and the Myth,)、マイケル=パリジュ(The Anarchism of Nestor Makhno)、マイケル=マレ(Nestor Makhno in the Russian Civil War)を参照。

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