アナキズムFAQ

2.何故この運動の名前はマフノに因んでいるのか?

 マフノ叛乱運動は正式には「ウクライナ革命叛乱軍」と呼ばれる。実際には、通常、「マフノ運動」(ロシア語で「マフノフシチナ」)もしくはマフノ叛乱運動と呼ばれる。当然ながら、トロツキーはこのことを大きく取り上げた。

 マフノ運動の反人民的性格は、グリャイポーレの軍隊が、実際には、「マフノの軍隊」と呼ばれているという事実にはっきりと現れている。そこでは武装した人間たちが、綱領やイデオロギー的な旗幟の下にではなく、一個人の下に集められているのだ。[アルシノフ、前掲邦訳書、239ページに収録]

 自分のことをマルクス主義者(そして後のレーニン主義者であり、トロツキズムの創始者だ!)と呼んでいる人物がこのような意見を述べているという皮肉は無視しておき、ここではただマフノ叛乱運動がこの名前を名乗っている理由を示しておこう。

 なぜなら、第一に、ウクライナの悲惨な反動の日々で、我々は兵士たちの中にいる信頼できる友人で指導者のマフノと出会ったからである。労働者階級へのあらゆる抑圧に抗議する彼の声は、ウクライナ全土に響き渡り、あらゆる抑圧者・略奪者・我々を裏切る政治的ペテン師どもに対する闘争を呼びかけていた。今や彼は一般兵士の中で、我々と共に、全ての抑圧から労働者を解放するという最終目標に向けて断固として行進しているのだ。[Arshinov, The History of the Makhnovist Movement, p. 272(訳註:邦訳本にはないが、英訳本にはマフノ叛乱軍の宣言文として載っている)]

 この運動に参加した二人のアナキストが後にこの運動の歴史を協力して書き上げた。ヴォーリンはこの運動が「マフノ叛乱運動」として知られるようになった理由を「この統一(農民大衆の)の仕事と革命の反乱を南部ウクライナ全体に発展させるうえでもっとも重要な役割は、その地方出身の一農民ネストル・マフノにひきいられたパルチザン部隊によってなされた」[知られざる革命、邦訳書、117ページ] からだと示している。アルシノフは次のように記している。「反乱の発生から農民の地主に対する勝利まで、その最も高揚した時期に至るまでの全期間、マフノはこの運動で比類のない役割を演じた。この時期の反乱運動の最も英雄的な出来事の数々はマフノの名前と結びついている。さらにその後、反乱がスコロパツキーに勝利した後、今度は地区がデニキンからの脅威にされ始めると、マフノは、南部諸県数百万農民の連帯の中心になった。」[前掲邦訳書、47〜48ページ]

 ネストル=マフノはマフノ叛乱の実権を持っていたわけではなかったことを強調せねばならない。彼は支配者でも将軍でもなかった。従って、マフノ叛乱が(非公式に)マフノに因んで命名されていたという事実は、この運動が、彼個人が支配する組織だったとか、運動に参加していた人々が個人としての彼に従っていたとかいう意味ではない。むしろ、この運動に彼の名前がついているのは、彼が運動内部で主導的闘士として広く尊敬されていたからだった。この事実は同時に、マフノに「バチコ」というニックネームが付いていた理由を説明してくれる(次のセクションを参照)。

 このことは、この運動がどのように組織され、運営されていたのかから見ることができる。セクション 5で論じているように、この運動は、叛乱軍メンバーの大衆集会、選任された将校・叛乱正規軍・農民・労働者の大会、選任された「革命的軍事ソヴィエト」という手段によって、根本的に民主的な方法で組織されていた。従って、マフノ叛乱運動の原動力は、マフノにあるのではなく、自主管理というアナキズム思想にあったのだ。トロツキー自身が気付いていたように、マフノ叛乱はアナキズム思想に影響されていた。

 マフノとその仲間は非党派の人間などでは全くないのである。彼らは皆、無政府主義の信者であり、回状と檄文を送って各地の無政府主義者をグリャイポーレに呼び集め、そこに自分たちの無政府主義権力を作ろうとしている。[アルシノフ、前掲邦訳書、237〜238ページに収録]

 アナキズム理論を支持する一環として、マフノ叛乱は叛乱軍・農民・労働者の大会を開催し、革命とマフノ運動の活動に関わる重要諸問題を論じた。トロツキーが1919年6月2日に「マフノ運動」を罵倒する文章を書く前に、この大会は三回開催されていた。第四回大会は6月15日に召集され、トロツキーは(開催した場合は死刑にするという条件を付けて)直前の6月4日に禁じたのである(詳細はセクション13を参照)。ボルシェヴィキ独裁とは異なり、マフノ叛乱は自分たちが味方して戦っていた労働者が革命に確実に参加できるようあらゆる可能性を取り入れたのだった。マフノ叛乱による大会の呼びかけは、この運動が、トロツキーが主張するように一人の人物に従っていたのではなく、思想に従っていたのだということを明確に示しているのである。

 ヴォーリンが述べているように「運動はマフノがいなくても存在していただろう、なぜなら、この運動を生み出し発展させた生きた力、生きた大衆が存在していたのだから。マフノを自分たちの優れた軍事的指導者として表面に押し出したところの大衆が存在していたのだから。」究極的に、「マフノ反乱」という言葉は「次第次第に意識的になり、やがて歴史的行為という開かれた舞台に立つに至ったところの、既存の運動とは全く異なる、労働大衆の自律的な階級的革命運動という意味を込めて」使われているのである。[アルシノフ、前掲邦訳書、21〜22ページ]

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