アナキズムFAQ

I.8 革命中のスペインはリバータリアン社会主義が実行可能だと示しているのだろうか?

 示している。マレイ=ブクチンは次のように述べている。『スペインでは、何百万という人々が多くの経済領域を自身の手中に収め、集産化し、管理し、金銭を廃絶しさえし、共産主義的労働・分配原則によって生活していた−−このこと全ては恐ろしい内戦の最中に行われたが、権威主義的「急進主義者」が予想していた(そして今も尚予想している)ような無秩序などなく、重大な混乱さえも生じなかった。実際、多くの集産化された地域では、国有化された産業部門や民間企業の類似事業をはるかに凌ぐほど上手く機能したのだった。最も説得力のある理論的反論よりも、この革命的現実の若芽の方が我々にとって、もっと意義深いのだ。この理由で、「非現実的空想家」なのはアナキストではなく、その敵対者である。敵対者達はこうした事実に背を向けたり、恥ずかしげもなくこうした事実を隠したりしてきたのだ。』["Introductory Essay," in The Anarchist Collectives, Sam Dolgoff (ed.), p. xxxix]

 サム=ドルコフの本は、間違いなく、スペインの集産体に関して英語で書かれた最良の情報源であり、詳細に引用するに値する(以下で実際に引用する)。彼は、フランス人アナキストのガストン=レヴァルのコメントを引用している。1936年7月19日のファシスト蜂起を打ち負かした地域で、主としてアナキズム思想に基づいて深遠な社会革命が行われた。

 スペインでは、ほぼ3年間にわたって、百万人の命を奪った内戦にも関わらず、政治政党の反対にも関わらず、リバータリアン共産主義思想が実施されていた。すぐさま、農民自身が、地主もボスも生産を駆り立てる制度化された資本主義的競争もなく、土地の60%以上を急速に集団的に耕作した。ほとんど全ての産業・工場・仕事場・輸送サービス・公益事業・公共設備で、一般の労働者・革命委員会・シンジケートが、資本家・高給取りの経営者・国家権力なしに、生産・分配・公益事業を再編した。

 さらにもっと多くのことが行われた。様々な農業集産体・工業集産体が、「各人からは各人の能力に応じて、各人へは各人の必要に応じて」という共産主義の基本原則に沿って即座に経済的平等を開始したのだった。全地方にある自由連合を通じて、自分達の活動を調整し、新しい富を創り出し、生産を増大させ(特に農業において)、多くの学校を建設し、公益事業を改善したのである。彼らはブルジョアの形式的民主主義ではなく、本当に機能する草の根リバータリアン民主主義を制定した。この民主主義では、個々人が社会生活の革命的再編に直接的に参加したのである。「適者生存」という人間間の戦争を、相互扶助の普遍的実践で置き換え、対立関係を連帯の原則で置き換えた。

 直接的に・間接的に約800万人が参加したこの経験は、反社会的な資本主義と全体主義国家のインチキ社会主義に対する代案を求めていた人々に新しい生活方法を示したのである。[前掲書, pp. 6-7]

 つまり、短期間で、約800万人がリバータリアン型の新しい経済に直接・間接に参加し、ファシスト軍の攻撃、共産党の攻撃と妨害を生き延びることができたのだ。これは、それ自体で、リバータリアン社会主義思想が実践的な性質を持つことを示している。

 読者が、ドルゴフとブクチンがこの偉業を誇張し、スペイン集産体の失敗を無視していると思わないように、以下のサブセクションで、様々な側面を具体的に詳説し、誤解した批判者が提起することの多い反論に対して答えていく。革命の客観的分析を提示し、その成功・その長所と欠点・判断の誤り・この経験の成功と誤り双方から引き出すことができる教訓を示そうと思う。

 リバータリアンに影響されたこの革命は歴史家から(一般に)無視されるか、その存在はついでのように言及されてきた。いわゆる歴史家と「客観的研究者」の中には、この革命を中傷し、アナキストが革命で果たした役割について(無視していない場合は)嘘をついている者がいる。共産党による歴史は特に信用できない(彼らの活動について丁寧な言い方をすれば)が、ほとんど全ての政治的観点(自由主義・右翼リバタリアン・スターリン主義・トロツキー主義・マルクス主義など)が同じことをやってきたように思われる。実際、様々なマルクス主義者が作り上げている神話は非常に多い(その中でもよく見られるものの幾つかについては付録の「マルクス主義者とスペインのアナキズム」で回答している)。

 従って、スペインで何が実際に起こったのか、その中でアナキストがどのような役割を果たしていたのかを研究しようとすることは、非常に難しい。それ以上に、革命でアナキストが果たしたポジティヴな役割と我々の思想が実際に応用された際のポジティヴな結果も、無視されていないにせよ、軽視されている。実際、スペインのアナキズム運動の不当な扱いは、まさに驚愕すべきものなのだ(歴史家の主張に対する論駁については、ジェローム=R=ミンツの素晴らしい著書「カサス=ヴィエハスのアナキストたち The Anarchists of Casa Viejas」とJ=ジョルとD=アプターの共編による「今日のアナキズム Anarchism Today」に収録されているJ=ロメロ=モーラ著「スペインの事例」を参照してほしい。どちらも、スペインのアナキズム運動の歴史家による歪曲を理解するためには必読である)。

 ここでは、ただ、実際に行われた社会革命の要約を示し、革命の数年間にCNTとFAIが行った活動について創作されている神話の幾つかを論破するだけに留めよう。

 加えて、このセクションはスペイン革命のイントロダクションに過ぎないことを強調しておかねばなるまい。ここでは、革命の経済的・政治的側面に集中する。実際に生じた社会変革を網羅することなどできないからだ。非ファシストのスペイン全土で、男性と女性・大人と子供・個人と個人の伝統的社会関係がリバータリアンの方法で変革され、革命化された。CNTの闘士であるアベル=パスは次のように書いてこのことを上手く示している。

 産業は労働者の手中にある。全ての生産センターには、生産センターが本当に集産体になったことを示す碑文とともに、赤黒旗がハッキリとはためいている。革命は普遍的なもののようだ。変革は社会関係にもハッキリ現れている。男性と女性を恣意的に分離するために使われていた障害物は破壊された。カフェなどの公的な場所には両性が入り交じっている。これは以前ならば全く想像できなかったことだ。革命は、社会関係に友愛的性格をもたらし、これは実践されるにつれて深まり、古い世界は死んだのだとハッキリ示したのである。[Durruti: The People Armed, p. 243]

 社会変革は個人に権能を与え、そうした人々が社会を変革していた。アナキスト闘士であるエンリケタ=ロヴィラは、革命が生み出した自己解放を生き生きと描いている。

 当時(革命中)の雰囲気、感じは非常に特別だった。それは美しかった。何といったら良いか、支配という意味ではなく、自分達の、みんなの管理下に物事があるという意味で、力を持ったという感じだった。可能性の感覚。私たちは全てを持っていた。私たちはバルセロナを持っていた。バルセロナは私たちだった。通りを歩いていると、街路は私たちだった。こっちにCNT、あっちに委員会といった具合にあれこれあった。全く違っていた。可能性でいっぱいだった。自分達が一緒に本当に何かを行うことができるという感じだった。物事を違うように変えることができるという感じだった。[Martha A. Ackelsberg and Myrna Margulies Breithart, "Terrains of Protest: Striking City Women", pp. 151-176, Our Generation, vol. 19, No. 1, pp. 164-5 で引用]

 それ以上に、革命中に起こった社会変革は、あらゆる生と労働の領域に拡大した。例えば、革命では『保健労働者の組合が作られ、社会化された医療という本当の実験を行った。この組合は、医療的支援を提供し、病院と診療所を開設したのだった。』[Juan Gomez Casas, Anarchist Organisation: The History of the FAI, p. 192] 我々は、この実例について、セクション I.5.12で論じているため、ここでは繰り返さない。このように、このセクションは、革命で何が起こったかに関するイントロダクションに過ぎず、革命のあらゆる側面を論じはしない(実際、論じることはできない)ことを強調しておかねばなるまい。ここでは、革命が持つリバータリアンの側面・労働者自主管理が組織された方法・集産体が組織された方法と実際に行ったことを明らかにし、概観を示すに留める。

 言うまでもなく、多くの誤りが革命中になされた。誤りの幾つかについては概観を示した後に指摘し、論じる。それ以上に、実際に起こったことの多くは、多くの人々が共産主義(リバータリアンであろうとそうではないものであろうと)革命で本質的な段階だと見なしていることとは厳密には一致しなかったのだ。例えば、経済的に、相互主義国家や集産主義国家以上の点まで到達した集産体はなかった。政治的には、ファシストの勝利に対する恐れのために、多くのアナキストは、ファシストよりは小さな悪弊だとして国家との協調路線を受け入れるようになった。だが、一握りの革命家が計画した理想に合わなかったからと言って、スペイン革命を片付けてしまうことは、セクト的・エリート主義的ナンセンスである。純粋な労働者革命などなく、矛盾のない大衆闘争もない。社会を変革しようという試みに完全なものなどないだろう。『失敗をしないのは何もしない人だけだ』とクロポトキンは正しくも指摘している [Kropotkin's Revolutionary Pamphlets, p. 143]。問題は、革命が、そこに参画している人々が自分が直面している問題を論じ、自分達が行っている決定を修正することができるような制度体制を想像しているかどうかなのである。この点において、スペイン革命は明らかに成功した。労働者階級民衆の発意・自律・権力に基づいた組織を創造したのだから。

 この社会革命についてもっと情報を得たければ、サム=ドルゴフ著「アナキストの集産体 The Anarchist Collectives」が良い出発点である。ガストン=レヴァル著「スペイン革命の集産体 Collectives in the Spanish Revolution」も必読のテキストである。ホセ=ペイラツ著「スペイン革命におけるアナキスト」とヴァーノン=リチャーズ著「スペイン革命の教訓 Lessons of the Spanish Revolution」は、革命とアナキストの役割に関するアナキストによる優れた批判的著作である。ロバート=アレクサンダー著「スペイン内戦におけるアナキストたち The Anarchists in the Spanish Civil War」は、バーネット=ボロテン著「スペイン内戦 The Spanish Civil War」同様に、革命と内戦におけるアナキストの役割を上手く概観している。ノーム=チョムスキーの優れたエッセイ「客観性と自由主義学問 Objectivity and Liberal Scholarship」は、スペイン内戦に関する自由主義文献がどれほど誤解を招き、不公平で、本質的に事実上イデオロギー的なものになりうるのかを示している(この古典的エッセイは「チョムスキー読本 The Chomsky Reader」「米国の権力と新しい上級官吏 American Power and the New Mandarins」で読むことができる)。このテーマについて、ジョージ=オゥエルの「カタロニア賛歌 Homage to Catalonia」に勝る書物はないだろう(オゥエルはアラゴン戦線でPOUM義勇軍に参加し、1937年のメーデーにはバルセロナにいた)。

I.8.1 スペイン革命は主として田舎の事件であり、産業化された現代社会のモデルとしては当てはまらないのではないか?

 全く逆である。革命には田舎の労働者よりも都会の労働者の方が多く参加していた。つまり、集産化が田舎の地域で大規模に行われたのは真実だが、革命は都市部と工業においても成功していたのである。

 スペイン全土で、集産化に『最も影響された地方は、カタロニアとアラゴンだった。そこでは労働力の約70%が参加していた。共和党領域全体の中でその総計は農業において約80万、工業において100万を少し越えるぐらいだった。バルセロナでは、労働者委員会があらゆるサービス部門・原油独占企業・船会社・ヴォルケーノのような重工業会社・フォード自動車・化学薬品会社・織物産業・その他多くの中小企業を掌握した。水・ガス・電気のようなサービスは、アタラサナス兵舎襲撃から数時間の内に、新しい経営管理下で動き始めた。適当な工場を戦時生産に転換することで、7月22日までに、装甲車を生産する冶金事業が始まった。カタロニアの工業労働者はスペインの中で最も熟練していた。こうした初期の日々で最も目覚ましい快挙の一つは、街路が混乱し、バリケードが築かれた時期に、公的輸送システムを復興したことだった。戦闘が終了して5日後、CNT−FAIの色を塗った700の路面電車(通常は600だった)がバルセロナで運行していたのである。』[Antony Beevor, The Spanish Civil War, pp. 91-2]

 スペインの工業の約75%が、カタロニアに集中していた。カタロニアはアナキズム労働運動の本拠地であり、広範囲に及ぶ工場の集産化が実行された。だが、集産化はカタロニアに限られず、都会と田舎の共和党スペイン全土で行われていた。サム=ドルゴフは正しく述べている。『このことは、アナキズムの組織原則は産業領域に応用できず、たとえ応用できたとしても、原始的な農業社会や孤立した実験的コミュニティだけだ、という主張を決定的に論駁している。』[The Anarchist Collectives, pp. 7-8]

 イベリア半島には、ベルベル人や古代ロシアのミールにあったような、農民集産主義の長い伝統があった。歴史家のコスタとレパラスは、非常に多くのリバータリアン集産体は『ローマの侵入以前にイベリア半島に存在した農村リバータリアン共産主義の一形態』に遡ることができる、と主張している。『カトリックの王たち・国家・教会による5世紀にわたる弾圧でさえも、リバータリアン共産主義的コミュニティを確立する自発的傾向を絶滅することはできなかったのだ。』[前掲書, p. 20 で引用] 従って、農村に集産体が存在したことは驚くべきことではない。

 アウグスティン=ソウヒによれば、『幾多の都市に分散する多くの工場で働くほぼ25万人の織物工を雇用している工業を集産化し、それに確固たる基礎をおくことは簡単ではない。バルセロナのサンジカリスト織物工組合はこの偉業を短期間で達成した。これは途方もなく重要な実験だった。ボスの独裁を打倒し、賃金・労働条件・生産を労働者とその選ばれた代理人が決めていた。全ての役人は構成員の指示を実行し、仕事をしている人々と組合の会議とに直接報告をしなければならなかった。繊維工業の集産化は、労働者には大きく複雑な事業を運営することはできないという伝説をきっぱりと打ち砕いているのである。』[前掲書, p. 94 で引用]

 それ以上に、1930年代のスペインは、想定されることが時折あるような「後進的な農業国」ではなかった。1910年から1930年の間に、工業労働者階級は2倍以上になり、250万人以上いた。これは労働者人口の26%を少し越えるぐらいの数字である(その20年前は16%だった)。1930年に農業に従事していたのは労働者人口の45%だった [Ronald Fraser, The Blood of Spain, p. 38] カタロニアだけでも、20万人の労働者が繊維産業で雇用され、7万人が金属機械製造業で働いていた。人口の10%だけが都会の労働者階級を構成していた第一次世界大戦終結時のロシアの情況とは全く異なっていたのだった。

 資本主義的社会関係も、1930年代までに、「後進的な発展途上」諸国よりもはるかに徹底的にスペインの農業に侵入していた。例えば、第一次世界大戦終結時のロシアでは、農業の大部分は小規模農家が行い、主として農家が自給自足のために働き、その剰余生産物を交換したり売ったりしていた。だが、スペインでは、農業は世界市場に向かい、1930年代までに、ほぼ90%の農地はブルジョア階級の手にあった [Fraser, 前掲書, p. 37]。スペインの農業ビジネスは、自活するための充分な土地を所有していない多くの労働者を雇用していた。1930年代のスペインの田舎における革命的労働運動は、まさしく、莫大な数の田舎の賃金生活者に基づいていたのである(例えば、社会党UGTの土地労働者組合には、1933年に451000人の組合員がおり、組合員総数の40%を占めていた)

 スペイン革命を前工業社会の産物だと片付けることはできない。都会の集産化はスペインの大部分の重工業地帯で圧倒的に行われた。これはアナキズム思想が現代社会にも適合することを示している(実際、CNTは労働組合に加入した都会の労働者階級の大部分を組織していた)。1936年までに、農業それ自体は圧倒的に資本主義的だった(人口の2%が67%の土地を所有していた)。スペインの革命は(主として)田舎と都会の賃金労働者が(貧農と共に)十全に発達した資本主義システムと戦った活動だったのだ。

 従って、スペインにおけるアナキズム革命は発展した資本主義諸国にいる革命家にとって多くの教訓を持ち、工業の後進性の産物だとして片付けることなどできないのである。

I.8.2 アナキストはどのようにしてスペイン一般大衆の支持を獲得できたのか?

 1868年、ミハイル=バクーニンの仲間だったジュゼッペ=ファネッリがアナキズムをスペインに紹介した。そして、アナキズムはスペイン労働者と農民の中に肥沃な土壌を見つけたのである。

 農民がアナキズムを支持したのは、前セクションで述べたイベリア半島集産主義という田舎の伝統があったためである。都会の労働者がアナキズムを支持したのは、直接行動・連帯・組合の自由連合という考えが、資本主義と国家に対する自分達の闘争におけるニーズと一致しているからである。

 さらに、多くのスペイン労働者が中央集権化の危険を充分意識していた。スペインにおける共和主義は伝統的に連合主義思想(その一部はプルードンの著作に由来する)に非常に大きな影響を受けていた。この運動はその後、組合オルガナイザーとアナキスト闘士が村落を訪問し、農民がバルセロナのような工業都市に仕事を探してやってくるといったように、田舎と都市とを往復しながら広がった。

 従って、スペインにおけるアナキズムはその始まりから労働運動と結び付いていたのである(バクーニンが望んでいたように)。アナキストは自分達の思想を応用し、アナキズムのメッセージを広げるための現実的領域を持っていたのだった。諸原則を日常生活に応用することで、スペインのアナキストは、アナキズム思想が一般的になり、民衆の大部分に受け入れられることを確実にしたのである。

 こうしたアナキズムの受容を、CNTやその先駆となる諸組織が持っていた構造・戦術と切り離すことはできない。直接行動と連帯の実践が労働者を勇気づけ、労働者自身の問題を特定し解決するために自分達自身を頼るようにしたのだった。アナキズム系組合の持つ分権型構造は、組合員に対して教育的効果を持っていた。問題・闘争・戦術・理想・政治をその組合集会で論じることで、組合員は自己を教育し、闘争における自主管理プロセスによって自由社会の準備をした。CNTが持つ組織構造こそが、アナキズム思想の優位性と組合員の政治的教育を確保したのである。カサス=ヴィエハスのCNT闘士の一人は次のように述べている。新しい組合員は『非常に多くのことを要求しすぎていた。何故なら、彼らには教育が欠如していたからだ。彼らは、梯子がなくとも空に行けると考えているようだった。彼らは学び始めた。誠実だったが、教育が欠けていた。だからこそ、我々は意見を集会に提出し、悪い意見は却下されたのである。』[J. Mintz, The Anarchists of Casas Viejas, p. 27 で引用]

 アナキストが仲間の労働者に影響を与えたのは、この組合集会での活動によってだった。アナキストがFAIを通じてCNTを統制していたという意見は作り話である。例えば、CNTにいる全てのアナキストがFAIのメンバーだったわけではない。FAIのメンバーのほぼ全員がCNTの一般組合員でもあり、組合集会に平等者として参加した。FAIのメンバーではなかったアナキストがこのことを示している。ホセ=ボラス=カサカローサは次のように記している。『FAIが上からCNTに介入したり、他の政党が組合にしていたような権威主義的やり方で介入したりすることはなかった、と認めねばならない。闘士たちを通じて下から介入したのである。CNTの方向性を決める決定はこうした闘士たちからの一貫した圧力下で決められたのだった。』ホセ=カンポスはFAIの闘士たちは『連邦委員会の管理を拒否することが多く、それを受け入れたのは特定情況下だけだった。誰かが集会で動議を提示し、他のFAIメンバーがそれを支持すると、通常その動議は問題なく通過した。開かれた集会においてファイスタの立場はあくまでも個人だった。』[Stuart Christie, We, the Anarchists, p. 62 で引用]

 これがCNTにおけるアナキズムの成功を説明してくれる。アナキズム思想・原則・戦術は、組合集会に提出され、良い考えだと示され、却下されなかった。言い換えれば、思想・戦術・組合ポリシーなどを組合員が議論する際に、到達する決定の内容に決定的な影響を与えたのはこの組織構造であり、組合員の生活に最も上手く当てはまるものが受け入れられ、実行されたのである。バクーニンは、労働者が自身の運命と組織を確実に管理できるようにする手段として自主管理型組合を主張していたが、CNT集会はこの主張の妥当性を示したのである。バクーニンは次のように述べていた。組合の『支部がその権利と自律性を(組合官僚制に対して)防衛できるようになるには一つのやり方しかない。労働者が組合員総会を招集することである。こうした支部の大集会では、議題項目が充分に議論され、最も進歩的な意見が優先される。』[Bakunin on Anarchism, p. 247] CNTは、同じ急進化効果を持つこうした「民衆集会」に基づいて作られていた。現実に、CNTはボス(資本家だけでなく、組合のボスも)は必要ない−−労働者は直接自身の事柄を管理できるのだ−−ということを示したのである。これは、アナキズムの一派として、アナキズムの諸原則が空想的ではない、と示した絶好の例であろう。CNTは、労働者自主管理の階級闘争に基づくことで、組合員に労働者自主管理の革命と新社会の準備をさせたのだった。

 スペイン革命は、アナキズム教育とメディアの重要性をも示している。文盲率が非常に高い地方では、社会革命に関する印刷物が大量が配布され、文字を読むことができる人々が読めない人々に集会で大声で読み上げていた。アナキズム思想は広く議論された。『何万という本・パンフレット・小冊子、膨大で大胆な文化実験と民衆教育実験(フェレルの学校)があり、それらはスペイン中のほとんど全ての村と部落に配布されていた。』[The Anarchist Collectives, p. 27] 政治的・経済的・社会的思想の論議は継続し、『セントロ(地元の組合本部)は社会問題や未来の夢と計画を論じる集会場となっていた。読み書きを学びたいと思っている人々は、その辺に座り、学習していた。』[Jerome R. Mintz, The Anarchists of Casas Viejas, p. 160] あるアナキスト闘士は次のように記述していた。

 会議が開催されるときはいつでも、演説者は大きな楽しみを経験した。その晩、私たちは、社会的体制の一般的不平等について、利己心・憎しみ・戦争・苦難を持たずに人生を送る権利を手に入れる方法について、などあらゆることについて話をした。別な機会に会議を召集したところ、最初の時よりも多くの人々が集まった。このようにしてプエブロは進化し始めた。自分達自身を養うために必要な事を勝ち取るために現体制と戦い、本に書かれていたり、口伝えで他者が伝えたりする社会を創造できるようになる日を夢見ながら。人々は、学習意欲が強く、別種の完全な社会的存在様式について何でも読み、討議し、話し合っていた。[Perez Cordon, Jerome R. Mintz, 前掲書, p. 158 で引用]

 新聞と雑誌は極度に重要だった。1919年までに、アンダルシアの50以上の町に、それぞれ独自のリバータリアン新聞があった。1934年までに、CNT(アナルコサンジカリスト労働組合)は約100万人の組合員を持ち、アナキストの記者がスペイン中を取材していた。バルセロナではCNTが日刊紙「労働者の連帯 Solidaridad Obrera」を3万部発行していた。FAIの雑誌「大地と自由 Tierra y Libertad」は2万部発行されていた。ヒホンには「労働生活 Vida Obrera」が、セヴィーリャには「生産者 El Productor」が、サラゴサには「行動と文化 Accion y Cultura」があり、それぞれが多くの部数を発行していた。これだけでなく、さらに多くの新聞や雑誌があったのである。

 闘争を主導し、組合を組織し、本・新聞・雑誌を出版するだけでなく、アナキストはリバータリアン学校・文化センター・協同組合・アナキスト集団(FAI)・青年グループ(リバータリアン=ユース)・女性組織(自由な女性運動)も組織していた。アナキストは、全ての社会階層にその思想を適用し、一般の人々にアナキズムは実践的で自分自身に関連していることを確実に理解してもらうようにしたのだった。

 これがスペインのアナキズム運動の大きな長所だった。これは『革命的イデオロギー(原文のママ)を持つだけでなく、労働者階級の生活と諸条件にしっかり根差した目標を中心として活動を動員できる』運動だった。『多くの人が感じているニーズと感情を、定期的に特定し表現することができたのはこの能力のおかげだった。こうしたニーズや感情は、地域レベルでアナキズム運動が存在することに加え、急進的アナキズムが持つ長所の基盤となり、急進的アナキズムが大衆から支持される基盤を構築できるようにしてくれたのである。』[For Anarchism, pp. 79-105 に掲載されている Nick Rider, "The practice of direct action: the Barcelona rent strike of 1931", p. 99]

 歴史家テンマ=キャプランはアンダルシアのアナキストに関する著作の中でこのことを強調していた。アナキストは社会生活に『根差し』ており、『労働者階級文化に確固たる基盤を持つ運動を』創り出していた、と彼女は論じる。アナキストは『労働組合・主婦のセクションのような親和グループ・アナキズム系新聞を呼んだり議論したりする労働者サークルのような広い文化団体を作っていた。』その『大きな長所は、コミューンの伝統と戦闘的労働組合の伝統を結合させたことにある。多くの人々が農業で働いている町では、農業労働者組合が全体としてのコミュニティと同じであると見なされるようになった。アナキズムは、農業労働者とプロレタリア階級の要求が地域の支援と結合し、蜂起的情況を創り出しうる、と示したのである。アンダルシアの「村落アナキズム」は戦闘的労働組合主義とは別だとか、この運動は宗教の代わりだった、と主張するのは間違いなのだ。』[Anarchists of Andalusia: 1868-1903, p. 211, p. 207, pp. 204-5]

 スペインのアナキストは、CNTが形成される前後に、経済的・社会的・政治的諸問題について工場内外で戦っていた。アナキストが生のいかなる側面も無視しなかったことで、多くの人々がアナキストのメッセージに、個人の自由という考えを中心にしたメッセージに確実に耳を傾けるようになった。こうしたメッセージが、確実に、労働者を急進的にすることができたのだった。『CNTの要求は、いかなる社会民主主義者の要求よりもはるかに先を行っていた。真の平等・アウトヘスティオン(自主管理)・労働者階級の尊厳を強調しながら、アナルコサンジカリズムは、資本主義システムが労働者に与えることなどあり得ない要求を行っていたのだった。』[J. Romero Maura, "The Spanish case", p. 79, J. Joll and D. Apter 共編, Anarchism Today に収録]

 ストライキ基金の欠如のために、ストライキに勝利するためには相互扶助が頼みだった。これが、強力な連帯感と階級意識をCNT組合員の中に育んだ。例えば、ヘレスの労働者は、労働者をマラガから連れてくることに対して『自分達の武器−−スト破りを使っている会社をボイコットする−−を使って』反応した。『最も顕著なボイコットは、ヘレス近郊の地主−−都市に商社も持っている−−に対するものだった。労働者とその妻たちは、その店舗で購入することを拒否し、女性は他の買い物客を阻止すべく店舗近くにたむろしていた。』[Jerome R. Mintz, 前掲書, p. 102]

 CNTの構造と戦術は、組合員の政治化・発意・組織をまとめる力を促した。CNTは、下から上への直接の議論と意志決定に基づく、連合型で分権型の機関だった。『CNTの伝統は、全てのことを論じ検討する、だった。』と一人の闘士は述べている。さらに、CNTは、社会を組織しうる実行可能で現実的な代案の実例を創り出した。この代案は、一般の人々が社会それ自体を方向付ける能力に基づき、実際に、特殊な支配的権威は望ましくないし不要であるということを示した。

 CNTの構造と、CNTが自主管理において組合員に提供した実際経験とが、世界に類を見ないほどの革命的労働者階級を創り出したのだった。ホセ=ペイラツは次のように指摘している。『組合レベルを超えて、CNTは高度に政治的組織だった。扇動と蜂起のための社会的・革命的組織だったのである。』[Anarchists in the Spanish Revolution, p. 239]

 CNTは、連帯と階級意識を促すようなやり方で組織されていた。その組織は、シンディカト=ウニコ(一つの組合)に基づいていた。同じ一つの組合に、同じ仕事場の全労働者を団結させていた。職業毎に組織して、労働者を幾つかの組合に分断するのではなく、CNTは一つの仕事場の全労働者を同じ組織に団結させた。あらゆる職業の、熟練者も未熟者も、一つの組織にいた。そのことで連帯が強くなり、連帯が促進され、同時に、労働力内部での分断をなくすことで、労働者の闘争力が高まったのである。一つの地域にある全ての組合が一つの地域連合へと結び付き、幾つかの地域連合が一つの地方連合へと結び付く、といった具合だった。J=ロメロ=マウラは次のように論じている。『地理的基盤で組織を結びつけることで、一地域にいる全労働者が一つに結び付き、企業(産業や職業)的連帯以上に、労働者階級連帯が醸成されたのである。』["The Spanish case", p. 75, J. Joll and D. Apter 共編, Anarchism Today に収録]

 CNTの構造が階級連帯と階級意識を促したのである。さらに、直接行動と自主管理に基づくことで、組合は、労働者が自身の闘争を直接管理し、自分達自身で直接活動することに慣れることを確実にした。このことが、自由社会における労働者自身の個人的・集団的関心事を管理する準備をさせたのである(革命において創り出された自主管理型集産体の成功に見られるように)。つまり、自主管理型闘争と直接行動のプロセスは、社会革命とアナキズム社会の必要性を労働者に覚悟させたのだった−−バクーニンが論じていたように、現在において未来の種子を創り出したのである。

 言い換えれば、『急進化の道は、闘争と代替社会諸機関のデザインに直接関与することによってもたらされる。』全てのストライキと行動は、参画した人々に権能を与え、既存システムに対する実行可能な代案を創り出した。例えば、第一次世界大戦終結時におけるバルセロナにおけるストライキと食料抗議行動は『政府を打倒しなかった』が、『当時設立された組織形態は、その後数年間、アナキズム運動のモデルとなった。』[Martha A. Ackelsberg and Myrna Margulies Breithart, "Terrains of Protest: Striking City Women", pp. 151-176, Our Generation, vol. 19, No. 1, p. 164] 同じ事が全てのストライキに言い得る。これは、バクーニンとクロポトキンがストライキを強調していたことを追認しているのだ。彼らは、ストライキは、階級意識と自信を創り出すだけでなく、資本主義と戦い資本主義に取って代わるために必要な構造をも創り出す、と強調していた。

 自分の自由を防衛するために直接行動を使いたいと思い、実際に使うことができる戦闘的組合員を創り出したのは、CNTの革命的性質だった。マルクス主義が主導し、中央集権型で組織され、ヒエラルキーに必要な服従の中で訓練され、ヒトラーを止めるために何も行わなかったドイツの労働者とは異なり、スペインの労働者階級は(イタリアのアナキズム組合にいる同志たち同様に)ファシズムを止めるべく街路に出たのだ。

 スペイン革命は「たまたま起こった」のではなかった。ほぼ70年にわたる継続的なアナキズムの扇動と革命的闘争の結果だったのである。闘争には、長期にわたる農民暴動・蜂起・産業ストライキ・抗議行動・サボタージュなどの直接行動が含まれ、このことで、農民と労働者は、1937年7月にファシストが試みたクーデターに対して民衆抵抗を組織し、ファシストを街路で打ち負かした際に経済を制圧する準備ができたのである。

I.8.3 スペインの産業集産体はどのように組織されていたのか?

 マーサ=A=アッケルスバーグは、産業集産体がどのように組織されていたのかについて優れた簡潔な要約を示している。

 大部分の集産化された産業で、労働者総会がポリシーを決め、選ばれた委員会が日々の事柄の管理を行っていた。[Free Women of Spain, p. 73]

 集産体は、労働者による職場の民主的自主管理に基づき、全労働コミュニティの管理下にある生産資産を使い、労働者協会の連合を通じて管理されていた。アウグスティン=ソウヒは次のように書いている。

 スペイン内戦中に組織された集産体は、私有財産のない労働者経済協会だった。集産工場がそこで働く人々によって管理されていたという事実は、こうした機関が労働者の私有財産になったことを意味してはいない。集産体は集産化された工場や仕事場の全ても、いかなる部分も、売ったり貸与したりする権利を持っていなかった。正当な管理者はCNT、全国労働者協会連合だった。だが、CNTさえも、好きなようにそれを行う権利を持っていなかった。会議と大会を通じて労働者自身が全てを決定し、承認しなければならなかったのである。[The Anarchist Collectives, p. 67 で引用]

 ソウヒによれば、カタロニアでは『全ての工場が、最も能力のある労働者から構成される独自の管理委員会を選出した。工場の規模に応じて、こうした委員会の機能には、工場内部組織・統計・経理・通信・他の工場やコミュニティとの連携が含まれていた。集産化後数ヶ月で、バルセロナの繊維工業は、資本主義的管理下よりもはるかに上手く運営されるようになった。これは、下からの草の根社会主義は発意を破壊しない、ということを示すもう一つの実例である。貪欲は人間関係の唯一の動機ではないのだ。』[前掲書, p 95]

 個々の集産体はそこで働く人々の総会に基づいていた。この集会は管理スタッフを指名し、管理スタッフは集会の意志決定を実行し、結果を報告するよう命じられ、当該集会に対して説明責任を持っていた。例えば、カステリョン=デ=ラ=プラナでは、『毎月、技術・管理評議会がシンジケートの総会に報告書を提示した。この報告書を検討し、必要な場合には議論し、大多数が報告書を有用だと考えると、最終的に導入された。このように、あらゆる活動は全労働者に知らされ、全労働者が管理したのである。ここにリバータリアン民主主義の実践例を見ることができる。』[Collectives in the Spanish Revolution, p. 303]

 一般に、産業集産体は下から上へと組織され、労働者集会の手中にポリシーがあり、労働者が仕事場委員会や管理者を含めた必要な運営陣を選んでいた。だが、権力は集産体の基部にあった。『全ての重要な決定は労働者総会に計られた。この総会には多くの労働者が参加し、定期的に開催されていた。総会が承認していないことを管理者が行うと、その人は次の会議で退位させられることが多かった。』このプロセスの一例は、カサ=リヴィエリア会社に見ることができる。軍のクーデターが敗北した後、『この企業を一時接収すべく、バルセロナの金属労働者組合が管理委員会(コミテ=デ=コントロール)を指名した。7月19日から数週間して、この企業の最初の労働者総会が開催された。総会では、もっと永続的にこの企業を管理すべく、企業委員会(コミテ=デ=エンプレサ)が選ばれた。企業の四つのセクション−−三つの工場と一つの事務−−それぞれが、少なくとも週に一度個別の総会を開催した。総会では、最も重要な事柄から最も些細な事柄まで様々な事を議論していた。』[Robert Alexander, The Anarchists in the Spanish Civil War, vol. 1, p. 469 and p. 532]

 サンジカリストの総会は1936年12月に開催され、資本主義産業システムの非効率性が分析され、社会化の基準を公式化した。この総会の報告書は次のように述べている。

 ほとんどの小規模製造工場が抱えている主要な欠点は、断片化と技術的・商業的用意の欠落である。このことが、その工場の近代化と整理統合を阻害し、より良い設備と調整を持ったもっと良い効率的な生産ユニットへの転換をできなくしている。我々は、社会化によって、全産業において、組織のこうした欠点とシステムを修正しなければならない。産業を社会化するために、全般的で有機的な計画に沿って個々の産業部門の様々なユニットを整理統合しなければならない。このことで、良い効率的な生産・分配組織を妨げている競争などの問題を回避できるであろう。[Souchy, The Anarchist Collectives, p. 83 で引用]

 ソウヒが指摘しているように、この文書は集産化の進化という点で非常に重要である。何故なら、以前に論じたように、この文書は『部分的集産化はやがては一種のブルジョア協同組合主義へと堕落してしまう、このことを労働者は考慮しなければならない』[前掲書, p. 83] という認識を示しているからである。多くの集産体は利潤をめぐってお互いに競合することはなかった。剰余は、個々の集産体よりも広く−−多くの場合は、産業規模で−−蓄積され、分配されたからである。

 スペイン革命中の集産化で実現した効率性の改善の実例については既に記した(セクション I.4.10)。もう一つの実例はパン・菓子製造業であった。ソウヒは次のように報告している。『スペインの他の場所同様、バルセロナのパンとケーキは、数百ある小規模のパン屋で、ほとんどが夜に作られていた。その大部分は、ゴキブリとネズミが出没するジメジメした薄暗い地下室だった。こうしたパン屋全てが閉鎖された。もっと多くのより良いパンとケーキが、新しい近代的オーヴンなどの機器を導入した新しいパン屋で焼かれるようになった。』[前掲書, p. 82]

 従って、スペインの集産体の特徴は、仕事場民主主義と産業内・産業間での協働の願望だった。全ての実験同様に、こうしたリバータリアン社会主義の試みには成功と難点双方がある。これらについては、この経験から引き出される結論の幾つかと合わせて、次のセクションで論じる。

I.8.4 スペインの産業集産体はどのように調整されていたのか?

 集産体が試みた調整方法は非常に多岐にわたっている。革命当初、仕事場を越えて経済活動を調整しようという試みはほとんどなかった。生産を再開し、民間経済を戦時経済へ転換し、民間人と義勇軍に必要物資を確実に提供することが圧倒的に必要だったことを考えれば、これは当然である。多くの集産体がその労働の産物を市場で売るというアナキズム相互主義の情況(つまり、単純な商品生産の一形態)が発達するようになっていたのは、充分もっともなことであった。

 これは幾つかの経済問題を引き起こした。集産体間に活動の効率的調整を確保するための機構的枠組みが存在しないために、集産体間の無意味な競争が引き起こされたからだ(これがさらに多くの問題を引き起こした)。初めは集産体の連合がなく、相互銀行や共同銀行もなかったため、当初から集産体間に存在していた不平等をもたらし(集産体が裕福な資本主義企業と貧困な資本主義企業を乗っ取ったという事実のためだ)、集産体間の相互扶助に関わる多くの試験的試みを行い難く、一時的なものにしたのである。

 従って、集産体は(当初)一種の『資本主義と社会主義とにまたがった自主管理』であり、『革命がシンジケートの指揮下で十全に拡充できれば、生じることはなくなるだろう、と我々は主張』([Gaston Leval, Collectives in the Spanish Revolution, pp. 227-8])していた。経済的発展と政治的発展が密接に関係しているが故に、CNTが革命の政治的側面を執行しなかったという事実は、経済における革命が初めから失敗する運命にあることを意味していた。レヴァルは次のように強調している。『産業集産体、特に大規模な町における集産体では、様々な社会階級から生じる様々な社会潮流の共存が創り出す矛盾した要因と抵抗の結果として、物事は別様に進行していた。』[前掲書, p. 227]

 リバータリアン共産主義のCNT政綱が、十全な協同社会は使用のための生産に基づかねばならない、と認めていたことを考えれば、CNT闘士はこの相互主義システムに対抗し、仕事場間協同のために戦っていたのだった。彼らは、仲間の労働者との自由な議論によって相互主義の問題を上手く説得した。

 つまり、(予想できるだろうが)どの程度まで社会化がなされたのかは時間の経過と共に変化したのである。フランコ軍を最初に打ち負かした当初は、正式な調整と組織化はほとんどなかった。最も重要なことは生産を再開することだった。だが、調整の必要はすぐに明らかになった(アナキズム理論とCNT政綱で予測されていたように)。ガストン=レヴァルは、このプロセスに関して、オスピタレート=デ=リョブレガートの例を挙げている。

 地元の産業は、ほぼ例外なく、この革命で導入された段階を経験した。最初の段階は、その産業に雇用されている労働者が指名したコミテス(委員会)だった。生産と販売がそれぞれの産業で再開した。だが、即座に、この情況は工場間の競争を引き起こすことが明らかになった。競争を引き起こすことは社会主義・リバータリアンの見解とは相容れなかった。だから、CNTは次の標語を創り出したのだった。「全産業は各シンジケートに分かれ、完全に社会化され、我々が常に支持してきた連帯体制がこれを持ってハッキリと確立されねばならない。」

 この考えは直ちに支持された。[前掲書, pp. 291-2]

 もう一つの例は、木工労働者組合だった。この組合は社会化について多くの論議をし、社会化を行うことに決めた(小売店労働者組合も同様の論議をしたが、労働者の大部分が社会化を拒否した)。ロナルド=フレイザーによれば、『組合の代理人が小規模工場を巡り、様々な情況が不健全で危険だったが革命はこれら全てを変えつつある、と労働者に指摘し、工場閉鎖と組合が建てたダブルエックスと33EUへの移転の合意を取り付けた。』[Ronald Fraser, Blood of Spain, p. 222]

 このプロセスが様々な組合と集産体で行われた。当然、自由社会で予期されるように、調整形態は地域・産業ごとに異なる組織形態となるよう合意された。だが、二種類の重要な形態があり、それらをサンジカリズム化と連邦化と呼ぶことができるだろう(集産化の命令によって創られた諸形態については、それが労働者自身が創ったものではないため、ここでは無視することにする)。

 「サンジカリズム化」(これは我々の表現である)とは、CNTの産業組合が全産業を運営するという意味だった。これは、木工労働者組合が莫大な議論の後に行おうとした解決策である。組合の一セクションは、『FAI(アナキスト連合)が優勢であり、アナキズムの自主管理とは、官僚化の脅威を避けるために、労働者が自律的生産センターを設立し、運営しなければならない、という意味だ、と主張していた。』[Ronald Fraser, Blood of Spain, p. 222] だが、サンジカリズム化を望ましいとしている人々が勝利を収め、生産は、一般労働者が選んだ管理職と代理人会議を使って、組合の手中で組織された。

 だが、『主たる失敗は(これは元々アナキスト行っていた反論を支持していたのだが)組合が大企業のようになってしまったことであった。(その)構造は次第に厳格なものになっていった。』ある闘士によれば、『外部からは、これは米国やドイツのトラストのように見え始めた。』そして、いかなる変化も手に入れることが難しいと労働者も分かってきた。彼らは『意志決定にほとんど参加していないと感じていた。』

 結局、組合が運営した産業と資本主義企業との主たる組織的違いは、労働者が、まずまず定期的に行われる総会において、産業の管理職を選ぶことができる(そして更迭できる)ように見えたことだけだった。資本主義よりは大きく改善されたものの、これは、参加型自主管理が実施された最良の例ではない。ただ、内戦とスターリン主義者主導の反革命が引き起こした経済的諸問題が、明らかに、あらゆる産業の内部構造に影響を与えていたのは事実であり、従って、実際に生じた社会的疎外の責任全てが、創り出されたこの種の組織形態にあるとは言えないが。

 もう一つの重要な協同形態は、「連邦化」と呼ぶことができるだろう。この協同形態は、バンダローナの繊維産業が実践していた(木工労働者組合では採用されなかった)。この基本は、個々の仕事場は労働者が選んだ管理者が運営し、個々の仕事場がその産物を売り、注文を取り、利益を受け取ることにある。だが、それぞれの工場が行っていることは全て組合に報告され、組合は進捗状況を図表化し、統計を取っていた。特定工場が産業全体に最良の利益をもたらすように行動していない、と組合が感じると、その工場は通達を受け、生産方向を変えるように求められた。ある闘士によれば、組合は『直接の階層化された経営者というよりも、集産化された産業の社会主義的管理の機能を果たしていた。』[前掲書, p. 229]

 このシステムは、権力の分散を最大にするだけでなく、『原子化された集産体と大規模な「組合トラスト」との危険を回避する』ことをも確実にした [Fraser, 前掲書, p. 229]。木工労働者産業のサンジカリズム化実験とは異なり、この枠組みは、仕事場間の水平的繋がり(CNT組合を通じた)に基づき、最大限の自主管理相互扶助を可能にしたのだった。セクション I.3で素描したようなアナキズム経済の考えは、スペイン革命中に生じた実際の自主管理実験に多くのやり方で反映されている。

 従って、産業集産体は、その活動を多くのやり方で調整し、直接民主主義の程度も成功の程度もそれぞれ異なっていた。予期されるだろうが、誤りも多くなされ、様々な解決策が発見された。FAQの本セクションを読む際には、アナキズム社会は「一夜にして」創り出されることはないということを思い出していただきたい。だからこそ、CNTの労働者が多くの問題に直面し、客観的諸情況が許す限り、その自主管理実験を発展させて行かねばならなかったのは当然だったのだ。

 不幸にして、ファシストの攻撃と共産党の中傷のおかげで、この実験は、スペイン労働者が行おうとした様々な解決策の実行可能性について、我々が感じる全ての問題に十全に答えるだけ充分長く続くことはなかった。だが、時間があれば、スペイン労働者は自分達が直面した諸問題を解決しただろう、と我々は確信する。

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