アナキズムFAQ


J.3.3 「綱領主義」とは何か?

 綱領主義とは、無政府共産主義内で主流となっているもので、アナキスト連合が取る性質と形態について特定の示唆をしている。そのルーツはロシアのアナキスト運動にある。「リバータリアン共産主義の組織的綱領」を出版した一派が1926年のパリでボルシェビキ独裁から逃れていたときのことである。この論文の著者には、ネストル=マフノ・ピーター=アルシーノフ・イダ=メットがいた。当時、この論文は、綱領の支持者(「綱領主義者」と呼ばれることが多い)とその反対者(その他の無政府共産主義者・アナルコサンジカリスト・「統合」の支持者がいる)との間に集中的な論争を巻き起こした(現在でも大部分のアナキストは論議している)。何故多くのアナキストが綱領に反対しているのかについては、次のセクションで扱い、ここでは、綱領が何を主張しているのかについて論じる。

 「統合」連盟(前セクションを参照)同様、綱領主義はロシア革命の経験に反応して創り出された。綱領主義の著者は、(ヴォーリンなどの「統合」支持者と同様)ロシア革命に参画し、ボルシェビキ国家が大勝利を納めると、活動・希望・夢の全てが崩壊したことを見たのだった。そこでは、個人の基本的自由と権利だけでなく、評議会民主主義・生産に関する労働者自主管理・産業別労働組合民主主義もが害されてしまい、社会主義実現の機会が全て破壊されていたのだった(詳細はセクションHを参照)。さらに、綱領主義の著者はウクライナにおけるマフノ主義運動の指導的活動家だった。マフノ主義運動は、労働者階級の自主決定とアナキズムの名において白軍・赤軍双方に対して効果的に抵抗していた。ボルシェビキ政府と同じ問題に直面して、マフノ主義者は民衆自主管理と民衆組織・言論と連合の自由などを積極的に勧めた。一方、ボルシェビキはそのようなことはしなかった。つまり、彼らは、アナキスト思想が実際にうまく良くということに気づいていただけでなく、ボルシェビズム(そしてそれが当時導入していた政治)が、革命に直面したときの、諸問題に対する唯一の「実際的」解決策だなどと信じていたレーニン主義者の論法は間違っているということにも気づいていたのである。

 彼らは、アナキスト運動が労働者階級内で影響力を勝ち得ることができなかった理由を検証するパンフレットを書いた。労働者が自分たちの労働力を組織化し、自由と平等双方に基づいた社会を建設し始めていた工場委員会の仕事から分かるように、アナキズム思想は民間的でなおかつ実際的だと証明されたのであった。ボルシェビキによる抑圧(例えば、ヴォーリンによる古典的なロシア革命史、知られざる革命で報告されているような)がアナキスト運動の失敗で役割を演じていたのは確かだが、だからといってそれが全てを説明しているわけではなかった。綱領主義著作者の目には、革命前のアナキスト組織の欠如も同様に重要だと映ったのだった。最初の段落には次のように述べられている。

『リバータリアン思想の長所と議論の余地がないほどのポジティブな特徴にも関わらず、そして、社会革命に直面し、最終的には、無政府共産主義を求めた闘争でアナキストが経験した英雄的行為と無数の犠牲者にも関わらず、これら全てにも関わらず、アナキスト運動は未だに脆弱で、労働者階級闘争史の中でもちっぽけな出来事、単なるエピソード、重要ではない要因として扱われることが非常に多いのである。』(リバータリアン共産主義者の組織綱領、11ページ)

 運動におけるこの脆弱さは、数多くの原因に起因していた。主要なものの一つは、アナキスト運動内の『組織的原則・実践の欠如』であった。実際、彼らは次のように論じていた。『アナキスト運動は、いくつかの地域組織に代表される。それらの組織は、それぞれ矛盾した理論と実践を擁護し、将来に対するいかなる観点も持たず、戦闘的活動での継続性もなく、消え失せてしまうことが習慣になっており、その足跡をほとんど残してはいないものなのである。』このことが『リバータリアン思想のポジティブで議論の余地のないほどの内実と、アナキスト運動が無為単調な成長をしているという悲惨な状況との矛盾』を説明していた(前掲書、同ページ)。多くの国々でアナキスト運動に参画していた人々にとって、これらの言葉は今後も急所をついているものとなるだろう。従って、この綱領は数多くのアナキストに対して、たとえそれが綱領主義者でなくても、適切で重要な文書だと今でも思われているのである。

 綱領の著者は、この問題に対する解決策を提起していた。つまり、特定種のアナキスト組織を創造する、というのであった。サンジカリズムを主要な闘争方法だと認識しながらも、この組織を排他的に無政府共産主義思想に基づかせようとしたのである。大部分のアナキスト同様、綱領は階級と階級闘争をその分析の中核においている。『全国家の社会的・政治的体制は、結局のところ、階級闘争の産物である(中略)階級闘争中の、つまり階級闘争での力の相対的所在の、微々たる変化が、社会の骨組みと構造の継続的修正を産み出すのである。』(前掲書、同ページ、14ページ)そしてまた、大部分のアナキスト同様、綱領は『現在のブルジョア資本主義社会を、労働者に自分の労働の産物・解放・自主独立性・社会的政治的平等を保証するような社会へと変換する』ことを、『連邦的に団結し、自主行政的な、生産と消費に関する連合主義的労働者組織システム』に基づいた社会を目的としていた。加えて、綱領は次のように論じていた。『アナキズム思想の誕生・開花・実現は、労働者大衆の生活と闘争にその根を持っており、労働者大衆の運命と分離できない関係なのである。』(前掲書、15ページ、19ページ、15ページ)ここでもまた、大部分のアナキスト(特に、社会的アナキスト)は同意するだろう。アナキズム思想は労働者階級の生活と分離されてしまうと衰えてしまうだろう(実際衰えてしまったのだった)。なぜなら、労働者階級の民衆、大多数の人々だけが、自由社会を創造でき、アナキズム思想は労働者階級の経験の表現だからである(この経験を剥奪してしまうと、思想はそうあるべき姿で発達しないのである)。

 こうした自由社会を創造するために、綱領主義者は以下のことが必要だと論じている。『二つの方向で活動することである。一つは、リバータリアン共産主義の理論的基盤(特に、リバータリアン共産主義組織)に基づいた革命的労働者・農民集団の選定と編成に向けて。もう一つは、生産と消費の経済基盤に基づいた革命的労働者と農民の再編成に向けて(革命的労働者と農民は生産の周囲に組織され(つまり、サンジカリズム、組合主義)、労働者と自由農民は協同組合の周囲に組織される)。』(前掲書、20ページ)ここでもまた、大部分のアナキストは、以下の主張と共に、このことに同意するであろう。『アナキズムは、革命の指導的概念にならねばならない。(中略)革命におけるアナキズム思想の指導的立場は、アナキズム理論に従った様々な出来事の方向性を示唆している。しかし、この理論的推進力は、最終的に国家権力を導く国権主義的諸政党の政治的指導力と混同されてはならない。』(前掲書、21ページ)綱領主義に対する「統合連盟」系批判者も、民衆運動と革命運動内でアナキズム思想を普及させること、そして、例えば階級闘争を支持することの重要性を認識していた。ただし、彼らは別なやり方でその考えを表現していたのだった。

 この「思想の指導力」(詳細についてはセクションJ.3.6を参照)は、社会闘争内にすでに存在しているリバータリアン感情を発達させ、調整することを目的としている。綱領が説明するには、『大衆はアナキズム諸傾向と諸信条という点で社会運動において自身を深遠に表現しているが、これらは(中略)分散し、調整されないままであり、その結果、社会革命のアナキズム的方向性の維持を(中略)導きはしない。』(21ページ)綱領は、特定のアナキスト組織は、あらゆる社会革命・社会運動の当初に表現されているリバータリアン諸傾向(例えば、自由連合・大衆集会の自主管理・代理人の任命・権力分散など)が、自身の議題を持っている国権主義者と権威主義者によって傷つけられないように保証する必要がある。

 しかし、こうした原理は、それ自体で、綱領主義組織を規定しない。結局、大部分のアナルコサンジカリストも、非綱領主義的無政府共産主義者も、こうした立場には同意するであろう。綱領を他のものと区別している主要な点は、アナキスト組織がどのように構造化され、活動すべきなのかに関する立場なのである。これは「組織的セクション」に概略されている。このセクションは、書物全体の中でも最も短く、最も議論を引き起こした部分である。綱領主義者は、これを総体的アナキスト組合と呼び、『理論的・戦術的統一』と『集産的責任』という、綱領主義独自の概念を導入していた部分である。

 最初の概念は、明らかに、二つの部分からなっている。一つ目は、これらの組織のメンバーはお互いに理論的同意をしている、というものである。二つ目は、ある種の活動が最優先だと見なされた場合、メンバー全員が参画しなければならない、ということに皆同意している、というものである。今日であっても、アナキスト運動内部で、これらの考えは物議を醸し出している。そこで、もう少し詳しくこれらの考えについて探求してみよう。

 「理論的統一」ということによって、綱領主義は、アナキスト組織はそれが基盤とする理論について同意するようになるべきである、ということを目論んでいた。つまり、組織のメンバーは一定数の基本的観点(例えば、階級闘争、反資本主義、反国権主義など)について同意しなければならない、というのである。メンバーの半数が組合闘争が重要だと考え、もう半分がそれは時間の無駄だと考えているような組織は、メンバーが時間の全てを内部での論争に費やすことになってしまい、効果的ではなくなるだろう。大部分の綱領主義者は、全員が全てのことに同意しないだろう、ということは認めているが、できるだけ多くの同意に到達することが大切で、同意したことを行動に移すことが重要だと考えている。一旦、一つの理論的立場に到達すると、メンバーは公にそれを主張しなければならないのである(組織内部で当初はそれに反対していたとしても。ただし、メンバーは内部での議論によって組織の決定を変化させる権利を確かに持っている)。

 このことが「戦術的統一」をもたらす。「戦術的統一」とは、綱領によれば、組織メンバーが個々人ではなく組織された力として共闘しなければならないということを意味していた。一旦、戦術が組合によって合意されれば、全メンバーはその成功を確たるものにするように活動するとされている(たとえ、当初それに反対だったとしても)。このようにして、資源と時間が共通の方向に、合意した目的に向けて集中されるのである。

 従って、「理論的・戦術的統一」は、アナキスト組織が特定思想とその思想を応用する手段について合意していることを意味している。綱領主義の基本的前提は、一貫性と効率性との連結である。集団的決定を行い、それを応用することで、組織の一貫性を増加させることにより、綱領は、アナキズム思想の影響力を増大させることになるだろう、と論じている。これ無くしては、アナキストよりも、もっとよく組織されたグループ(レーニン主義グループのような)の方がその主張に耳を傾けさせるのにより良い立場にいることになるだろう、と論じている。アナキストは自己満足でいることはできないし、その思想の明らかな長所と正しさが照らし出され、勝利する日がいつかやってくるなどという希望に依存することなど出来はしない。歴史が示しているように、このことが起こったことなど無く、起こったとしても、いつも権威主義者が権力者の立場にいて、出現しつつあるアナキズムの影響力を破壊するものなのだ(例えば、これはロシアで真実であった)。綱領主義者は、我々が住んでいる世界は社会がどのように組織化されねばならないのかということに関して競合する諸思想間の闘争の産物であり、アナキストの声が弱々しく、静かで、バラバラだったなら、それは誰の耳にも届かず、他の主張や観点がその時代を勝ち取ることになるだろう、と論じているのである。

 このことが「集産的責任」をもたらすのである。綱領が定義するところに依れば、それは『組合全体が、個々のメンバーの政治的・革命的活動に責任を持つことになるだろう。同様に、それぞれのメンバーは組合の政治的・革命的活動に責任を持つことになるのである。』(前掲書、32ページ)

 この言葉は、綱領によれば、個々のメンバーが組織によって決められた決定を支援し、集産的意志決定プロセスに参画しなければならない、ということを意味している。これなくしては、個々人と集団が連合によってなされた合意を無視するだけで、いかなる決定も机上の決定になるだろう、と綱領は論じている(綱領は、このことを『無責任な個人主義戦術』と呼んでいる(前掲書、同ページ))。しかし、「集産的責任」があれば、その集団を形成している個々人全員の長所が増大し、集団的に適用されるのである。だが、ある綱領支持者は以下のように記している。

『綱領は、集産的責任がどのように実際に機能するのかについて具体的なことを述べてはいない。大多数の見解に反対している人という、綱領が触れずにいる問題もある。我々は、大多数の見解に反対している人には、明らかに、自分の見解を述べる権利がある、と主張する。ただし、その人が自分の見解を述べる場合には、自分が組織の見解を代表してはいないということをはっきりさせなければならないが。組織内にいる一群の人々が、大多数の決定に反対しているのならば、そうした人々は、自分たちの主張が全体としての組織内部で耳にすることができるように、グループを作り、情報を広める権利を持っているのである。我々のアナキズムの一部には、議論と不一致・自由とオープンさが個人とその個人が属している集団双方を強めるのだ、という信念があるのである。』(赤と黒の革命、第4号、30ページ)

 綱領の「組織的セクション」における最後の原理は、「連合主義」である。これは『共通目的に向けて集産的に活動するための、個々人・諸組織の自由合意』と定義され、『共通の主義に奉仕することと、個々人・諸組織の自主性とイニシアティブとを調和させる』ことができるようにしている(前掲書、33ページ)。しかし、綱領は、この原理は運動内部で、人がそのメンバーになっている『組織に関わる任務に責任を持つ義務を持たずに自身の「エゴ」を表明』する『権利』を意味するように『変形』されてきた、と論じている(前掲書、同ページ)。この問題を克服するために、綱領主義者は、『連合主義的アナキスト組織は、メンバー個々人の自主性・自由な意見・個人の解放とイニシアティブという権利を認識しながらも、一定の組織的義務を遂行するようにメンバーに求め、共同体的決定の実行を求めているのである。』(前掲書、33ページ、34ページ)

 アナキスト組織の問題に対する解決策の一部として、綱領主義は、個々のグループが『組織の政治的・技術的作業を実行し、理論的に主導する、事務局』(前掲書、34ページ)を持つだろう、と示唆している。さらに、綱領主義は、『特別機関、組合の執行委員会が作られねばならない』と示し、その委員会は以下のことについて『責任を持つ』ことになる、と述べていた。それは、『組合が決定した事項を実行すること(これは委託されている)、孤立諸組織の活動を組合の理論的立場・一般的戦術方針と一致するように理論的組織的に方向付けること、全般的運動状況を監視すること、組合内にある全組織間の活動的組織的結びつきを維持すること』である。執行委員会の権利・責任・実際的課題は、組合議会によって決定される(前掲書、同ページ)。この示唆が、次のセクションで見るように、大部分のアナキストから強く反対されたことは驚くに当たらない。反対するアナキストは、このことがアナキスト運動をボルシェビキと同類の中央集権的でヒエラルキー的な党に変えてしまうと論じている。言うまでもなく、綱領の支持者は、この論を否定し、綱領それ自体は石板に書かれているわけではなく、十全に議論され、必要に応じて修正されるべきものだ、と指摘している。実際、綱領主義グループで、この「事務局」構造を持っているものなど、全くではないにせよほとんどない(事実、現実に「綱領主義」グループというものはなく、むしろ綱領、つまり「理論的・戦術的統一」と「集産的責任」という問題に影響を受けた様々なグループがあるとも言えよう)。

 同様に、大部分の現代綱領主義者は全てのアナキストを一つの組織に集めるという考えを拒否している。元々の綱領は、総体的組合は様々な集団と個人からなる包括的組織になるだろう、と示唆していたと思われる。大部分の綱領主義者は、全ての人を包含する一つの組織などあり得ないだろうということだけではなく、それが必要だとも思わない、と論じるだろう。その代わり、内部統一され、可能な場所では共働する多くの組織の存在を、総体的アナキスト組合よりももっと無定型で流動的な実体を、期待しているのである。

 元々の綱領だけでなく、大部分の綱領主義者は、Georges Fontenisによるリバータリアン共産主義宣言と、「ドゥルティの友」による新しい革命に向けてを綱領主義的伝統の画期的テキストと見なしている。アナルコサンジカリストの中には、この最後の主張について異論をはさんでいる者もおり、「ドゥルティの友」の宣言は、革命に対してCNTが1936年以前にとっていた立場と非常によく似ており、従って、これは、CNTが1936年7月19日以後無視していた立場へ戻ったアナルコサンジカリズム文書である、と論じている。

 今日、世界中に綱領主義組織や綱領主義に影響を受けた組織が数多くある。例えば、アイルランドにはWorkers Solidarity Movementが、イギリスにはAnarchist Communist Federationが、フランスにはLibertarian Alternativeが、スイスにはLibertarian Socialist Organisationが、イタリアにはFederation of Anarchist Communistsが、南アフリカには Workers Solidarity Federationがある。

 次のセクションでは、大部分のアナキストの綱領に対する反論について論じる。


J.3.4 何故、多くのアナキストは「綱領」に反対なのか?

 

 「綱領」の出版は、莫大な数の論争と意見を喚起した。その大部分は批判的なものであった。著名なアナキストの大多数は綱領を拒絶していた。実際、その企図を支持していたのはネストル=マフノ(「綱領」の共著者だ)だけであり、(多くの人々の中でも)アレキサンダー=バークマン・エマ=ゴールドマン・ヴォーリン・G=P=マキシーモフ・ルイジ=ファブリ・カミーロ=ベルネリ・エンリコ=マラテスタは、綱領が示していたアナキスト組織の方法を拒絶していたのだった。皆、綱領は「アナキズムをボルシェビキ化」しようとしているのか、さもなくば、ロシアでのボルシェビキ の「成功」にあまりにも感銘を受けすぎているのだ、と論じていた。それ以来、綱領 はアナキスト界隈で多くの論争を引き起こし続けている。何故、これほどまでに多く のアナキストは、当時、そして現在も、綱領に反対しているのだろうか?

 反綱領主義者の多くが綱領の大部分を妥当だと見なしていた(例えば、マキシーモフ もヴォーリンも、綱領は理論上の「移行期間」の必要性を否定しているが、実践では それを受け入れている、と指摘していた)が、論争の主たる骨子は、「戦術的・理論 的統一」・「集団的責任」・組織を主導する集団と行政的「事務局」の必要性を論じ た「組織的セクション」にあった。この点について、大部分のアナキストは、これら がアナキズム思想と相容れないと思われる、と見なしたのだった。この問題は通常考 えられているように最も重要なものであるから、集中して見てみよう。

 今日、一部のリバータリアン運動では、綱領主義者は「指導者になりたがっている」 として忘れ去られていることが多い。だが、これはマラテスタなどの綱領批判者が問 題にしていた部分とは異なっている。マラテスタとマキシーモフは二人とも、マキ シーモフの言葉を使えば、アナキストは『大衆の中に入り、(中略)大衆と共に活動 し、大衆の魂のために戦い、イデオロギー的に(原文のまま!)闘争を勝ち 抜こうとし、闘争に方向性を与える』(建設的アナキズム、19ページ)と論 じていた。さらに、マキシーモフが記していたように、「統合連盟」アナキストも同 じ結論に到達しているのである。従って、議論の両陣営で、アナキストが指導権を握 るべきだということは受け入れられていたのだ。マラテスタらが理解していたよう に、この疑問は指導するかどうかではなく、どのように指導すべきなのかにあった。 これは議論できちんとなされねばならない重要な区別である。バクーニンに従って、 マキシーモフは、この疑問は『指導力の拒否ではなく、指導力を自由自然なものにすることに関わっている』(前掲書、同ページ)と論じてい た。マラテスタも同じ主張をしており、二つの「選択肢」を示していた。我々は、 『アドバイスと実例によって指導力を示し、他の人々によって示唆・実行されている ものよりも我々の方法と解決策が良いものである場合、もしくは良いものだと思われ る場合に、それを採用するかどうかを(中略)民衆に任せることもできる』し、『指 揮権限を引き継ぐことで、つまり、政府になることで、民衆を指導することもでき る。』マラテスタは、綱領主義者に、『君たちが向かおうと思っているのはどちらの やり方なのか?』と問うていたのである(アナキスト革命、108ページ)。

 この疑問に続けて、マラテスタは、自分は、マフノ自身とその著作からの知識で、そ の答えは第二の方法に違いないと考え、『(マフノ)が、一般の運動内で、権威主義 的やり方で理論的・実践的革命プログラムを命じる中央機関を見たいと思っている、 という疑惑に襲われる』と述べている。なぜなら、綱領において『執行委員会』は、 『(アナキスト)連盟に対してイデオロギー的・組織的方向性を与える』だろうとさ れているからである。(前掲書、110ページ)

 マキシーモフも同じ点を指摘している。綱領が、アナキストは『革命的労働組合に組 織的力として入り込み、全般的アナキスト組織の活動以前に労働組合の活動を達成せ しめ、全般的アナキスト組織の方向に組合を動か』さねばならない(リバータリ アン共産主義者の組織綱領、25ページ)と論じている部分は、組合にいるアナキ ストはアナキスト連盟に対して責任を持っているのであって、自分を選出した組合集 会にではないということを意味している。マキシーモフが述べているよう に、綱領は、アナキストは『既成のレシピを持って労働組合に参加し、必要ならば、 組合それ自体の意志に反して自分の計画を実行するであろう』と述べている(建 設的アナキズム、19ページ)。だが、マキシーモフの主張は、粗雑だと見なされ かねない。綱領は、アナキズムは『政治権力も、独裁も熱望しない』(前掲書、21 ページ)と論じており、だからこそ、労働組合運動内部で反対の諸原理を主張するこ となど滅多にないからである。「思想の指導力」概念(セクションJ.3.6を参照)が 示している文脈内で綱領のコメントを受け取るのなら、綱領が意味していることは、 単に、アナキスト集団は議論によって綱領の思想の妥当性を組合メンバーに納得させ るだろうし、意見の相違が出たとしてもそれは綱領の著者が不明確な(つまり悪い) 言葉の使い方をしたということになる、ということにすぎない。これに対しては、マ キシーモフも反対はしまい。

 このテーマに関して、多くの著作と手紙が(特にマラテスタとマフノの間で)交わさ れたにも関わらず、「指導力」に関する疑問は、どちらの側の満足いくようにもはっ きりと答えが出はしなかった。その理由の一部には、議論にもう一つ別な問題があっ たからだった。それは、組織的原理(それ自体で元々の綱領を定義していた部分をな していたものだ)に関連した問題であった。マラテスタは、これはアナキズムの方法 と原理に一致しておらず、従って、『アナキズムの勝利をもたらす手助けには』なり 得ないと論じていた(アナキスト革命、97ページ)。その理由は二つあり、 まず第一に、綱領の「事務局」と「執行委員会」の問題、そして、「集団的責任」の 問題である。それぞれについて、取り上げてみよう。

 「事務局」と「執行委員会」を取り囲むように作られる構造を持つことで、『(全般 的アナキスト)連盟の意志とは、大多数の意志を意味するにすぎなくなる。大多数の 意志は、執行委員会を任命・管理し、全ての重要な諸問題に対して意志決定 をする諸会議を通じて表明される。当然、諸会議はメンバー集団の大多数によって選 ばれた代表者からなるであろう。(中略)そこで、ほとんどの場合、意志決定は多数 派の中の多数派によって採択され、反対意見が二つ以上あった場合には特に、少数派 のみを代表することにもたやすくなり得るだろう。』このことは、『純粋な多数決シ ステム、純粋な議会主義に堕落する』そして性質として非アナキズム的になる、とマ ラテスタは主張している(前掲書、100ページ)。

 綱領主義連盟が組織の活動と発展を方向付ける「事務局」と「執行委員会」に基づい ている限り、この批判は妥当である。こうしたシステムでは、これらの機関が組織を 管理し、その指示にメンバーが従うと思われている(「理論的・戦術的統一」と「集 団的責任」のために)限り、これらの機関は、結果として、連合の政府になる。この 政府が選挙され、説明責任を持っていようとも、執行権力を持っている以上、やはり 政府は政府なのだ。マキシーモフが論じているように、綱領における個人のイニシア ティブは、『特別な性質を持っている。(中略)それぞれの組織(すなわち、個人の イニシアティブを行使する権利を持ったメンバーからなる組織)は事務局を持ってい る。(中略)その事務局は組織のイデオロギー的・政治的・技術的活動を方向付 ける。(中略)ならば、どこに、普通のメンバーの独立した活動の余地があるの だろうか?明らかに一つだけしかない。事務局に服従し、その命令を実行するイニシ アティブだけだ。』(建設的アナキズム、18ページ)このことは、綱領が示 している構造に関する論理的結論であると思われる。マラテスタによれば、『この精 神、この傾向は権威主義的なままであり、その教育効果は反アナキズム的なままとな ろう。』(アナキスト革命、98ページ)

 逆に、マラテスタはアナキスト組織は『十全なる自律・十全なる独立・個人と集団の 十全なる責任』に基づいていなければならず、全ての組織活動は『個々人の思索とイ ニシアティブが妨害されることのないやり方で、自由に』なされねばならない、と論 じていた。組織の個々のメンバーは、『認められた諸原則と矛盾せず、他者の活動を 害しなければ、いかなる意見をも表明し、いかなる戦術をも使う。』それ以上に、組 織が任命する管理機関は、『いかなる執行権限も、指導権力をも持っていない』だろ う。組織自身の運命の決定は、組織内諸集団とその連合ミーティングに任せるだろ う。管理機関が代表機関になったとしても、こうした諸組織の会議は、『法律を作り 出すこともなく、その決議案を他者に押しつけることもなく、(中略)決議案を受け 入れた人以外には拘束的にも強制的にもならないため、いかなる種類の権威主義とも 無縁』であろう(前掲書、101ページ、102ページ、101ページ)。こうした組織は、 集団的意志決定も個人で請け負った義務も排除するわけではなく、むしろ、そうした ことに基づいているのである。

 しかし、綱領に刺激された大部分のグループは、綱領が示唆している組織的な側面を 拒絶しているようだ。「事務局」と「執行委員会」ではなく、通常の会議とミーティ ングを持って、諸問題に関する集団的意志決定に到達し、その方法で統一を実施して いるのである。従って、本当に重要な問題は、「理論的・戦術的統一」と 「集団的責任」なのであって、綱領によって示唆された構造ではない。実際、この問 題は、例えば、マラテスタ宛のマフノの手紙における主要な話題だったのであり、だ からこそ、これが他のアナキストと「綱領主義者」を区別している鍵となる問題だと 述べることが妥当だと思われる。

 それならば、マラテスタはどのようにこの概念に反対していたのだろうか?前のセク ションで述べたように、綱領は「集団的責任」という考えを『全同盟が個々のメン バーの政治的・革命的活動に責任を持ち、同様に、個々のメンバーも同盟の政治的・ 革命的活動に責任を持つことになる』と定義していた。マラテスタはこれに対して以 下のようにコメントしていた。

だが、個々のメンバーが行っていることに対して同盟が責任を持っているのなら、ど のようにしてそのメンバーと様々なグループに、自分が最も良いと考えているやり方 で共通のプログラムを採用する自由を任せておくことができるのだろうか?行動を妨 害する手段を持っていないのに、どのようにしてその行動に責任を持つことができる のだろうか?従って、同盟とその代理である執行委員会は、個々のメンバーの行動を 監視しなければならず、何をすべきで何をしてはならないのかを命令し、出来事の後 に以前に受け入れられた責任を正しく遂行できなかったという非難のために、誰もが 命令を、委員会の許可を、得るまでは何もできないことになるであろう。そして、逆 に、個人は、何を行おうとしているのかを知らずに、そして、自分が賛同できないこ とを集団で行わないようにすることなどできないのに、集団の活動に対する責任を受 け入れることができるのだろうか?(前掲書、99ページ)

 言い換えれば、「集団的責任」という言葉は、(文字通り受け取るなら)非常に非効 率的で、何らかの権威主義的組織作り様式を暗示しているのである。いかなる行動で もそれがとられる前に、組織は様々な配慮をしなければならず、このことで個人・集 団・地域のイニシアティブを破壊してしまいかねないのだ。組織は諸状況を発展させ るために、何かするとしても、緩やかに反応するだけであろうし、その反応も直接的 な知識と経験から情報を得たものではないだろう。それ以上に、この種の組織は、 個々人の判断を服従させることを意味している。メンバーは、『決定内容がどのよう なものになるのかを耳にしさえせずに、大多数の意志決定に服従』しなければならな いであろう(前掲書、101ページ)。結局、自分が組織の戦術や立場に同意せず、自 分の行動で反対の意を押し進めることができない場合に、そのメンバーができること と言えば、組織を離脱することぐらいなのだ。

 この構造は、連合主義に対する綱領のコミットメントは言葉の上だけだ、ということ を示唆している。綱領に批判的な大部分のアナキストは次のように論じている。綱領 の著者は連合主義原理を肯定していながらも、実際には、『執行委員会を持った完全 なる中央集権組織を描いている。執行委員会は、様々なアナキスト組織に対してイデ オロギー的・組織的方向性を与える責任を持っており、そのことで、労働者の専門組 織を指導することになるだろう。』(「返答」、建設的アナキズム、35ペー ジ〜36ページ)

 従って、論理的帰結に従えば、「集団的責任」は、非常に官僚主義的で緩慢になるこ とで、実際には、アナキスト活動の邪魔をする見込みが高いのだ。戦術的・ 理論的統一と同様に、集団的責任が採用されることで、アナキスト資源と時間がもっ と効率よく利用されるようになる、と仮に考えてみよう。だが、到達した集団的決定 事項が誤っていたり、多くの領域では適用しがたいものだったりするなら、「効率 的」であるという意味は何なのだろうか?地域の諸条件に関する知識を応用し、こう した諸条件を反映した理論と政策を発達させている(そして、下から協力しあってい る)地域グループよりも、その組織は、綱領主義組織の「統一」のために、不適切な 諸政策を採用するように強いるかもしれないのだ。マフノが次のように論じているこ とは真である。『地域組織の活動は地域の諸条件に見合うように、可能な限り修正さ れうる』が、それは、『全国を覆っているアナキスト連盟全体の組織的実践パターン と調和して』いる場合に限る(エッセイ集:「国家に対する闘争」など、62 ページ)。だが、それでもマフノは綱領の統一の性質に関する問題を回避している (ただ、これは、綱領の立場は、以下で論じるように、テキストが示しているほどに 極端なものではない、ということを確かに示してはいる)。これこそが、アナキスト がその組織で、地域の現実的要求を考慮するために、連合主義と自由合意を伝統的に 支持してきた理由なのである。

 しかし、綱領の「集団的責任」の定義を文字通り受け取らなかったり、その論理的極 論を受け取らなかったりする(マフノのコメントが示しているように)のなら、綱領 主義者と非綱領主義者との違いは、それほど大きいものではないかもしれない。マラ テスタは、マフノの手紙に対する返答で、以下のように指摘している。

共通の目的のために他者と連合し、調整する人が感じなければならないことは、自分 の行動を仲間の行動と調整し、他者の活動を傷つけるようなことはせず、(中略)自 分たちが到達した合意を尊重しなければならないということだ、という観点には同意 しますし、支持してもいます。(中略)(それ以上に)私は、この義務を感じず、実 践もしない人々は、連合から放り出されるべきだと思っています。

 集団的責任について言えば、あなたは、連合のメンバー内に存在しなければならない 一致と連帯のことを正確に述べているのでしょう。そして、そうであるならば、あな たの表現は、言葉を不適切に使っている(中略)ことになりますが、基本的には言葉 遣いに関するそれほど重要ではない問題でしかないのだから、すぐに合意することに なるでしょうね。(前掲書、107ページ〜108ページ)

実際、これが、大部分の綱領主義組織が運営されている方法だと思われる。綱領主義 組織は幅広い理論的・戦術的立場に関して同意しているが、様々な主題(例えば、労 働組合の性質やアナキストが労働組合とどのように関係するのか)に関するそのガイ ドライン内での行動については地域グループに任せている。それ以上に、地域グルー プは、活動を開始する前に組織に対して報告する必要はないのだ。言い換えれば、大 部分の綱領主義グループは、文字通り綱領を受け取っているのではなく、多くの食い 違いは、大部分、言い回しの問題なのである。

 多くのアナキストは、綱領主義グループはその志向的に余りにも中央集権的だとして 批判しているが、綱領が多くのアナキスト組織に、非綱領主義組織にさえも、影響を 与えているのは確実である(このことは、次のセクションで論じる「階級闘争」グ ループに見ることができる)。この影響力は二つの方向にわたっているが、いずれに せよ綱領主義グループの発展方法に影響を及ぼしていた元々の綱領に対する批判を 持っているのである。もちろん、だからといって、綱領主義者とそれ以外のアナキス トとの間にほとんど違いがないとか、全く同じであるということではない。綱領主義 グループは、「集団的責任」と「理論的・戦術的統一」を他のアナキストよりも強調 する傾向がある。綱領主義者が「統合連盟」組織内で活動するときに、これが問題を 引き起こすのである(例えば、フランスでは実際に、綱領主義者とその他のアナキス トとの間に大きな悪感情をもたらすことになったのだった)。

 ロシアの指導的アナルコサンジカリスト、G=P=マキシーモフによる建設的アナ キズムは、一つの書物に全ての綱領主義関連文書を集めたものである。マキシー モフの綱領批判と共に、そこには「統合連盟」の返答、マラテスタの綱領批判論文 (これも含まれている)に関するマラテスタとマフノの手紙のやり取りが含まれている。アナキスト革命にもマラテスタの論文とマフノとの手紙のやり取りが収録されている。


J.3.5 他種のアナキスト連盟はあるのか?

 もう一種のアナキスト連盟は、我々が階級闘争グループと 呼んでいるものである。例えば、数多くの英国の地方アナキスト集団は、 この形態で組織されている。彼らは「階級闘争」という言葉を使うことで 、自分達のアナキズムが、労働者階級の集団的抵抗に基づいているのであ って、ライフスタイル変革や例えば共同組合のようなものの支援を通じた 資本主義の改良には反対だ(もちろん、多くの「階級闘争」アナキストは こうしたことを行っているが、それを行うことでアナキスト社会を作り出 すことなど出来はしないと認識しているのである)ということを示してい る。ここでは、このような意味で「階級闘争」という言葉を使うことにす る。もう一度強調しておくが、我々が「階級闘争」という言葉を使うのは 、こうしたアナキスト連盟やグループを記述するためであって、「統合連 盟」や「綱領主義連盟」が階級闘争を支援していないという意味ではない 。彼らは支援しているのだ!

 このグループは「統合連盟」と「綱領主義連盟」との中間に位置する。「 階級闘争」グループは、連盟内に多様な見解が存在することが重要であり 、綱領主義が行っているように異なる状況にいる異なるグループに対して 同じ方向性を押し付けようとすることは誤りだと見なしている点において 、「統合連盟」に同意している。だが、「綱領主義」同様、階級闘争グル ープは、アナキズムの全く異なる潮流間で無理やり同盟を作りだすことに は何の意味もないと認識している。例えば、「階級闘争」グループは、個 人主義アナキストや相互主義アナキストが無政府共産主義者やアナルコサ ンジカリストと同じ組織にいるべきだとか、無政府平和主義も非平和主義 の団体に参画するべきだといったことは否定するのである。つまり、「階 級闘争」グループは、全く正反対の観点を内包している組織は、そうした 差異を克服することが不可能なため、無意味な論争と混乱した行動を導く 可能性がある、と認識しているのである。

 その代わり、「階級闘争」グループは、共通の「目的と原則」について合 意する。これが、連盟内部での基本的合意条件なのである。個人やグルー プは、この言明に同意しなければ、参画することは出来ない。既にメンバ ーで、この言明を変えようとし、他の人々をその修正案に同意させること が出来なければ、道義的に組織から離れる義務を負っている。言いかえれ ば、この目的と原則は枠組みなのであり、その範囲内で、個人とグループ は自身の思想を応用し、合意した方針の解釈を適用するのである。これは 、あるグループにいる個々人や連盟内の諸集団が、自分の地域活動の基盤 となるもの、集団的に合意したものを持っているということを意味する。したがって、諸活動に対する共通の道筋と活動の基準があることになる( 特に、グループや連盟の会議が招集できないような状況下で)。このよう にして、個人のイニシアティブと集団的協働は、互いを妨げることなく、 調和できるのである。さらに、目的と原則は、そのアナキ スト集団を出現させることになった潜在的メンバーをも示してくれるであ ろう。

 こうした連盟は、全てのアナキスト集団同様、方針・戦術・戦略・目標を 継続的に再評価しつづけるために、定期的に行われる地域集会、そして、 頻繁になされる地方会議・全国会議などに基づくであろう。さらに、こう した会議は、活動を調整するために創り出されている、より高次の行政委 員会に権力が集まることを防いでくれる。定例会議の目的は、特定のトピ ックについて連盟の方針を創り出し、共通の戦術について合意することで ある。こうした方針は、一旦合意されると、メンバーを道義的に拘束する 。メンバーは、その後に必要に応じて方針を再評価し、修正することも出 来るが、方針の実施を妨げるような行動をとることは出来ない(方針を大 きな間違いだと見なすのなら、それを実施する必要はない)。言いかえれ ば、『アナキスト組織では、個々のメンバーはいかなる意見でも表明でき 、いかなる戦略をも使うことが出来るが、それは、合意された原則と矛盾 しない限りにおいてであり、他者の活動を害しない限りにおいてなのであ る。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキスト革命、10 2ページ)

 例えば、こうした連盟の少数派は、これは少数派の立場であり、連盟の目 的と原則と矛盾してはいない、と明確に述べることが出来る限り、自身の 方針を追求することが出来る。このようにして、アナキスト連盟は統一行 動と見解の差異とを組み合わせているのだ。なぜなら、いかなる一般的方 針であっても、あらゆる状況で実施可能なものなどありえず、少数派が、 そのエリアで多大な諸問題を引き起こすと分かっている方針を追求するよ り、過ちを犯すほうが良いからだ。その行動と方針が連盟の基本的政策と 矛盾していない限り、多様性は、最良の戦略と最良の思想を確実に同一に する本質的手段なのである。「統合連盟」の組織方法が持つ問題は、いか なる基本的政策であれ合意に達することは難しく、だからこそ、ほとんど 使いものにならないほどに水で薄められたものになってしまう、という点 なのである(例えば、個人主義的アナキストと共産主義的アナキストを共 に抱えている連盟は、共産主義や共同体所有などの必要性について合意に いたることなど不可能であろう)。

 したがって、「階級闘争」グループの支持者は、マラテスタが、以下のよ うに論じていることに同意しているのだ。アナキスト集団が基づかねばな らないのは、『個々人と諸集団の十全なる自律・十全なる自主・したがっ て十全なる責任にである。共通の目的にむけて協働しようと団結すること が有効だと信じている人々の間での自由なる調和にである。引き受けたコ ミットメントをやり抜き、合意したプログラムに矛盾することは行わない という道義的義務にである。実践的構造と組織に生命を与える適切な手段 は、こうした基盤に基づいて構築されデザインされねばならないのである 。その上での、諸集団、諸集団の諸連合、諸連合・諸集会・諸会議・通信 委員会などの諸連合なのだ。だが、このこと全ては、個々人の考えとイニ シアティブが妨げられないようなやり方で、そして、孤立でなされた場合 には不可能だったり効果がなかったりする活動に対してもっと大きな結果 を与えるという見解だけを持って、自由になされねばならないのである。 』(前掲書、101ページ)

 「階級闘争」グループは、全てのアナキスト集団同様、以下のこと(マレ イ=ブクチンの言葉を使えば)を確信している。『無政府共産主義は、文 化的雰囲気のような空気中を漂っている単なるムードや傾向のままでいる ことなど出来ない。その新しい感性を効果的に表現し、普及させるのなら ば、組織されねば−−実際、充分に組織されねば−−なら ない。そこには首尾一貫した理論と包括的な著述がなければならない。現 代の直感的リバータリアン衝動を変質させ、社会不安をヒエラルキー型組 織へと導こうとしている権威主義運動(資本主義や国家社会主義)と闘争 することが出来なければならないのだ。』(急進主義論文集の53ページ〜96ページにある、「スペインをふり返る」、90ページ)

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