ルドルフ=ロッカー


アナルコサンジカリズム

目次

アナキズム:その目標と目的

プロレタリア階級と近代労働運動の始まり

サンジカリズムの先駆け

アナルコサンジカリズムの課題

アナルコサンジカリズムの諸方法

アナルコサンジカリズムの進化


この著作は、元々、1938年に Martin Secker and Warburg Ltd から出版された。現在は、AK Press(2004)から出版されている。本テキストの原文(英文)はhttp://www.spunk.org/library/writers/rocker/sp001495/rocker_as3.htmlで読むことができる。また、この翻訳は「労働者の連帯」(Laborista Solidareco)紙において連載される。

第三章 サンジカリズムの先駆け

ロバート=オゥエンと英国労働運動;全国統一大労働組合;ウィリアム=ベンボウとゼネストの思想;反動の時代;フランスにおける労働者組織の進化;国際労働者協会;労働組合主義の新しい概念;労働者評議会の思想;労働者評議会vs独裁体制;バクーニンが提案した労働者経済組織;マルクスとエンゲルスによる議会政治の導入とインターナショナルの終焉

社会主義思想が労働運動に浸透すると、その初期に、現代の革命的サンジカリズムと紛れもなく関連している様々な傾向が現れた。こうした傾向が最初に発展したのは、資本主義巨大産業の母国イングランドであり、一定期間、一部の進歩的な英国労働者階級に強く影響を及ぼした。団結禁止法の撤廃後、労働者の活動は自分達の労働組合組織に幅広い特徴を与えることに主として向けられた。現実経験から、純粋に地元型の組織では日常の糧を求めた闘争に必要な支援を提供してはくれないことが分かったからである。だが、当初は、こうした活動は非常に深い社会構想に基づいていたわけではなかった。当時の政治改良運動に影響を受けている場合、労働者は、自分の経済状態を即時に改善することの他に何も目標として視野に入れなかった。英国労働運動に対する社会主義思想の影響がハッキリと見えるようになったのは1830年代初頭である。そして、その出現は主としてロバート=オゥエンと弟子たちが行った活発なプロパガンダのためだと言われている。

いわゆる改革国会が召集される数年前に、労働者階級全国組合が設立された。その最も重要な構成分子は紡績産業労働者であった。この組合の要求は、以下の四点にまとめることができる。(1)全ての労働者にその労働に充分見合った対価を。(2)現状から自動的に生み出されるしかるべき手段を使って雇用者から労働者を保護せよ。(3)議会改革ならびに男女双方に対する普通選挙権を。(4)経済的諸問題に関して労働者に教育を。こうした要求の中に、当時、国全体を魅了していた政治的改良運動の強い影響が認められる。しかし、同時に、ロバート=オゥエンの教義から拝借した表現があることにも気付くであろう。

1832年、改革法が提出された。この法案は、多くの英国労働者階級が持っていた最後の政治的幻想を破壊した。この法案が法律になったとき、中産階級は貴族の地主に対して大勝利を治めたと思ったが、労働者は再び裏切られたと感じ、火中の栗を拾うためにブルジョア階級に利用されただけだったことに気がついた。その結果、幻滅が広がり、労働者階級がブルジョア階級と同盟を組んだところで何の手助けにもならないという確信が着実に広がっていった。それ以前は、階級闘争は所有者階級と非所有者階級との葛藤する経済的利益から自発的に出現するものであり、これが現実になったなら、労働者の精神に明確な確信として具体化し、労働者の活動に決定的方針を提供してくれるだろうと考えられていた。労働者階級の思考がこのように転換したことは、この時期に出版された労働者新聞における多くの発言にハッキリと現れている。労働者は、自分達の真の強さは生産者としての自分達の特長にある、ということを理解し始めた。政治的改良運動に参加することは大失敗だったと鋭く気付けば気付くほど、社会において自分達が経済的に重要なのだという理解を新たに獲得し、それがもっとしっかりと根付くようになった。

ロバート=オゥエンのプロパガンダが労働者のこの確信を非常に強めた。彼は、当時、組織労働者に継続的な強い影響力を持っていた。オゥエンは、資本主義経済秩序を根本的に変化させるという自分の取り組みの断固たる基盤は、労働組合組織の一貫した成長にあると認識し、このことが高い希望と共に彼を満たしていた。彼は、労働者に次のように示した。資本と労働との既存の闘争は、賃金をめぐる通常の戦いで落ち着くことなどあり得ない、と。ただ、実際には、こうした通常の闘争が労働者に対して持っている大きな重要性を決して無視することはなかった。逆に、彼は、立法機関からは何も期待できないのであり、自分たちの事柄は自分たち自身の手で行わねばならないということを労働者に確信させようと努めていた。こうした思想は、英国労働者階級の進歩的部分に意欲的傾聴者を得、建築組合の中で最初に強く表明された。建築労働者組合には、数多くの地元の労働組合が結集しており、当時、労働者組織の中で最も進歩的で最も能動的な組織の一つであり、経営者の悩みの種だった。1831年、オゥエンはマンチェスターの組合代表者ミーティングにおいて自分の社会再構築計画を提示した。この計画は、一種のギルド社会主義を意味しており、労働組合管理下における生産者協同組合の確立を呼びかけていた。この計画は採択され、その後すぐに、建築労働者組合は長期に渡る重大な激しい闘争に参加したが、その結果、不幸にも、この組織の存在が重大に脅かされ、オゥエンが示した方向性に向かう試みは全て挫折した。

だが、オゥエンはこのことで落胆しなかった。新たな情熱を持って自分の活動を継続した。1833年、労働組合と協同組合組織の大会がロンドンで開かれた。ここで、オゥエンは労働者自身による社会再構築計画を徹底的に説明した。代表団の報告から、こうした考えがどれほど影響力を持ち、創造的精神が英国労働者階級の進歩的集団をどれほど活気づけていたのかをハッキリと見ることができる。「貧者の後見人」は、次のように非常に適切に大会報告を要約している。

だが、今回の代表団大会で目標とされたことは、それまでのあらゆる団結が持っていた微々たる目的とは全く異なっている。代表団の報告は、社会全体の変革−−既存世界秩序の完全転覆を意味する変革−−を労働者階級が意図していることを示している。労働者は社会の底辺ではなく頂点にいようとしている−−むしろ、底辺も頂点も全く存在しないことを熱望しているのである。

この大会の直接的結果が、1834年初頭の英国・アイルランド全国統一大労働組合(Grand National Consolidated Trade Union of Great Britain and Ireland、GNC)の創設だった。騒がしい時代だった。国全体が数え切れないほどのストライキとロックアウトで揺るぎ、労働組合に組織された労働者の数は急激に80万人まで増加した。GNCの創設は、分散していた組織を一つの大連合に集結させようという試みから生じ、これが、労働者の行動に大きな効果的力を与えることとなった。だが、それ以前にこの方向で行われた全ての取り組みとこの同盟とを区別していたのは、その姿勢だった。純粋な労働組合主義でも、政治的改良主義者と労働者との協調路線でもなかった。GNCは、必要な条件改善に対してできる限りあらゆる援助の手を差し伸べるための闘争組織として着想されていたが、同時に、資本主義経済全体を転覆し、万人の利益ではなく万人の必要の満足を目論んだ全生産者の協力的労働で置き換える、という目標を立てていた。そして、GNCは、こうした熱望が表出し、現実に変換されるための枠組みとなるはずであった。

組織者たちは、こうした連合にあらゆる工業・農業関係の労働者を結集させ、その専門生産部門に従って労働者をグループ分けしようとした。個々の産業はそれぞれが一つの専門部門となり、各々の生産活動に関わる特殊条件と関連経営機能とに関わる。可能な場所ならどこでも、様々な部門にいる労働者は協同工場を設立しようとし、経営費も含めて、消費者に生産物を原価で売ろうとした。普遍的国際機関は、様々な産業を有機的に一つに結びつけ、相互利益を調節する役目を果たした。様々な協同工場の産物の交換は、いわゆる労働市場を通じて、そして、特別な交換通貨すなわち労働券の使用を通じて達成されると見なされた。こうした諸機関が安定して広まっていくことで、資本主義的競争を現場から追い出し、その結果として、社会の全面的再編成を達成しようと望んだのだった。

同時に、こうした協同組合型農業事業と工業事業は、資本主義世界における労働者の日々の闘争を容易にする手助けとなるはずであった。これは、特に、GNCがその要求の骨子としていた七つの点の内の三つに示されている。

 大地は第一の生活必需品の源泉であり、それを所有しなければ、生産者階級は多かれ少なかれ貨幣資本家に従属し続けることになり、その結果として、通商貿易の変動に従属し続けることになる以上、本委員会は、次のように忠告する。あらゆるストライキにおいて、経験豊かな農業指導者の指導の下、人が自分の生存の−−全てではないにせよ−−大部分を扶養すべく使用できるようにするために、資金が許す限り、大地を幾ばくかでも貸借契約で確保すべく組合は莫大な努力をしなければならない。この処置は全職業の労働の値段を引き下げる効果を持つものではなく、逆に、製造業において現在過剰となっている供給を取り除くことで、労働の値段を増加させる傾向を持つであろう。
 それでもなお、あらゆるストライキにおいて、諸委員会は真摯に次のことを推薦する。実行可能なところでは、その労働組合員仲間の中で需要があれば、人は商品の製造・生産に従事すべきである。そして、このことを達成するために、個々の支部は、作業室や作業場を提供すべきである。作業場では、その支部の利益となるようにそうした商品を製造することもできるだろうが、必要物資を供給するために適切な配置がされていなければならない。
 いかなる場合であれ、実行可能な場所では、個々の地区や支部は、一般的な内部向けの食料と商品を貯蔵する場所を一つ以上確立すべきである。このようにして、労働者は卸売り価格よりも少しばかり高い値で最良の商品を手に入れることができるようになるだろう。
GNCの発起人たちは労働組合と協同組合の同盟としてGNCを着想していたのである。協同組合事業に実際に参加することで、労働者は、産業の運営に必要な理解を獲得することになり、そのことで、少なくとも、生産者自身が経済生活全体を運営し、全ての搾取を終焉させるまで、労働者は自身の管理下にある社会的生産の範囲を永続的に広げていくのに最適なのだ。こうした考えは、労働者の会合や、とりわけ労働者新聞で驚くほどハッキリと表現されていた。例えば、「先駆者 The Pioneer」というジェームズ=モリソンが運営していたGNCの機関紙を読めば、徹底的に近代的な響きを持った主張に何度も出くわす。これがハッキリ示されているのは、下院の民主的再建を旗印にしていた政治改革者との議論においてである。GNCは、政治改革者に対して、社会主義的意味での社会の経済変革は下院を無用なものにするのだから、労働者はこの種の活動についてはいかなるものであれ全く関心を持っていない、と返答した。労働者役員会と産業連合が下院の役目を果たし、そこでは、人々の利益のために生産と消費に関する諸問題にのみ関わることになる。現在の企業家が果たしている機能はこうした組織に乗っ取られる。あらゆる社会的富の共有とともに、政治的諸制度は不要になるだろう。国の富は、もはや、生産された商品の量で決められるのではなく、万人が商品から得る個人的利益によって決められるだろう。将来、下院は単なる通商院となるであろう。

GNCは、労働者からの驚異的な反応に出くわした。数ヶ月の内に、そのメンバーは50万人を遙かに越え、当初、その実際の目的をハッキリ理解していたのは労働者の中でも最も知的に活発な人々だけだったが、それでも尚、大多数の人々は、少なくとも、このような規模の組織の方が地元グループよりも自分達の要求に遙かに大きな力を貸してくれる、と考えていた。そして、十時間労働を求めたアジテーションが、英国労働者階級のあらゆる部分で断固として把握され、GNCは全エネルギーを使ってこの要求を執行することにした。オゥエン自身、そしてその親しい友人であるドハーティ・フィールデン・グラントは、この運動で卓越した役割を演じた。だが、GNCの闘士たちは法制化に全く希望を持っておらず、十時間労働を勝ち取ることができるのは全労働者団体の団結した経済的行動のみである、ということを労働者に納得させようとした。『工場にいる人々たちは、自分達の組合を通じて、自分達で短時間労働法を作らねばならない。』これが彼等のスローガンだった。

英国の組織労働者は皆、ゼネストの考えに共感した。1832年初頭、この新しい運動の最も活動的な闘士の一人ウィリアム=ベンボウは、グランド=ナショナル=ホリデイと生産者階級の会議と題されたパンフレットを出版した。これは、莫大な部数が発行され、ゼネストの考えと労働者階級にとってのゼネストの重要性が初めて十全に論じられた。ベンボウは労働者に対して次のように述べた。自分の労働力を強制的に売ることが自分を奴隷にする原因であるとするならば、組織的に労働を拒絶することこそが自分を解放する手段である。こうした戦争手段は物理的な武力の行使をせず、最強の軍隊よりも比較にならないほど大きな効果を達成できる。組織的不公正システムの失墜をもたらすために、労働者はこの強力な武器の重要性を理解し、知性を持ってそれを使うことを学ばねばならない。ベンボウは数多くの企画を提出した。その中には、様々な場所に現地委員会を確立することで、ストの爆発が自然な力で充満するようにし、国中でゼネストを行う準備をする、といったものがあった。当時、彼の考えに対して労働者は非常に誠実な反応を示していた。

GNCの急速な成長、そしてそれ以上に、そこから生じる精神のために、雇用主は、この新たな団結に対する密かな不安と盲目の憎しみで一杯になった。この運動がさらに広がり、地元グループを創り上げ、統一する機会を手にする前、正にその発生時に、息の根を止めねばならない、と彼等は感じた。全てのブルジョア新聞はGNCの「犯罪的趣旨」を非難し、国を大惨事に導いていると口をそろえて明言した。あらゆる産業の工場主たちは、「非合法の団結」に反対する法律を求めた請願を議会に殺到させた。特に、労働争議で様々な部門の労働者が協力することに反対した。多くの雇用主はその従業員の前にいわゆる「書類」を置き、組合を辞めるか、ロックアウトにあって街路に放り出されるかの二者択一を迫った。

議会は、確かに昔ながらの「団結禁止法」を再制定しなかったが、政府は既存の法律の範囲内でできる限り厳しく労働者の「乱暴」を取り締まるよう裁判官に奨励した。そして、莫大な規模で実行した。「団結禁止法」取り消し以前の地下活動時代から多くの労組が宣誓などの慣例的儀式を持ち続けていたため、多くの場合に、このことが法律の文言に違反しているという事実を取っ掛かりとして利用できたのである。数百人の労働者が全く些細な違法行為で厳罰に処せられた。当時最も恐るべき判決の一つがドーチェスターにいる六人の農業労働者に対して下され、これが非常に激しい憤慨を呼び起こした。GNCの主導で、ドーチェスター近くの小村トルパドルにいる農業労働者が組合を作り、一週間七シリングから八シリングへの賃上げを要求した。そのすぐ後、六人の農業労働者が逮捕され、七年間のオーストラリア流刑地送りという恐るべき刑罰を言い渡された。彼等が犯した唯一の罪は組合に加入したというものだった。

つまり、GNCは、まさにその始まりから、長期に渡る重要な賃金戦争に参画し、その上、一貫して厳しい告訴にさらされていた。そのため、大衆を教育するという偉大な作業に本格的に取り組み始める時間がほとんどなかった。いずれにせよ、未だ、教育を行う時期ではなかったのだろう。メンバーの多くは、芽生え始めていた人民憲章運動に目を向けていた。この運動は、GNCの即時的要求の多くを受け入れ、他の事柄と共に、ゼネストを行うプロパガンダを継続していた。これは、1842年に、ランカシャー州・ヨークシャー州・スタフォードシャー州の全産業、製陶地帯、ウェールズ、スコットランドの炭坑地区を結びつけた大運動で頂点に達した。しかし、この運動が持っていた元々の重要性は次第に減少した。オゥエンは正しかった。彼は、人民憲章運動が政治改良に余りにも重きを置きすぎており、大きな経済的諸問題についてほとんど理解を示していない、と非難していた。大陸における1848年から1849年の不幸な革命も、人民憲章運動の没落を導き、純粋な労働組合主義が再び英国労働運動のフィールドを多年にわたって支配することとなった。

フランスにおいても、社会主義と労働運動の同盟は、労働者の一部を資本主義経済秩序転覆の企てに向かわせ、新しい社会発展の道を切り開いた。支配権を獲得したばかりのブルジョア階級と労働者階級との対立は、既に、大革命の嵐の中でハッキリと姿を現していた。大革命前、労働者は、15世紀に起源を見ることができるいわゆる職人身分に入れられていた。これは熟練職人の結社であり、中世から伝えられた特別な儀式を持っていた。メンバーは相互支援を誓約し、自分の使命に関わる事業について忙しく働くと同時に、即座の経済的利益を守るためにストライキやボイコットの手段を使うことが多かった。ギルドの廃止と近代産業の発展と共に、こうした団体は次第に重要性を失い、新しい形のプロレタリア階級組織に移行していった。

1790年8月21日の法律により、既存法の枠組みの中で自由に団結する権利が全市民に譲渡された。労働者はこの権利を利用し、雇用主に対して自分達の利益を守るべく労働組合を組織した。多くの地元地域ストライキ運動が、特に建築産業で、勃発した。労働者組織が次第に強力になり、パリだけでも組合員が八万人に達するに従い、雇用主は多大な懸念を持つようになった。

政府の記念式典において、雇用主たちは労働者のこうした団結を非難し、この「新しい暴政」に対する国家の保護を求めた。労働者の団結は、雇用主と従業員との自由契約権に干渉していると見なされた。政府はこの要求に寛大に対応し、既存労働条件に変更をもたらす目的を持ったあらゆる団結を禁止した。国家の中に国家を存在させることを認めることはできない、というのがその理由であった。この禁止は1864年まで施行され続けた。英国でそうだったように、フランス労働者も秘密組織という手段に訴えた。労働者の要望を公然と要求する権利を法律が否定したからである。

いわゆるmutualitesという無害な共済組合が、この関係の中で覆いとしての役目を果たすことが多く、これが秘密の抵抗組織(societes de resistance)を覆い隠す合法的マントとして広がった。これらが厳しい告発に耐えねばならず、多くの犠牲者を出すことになったのは事実である。しかし、彼等の抵抗を破壊できる法などなかったのだ。ルイ=フィリップの法の下で、労働者の団結を禁じた様々な法律はなおもさらに強化されたが、このことでさえも、societes de resistanceの着実な成長を阻むことも、その地下活動の結果として幾度も繰り返される大ストライキ運動の発展も阻むこともできなかった。中でも、1831年のリヨンにおける織工の闘争は、欧州の中で重要な出来事となった。厳しい必要性が、こうした労働者を駆り立て、雇用主による強奪に対する絶望的抵抗を引き起こし、民兵が干渉したために、明らかな叛乱へと発展した。労働者は「労働して生きるか、戦って死ぬか!」という重大な言葉が刻まれた旗を掲げていた。

1830年代には、こうした労働者団体の多くが社会主義的思想を熟知するようになり、1848年の二月革命後には、この知識がフランス労働者協会運動の基盤を生み出した。これは、労働組合の流れを持つ協同組合運動であり、建設的活動を行うことで社会再建のために尽力した。S=イングランダーは、この運動の歴史書において、こうした協会の数は約二千ほど存在していた、と述べている。しかし、ルイ=ボナパルトのクーデターによって、この希望に満ちた始まりは、他の多くのことがそうだったように、突然終わりを迎えた。

戦闘的で建設的な社会主義信条を復活させたのは、国際労働者協会(インターナショナル)の創設だけだった。その後、社会主義の信条は国際的に広がった。インターナショナルは欧州労働者団体の知的発展にとてつもなく強力な影響を与え、今日でさえも、ラテン諸国ではその魅力的な誘引力を失ってはいない。インターナショナルは、1864年に英国とフランスの労働者が協力することで出現した。これは、国際同盟の中で万国の労働者が団結するという最初の偉大な試みだった。これが、労働者階級の社会的・経済的解放の道を開くはずであった。これは、ブルジョア急進主義政治組織のあらゆる形態とは初めから異なっていた。原材料と生産道具の所有者に労働者が経済的に従属することは、社会的悲惨・知的劣化・政治的抑圧に示される隷属の源泉だ、と指摘していたからである。この理由で、その憲章の中で、労働者階級の経済的解放こそが、あらゆる政治運動が従属しなければならない大目標である、と宣言されたのである。

その最重要目標はこの目的のために欧州の社会運動の様々な党派を団結させることだったため、大部分の労働者同盟の組織構造は連合主義の原則に基づいていた。これが、個々の党派が、自分達自身の信念に沿って、また、それぞれの国に固有の条件に基づいて、この共通目標に向けて活動できるように保証した。インターナショナルは定義済みの社会システムを支持しなかった。むしろ、一つの運動の表現であり、その理論的諸原則は日常生活の実際の闘争においてゆっくりと成熟し、その力強い成長の全段階で次第に明確な形態を取ったのである。最初に必要だったのは、様々な国の労働者をお互いに近づけ、その経済的・社会的隷属はいかなる場所でも同じ原因に辿ることができ、従って、労働者の連帯は国家の利益だとされていることと連携しているのではなく、労働者階級の運命と連携しているのだから、労働者の連帯表明は国家という人工的境界線を越えて届かねばならない、ということを理解してもらうことであった。

産業戦争の時代に外国のスト破りの輸入を阻止し、国際的徴収を通じて万国の戦闘的労働者に物的支援と精神的支援を与えるために行われたインターナショナル支部の実践的活動は、最も見事な理論が行うことができる以上に、労働者の間に国際的意識を発達させた。支部は、社会哲学について実践的な教育を労働者に提供した。事実、重大なストライキの後では必ずインターナショナルのメンバー数が急増し、国内の結合と同質性の確信が一貫して強められていった。

インターナショナルは社会主義労働運動の偉大な女性教師となり、国際的労働者の世界と共に資本主義の世界と対決した。労働者の世界はプロレタリア階級連帯の結束の中でこれまで以上にしっかりと結合した。最初の二回のインターナショナル大会は、1866年にジェネヴァ・1867年にローザンヌで行われ、比較的穏健な雰囲気を持っていた。これら二回の大会は運動の初めての試験的試みだった。この運動の課題についてはゆっくりとしか明確にならなず、運動は決定的表現を求めていた。しかし、フランス・ベルギー・スイスといった国々での大ストライキ運動は、インターナショナルに前進する強力な推進力を与え、労働者の精神に革命を起こした。1848年から1849年の革命崩壊後に重大な挫折に苦しんでいた民主主義思想がこの時代に力強く復活したことが、この変化に少なからず貢献していた。

1868年のブリュッセル大会は、それ以前の二回の大会とは全く異なる精神に動かされていた。万国の労働者が新しい生活に目覚め、自分達の活動のテーマに絶え間なく確信を持つようになっていった。大多数の承認を得て、この大会は、土地やその他の生産手段を集産化することを宣言した。そして、この問題を徹底的に議論するように諸国の支部に呼びかけ、次の大会では、明確な決議に達することができた。この決議と共に、インターナショナルは率直に社会主義的性格を取るようになり、幸いにもラテン系諸国の労働者が持つ際立ったリバータリアン傾向によって、完全なものとなった。「労働者は精力的な介入によって組織的大量殺人をくい止めることができる唯一の階級なのだから、切迫している戦争の危険に対応するために労働者はゼネストを準備せよ」という決議も、当時インターナショナルが蔓延させていた精神の証明だった。

1869年のバーゼル大会で、労働者大同盟の観念発展が絶頂に達した。大会は、労働者階級の経済的・社会的諸問題の差し迫った課題に専心した。生産手段の集団的所有に関して採用したブリュッセル大会の決議を承認し、労働者組織の問題を未確定のままにした。しかし、バーゼル大会で行われた興味深い論議は明確に示している。インターナショナルの進歩的支部は既にこの問題に注目しており、それ以上に、組織問題について非常にハッキリした結論に至っていたのだ。このことは、労働者階級の労働組合組織の重要性に関する発言の中で、特に明確に示されていた。この問題ついては、ユージーン=ヒンスがベルギー連合の名において大会前に提出した報告書において、全く新しい見解が初めて提示された。この見解は、1830年代のオーエンと英国労働運動が持っていた幾つかの考えに酷似していた。

このことについて正しい評価を行うためには、当時の様々な国家社会主義学派が労働組合を無用なものと考えていたか、良くても下位のものとしてしか見ていなかったことを想い出さねばならない。フランスのブランキストは、労働組合を単なる改良運動だと見ていた。関わりを持ちたくないと考えていたのである。ブランキストの当面の目標が社会主義独裁だったからだ。フェルディナン=ラサールは自分の活動の全てを、労働者を一つの政治政党のために利用することに向け、あらゆる労働組合事業に対して真っ向から反対していた。労働者階級の政治的進化など邪魔だとしか考えていなかったのだ。マルクスと当時のドイツにいたその友人たちが、資本主義社会システムの中で特定の改良を達成するためには労働組合が必要であると認めていたことは真実だが、社会主義への移行を主導するのはプロレタリア独裁にしかできない以上、自分達の役割は、労働組合を消耗させ、資本主義と共に消滅させることだと信じていた。

バーゼル大会で、この考えは初めて徹底的に批判的な検証をされた。ヒンスが大会前に提出したベルギー報告書には、スペイン支部・スイスのジュラ支部・相当数のフランス諸支部の代理人によって様々な見解が表明されている。労働者の労働組合組織は、既存社会内部で存在する権利を持っているだけでなく、来るべき社会主義秩序の社会的細胞であるとまで見なされ、従って、この仕事のために労働者を教育することがインターナショナルの課題だった。このことに従って、大会は次の決議を採択した。

本大会は宣言する。全ての労働者は自身の様々な職種において抵抗組織を確立すべく懸命に努力しなければならない。労働組合が形成されるとすぐに、同じ職種の労組が通知され、全国産業同盟の形成が始まる。こうした同盟は、その産業に関係する全原料を集め、共通に実施すべき施策について助言し、その対策が実行されていることを見、最終的には、現在の賃金システムが自由生産者の連合に置き換わることを見る義務を負わねばならない。本大会は、万国労働組合同盟の手はずを調えるよう総務会に命ずる。

委員会が提案した決議案に賛同しながら、ヒンスは次のように説明している。『地元労働者協会と産業別総同盟という二重の組織形態をとることによって、一方では様々な委員会の政治的管理が、そして他方では、労働者・地方・全国・国際的全体像が示されるであろう。商工業組織の評議会が、現在の政府に置き換わるだろう。そして、労働者の代表は、過去の政府と共に、これを最後に永久に排除されるであろう。

この新しく有益な考えは次の認識から生じた。あらゆる新しい経済形態は、社会有機体の新しい政治形態を伴わねばならず、政治的表現を実現するのはそこでしかない。従って、社会主義も特殊な政治的表現形態を持たねばならず、その中で社会主義は生命力を持つことになろう。そして、この形態は、労働者評議会制になる、と彼等は考えていた。ラテン諸国にいる労働者は、インターナショナルの主たる支持者であり、経済闘争組織と社会主義プロパガンダ集団に基づいてその運動を発展させた。そして、バーゼル決議の精神に則って活動した。

国家・政治工作員・所有階級の擁護者に認識されていたように、彼等は、政治権力を獲得しようと奮闘していたのではない。国家とあらゆる政治権力を転覆しようと奮闘していたのである。彼等は、確かな本能を持って、国家と政治権力は、あらゆる専制政治と搾取の予備的必要条件だと見なしていた。だからこそ、彼等は、ブルジョア階級を模倣しようとせず、政治政党を樹立しようともしなかった。つまり、政治権力の奪取を目標とした専門的政治家という新階級のお膳立てをしなかったのである。社会生活の完全な再構成を達成せねばならないとすれば、財産の独占と共に、権力の独占も破壊せねばならない。これが彼等の理解だった。人間に対する人間の支配が日の目を見たという理解からさらに進んで、彼等は、物事の運営をよく理解しようとした。そして、政治政党の国家政治に対して、彼等は、労働者の経済政策で対抗した。彼等は、社会主義の傾向に基づいて社会を再組織するためには、様々な工業部門・農業生産分野で行われねばならないことを理解した。この理解から、労働者評議会制という思想が生まれたのである。

革命勃発時にロシアの労働者と農民の大多数を奮起させたのは、まさにこの同じ思想だった。この思想は、第一インターナショナルの諸支部ほどもロシアにおいて明確に体系だって考え抜かれていたわけではなかったにも関わらず、である。ツァーリズムの下、ロシアの労働者はこのことに必要な知的準備がなかった。しかし、ボルシェビズムは、この実り多い思想を突然終結させた。なぜなら、独裁体制による専制政治は、評議会制という建設的思想とは両立し得ない矛盾、つまり、生産者自身による社会の社会主義的再建とは両立し得ない矛盾だからである。この二つを組み合わせる試みは、無情な官僚制しか導き得ず、ロシア革命は非常に破滅的なものになっている。評議会制は、全く異なる前提から生じている以上、いかなる独裁にも耐えられないのだ。評議会制においては、下からの意志、精を出して働いている大衆の創造的エネルギーが具現化される。しかし、独裁体制では、上からの不毛な強制だけが生き永らえる。この強制はいかなる創造的活動にも苦しめられることがなく、盲目の服従こそが万人に対する最高次の法だと宣言している。この二つが共存することなどできないのだ。ロシアでは、独裁体制が勝利を得たと示された。従って、ソヴィエト(評議会)はそこには存在しない。残っているのはソヴィエトという名前と、元来の意味の陰惨なカリカチュアだけである。

労働者評議会制は、建設的社会主義が用いた経済手段の大部分を包含している。全ての自然な必需品を満足させるべく、自発的に運営し、生産する。これは、社会主義労働運動から成長した思想の実り多い発展の直接的産物だった。まさにこの思想は、社会主義実現の具体的基盤を提供する努力から出現した。全ての有能な人間が建設的に働くことに、この基盤があると見なされたのだ。だが、独裁はブルジョア社会から継承されたものであり、このフランスのジャコバン主義の伝統的沈殿物は、いわゆるバブーフ主義によってプロレタリア階級運動に持ち込まれ、その後にマルクスとその信奉者たちに継承されたのである。評議会制の思想は、社会主義と密接に結び付いており、社会主義無しには考えられない。しかし、独裁は、社会主義と何ら関係のないものであり、良くても、最も不毛な国家資本主義の荒れ地を導くことしかできないのである。

独裁は、国家権力の決定的形態である。非常事態の国家である。国家という思想の擁護者と同様、独裁の擁護者も、進歩だとされるものや一時的困窮状態を上から民衆に強制せねばならない、という前提から生じている。この前提だけで、独裁は、社会革命に対する最大の障害物となっている。社会革命にふさわしい要素は、民衆の自由な発意と建設的活動である。独裁は有機的発展の否定・下から上への自然な構築の否定である。それは、精を出して働いている人々は被後見人だという宣言であり、ほんの一握りの人々によって大衆の上に課せられた後見制度である。その支持者が最善の意図を持って鼓舞していたとしても、諸現実が持つ鉄の論理が、常に、そうした人々を極度の専制政治陣営に引きずり込んでしまう。ロシアはこのことの非常に教訓的実例である。個人の独裁ではなく一階級の独裁に関係しているのだから、いわゆるプロレタリア階級の独裁は別物だ、という口実に、真摯な批判者は騙されはしない。これは、愚か者を騙すための洗練されたトリックに過ぎない。一階級の独裁といったようなことなど、全くあり得ない。なぜなら、一階級の名において話をする責務を引き受けた特定政党による独裁だけが常に含まれることになるからだ。丁度、ブルジョア階級が民衆の名において専制的行為を正当化しているのと同じなのだ。

労働者評議会制の思想は、国家という思想そのものの現実的転覆だった。従って、あらゆる独裁形態−−独裁は、国家権力の最高発展を常に目論まねばならない−−に対して公然と敵対している。第一インターナショナルにおけるこの思想の先駆者達は、社会的・政治的自由のない経済的平等など考えられない、と認識していた。この理由で、あらゆる政治権力機関の一掃こそが社会革命の第一課題でなければならず、そのことで新しい形態の搾取が生じ得ないようにしなければならない、と断固として確信していた。彼等は次のように信じていた。労働者のインターナショナルは、徐々に、全ての有能な労働者をその陣営に結集させ、適切な時期に所有階級の経済的専制を転覆し、それと共に、資本主義国家のあらゆる政治的強制制度をも転覆し、新しい秩序でそれらを置き換えるよう運命付けられているのだ、と。インターナショナルのリバータリアン派全てがこの確信を持っていた。バクーニンは次の言葉でこのことを表現していた。

インターナショナルの組織は、新しい国家や独裁者を樹立するのではなく、あらゆる個々の支配権を徹底的に破壊する、ということをその目標として持っている以上、国家組織とは全く異なる性質を有していなければならない。国家組織は権威主義で、人工的で、暴力的であり、民衆の自然発達と関心とは縁もゆかりもないばかりか、それと対立している。丁度それと同じ程度まで、インターナショナルは自由で、自然で、あらゆる面でこうした関心と本能とに調和していなければならない。だが、自然な大衆組織とはどのようなものなのだろうか?それは、現実の日常生活に関する様々な職業を基盤とし、様々な種類の仕事・職業に準じた組織・同業団体を基盤とする。インターナショナルが、様々な農業分野を含めたあらゆる産業を代表したとき、その組織、人民大衆の組織は完成するであろう。

この思想の直線上に、ブルジョア議会に敵対する労働会議所の思想がさらに生じた。これは、ベルギーのインターナショナリスト集団が推進した思想だった。こうした労働者会議は、あらゆる商工業の組織労働者を代表しようとした。生産手段を組織労働者が接収する準備を実践的に行うために、社会主義原則に基づいて社会経済と経済組織に関するあらゆる問題に関与しようとした。この精神の中で、生産者の知的訓練を行おうとした。さらに、こうした組織は、労働者の利益に関してブルジョア議会で持ちだされたあらゆる問題について労働者の観点から批判しようとした。ブルジョア社会の政策を労働者の見解と対比しようとしたのだ。マックス=ネットラウは、Der Anarchismus von Proudhon zu Kropotkinという本において、それまでは知られていなかったバクーニンの原稿の一節を人々に知らしめた。この一節はこの問題に対するバクーニンの見解を明確に示している:

労働者自身が自身の職業部門やこうした会議所で行う社会科学に関するこの実践的で生き生きとした研究全ては、合意され熟慮された理論的にも実践的にも証明可能な確信を今後生じさせるだろうし、これまでも生じさせてきた。その確信とは次のものである。本格的で最終的で完全な労働者の解放が可能になるのは、一つの条件においてのみである。資本の収用、つまり原料と、土地を含む全ての労働手段とを、労働者全体が収用するのだ。職業諸部門からなる組織、つまりインターナショナルにおける連合組織、そして、「労働会議所」によるその代表は、大きな学園−−インターナショナルの労働者が理論と実践を結合させながら経済科学を学ぶことができる、そして学ばねばならない場所−−を創り出すだけでなく、それ自体でブルジョア世界に置き換わる新社会秩序の活発な胚芽を生み出す。この組織と代表は、思想を創り出すだけでなく、未来それ自体の諸事実をも創り出すのである。

こうした思想は、当時、ベルギー・オランダ・スイスのジュラ・フランス・スペインで一般的に普及していた。そして、労働者大連盟という社会主義に特異的な社会的特徴を与えていた。欧州での労働者政党の発展と共に、このことはかなりの間ほぼ完全に忘れ去られ、スペインだけが、この国の最近の出来事がハッキリと示しているように、転向者を勝ち取る力を使い切ってはいなかった。ここでは著名な人々しか挙げることができないが、ジェームス=ギョーム・アデマール=シュヴィッツゲーベル・ユージーン=ヴァーリン・ルイス=ピンディ・セザール=ド=ペープ・ユージーン=ヒンス・ヘクトール=デニス・ギョーム=ド=グレーフ(Guillaume De Greef)・ヴィクトール=アーノウルド(Victor Arnould)・R=ファルガ=ベリィセル・G=センティニョン・アンセルモ=ロレンソといった人々がスペインを積極的に支援した。こうした人々は皆インターナショナルで素晴らしい名声を得ていた。インターナショナルの知的発展全ては、その内部にいるリバータリアン分子の熱意に起因しているとされるべきであって、ドイツやスイスの国家社会主義党派からも英国の純粋な労働組合主義からも何の刺激も受けていない。これが事実である。

インターナショナルが、こうした一般路線を追求し、その憲章で示したように、最終的に良くなるようにと(for the best)別な連合の決定権を尊重していた間は、組織労働者に対して圧倒的影響力を行使していた。だが、マルクスとエンゲルスがロンドン総務会で自身の立場を利用し、別な国別諸連合を使って議会行動に全力を傾けるようにさせ始めると、事態は変わってしまった。これは、1871年の不幸なロンドン大会で初めて生じた。この行動は、インターナショナルの精神だけでなく、憲章をもハッキリと違反していた。この行動は、インターナショナルの全リバータリアン分子の団結した抵抗にあっただけだった。以前にはこの問題が大会の考慮事項として持ちだされることはそれまで一度もなかったからなおさらであった。

ロンドン大会のすぐ後に、ジュラ連盟は歴史的なソンヴィリエ回状を出版し、ロンドン総務会の傲慢な憶測に対して断固たる明確な言葉で抗議した。だが、1872年のハーグ大会で、最も汚く最も非難されるべき方法を使って人為的に大多数が創り出され、インターナショナルを選挙機構へ変換するというロンドン大会が始めた仕事に栄誉を与えた。誤解を取り除くために、ブランキ主義者のエドワール=バイヤンは、労働者階級による政治権力の略取を擁護した総務会の決議案に賛成する際に、「この決議案が大会で採択され、インターナショナルの聖典に組み込まれたなら、すぐさまそれに従うのが全メンバーの義務となり、違反した者は追放される」と説明した。マルクスとその支持者たちこそが、インターナショナルのあからさまな分裂を直接引き起こし、労働運動の発展に破滅的な結果をもたらし、議会政治の時代を開始したのだ。その自然な帰結が、現在大部分の国々で見られる社会主義運動の知的停滞と道徳的堕落を導いたのである。

ハーグ大会の後すぐに、インターナショナルに加盟している最も重要な精力的な諸連合の代理人が、サンチミエで反権威主義者大会を開き、ハーグで採用された決議は全て無効だと宣言した。それ以来、社会主義陣営は革命的直接行動の支持者と議会政治のスポークスマンとに分裂し、時間の経過と共に、この分裂は絶え間なく大きくなりもっと架け橋不可能になっていった。マルクスとバクーニンは、単に、社会主義の根本的諸原則に関する二つの異なる考えの間で行われた闘争において、敵対する両派の最も突出した代表者に過ぎなかった。だが、この闘争を単に二人の人格の不一致として説明しようとするなど、大きな間違いである。これは、二つの思想の対立だったのであり、この対立がこの闘争に真の重要性を与え、現在も与え続けている。マルクスとエンゲルスが意見の対立に対してこうした悪意に満ちた個人的特徴を与えたことは最悪だった。インターナショナルは、あらゆる党派に開かれていた。そして、異なる観点を解明するのは継続的な議論だけだった。だが、全ての思想学派を一つの特定の学派に−−もっと言えば、インターナショナルの一つの少数派に過ぎない学派に−−服従させようとすることは、労働者大同盟を分裂させ、没落させることにしかならず、全ての大地で労働運動にこれほどまで大きな重要性を持つ前途有望な萌芽を破壊することにしかならないのである。

フランス対プロシアの戦争は、社会主義運動の焦点をドイツに移した。ドイツの労働者は革命的伝統も持たず、西の諸国の社会主義者が持っていた豊富な経験もなかった。この戦争が社会主義の没落に大きく貢献したのである。パリコミューンの敗北とフランスの反動の始まりは、数年の内にスペインとイタリアにも広がり、労働者評議会制という実り豊かな考えを背景に押しやった。こうした国々のインターナショナル支部は、長い間、地下組織としてしか存在できず、その強さ全てを反動に抵抗することに集中させなければならなかった。フランスでの革命的サンジカリズムの勃興だけが、忘却状態から第一インターナショナルの創造的思想を救い、もう一度、社会主義労働運動に生命を与えたのである。

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