ルドルフ=ロッカー


アナルコサンジカリズム

目次

アナキズム:その目標と目的

プロレタリア階級と近代労働運動の始まり

サンジカリズムの先駆け

アナルコサンジカリズムの課題

アナルコサンジカリズムの諸方法

アナルコサンジカリズムの進化


この著作は、元々、1938年に Martin Secker and Warburg Ltd から出版された。現在は、AK Press(2004)から出版されている。本テキストの原文(英文)はhttp://www.spunk.org/library/writers/rocker/sp001495/rocker_as2.htmlで読むことができる。また、この翻訳は「労働者の連帯」(Laborista Solidareco)紙において連載される。

第二章 プロレタリア階級と近代労働運動の始まり

機械生産と近代資本主義の時代;プロレタリア階級の勃興;最初の労働組合とその生存闘争;ラダイト主義;純粋で単純な労働組合主義;政治的急進主義と労働者;人民憲章(チャーティスト)運動;社会主義と労働運動

近代社会主義は、当初、社会生活の相互関連をより深く理解することだけにとどまっていた。現在の社会秩序に内在する矛盾を解消し、人間とその社会環境との関係に新しい内容を与えようという試みであった。従って、その影響力は、当分の間、知識人の小さなサークルに限られていた。知識人の大部分は特権階級出身であった。大衆の知的・物質的必要性に対する深い高貴な同情心に刺激され、こうした知識人たちは、人類の将来の発展に対する新しい見解を切り開くべく、社会的対立の迷宮から抜け出る道を探っていたのだった。彼等にとって、社会主義は文化的問題だった。従って、彼等は、この新しい見識を受け入れてくれることを望みながら、主として自分達の同時代人の理性と倫理的感覚に直接訴えかけたのであった。

だが、思想は運動を作り出しはしない。思想それ自体は、単に、具体的情況の産物であり、特定生活条件に関する観念の沈殿物である。運動は社会生活の即時的・実際的必要からのみ生じるのであり、純粋に抽象的な考えの産物などでは決してない。しかし、運動がその圧倒的な力を獲得し、勝利を内部で確信するのは、ただただ、運動に生命と知的内容を与える偉大な思想によって活性化されたときのみなのである。このように見なして初めて、社会主義に対する労働運動の関係を正しく理解し、知的に評価できるようになる。社会主義は近代労働運動の創造者ではない。むしろ、労働運動から生じたのである。この運動は、現代資本主義社会を生み出した社会改造の論理的帰結として発展した。その当面の目的は、日々の糧を求めた闘争であり、労働者にとって絶えずますます破滅的になっていく時代の流れに意識的に抵抗することであった。

産業大革命のおかげで近代労働運動は存在するようになった。産業革命は18世紀の後半に英国で始まり、それ以来五大陸全土に広がった。いわゆる「製造」システムは、早い時期に、ある程度まで労働分業−−ただし、この分業は、実際の技術的プロセスではなく、人的労働をどのように利用するのかに関わっていた−−の道を開いたが、それ以来、様々な卓越した諸発明がなされ、仕事道具全てを完全に変革した。機械が個人の道具を凌駕し、生産プロセス全般を全く新しい形態にした。機械織機の発明は英国における最も重要な産業だった織物産業全てを激変させ、全く新しい毛糸と綿布の加工・染色方法をもたらした。

ジェームズ=ワットの画期的な発明のおかげで蒸気動力が利用できるようになった。この動力は、機械生産を風力・水力・馬力という昔ながらの原動力への依存から解放し、初めて近代大量生産にふさわしい方法が始まった。蒸気を利用することで、別個の働きをする様々な機械の操作が同じ部屋の中でできるようになった。その結果、近代工場が出現し、それは、数十年の内に、小規模な仕事場を奈落の底の瀬戸際まで追いやったのだった。これは織物産業において最初に生じた。その他の生産部門も程なく後に続いた。蒸気力の利用と鋳鋼の発明は短期間に製鉄業と石炭産業を完全に激変させ、その影響力を他の仕事の流れにも急速に拡大した。近代的大工場の発達により、結果として、産業都市群の驚くべき成長がもたらされたのである。バーミンガムの住民は、1801年には7万3千人であったが、1844年には20万人になった。同じ期間、シェフィールドは4万6千人から11万人に増加していた。他の新興大産業中心地も同様の割合で増加していた。

工場は人間という餌食を必要としていた。貧困化した田舎住民が増加し、都市へ流入することによってこの要求は満たされた。議会も手助けした。悪名高き「囲い込み法(Enclosure Act)」は、小規模農家から共有地を強奪し、農民を物乞いにした。共有地の組織的強奪は、既にアン王女の統治下(1702年〜1714年)で始まっており、1844年までに、イングランドとウェールズの耕作可能地の三分の一以上は奪い取られた。1786年には未だ25万人の独立地主が存在していたが、その後たった30年の内にその数は3万2千人にまで減っていた。

新しい機械生産は、いわゆる国富を想像もつかないほどの規模にまで増大させた。しかし、この富は少数の特権者の手にあり、その特権の源は無制限の労働者搾取にあった。労働者は、経済的生活諸条件の急速な変化のために、最も酷い窮状に追い込まれた。マルクスが「資本論」の中で非常に効果的に利用していた英国工場監視員の報告に記されているような当時の労働者の情況に関する陰鬱な記述・フリードリッヒ=エンゲルスの処女作「イギリス労働者階級の状態」に大きな影響を与えていたウージェーヌ=ビュレット(Eugene Buret)の「英国とフランスの労働者階級の貧窮(De la Misere des Classes Labeurieuses en Angleterre et France)」のような本・現代の英国人作家による数々の著作、こうした著作を読めば当時の光景が分かり、心が揺すぶられるであろう。

アーサー=ヤングが、大革命勃発直前の有名なフランス紀行文の中で、田舎にいるフランス人たちが、その恐ろしいほどの貧困の故に、あらゆる人間性の痕跡をも失い、殆ど獣ののような水準に耐えていたと断言できたとすれば、近代資本主義の初期に勃興した大多数の産業プロレタリア階級の知的・物質的情況にも全く同じことを当てはめることができよう。

莫大な数の労働者は、窓ガラスさえない悲惨な薄汚い穴の中に住んでいた。彼等は、一日14時間から15時間、衛生設備も、生活保護や収容者の健康に対する配慮もない生産現場の搾取工場で働いていた。それは賃金のためだった。だが、その賃金は最も不可欠な必需品さえも満足させられない程度のものだった。週の終わりに、自分が暮らしている地獄を忘れるだけの金が労働者に残っていたとすれば、労働者は数時間不味い酒を飲んでいたのであった。これが労働者ができる最大のことだったのである。こうした情況は確実に、売春・酩酊・犯罪の莫大な増加を引き起こした。誰も気の毒には思わない程の大衆の精神的退廃と道徳的堕落について読めば、人間の徹底的な悲惨というものを悟ることが出来よう。

工場奴隷の惨めな情況は、いわゆる現物給与制によって更に抑圧的になった。労働者は、自分が生産した物などの日常必需品を工場主が所有する店で無理矢理買わされた。そこで渡される商品は、多くの場合、高値で、使い物にならなかった。自分が苦労してやっと手に入れた賃金は殆ど手元に残らないため、労働者は、工場主から受け取った商品を使って医者や薬などの予期せぬ出費に対する支払いをしなければならないほどであった。もちろん、こうした場合、その商品は購入したときよりも安値で交換された。近代の著述家たちは、このようにして、母親が子供の葬式を行うためには、葬儀屋と墓堀人にどれほど支払わねばならなかったのかを教えてくれる。

こうした人間労働力の無制限な搾取は、成人男女に限られてはいなかった。新しい仕事方法のおかげで、幾つかの手の動きだけで機械を操作できるようになり、覚えるのにも大した難しさはなくなった。このことがプロレタリア階級の子供たちを破壊した。3歳〜4歳の子供たちが就業させられ、経営者が所有する産業的幽閉状態の中で青年時代をダラダラと過ごさねばならなくなった。当初はいかなる法的制限も課せられておらず、児童労働の話は資本主義の歴史の中で最も陰惨な章の一つである。これは、キリスト教徒による経営が、倫理的配慮に悩まされず、大衆を無制限に搾取することに漫然と順応し、どれほど無情なまでに進展するのかを示している。不健全な工場条件下での長時間労働は、最終的に、児童の死亡率を引き上げた。それは、リチャード=カーライルをして、全く正しくも『ベツレヘムにおける幼児虐殺の残酷な繰り返し』と述べさせた程であった。その時になって初めて、議会は法律を制定した。しかし、工場経営者は、長い間、この法律を巧みに潜り抜けたり、単に違反したりしたのだった。

国家は、経営者の搾取欲に重荷となる制限を加えないように最大限の支援をした。国家が安価な労働力を提供していたのである。例えば、この目的のために、1834年の悪名高き「貧困法」が考案された。英国労働者階級だけでなく、胸中に幾ばくかでも心が残っていたあらゆる人がこの法律に激怒した。エリザベス女王下で1601年に創案された元々の貧困法は、英国修道院を弾圧した帰結だった。修道院は、常に、その収入の三分の一を貧困者の生活を維持するために使っていた。しかし、貴族地主たちが修道院の所有物の大部分を手に入れると、彼等は収入の三分の一を慈善の施しに使い続けようとは思わなかった。その結果、貧困者を世話し、その存在が危機に瀕している人々に某かの人間的生存手段を見つける義務がある、という法律が教区民に押しつけられたのである。この法律は、貧困を人間には責任のない個人的不運だと見なしていた。自分自身の過ちではないのに、自分が貧困に(need)陥り、自活できない状態になったときに、社会に支援を求める権利が人には認められていた。この自然な配慮がこの法律に社会的性格を与えていた。

しかし、新しい法律は貧困に犯罪の烙印を押し、個人的不運を、真偽が疑わしいにも関わらず、怠惰のせいだとした。この新しい法律は、マルサス主義の学説の決定的影響下に成立した。マルサス主義による人間嫌いの教えを所有階級は新しい啓示だと歓迎した。マルサスの人口問題に関する有名な著作はゴドウィンの「政治的正義」に対する返答だと思われる。マルサスは、貧困者が招かれざる客として社会に無理矢理入り込んでおり、従って、特別な権利を主張することや、他の人に同情してもらうことなどできはしない、と無遠慮に宣言した。そうした見解は、もちろん、産業有力者の儲けの種であり、限りない搾取欲を支える道徳的支柱となった。

この新しい法律は、教区の当局者の手から貧困者の生活維持対策を取り上げ、国家に任命された中央機関の下に置いた。金銭や設備による物質的支援の殆どが放棄され、貧救院に置き換えられた。それは悪名高く憎まれていた機関であり、庶民の会話の中では「貧困法のバスチーユ」と呼ばれていた。運命に見込まれて貧救院に無理矢理庇護された人は、人間としての状態を放棄させられた。貧救院は全くの刑務所だった。個人的不運のためにその人は罰せられ、屈辱を与えられた。貧救院では、鉄の規律が蔓延し、いかなる反対も厳罰に処せられた。誰もが行わねばならない一定の仕事を持っていた。それを行うことの出来ない人は、罰として食べ物を与えられなかった。食事は本物の刑務所以上に粗悪で不充分、処遇は残酷で獣的であり、子供たちは自殺に追いやられることが多かった。家族はバラバラにされ、決められた時間に役人の監視下でしかお互いに会うことを許されなかった。この恐怖の場所に住むことを耐え難いものにするべく、あらゆる努力が行われていた。極度の貧困状態だけが、この場所を最後の避難場所だと思わせることができた。これこそが新しい貧困法の真の目的だった。機械生産のおかげで、何千という人々が過去の生活手段を失った−−織物産業だけでも、近代大規模工場のために8万人以上の手織工が物乞いになった。この新しい法律は、安価な労働力が経営者の言うがままになるように取り計らい、それと共に一貫して無理矢理賃金を下げ続けることができるようにしたのである。

こうした悲惨な条件の下で、歴史に先例を見なかった新しい社会階級が誕生した。近代産業プロレタリア階級である。それまでの小規模職人は、主として地元地域の需要に応えて仕事をし、比較的満足できる生活条件を享受していた。外部からの大きなショックによって困惑させられることなど滅多になかったのである。職人は徒弟として奉公し、一人前の職人となり、その後に名人となることも多かった。自分の職業で必要な道具は、機械の時代とは異なり、所有している資本の多さとは無関係に獲得できた。その仕事は人間として恥じないものであり、自然の多様性−−創造的活動を刺激し、人に内的満足感を保証する−−をなおも提供していた。

小規模家内工業に従事する人々でさえ、資本主義時代の始まりには既に諸都市の金持ち支配者に製品の大部分を売却していたものの、現代的意味でのプロレタリア階級からはほど遠かった。産業、特に織物産業はその中心地を農山村部に持っていたが故に、大部分の場合、小規模職人は自分が自由に出来るほんの僅かな土地を持っており、その土地を維持するのは簡単だった。機械による支配以前には、新興の資本主義も手工業段階と未だ結びついていたため、資本主義が拡大する可能性は当座のところ限定されていた。工業製品に対する需要は、原則的に、供給よりも大きかったため、労働者は重大な経済危機から保護されていたのであった。

だが、近代的機械生産がその役目を果たし始めてからほんの数年で、あらゆることが変化した。近代機械生産は、生産に先立って、大量需要に依存する。その結果、外国市場の征服に依存することになる。新しい技術革新一つ一つが、永続的に規模を大きくしながら、生産能力を引き上げ、産業資本を疑いもなく資本主義の主人にし、商業と金融を支配させた。様々な理論家が自由競争を鉄の経済法則だと見なし、産業生産の計画的管理など論外だとされた。そのために、遅かれ早かれ、様々な原因によって、産業製品の供給が需要を凌ぐ時が必然的にやってきた。このことは、突然の生産停止、いわゆる恐慌をもたらした。これは諸都市のプロレタリア階級にとって破滅的だった。恐慌のために、労働者は何も行うことがなくなり、結果として生活手段が剥奪されるからだ。これこそが、近代資本主義の本物の性質を非常によく示している、いわゆる「過剰生産」という現象なのだ−−工場と倉庫が商品で一杯になっている一方で、実際の生産者は熾烈な悲惨の中で苦しい生活を送っているという状態なのである。人間など無で、生命のない所有物が全て、という恐怖のシステムを最も分かりやすく暴露しているのが、これである。

発展中だったプロレタリア階級はこのシステムの経済変動をもろに浴びた。プロレタリア階級の成員は、自分の手による労働以外に何も売却できなかったからだ。職工長と一般職人の間に存在していた自然な人間的繋がりは、近代プロレタリア階級には何の意味もなかった。プロレタリアは、自分が社会的関係を一度も持ったことのない階級の搾取対象でしかなかった。工場所有者にとって、その人はもはや人間などではなく、単に「手」の存在でしかなかった。プロレタリアは、あらゆる社会的立場を失った後に、当時の産業大革命によって諸都市で大量に掃除されたゴミだった、とも言えよう。社会的な根を絶たれ、人は、同じ運命に見込まれた莫大な数の打ち砕かれた存在の一欠片に過ぎなくなった。近代プロレタリア階級は、鋼鉄の機械を動かすための肉体と血液を持つ機械、機械人間だった。他者のために富を創り出しながら、この富を実際に生産した人々は悲惨の中で死なねばなかったのである。

そして、産業の大中心地で不運な仲間たちと密集して住むことは、その人の物質的存在に特殊な特徴を与えただけでなく、その思考と感情に、元々は知らなかった新しい概念を次第に創り出していった。ガンガン音が鳴る機械と悪臭を放つ煙突という新しい世界に移植されて、人は当初自分自身を、巨大なメカニズムの単なる車輪か歯車の歯だと感じた。そのメカニズムに対して個人としての自分は無力だと感じた。この状態からいつの日にか逃げだそうなどと望む勇気さえなかった。なぜなら、自分の労働を売ること以外に生きていくすべを持っていない典型的無産者にとって、あらゆる逃げ道は塞がれていたからだ。その人だけではない。その子孫も同じ悲運を辿る運命にあった。自分を身勝手な利権の非情な道具として扱う莫大な権力と比べて、あらゆる社会的繋がりを失ったその人は個人的に単なる無でしかなかった。今一度、某かのものになるためには、自分の運命を幾ばくかでも改善するためには、その人は自分と同じ類の人々と共に行動しなければならず、自分を襲った運命を停止させねばならなかった。どん底に沈みたくなければ、遅かれ早かれそうした考えがその人を支配するはずであった。これが最初のプロレタリア階級同盟を、全体としての近代労働運動を導いたのである。

無産大衆のこの運動に生命を吹き込んだのは「扇動家」だ、と心の狭い反動家と強欲な経営者は当時そのように主張しようとしていたし、現在でさえも未だそのように主張している。しかし、それは違う。この運動に生命を与え、それと共に運動のスポークスマンに生命を与えたのは、社会的諸条件だった。自分達の生活を守り、無理矢理にでも、もっと人間的な生活環境を手に入れるために労働者が手に出来る唯一の手段、それが労働者の結合だった。組織的賃金労働者の諸団体による最初の提議は、18世紀前半にまで遡ることが出来る。しかし、それは資本主義システムの中でも最も酷い弊害を廃絶すること、そして、既存生活諸条件のいくつかを改善することに留まっていた。

1350年以来、英国には、見習い制度・賃金・労働時間を国家が規定するということに基づいた法律が存在していた。昔の工芸会社の同盟は、商品生産と商品処理権とに関連する諸問題だけに関わっていた。しかし、初期資本主義と「製造業」が広がり、賃金が次第に下落し始めるにつれ、最初の労働組合組織がこの傾向と闘うべく、賃労働者からなる新しい階級の中で発達した。だが、組織労働者のこうした努力は、即座に、経営者の一致団結した抵抗に出会った。経営者たちは、昔の法律を維持し、労働者の「非合法」組織を弾圧するよう嘆願書を持って政府に殺到した。そして、議会は直ちにこの要求に応えた。1799年〜1800年のいわゆる「団結禁止法」を可決し、賃上げや労働条件改善を求めたあらゆる団結を禁止し、違反行為に対しては厳しい罰則を課したのである。

労働者は産業資本による搾取に無条件に引き渡されたのだ。労働者は二者択一に直面した。法律に服従して、そのことが引き起こすあらゆる結果を無抵抗に受け入れるか、さもなくば、全くの奴隷状態に自分達を追いやった法律を破るかのどちらかである。勇敢な労働者たちにとって、そうした選択に直面しても、どちらの決定をするかはさほど難しくなかった。どのみちこれ以上失うものなどなかったのだから。彼等は、人間の尊厳をなぶりものにする法律を拒否し、あらゆる手段を使ってその条項の裏をかこうとした。労働組合組織は、当初は、純粋に地元地域型の性格を持ち、特定産業に限定されていたが、その法的存在権が剥奪されると、いわゆる共済組合やそれに類する無害な団体として全国に突如現れた。その唯一の目的はプロレタリア階級の実際の闘争組織から注目を逸らすことであった。

こうした公然組織の内的核は、労働者の中でも戦闘的な分子からなる秘密の共謀同胞団であった。それは、決然とした労働者のグループであり、規模は小さいことも大きいこともあった。彼等は、心の底から秘密を厳守し、相互扶助を誓うことで結びついていた。英国北部の産業地区、特にスコットランドにおいて、数多くのこうした秘密組織が存在し、雇用主と闘い続け、労働者の抵抗を鼓舞していた。こうした闘争の大部分は極度に暴力的な特徴を持っていたが、それは問題の性質のためである。労働者の悲惨な情況を考えれば理解しやすいだろう。経済的諸条件は破滅的に発展し、プロレタリア階級の生活標準を改善しようという最も穏健な企図でさえも、情け容赦なく起訴された。法律の文言を一字一句違反しただけで、恐ろしい罰が与えられた。1824年に労働組合組織が法的に認められた後であっても、長いこと起訴が途絶えることはなかった。良心を持たない判事は、雇用主の階級利益を影に日向に擁護し、反抗的労働者たちに数百年間の懲役刑を課した。何とか我慢できるだけの諸条件を勝ち取るまでに、非常に長い時間が経過したのだった。

1812年、労働者秘密組織はグラスゴーで織物工のゼネストを引き起こした。その後の数年間、北部イングランド全体がストライキと労働者の騒乱に何度も何度も揺るがされた。これは、最終的に、1818年のランカスターシャーにおける紡績工と織物工の大ストライキで最高潮に達した。この大ストライキでは、労働者は、賃金引き上げという通常の要求に加えて、工場法の改革と、女性・子供の労働に対する人道的規定とを求めた。同じ年には、スコットランドの炭鉱労働者による大ストライキも行われた。このストライキは炭鉱労働者の秘密組織が仕組んだものであった。同様に、スコットランドの繊維産業の大部分は、労働停止のために周期的に活動不能になった。ストライキは、放火・器物破損・治安紊乱を伴うことも多く、そのために、政府は何度も産業地区に民兵を投じなければならなかった。

その後あらゆる国でそうなったように、当時の英国でも、労働者の憤りは機械の導入に向けられた。機械の社会的重要性について労働者は未だ認識しておらず、機械は自分達の貧困の直接原因だった。1769年には、機械を保護するために特別な法律が制定された。だが、その後、蒸気動力の応用が機械生産、特に織物産業における生産を急速に前進させ始めると、自分の手を使って仕事をしていた数千人もの人々が生存手段を剥奪され、最悪の悲惨に陥り、機械の破壊は日常的に起こるようになった。いわゆるラダイト主義の時代だった。1811年、ノッティンガムでは、200以上の機械織機が破壊された。アーノルドでは、靴下織りの機械が導入され、数百人の靴下織工が路上に放り出されたが、労働者は工場を強襲し、1機あたり40ポンドの投資に相当していた60機の新しい機械を破壊したのだった。同様の行動があらゆる場所で繰り返されたのである。

プロレタリア階級の人々の窮乏が安定して増加する限り、そして、経営者と政府がその情況を理解せず、同情もしない限り、法律にとって都合良かったのだ!「ラダイト王」原註1 )は、あらゆる場所の産業領域に忠実に登場した。最も残酷な法律でさえもその破壊活動を止めさせることが出来なかった。「Stop him who dares; stop him who can!」これが労働者秘密組織のモットーであった。機械の破壊が終わったのは、労働者の間に物事に関する新しい理解の仕方が生まれたときであった。労働者は、このような手段では技術の進歩を止めることは出来ないと理解したのである。

1812年、議会は、機械の破壊に対して死刑を課す法律を制定した。バイロン卿が有名な政府告発状を発表したのは、正にこのときであった。「この残虐な法律を実行するのであれば、議会は規定せよ、陪審員は常に12人の屠殺者でなければならない、と」、彼は皮肉を込めてこのように要求したのであった(原註2)。

当局者たちは地下運動の指導者の首に4万ポンドを懸賞金を付けた。1813年1月、18人の労働者がラダイト主義の罪で有罪判決を言い渡され、ヨーク州で絞首刑にされた。オーストラリアの流刑地に追放された組織労働者の数は恐ろしい率で増加した。だが、運動それ自体はさらに急速に成長し、特に、ナポレオン戦争終結後に大きな財界危機(business crisis)が生じたときに成長した。解雇された兵士と水兵とが失業者の軍勢に加わったのである。この情況をさらに切迫させたのが、穀物収穫量の減少と1815年の悪名高き穀物法であった。パンの価格が人工的に引き上げられたのである。

だが、近代労働運動の最初の段階は、大部分が暴力的だったにも関わらず、未だ真の意味での革命的段階ではなかった。このために、経済的・社会的プロセスを引き起こす実際の原因を適切に理解していなかったのである。この理解は社会主義だけが与えうるものであった。暴力的方法は、単に、労働者自身に与えられた残忍な暴力の帰結でしかなかった。しかし、この若い運動が使用した方法は資本主義システムそれ自体に向けられたものなどではなく、単に、その最も有害な突出物を廃絶すること、そして、プロレタリア階級に適切な人間的生活水準を確立することに向けられていただけだった。「公正な労働に対する公正な日当」が、最初の労働組合のスローガンであった。穏健で確かに全く正当な労働者の要求に対し、雇用者が極度の蛮行を持って抵抗したとき、労働者は既存条件下で自分達が使用できるあらゆる手段に訴えねばならなかったのである。

この運動の大きな歴史的意義は、その現実の社会目標にではなく、まず第一にそれが単に存在した、ということにある。経済的諸条件の圧力のために大産業中心地に追い込まれ、伝統を根こそぎにされた大衆に、この運動は再度足がかりを与えたのである。大衆の社会的感覚を復活させたのである。搾取者に対する階級闘争は、労働者の連帯を目覚めさせ、労働者の生活に新しい意味を与えた。無制限の搾取経済の被害者に新しい希望を吹き込んだ。自分達の生活を守り、侵害された人間的尊厳を守る可能性を持っている方向を労働者に示した。労働者の自信を強め、再度、未来に確信を持てるようにした。自己鍛錬と組織的抵抗の中で労働者を訓練し、当時の生活における社会的要因としての自分の強さ・自分の重要性の意識を労働者に発達させた。この運動の偉大な道徳的事業がこれであった。情況の必要性がこの運動を生んだのだ。社会諸問題に対して無感覚で、仲間の苦境に同情しない人々を軽視できるのは、労働者だけなのだ。

そして1824年、労働者の団結を禁止する法律が廃止され、政府と洞察を持った中産階級の人々がようやく、最も厳しい迫害さえもこの運動を破壊することはできないと確信したとき、労働組合組織は予想外のスピードで全国に広がった。初期には局所的だったグループが結合してさらに大きな組合になり、その結果、運動に本物の重要性を与えた。政府は反動的に転換したが、もはやこの発展を抑えることはできなかった。労働組合信奉者の犠牲者数を増やしただけで、運動それ自体を阻止することはできなかったのである。

長いフランス戦争の後に、英国で新しい政治的急進主義が増加した。これは、当然の如く、英国労働者階級にも強い影響を与えた。バーデット・ヘンリー=ハント・メジャー=カートライト・とりわけウィリアム=コベットとその新聞「ポリティカル=レジスター」紙は、値段が2ペンスに落とされると、6万の発行部数を達成し、この新しい改良運動の知的先端を担った。この新聞は、穀物法・1799年〜1800年の団結禁止法・とりわけ、腐敗した選挙システムを主として攻撃した。この選挙システムは中産階級の大部分さえにも選挙権を与えていなかったのである。国中いたるところで、特に北部の産業地域で、大規模な大衆会議が民衆を動かした。しかし、カースルレー政権下の反動政府はいかなる改良にも反対し、最初から改良プロセスを武力で潰すことに決めていた。1819年8月、政府に対して集団陳情を行うべく6万もの人々がマンチェスター州ピーターズフィールドに殺到したとき、この集会は民兵によって蹴散らされ、400人が負傷したり殺されたりした。

「ピータールー」の虐殺を扇動した人々に対して国中で激しい感情の爆発が起こったが、それに対して政府は悪名高き六つの言論統制法で応じた。この法律では、集会の権利・報道の自由を実質的に一時停止し、改良主義者は最も過酷な迫害を受けるとされていた。アーサー=シスルウッドとその仲間達が英国内閣の議員を暗殺しようと計画したといういわゆる「カトー街の陰謀」が、改良運動に対して極めて厳しく対処する好機を政府に与えた。1820年5月1日、シスルウッドと4人の同志は、絞首台で自分達の企図の報いを受けた。「人身保護」法は二年間留保され、英国は市民の諸権利を一つとして尊重しない反動政権に明け渡されてしまった。

運動は一時的に停止した。そして、1830年にフランスで7月革命が起こり、英国改良運動も復活した。だが、このときの運動は全く異なる性格を帯びることとなった。議会の改良を求めた闘争が再燃したのである。1832年に提出された選挙法改正案は、労働者の精力的支持のおかげで勝ち取った勝利だった。だが、ブルジョア階級は自分達の要求の大部分がこの改正案で満たされたと見なし、普通選挙権を目差したさらなる改革の試み全てに反対し、労働者を手ぶらのままで立ち去らせた。それだけではない。新しい議会は、数多くの反動的法律を制定し、その法律のために労働者の団結権は再び深刻に脅かされたのである。こうした新しい法律の中でも輝かしい例が、既に述べた1834年の悪名高き貧困法であった。労働者は、自分達が売り飛ばされ、裏切られたと感じた。そして、この感情が中産階級との完全な決別を導いたのであった。

この時点から新しい改革運動は、発展中の人民憲章運動(チャーティズム)の中に主として現れるようになった。この運動をプチブルジョア階級のかなりの部分が支持していたのは事実だが、プロレタリア階級分子がいたるところで精力的に活動していた。人民憲章運動は、もちろん、その旗に名高い六項目の憲章を銘記していた。この憲章は急進的議会改革を目的としていた。これは同時に労働者の社会的要求全てを盗用したものであり、あらゆる直接攻撃を使って、憲章を現実に変換しようとしていた。従って、人民憲章運動で最も影響力を持った指導者の一人、J=R=スティーヴンスは、マンチェスターでの大集会の前に、次のように宣言したのだった。人民憲章運動は、普通選挙権の導入によって解決する政治的問題などではない。憲章が労働者にとって、良い家庭・豊かな食料・人間的繋がり・短時間の労働を意味している以上、「生計の問題」として見なされねばならない。この理由から、名高い十時間労働法案(Ten-Hour Bill)を求めたプロパガンダがこの運動で非常に重要な役割を演じたのである。

人民憲章運動とともに、英国は革命的期間に突入した。ブルジョア階級と労働者階級双方の幅広いサークルが、内戦は近いと確信した。国の至るところで開催された莫大な規模の集会がこの運動の急速な広がりを証明し、数多くのストライキと都市における絶え間ない動乱がこの運動に恐ろしげな側面を与えた。恐怖に怯えた雇用主たちは、産業中心地において「人々と財産を保護するための」武装同盟を数多く組織した。これが同時に、労働者が武装する始まりとなったのだった。1839年3月にロンドンで行われ、その後、バーミンガムに移った人民憲章会議において、最も上手い演説家の中から15人を国の様々な場所に送り込み、人々に運動の目的を知らせ、人民憲章の請願書に署名を集めることが決議された。その集会には数十万の人々が出席し、人民大衆の中でこの運動がどのような反応を巻き起こしているのかを示していた。

人民憲章運動には、数多くの知的で献身的なスポークスマンがいた(有名な人だけを挙げれば、ウィリアム=ラヴェル・フィアガス=オコーナー・ブランテール=オブライエン・J=R=スティーブンス・ヘンリー=ヒザリントン・ジェームズ=ワトソン・ヘンリー=ヴィンセント・ジョン=テイラー・A=H=ボーモント・アーネスト=ジョーンズがいた)。さらに、相当な発行部数を持つプレスも巧みに操っていた。例えば、「貧者の守護者」「ノーザン=スター」といった新聞が最大の影響力を行使していた。人民憲章運動は、ハッキリ言えば、一定の目的を持った運動だったのではなく、当時の社会不満の受け皿だった。しかし、この運動は、動揺を、特に労働者階級の動揺を確かに引き起こし、労働者階級は遠大な社会的目標を受け入れるようになった。社会主義も人民憲章運動の最中に精力的に前進した。ウィリアム=トンプソンやジョン=グレイの思想、特に、ロバート=オゥエンの思想が、イングランド労働者の中でさらに大きく広まり始めていた。

欧州大陸で最初に産業資本主義が確立したフランス・ベルギー・ライン地方においても、同じ現象が至るところで生じ、必然的に労働運動の最初の段階が生じていた。この運動は、当初は同じ原始的形態で万国に姿を現した。徐々にだが、より良い理解に置き換わり続け、最終的に、社会主義思想が労働運動に浸透し、崇高な諸概念を付与し、新しい社会展望を開いたのである。社会主義と労働運動の同盟は、双方にとって決定的に重要だった。しかし、様々な社会主義学派それぞれにどのような政治思想が影響を与えていたのかが、個々の運動の特徴と、その未来の展望を決定したのである。

社会主義学派の中には、生まれたての労働運動に対して全く無知だったり、全く冷淡だったりし続けたものもあったが、他の学派は、社会主義の実現にとって必要な準備段階だとしてこの運動の真の重要性を実感していた。こうした社会主義者たちは、精一杯働いている大衆に対して、労働者の当面の要求と社会主義の目的とが親密な関係にあることをハッキリ示すために、労働者の日常闘争で活動的役割を果たすこと、これこそが自分達の役割に違いないと理解していた。なぜなら、こうした闘争は、時代の必要性から生じたものであり、賃金奴隷の完全廃絶に向けたプロレタリア階級解放の重要な意義を正しく理解できるようにしてくれるからである。即時的な生活の必要性から生じたにも関わらず、この運動は、今後生じる物事の萌芽を運動内部に実らせ、これらが生活の新しい目標を定めることとなったのであった。新しいものは全て、生き生きした存在の諸現実から生じる。新世界は抽象的思想という真空状態の中から生まれはしない。日々のパンを求めた闘い、辛く、止むことのない闘いの中で生まれるのである。時間が足りず、その時間を気にしながら、生活必需品を確保しなければならない。既存のものに対する絶え間なき戦争の中で、新しいものは自身を形成し、実を結ぶ。この時間の成果(the achievements of the hour)をどのように評価するのか分からない人に、自分自身と自分の仲間にとってのより良い未来を勝ち取ることなどできはしない。

雇用主とその協力者に対する日常闘争から、労働者は次第に闘争の深い意味を学んでいく。当初、労働者は既存社会秩序内部で、生産者の立場を改善するという即時的目的のみを追求する。だが、次第に、悪の根元−−独占経済とそれに政治的・社会的に付随する物−−を暴露するのである。そうした理解に到達するために、日常闘争は最良の理論的議論よりももっと優れた教育的素材なのである。日々のパンを求めたこの永続的闘争以上に、労働者の精神と魂に影響を与え得るものはない。生活必需品を求めた絶え間ない闘争以上に、労働者が社会主義の教えに耳を傾けるようにさせるものはないのだ。

封建制支配の時代、農奴は頻繁に蜂起した。最初は、封建領主からある種の譲歩、つまり、荒涼とした生活基準の改善を奪い取ることを唯一の目的としていた。しかし、この蜂起が大革命への道を用意し、この革命が封建的特権の廃絶を実際にもたらしたのである。同様に、資本主義社会内部にいる莫大な数の労働は、未来の偉大な社会革命の導入部を構成している、と言うことが出来るだろう。この革命で社会主義が生き生きとした現実になるであろう。農民の絶え間ない反乱−−テーヌ(Taine)によれば、1781年からバスチーユ監獄の動乱までに、こうした反乱がフランスのほぼ全土で約500回起こっていたという−−がなければ、農奴と封建制の全システムは悪徳であるという考えが、大衆の頭に浮かぶことなどなかったであろう。

これが、社会主義が近代労働者階級の経済的・社会的闘争を支持する方法なのである。その物質的起源や実際の結果だけを基にして闘争を評価し、もっと深い心理的な重要性を見過ごすことは明らかに間違っている。社会主義の諸教義は個々の思想家の精神の中で生まれたが、労働と資本との日常闘争によって初めて、肉と血を手に入れ、固有の特徴を獲得した。この特徴が、社会主義の諸教義を大衆運動にし、未来に向けた新しい文化的理想を具現化するのである。

原註

1 この言葉の起源は闇に包まれている。ネッド=ラッドという名の織工がその由来だと見なしている者もいるが、これには何の歴史的根拠もない。「ジャック=スィング」や「グレイト=イーノック」について口にしている地方もあるが、これら全ての名前の意味は同じであった。

2 バイロン卿はラダイト主義に強く共感していた。彼の詩の一つで、最初の一節は次のようなものである。

海の向こうの解放された奴等は
(As the Liberty lads o'er the sea)
自由を買った、それも、安価に、血潮と引き換えに
(Bought their freedom, and cheaply, with blood,)
俺達、そう、俺達も
(So we, boys, we)
闘って死ぬか、自由に生きるか、どちらかだ
(Will die fighting, or live free)
ラッド王以外の全ての王をぶっ潰せ!
(And down with all kings but King Ludd!)

第一章に戻る

第三章へ