ルドルフ=ロッカー


アナルコサンジカリズム

目次

アナキズム:その目標と目的

プロレタリア階級と近代労働運動の始まり

サンジカリズムの先駆け

アナルコサンジカリズムの課題

アナルコサンジカリズムの諸方法

アナルコサンジカリズムの進化


この著作は、元々、1938年に Martin Secker and Warburg Ltd から出版された。現在は、AK Press(2004)から出版されている。本テキストの原文(英文)はhttp://www.spunk.org/library/writers/rocker/sp001495/rocker_as1.htmlで読むことができる。また、この翻訳は「労働者の連帯」(Laborista Solidareco)紙において連載される。

第一章 アナキズム:その目標と目的

アナキズムvs経済的独占と国家権力;近代アナキズムの先駆者たち;ウィリアム=ゴドウィンと「政治的正義」に関する著作;P=J=プルードンと政治的・経済的分権化思想;マクス=シュチルナーの著作「唯一者とその所有」;集産主義者でありアナキズム運動の創始者M=バクーニン;無政府共産主義の代表的人物P=クロポトキンと相互扶助哲学;アナキズムと革命;社会主義と自由主義のジンテーゼとしてのアナキズム;アナキズムvs経済的物質主義と独裁;アナキズムと国家;歴史の一傾向としてのアナキズム;自由と文化

アナキズムは、現代生活における一つの明確な知的潮流である。その信奉者は、経済的独占と社会内部におけるあらゆる強制的な政治的・社会的諸制度を廃絶することを主張している。現在の資本主義経済秩序の代わりに、アナキストは、協働労働に基づいた全ての生産諸力の自由連合(その唯一の目的は社会の全成員の必要物資を満足させることとなろう)を手にすることになろう。そして、社会同盟の内部で特権を持った少数派の特別な利権など目にしなくなるであろう。

政治的・官僚主義的諸制度という死んだ機構を持つ現在の国家組織の代わりに、アナキストは自由コミュニティ群の連合を望む。自由コミュニティ群は、その共通の経済的・社会的利益のためにお互いに結合し、相互合意と自由契約によって自分達の事柄を取り決める。

現行社会システムの経済的・社会的発展を深く研究したことがある人ならば、こうした課題は少数の空想的革新者のユートピア思想から生じたのではなく、現代の社会的適応障害を徹底的に吟味した論理帰結である、ということを容易く理解するだろう。既存社会諸条件の一つ一つの新しい段階が、その適応障害自体をもっとはっきりと、さらに不健全に表現している。近代の独占企業・資本主義・全体主義国家は、他の帰結には到達し得ない発展の最終表現にすぎない。

現行経済システムの凄まじい発展は、特権を持った少数者の手に社会的富を莫大に蓄積させ、民衆の大多数を継続的に貧困化させており、現在の政治的・社会的反動の道を用意し、あらゆる点で反動の味方をしている。個人の私的利益のために人間社会の一般的利益を犠牲にし、その結果、人間と人間との関係を組織的に蝕んできた。産業は目的それ自体ではなく、人が最低限の必要物資を確保し、より高い知的文化の恩恵に接することができるようにする手段でなければならない。このことを人々は忘れている。産業が全てであり人間は無価値だという場所で、無情な経済的独裁制の領域が始まる。労働者は政治的独裁制と同じぐらい悲惨になる。経済的独裁制と政治的独裁制は、相互に増強するのであり、同じ源泉によって育まれているのである。

独占企業による経済的独裁制と全体主義国家による政治的独裁制は、同じ政治課題の自然な帰結である。その指導者たちは、社会生活の無限の表現全てを機械が持つ機械的テンポに還元し、あらゆる有機的なものを生命のない政治的装置設備に合わせよう、という前提を持っている。近代社会システムは、万国の社会生命体を、内部では敵対し合う諸階級へと、対外的には共通の文化サークルを、敵対し合う諸民族へと分断してきた。そして、諸階級も諸民族も、お互いにあからさまな敵意を持って対立し合い、その止むことなき戦争が共同体の社会生活を継続的な発作状態に留めている。第一次世界大戦とその恐ろしい後遺症は、それ自体、経済的権力・政治権力を求めた現在の闘争の結果でしかなく、この耐え難い条件が持つ論理的帰結でしかない。この条件は、新しい方向の社会発展をできるだけ早く取らなければ、全世界的大災害を必ずや導くであろう。大部分の国家が今日、年間予算の50%から70%をいわゆる国防費と過去の戦争による負債の補償費として費やさねばならないというこの事実こそが、現状を維持することなどできないことを証明している。国家が個人に与える保護なるものは確かに非常に高い犠牲を伴うものだ、ということを万人にはっきりさせねばならないのだ。

永続的に成長し続ける無情な政治的官僚制権力が、人間の生を揺りかごから墓場まで監視し、保護する。そして、人間の連帯的協働の行く手に大きな障害物を置き、新しい発展の可能性を全て締め出す。生活のあらゆる行為の中で、大部分の民衆、そう、万国の民衆の大部分の福祉を、少数者の利己的な権力欲と経済的利益に捧げているシステム、これは、必ずや、あらゆる社会的繋がりをバラバラにし、万人同士の絶え間ない戦争を導くに違いない。このシステムは巨大な知的反動・社会反動の単なる先導者に過ぎない。今日、この反動は、近代ファシズムにその表現を見い出し、過去数世紀にわたる絶対君主制の権力への執着を遙かに凌ぎ、国家の統制下に人間活動の全領域を置こうとしている。丁度、様々な宗教神学システムにとって、神が全てで人間は無であるように、この近代政治神学にとっては、国家が全てで人間は無なのだ。「神の意志」の背後に特権を持った少数者の意志が常に隠されている。同様に、今日、「国家の意志」の背後には、自分勝手な意味にこの意志を解釈し、民衆にそれを押しつけることが天命だと感じている人々の利己的利益があるだけなのだ。

アナキズム思想は歴史のあらゆる時代に見いだされる。ただ、この分野における歴史的著作には多くの研究が今も必要ではあるが。例えば、中国の賢人、老子(「道徳」)や、その後にはギリシャ哲学者たち、快楽主義・犬儒派・その他いわゆる「自然権」の提唱者たち、特に、プラトンの対極にいてストア学派を作ったゼノンがいる。アレクサンドリアにおけるグノーシス主義のカルポクラテスの教えにもアナキズム思想の表現が見られ、フランス・ドイツ・オランダの中世時代には、ある種のキリスト教宗派に紛れもない影響力を持っていた。こうした宗派の殆どは最も野蛮な迫害の餌食になったのだった。ボヘミア宗教改革史においては、ペトル=ヘルチツキーがアナキズム思想の強力な推進者であり、「信仰の網」という著作の中で、後年トルストイが教会と国家について行ったものと同じ判断を下した。偉大な人道主義者の中には、ラブレーがいた。彼は、幸福な「テレームの僧院」(ガルガンチュア)において、あらゆる権威主義的制限から自由になった人生像を描いている。リバータリアン思想の先駆者は他にもいるが、ここではラ=ボエシー・シルヴァン=マレシャル・特にディドロがそうだと述べておこう。ディドロは多くの著作を書いているが、読者はそこに、あらゆる権威主義的偏見から脱却した真に偉大な精神が持つ言説が密にちりばめられているのが分かるだろう。

一方、もっと最近になって、人生に関するアナキズム的認識に明確な形態が与えられ、当面の社会進化プロセスとその認識が結びつけられるようになった。これを初めて行ったのは、ウィリアム=ゴドウィンによる着想の優れた著書、「政治的正義と、一般的美徳と幸福に及ぼすその影響について」(ロンドン、1793年)だった。ゴドウィンの著作は、英国における政治的・社会的急進主義諸概念の長期にわたる進化の成熟した果実だと言うことができよう。その進化は、ジョージ=ブキャナンからリチャード=フッカー・ジェラルド=ウィンスタンレー・アルジャーノン=シドニー・ジョン=ロック・ロバート=ウォーラス・ジョン=ベラーズへ、そして、ジェレミー=プリーストレイ・リチャード=プライス・トーマス=ペインへと繋がる一連の方向に進んでいく。

ゴドウィンははっきりと認識していた。社会的諸悪の原因は、国家の形態にではなく、正に国家の存在に求められるべきなのだ。国家が本物の社会のカリカチュアでしかないように、国家は、国家の永久保護下にいる人間を、単なる真の自己のカリカチュアに仕立てる。国家は、一貫して、人々に自分の自然な傾向を無理矢理押さえつけさせ、内部衝動と矛盾した物事を保持するようにさせる。このようにして初めて、良き臣民という公認様式の型に人間をはめることが可能になるのである。自分の自然な発達を妨害されていない普通の人間ならば、自発的に、平和と自由を求める己の先天的要求に適合するように環境を創りあげるであろう。

だが、ゴドウィンは同時に次のように認識していた。人間は、適切な経済諸条件があり、個人が他者の搾取対象とならないときに初めて、自然で自由に共生できる。この思慮こそ、政治的急進主義の代表者に過ぎない人々が殆ど完全に見過ごしていたことであり、だからこそ、そうした代表者達は、後に、自分達が最小限に制限したいと思っていた国家権力に対して、常に大きな譲歩をしなければならなかったのである。ゴドウィンの無国家社会という思想の前提は、あらゆる自然な富と社会的富とを社会的に所有すること、そして、生産者が自由に協力することで経済生活を維持することであった。この意味で、彼はまさしく後年の無政府共産主義の創設者だったのだ。

ゴドウィンの著作は、英国の先進的労働者集団と、より啓蒙された自由主義的インテリゲンチャの一部に非常に強力な影響を与えた。最も重要なことだが、彼は英国における青年社会主義運動の出現に貢献したのである。青年社会主義運動の最も成熟した解説者はロバート=オゥエン・ジョン=グレイ・ウィリアム=トンプソンであった。この運動は、ドイツや他の国々では考えられないほど、長期にわたり紛れもないリバータリアン特徴を保持していた。

だが、アナキズム理論の発展にもっと大きな影響を与えたのは、ピエール=ジョセフ=プルードン、知的才能に最も恵まれ、明らかに近代社会主義が誇りにしうる最も多面的な著述家であった。プルードンは、自分の時代の知的・社会的生活に完全に根を下ろし、そのことが、扱った全ての問題に対する彼の態度に影響していた。従って、後年の追従者たちの多くでさえもがそうしていたように、時間の制約の中で生まれた彼の特殊な実践的諸計画によってプルードンを判断してはならないのである。当時の数多くの社会主義思想家の中でも、プルードンは、社会不適応の原因を最も深遠に理解し、さらに、最も広範なヴィジョンを持っていた。彼は、あらゆるシステムに対する辛辣な敵対者であり、社会進化の中に、新しく、より高次の知的・社会的生活諸形態を見、この進化はいかなる抽象的一般公式でも拘束できるものではない、と確信していたのである。

プルードンはジャコバン派の伝統の影響力に敵対していた。フランスの民主主義者と当時の大部分の社会主義者の意見はこの伝統によって支配され、中央集権国家・中央集権経済政策による自然な社会進歩プロセスへの干渉という全く同じ判断を持っていたのである。プルードンにとって、これら二つの癌の成長を社会から排除することは、19世紀の革命が持つ大いなる課題であった。プルードンは共産主義者ではなかった。彼は財産を搾取的特権だと非難していたが、(自由契約でお互いに制限し合った産業諸集団によって効果的にされた)万人による生産手段の所有は認めていた。ただしそれは、この権利が他者を搾取する役目を果たすように作られない限り、そして、自分個人の労働の豊かな産物が万人に対して保証される限りにおいてであった。互助に基づいたこの組織は、平等なサービスと引き替えに、相互に平等な権利の享受を保証する。産物を完成させるのに必要な平均労働時間が、産物の価値の尺度となり、相互交換の基盤となる。このようにして、資本は、その高利貸し的権力を剥奪され、労働業績と完全に結びつく。万人に入手可能なものになることで、資本は搾取の道具となることを止めるのだ。

そうした経済形態は、政治的強制機構を無用にする。社会は、自由コミュニティ群の同盟となり、自分達の事柄を、自力で、もしくは他の人たちと共同で、必要に応じて調整する。その中で、個人の自由は、他者の自由の中に−−その限界にではなく−−その安全と承認を見いだすのである。『個人が社会の中でもっと自由になり、もっと独立して主体性に富めば富むほど、社会にとってより良いのだ。』プルードンが近い将来のことだと考えた連合主義組織は、さらなる発展の可能性に対していかなる明確な制限も設定せず、最大限の個々人の活動と社会的活動を提供する。プルードンは、連合に関するこの観点からスタートし、同時に、当時芽生え始めていたナショナリズムの政治活動への熱望とも戦った。特に、マッツィーニ・ガリバルディ・レレウェルといった強力な擁護者に見られるようなナショナリズムと戦っていた。この点についても、プルードンはその同時代人の大部分よりもハッキリしていた。プルードンは、社会主義の発展に強い影響力を発揮し、特にラテン諸国に社会主義の存在を印象づけた。ジョシュア=ワレン・ステファン=パール=アンドリュース・ウィリアム=B=グリーン・ライサンダー=スプーナー・フランシス=D=タンディ・最も著名なベンジャミン=R=タッカーといった米国にいる有能な解説者に見られる、いわゆる個人的アナキズムも同様の方向に進んだが、その代表者の中でプルードンの見解の深さに近づくことができた者はいなかった。

マクス=シュチルナー(ヨハン=カスパー=シュミット)の著書「唯一者とその所有」はアナキズムのユニークな表現であった。この著作がすぐに世に忘れ去られ、アナキズム運動それ自体に何の影響も与えなかったことは事実である−−50年後に予期せぬ復活を経験したにも関わらず。シュチルナーの著書は、傑出した哲学的著作である。それは、人間が紆余曲折を経ていわゆる高次権力に依存するようになった由来を尋ね、この調査で得た知識から物怖じせずに推論を引き出している。これは意識的で計画的な叛乱の書である。どれほど賞賛されていようとも、あらゆる権威を崇拝せず、従って、自立的思考を強力に駆り立てているのだ。

ミハイル=バクーニンは精力的な革命エネルギーを持つ雄々しいアナキズム戦士であった。バクーニンは、プルードンの教義の上に立ちながらも、その教義を経済的側面に拡張した。第一インターナショナルの集産主義派と共に、彼は、土地とあらゆる生産手段の集団所有を支持し、私有財産権を個々の労働の十全な産物に限定しようとしていた。バクーニンは同時に、共産主義の敵対者だった。当時、共産主義は徹底的な権威主義的特徴を持っていた。それは、今日、ボルシェビズムが再び引き継いでいるものと同じであった。ベルンで行われた「平和と自由の同盟」の会議(1868年)で行った四つのスピーチの一つで、彼は次のように述べていた。『私は共産主義者ではない。共産主義は、社会のあらゆる勢力を国家に統合し、国家に夢中になっているからだ。共産主義は必ずやあらゆる財産を国家の手中に集中させることになるからだ。私は逆に、国家の廃絶を求める−−権威と政府の保護という原理の完全なる撤廃である。人間を道徳的にし、文明化することを口実として、この原理は、今日まで、常に、人間を奴隷にし、抑圧し、搾取し、破滅させてきたのだ。』

バクーニンは断固たる革命家であり、既存の階級闘争が平和的に調整されるなどと信じてはいなかった。支配階級は、最小限の社会改革にさえも盲目的に、強情に敵対する、と彼は信じていた。その結果、既存社会システムが持つあらゆる教会的・政治的・軍事的・官僚的・法律的制度を廃絶し、そのかわり、日常生活の必要物を提供するために自由労働者協会の連合を導入しなければならない、これこそが国際的社会革命における救済だ、と見なしていた。同時代の人々の多くと同様に、バクーニンも革命は目前に迫っていると信じていたため、あらゆる独裁や、過去の諸条件への逆行に対して来るべき革命を守るべく、自分の莫大なエネルギーを「インターナショナル」内外のあらゆる正真正銘の革命的・リバータリアン的要素を連合させることに注いでいた。つまり、彼は、非常に特殊な意味で、近代アナキズム運動の創造者となったのだった。

ピョトール=クロポトキンはアナキズムの重要な擁護者だった。彼は、近代自然科学の業績をアナキズムの社会学的諸概念の発展に利用できるようにするという課題を自分に課していた。その独創的な書物「相互扶助論−−進化の一要素」において、いわゆる「社会的ダーウィニズム」に闘いを挑んだ。「社会的ダーウィニズム」の解説者たちは、生存競争というダーウィン派の理論を使って、弱者に対する強者の闘争を、あらゆる自然プロセスの鉄則(人間さえもをその対象とする)という地位にまで引き上げることで、既存社会諸条件の必然性を証明しようとしていた。現実には、この概念は、生命表は万人に広がってはおらず、不要な者はこの事実にただ甘んじなければならない、というマルサス主義の教義に強く影響されていたのだった。

クロポトキンが示したことは、こうした無制限の戦争領域としての自然概念は現実生活のカリカチュアに過ぎず、自然には、全力で徹底的に戦う獣的な生存競争だけでなく、社会的本能と相互扶助の進化による弱い種族の社会的結合・種族保存に示されるもう一つの原理が存在する、ということであった。

この意味で、人間は社会の創造者ではなく、社会が人間の創造者なのである。なぜなら、人は自分に先んじた社会から社会的本能を受け継いできたからだ。社会的本能だけでも、他種族が持つ身体的優位性に対抗して自分の第一環境内で自己を保存できるようにし、予想外の高い発達を確実にできるようにしてきた。生存競争におけるこの第二の傾向は、第一の傾向よりも遙かに優れている。丁度、社会生活を全く持たず、その身体的長所にのみ依存していた種族が一貫して退化を示しているように。この観点は、今日、自然科学と社会研究において一貫して広く受け入れられており、人間進化に関する思索に全く新しい展望を開いたのだった。

事実はといえば、最悪の専制政治下でさえも、自由合意と連帯的協力とが仲間との関係の大部分を用意するのである。社会生活抜きではそのようなことなど全く不可能であろう。これが真でないとしたら、国家が持つ最強の圧制処置を使ったとしても一日たりとも社会秩序を維持できはしないだろう。しかし、人間の奥底にある性質に由来するこうした自然な行動諸形態は、今日、経済搾取と政府の保護が持つ諸効果に一貫して妨害され、歪められている。これが人間社会における獣的形態の生存競争なのであり、相互扶助と自由協働によって克服されねばならないものなのだ。遙か昔の時代から継承して人間にもたらされた個人的責任の意識やその他の尊い善の意識・あらゆる社会倫理や社会正義思想の起源となっている他者への同情の能力、これらが最もよく発達するのは自由の中でなのだ。

バクーニン同様、クロポトキンも革命家だった。だが、クロポトキンは、エリゼ=ルクリュなどの人々同様、革命を進化プロセスの一特殊段階に過ぎないと見なしていた。新しい社会的熱望はその自然発達の中で権威によって過度に制限されている。従って、それが人間生活の新しい要因として機能できるようになる前に、暴力によって古い殻を粉砕しなければならない。プルードンやバクーニンとは逆に、クロポトキンは、生産手段だけでなく労働の産物に関しても、地域社会所有を擁護していた。現状の技術を持ってすれば個人の労働の価値を正確に計ることなど不可能だが、その一方で、近代の労働方法を理性的に方向付けることによって、確実に万人をかなり充足させることができる、というのが彼の意見であった。無政府共産主義、これはジョセフ=デジャック・エリゼ=ルクリュ・エンリコ=マラテスタ・カルロ=カフィエーロなどが彼以前に既に主張しており、今日大多数のアナキストが擁護しているが、クロポトキンこそがその最も優れた解説者であった。

ここで、レフ=トルストイについても語らねばなるまい。彼は、原始キリスト教を受け継ぎ、福音書に述べられている倫理的諸原理を基盤にして、支配者のいない社会という思想にたどり着いていた。原註1

全てのアナキストに共通していることは、自由な人間性の発達を邪魔するあらゆる政治的・社会的強制機構から社会を自由にするという願望である。この意味で、相互主義・集産主義・共産主義を、それ以上の発展を許さない閉じたシステムだと見なしてはならない。自由な地域社会を保護する手段に関する単なる経済的諸前提だと見なすべきである。未来社会では様々な経済共同形態が平行して機能することもあり得よう。なぜなら、自由コミュニティ群からなる社会においては、あらゆる機会を持つことが可能になるため、社会発展が自由実験と実地試験に結びつくことになるからである。

同じことがアナキズムの様々な方法についても真である。現代アナキストの大部分は、社会の変換は暴力的な革命的動乱なくしてはもたらされ得ない、と確信している。もちろん、こうした動乱が持つ暴力は、支配階級が新しい思想の実現にどの程度敵対できるのか、というその抵抗の強さによって異なる。自由と社会主義の精神で社会を再組織するという思想に影響された諸集団が多くなればなるほど、来るべき社会革命の産みの苦しみは和らぐであろう。

近代アナキズムは、フランス革命中そしてフランス革命以降に欧州の知的生活の中で特徴的な表現を見いだした二つの大きな潮流の合流である。それは社会主義と自由主義である。近代社会主義が発展したのは、社会生活を深く観察した人たちが、政府形態における政治的諸組織と政治的諸変革では「社会問題」と呼ばれる大きな問題の根底には全く手をつけられない、ということを次第にハッキリと目にするようになったときだった。社会主義の支持者は、民衆が財産を所有しているかどうかによって階級に分断されている限り、最も優れた理論的諸前提があっても、人間の社会的平等化は不可能だ、ということを認識していた。階級が存在するというだけのことが、本物のコミュニティという考えを予め排除してしまう。だからこそ、経済独占の撤廃と生産手段の共有によって、つまり、あらゆる経済的諸条件とそれに関連する社会的諸制度の完全な変換−−社会が本物のコミュニティになり、人間の労働が、搾取の手段としてではなく、万人の充足を確実にするために機能する情況−−によって、社会的正義という条件が可能になるという認識が発展したのである。だが、社会主義がその諸力を結集させ始め、運動になると、すぐさま一気に見解の相違が明るみに出始めるようになった。これは、国ごとに異なる社会環境が影響したためであった。神権政治から帝国主義、独裁主義までのあらゆる政治的概念が社会主義運動における諸党派に影響を与えていたことは事実である。一方、社会主義思想の発展に決定的影響を与え続けている政治思想の二大潮流がある。自由主義−−これはアングロサクソン諸国と特にスペインとで先進的精神を強力に鼓舞した−−そして、ルソーが「社会契約論」において後年表現を与えた意味での民主主義−−これはフランスのジャコバン主義に最も有力な代表者がいた−−である。自由主義はその社会理論化において最初は個人から出発し、国家の活動を最小限に制限しようとするが、民主主義はルソーの「一般意志」という抽象的集団概念に立脚し、それを国民国家の中で調整しようとしていた。

自由主義と民主主義は卓越した政治概念だった。しかし、どちらも元々の支持者達の大多数が古い意味での所有権を維持しようとしていたため、経済発展が、民主主義の元々の諸原理を−−ましてや自由主義の元々の諸原理を−−実際には満足させ得ないような方向を取ると、どちらも放棄されねばならなかったのである。民主主義のモットーは「法の下での万人の平等」であり、自由主義のモットーは「我が道を行く権利」(right of man over his own person)である。どちらも、資本主義経済の諸現実の上で難破してしまった。万国にいる何百万もの人々が少数の所有者に対して自分の労働力を売り飛ばさねばならず、買い手を見つけることができなければ最も惨めな貧窮状態に陥らねばならない以上、いわゆる「法の下での平等」など偽善的誤魔化しに過ぎない。法は社会的富を持っている人々が決めるからだ。だが、全く同じ理由で、ひもじい思いをしたくなければ他者の経済的独裁に従わねばならない時に、「我が道を行く権利」など語ることなどできはしないのだ。

アナキズムが自由主義と共通して持っている考えは、個人の幸福と繁栄こそがあらゆる社会的事柄の規準であるべきだ、ということである。そして、自由主義思想の偉大な代表者たちと同様に、政府の機能を最小限に制約するという考えを持っている。アナキズムの支持者はこの考えをその究極の論理帰結に持っていき、社会生活からあらゆる政治権力制度を排除しようとしている。ジェファーソンは自由主義の基本概念に「最良の政府は最小限の統治をする」という言葉を着せたが、アナキストはソローと共に「最良の政府は全く統治しない」と述べるのだ。

社会主義の創始者たちと同様に、アナキストは、あらゆる経済独占の廃絶・土地とあらゆる生産手段の共有・万人による区別のない生産手段の利用を要求する。なぜなら、個人的・社会的自由は、万人の平等な経済的利益を基にして初めて考えることができるからだ。社会主義運動それ自体の中で、アナキストは、資本主義に対する戦争は同時にあらゆる政治権力諸制度に対する戦争でなければならない、という観点を示している。経済搾取は、歴史的に、政治的・社会的抑圧と常に手に手を取って進んできたからである。人間による人間の搾取と、人間に対する人間の支配は不可分のものであり、お互いがお互いの前提となっているのである。

社会内部で、所有する人間集団と所有せざる人間集団が互いに反目している限り、所有する少数者は自分の特権を保護するために国家を必要とする。社会公正に関するこの前提が消滅し、物事のより高い条理−−いかなる特権も認められず、社会的諸利益の共有をその基本的前提として持たねばならない−−に地位を譲ると、人間に対する支配は、経済的・社会的事柄の管理運営にその領域を明け渡さねばならなくなる。サン−シモンの言葉では次のようになる。「人間を統治する技術が消滅する時代がやってくる。新しい技術、つまり物事を管理運営する技術に取って代わられるのだ。」

そして、このことで、マルクスとその追従者達が主張した理論が破棄される。その理論によれば、プロレタリア独裁という形態の国家は無階級社会に至るために必要な移行段階であり、あらゆる階級闘争を除去し、階級それ自体をも廃絶した後に国家は解消し、キャンバス上から消え失せる、という。この考えは、国家が持つ真の性質と、政治権力という要因が持つ歴史上の重要性とを完全に誤解しており、歴史上のあらゆる現象を単にその時代の生産様式の不可避的結果だと見なしている、いわゆる経済的物質主義の論理帰結でしかない。この理論の影響下で、人々は、様々な国家形態とその他全ての社会的諸制度を、社会の「経済組織」の上にある「司法的・政治的上部構造」だと見なすようになり、その理論に全ての歴史的プロセスの鍵を発見したと考えてしまった。現実には、歴史のあらゆる断面を見れば、政治権力を求めた闘争によって一国の経済発展が数世紀にわたり阻害され、無理矢理所定の形態を強いられた、という無数の実例があるのだ。

教会君主制の勃興以前、スペインは産業的に欧州で最も先進的な国であり、殆どあらゆる分野の経済生産において第一位であった。しかし、キリスト教君主制が勝利して一世紀後には、産業の大部分は消滅してしまった。当時残っていたものは、最も惨めな条件で生き延びていただけだった。大部分の産業は、最も原始的な生産方法に戻ってしまっていた。農業は崩壊し、運河と水路は荒廃し、国の広大な一帯は砂漠になってしまった。今日まで、スペインはこの後退から復興していない。政治権力を求めたカーストの情熱は、数世紀にわたり経済発展を休閑状態にしたのであった。

欧州の君主型絶対主義は、所定の生産方法から少しでも逸脱すると過度に罰し、新しい技術革新を許さないバカげた「経済法令」と「産業法」を持っていたため、数世紀にわたって欧州諸国の産業進歩を阻み、その自然な発展を妨げてきた。第一次世界大戦の後に、一貫して世界的経済危機から逃れられないようにし、政治遊びをしている将軍どもと政治ゴロどもに万国の将来を譲り渡した政治権力については考慮しなくても良いのだろうか?近代ファシズムが経済発展の不可避的結果だったと誰が主張するのだろうか?

だが、ロシアにおいては、いわゆる「プロレタリア独裁」は現実となった。政治権力を求めた特定政党の情熱は、経済の真の社会主義的再構築を阻害し、この国を全てを粉砕する(grinding)国家資本主義の奴隷に無理矢理してしまった。純朴な魂からすれば、「プロレタリア独裁」は単に真の社会主義への束の間の−−だが不可避的な−−移行段階だと思いたいのだろうが、今日、それは恐るべき専制政治へと成長し、ファシスト国家の圧制と何ら変わるところがないのだ。

階級闘争とそれに伴う諸階級がなくなるまで国家は存在し続けるはずだという主張は、あらゆる歴史的経験に照らしてみても、殆ど悪い冗談にしか聞こえない。いかなる種類の政治権力であっても、特定形態の人間奴隷を前提としている。政治権力の維持のために奴隷が存在するよう求められるのだ。対外的に、他の国家との関係において、自国の存在を正当化するためにある種の人工的対立を創り出さねばならないように、国家は、その内部でも社会をカースト・階層・階級に分断する。これが国家の維持にとって本質的条件なのである。国家にできることは、過去の特権を保護し、新しい特権を創り出すことだけである。ここに国家のあらゆる意義が使い果たされているのだ。

社会革命によって生み出されたこの新しい国家が、古い支配階級の特権を終わらせるかもしれない。だが、それを行う唯一の方法は、新しい特権階級を即座に設定することなのだ。新しい特権階級が、統治者の支配権を維持するために必要となる。プロレタリア独裁だと主張されている−−プロレタリア階級と全ロシア民衆に対する小規模党派の独裁以外の何者でもないのだが−−ロシアにおけるボルシェビキ官僚制の発展は、単に、昔ながらの歴史的経験の最近の例でしかない。これまで何度も何度も繰り返されてきたことだ。この新しい支配階級は、新しい貴族政治へと急速に成長し、ロシア農民・ロシア労働者の大多数から遠ざかっている。これは、丁度、他の国々で特権的地位・階級がその民衆から離れてしまっているのと同じぐらいハッキリとしている。

反論として、新しいロシアのコミッサール制度(commissar-ocracy)は、資本主義国家の強力な金銭的・産業的寡頭政治と同じ基盤を提供することはあり得ない、と言われるかもしれない。だが、この反論は持ちこたえられないだろう。問題となっているのは特権の大きさとか範囲とかいうことではなく、平均的な人間の日常生活に対する即時の影響である。まずまず中程度の労働条件で働き、人間らしく衣食住を充分得ることができ、何らかの文化的楽しみを享受するだけの残金を手にしている米国労働者が、メロン一族やモーガン一族の所有する数百万ドルの資産について感じていることと、自分の収入では最も緊急の必要物すらも満足させることが難しい人々が、億万長者ではないとしてもちょっとした地位の役人官僚が持つ特権について感じていることとは、比べものにならないのだ。空腹を満たすのに充分なパンを手に入れることができない人々、見知らぬ人とシェアしなければならないことも多い劣悪な部屋で生活している人々、さらに、生産能力を極限まで高めるスピードアップ増強システムの下で仕事をしなければならない人々は、何の不足もない上流階級の特権を、資本主義諸国にいる階級的同志たちよりも遙かに鋭く感じざるを得ないのだ。そして、専制国家が下層階級の既存諸条件の不満を無視し、その結果、いかなる抗議行動をしたところでその生活が脅かされるだけだというときに、この情況は更に耐え難いものになるのである。

しかし、ロシアに存在するものよりも遙かに大きな経済的平等があったとしても、政治的・社会的弾圧に対してはいかなる保証もあり得ない。マルクス主義などの権威主義的社会主義者たちはこのことを全く理解できていない。刑務所・修道院・兵舎であっても、その収容者達は同じ住居・同じ食べ物・同じ衣服・同じ仕事を与えられているように、充分高い経済的平等が見られる。ペルーの古代インカ国家やパラグアイのイエズス国家は、全住民に対する平等な経済条件の提供を、固定したシステムに組み込んでいた。にもかかわらず、そこにはこの上ない独裁制が蔓延し、人間はより高い意志の自動機械に過ぎず、人が行う意志決定は殆ど影響力を持っていなかった。プルードンが、自由のない「社会主義」など最悪の奴隷制だと見なしたのには、理由がないわけではなかったのだ。社会正義への情熱が適切に発達し、効果的になり得るのは、その情熱が人間の個人的自由の感覚から成長し、それを基にしているときだけである。つまり、社会主義は自由であるか、全く存在しないかのどちらかなのだ。この認識こそが、アナキズムの存在は正真正銘、大いに正当なことだと示しているのである。

諸制度は、社会生活において、動植物の身体諸器官と同じ目的を果たしている。諸器官は、勝手気ままに出現するのではなく、身体的・社会的環境で明らかに必要だから出現している。深海魚の目は、地上で生活している動物の目とは全く異なって形成されている。なぜなら、全く異なる要求を満たさねばならないからである。生活諸条件の変化は、諸器官の変化を生む。しかし、器官はそれが果たすべく進化した機能、もしくはそれに関連した機能を常に果たす。そして、その機能が有機体にとって必要なくなると、その器官は段階的に消滅したり、未発達のものになったりするのである。だが、器官がそれにふさわしい目的に従わない機能を獲得することなどないのだ。

同じことが社会的諸機関にも言える。それらも、恣意的に出現しているのではなく、明確な目的を果たす特殊な社会的必要のために存在するよう求められる。このようにして、この近代国家は独占経済の後に進化し、それに伴う階級分断が古い社会秩序の枠組みの中で次第にハッキリとするようになり始めてきたのだった。新しく勃興した所有階級は、自分達の人民大衆に対するその経済的・社会的特権を維持し、他の人間集団に対して外からそれを押しつけるために政治的権力の道具を必要とした。このようにして、特権を持つカースト・階級が非所有階級の強制的従属・抑圧をするための政治権力機関としての近代国家の進化に適した社会的諸条件が生まれた。これが生涯にわたる国家の政治的仕事であり、国家が存在する本質的理由なのである。国家はこの仕事に常に忠実であり続ける。国家はその皮膚から逃れられないのだから、忠実であり続けなければならないのだ。

国家の形式的形態は歴史的発展の過程の中で変化してきた。だが、その機能は常に同じままである。国家は物差しの上だけでも一貫して広がり続け、国家の支持者達は自分の欲望に役立つ社会活動の分野をさらにうまく創り出している。君主国であろうと共和国であろうと、歴史的に独裁制に支えられていようと自然憲法に根差していようと、国家の機能はいつも同じままなのだ。動植物の身体器官の機能が好き勝手に変えられない−−例えば、意にままに、目で聞いたり耳で見たりするなどできはしない−−ように、社会的抑圧の機関を、適宜に、抑圧されている人々の解放の道具に変換することなどできはしないのだ。国家は現在そうあるようにしかあり得ない。大衆搾取と社会的特権の擁護者なのだ。特権階級・カースト・新しい独占企業の創造者なのだ。国家のこの機能を認識できない人々は、現社会秩序の真の性質を全く理解できておらず、人間に対して、新しい社会進化の見解を示すことなどできはしないのだ。

アナキズムはあらゆる人間問題に対する専売的解決策ではない。よく言われるような、完全な社会秩序を持ったユートピアでもない。原理的に、あらゆる絶対的枠組みと概念を拒絶するからだ。絶対的真実など信奉してはおらず、人間発達の決定的最終地点など信じてはいない。社会的取り決めと人間の生活諸条件が完全になる無限の可能性を信じている。常に、より高次の表現形態を求めて全力を尽くすのである。従って、誰も、いかなる決定的終着点も指定できなければ、固定した目的地も設定できはしないのである。いかなる種類の国家であれ、それが行う最悪の犯罪は、社会生活が持つ豊潤な多様性を無理矢理決定的な形態に押し込めようとし、一つの特定形態に適合させようとすることである。それは、さらなる幅広い見解を全く認めず、以前は刺激的だった情況を終わったものとして見なすのである。国家の支持者たちは、自分が強力になっていると感じれば感じるほど、社会生活のあらゆる分野をもっと完全に自分達に奉仕させることができるようになる。あらゆる創造的な文化的諸力の操作に対してもっと歪んだ影響を与えるようになる。いかなる時代の知的・社会的発展に対してももっと不健全に影響するようになるのである。

いわゆる全体主義国家は、現在、全民衆に山のような負担をかけており、民衆のあらゆる知的・社会的生活表現を、政治的摂理が設定した生命のないパターンに鋳造しようとしている。そして、冷酷で獣的武力を使って、既存諸条件を変えようというあらゆる活動を弾圧している。全体主義国家は、現代の恐るべき前兆であり、過去数世紀に生じた野蛮への回帰が行き着く先を恐ろしいほどハッキリと示している。これは、精神よりも政治機構が勝利しているのであり、役人が確立したルールに従って人間の思考・感情・行動を合理化することなのだ。結局のところ、あらゆる知的文化の終焉なのである。

アナキズムは思想・諸制度・社会形態の相対的重要性だけを認識している。従って、アナキズムは、固定化した自己完結型社会システムではなく、人間の歴史的発展が持つ明確な傾向なのである。あらゆる聖職者・政府の諸機構を知的に保護するのではなく、人生においてあらゆる個人と社会諸力が自由に、妨害されずに、展開するために懸命に努力しているのである。自由さえも、絶対的概念ではなく、相対的概念に過ぎないのだ。なぜなら、自由は常に拡大するものであり、多種多様なやり方でより広範な集団に影響を与えるのだから。アナキストにとって、自由は抽象的哲学概念ではなく、万人に対して、自然が個人に授けたあらゆる権力・能力・才能の十全な発達をもたらし、それを社会的な重要性へと変化させる生き生きとした具体的な可能性なのである。この自然な人間発達が教会や政治の保護に影響されなければされないほど、人間の人格は有能で調和がとれたものになり、その人格こそがそれを成長させた社会の尺度となるあろう。

歴史において全ての偉大な文化的時代が政治的に弱い時代だったことの理由がこれなのだ。このことは全く自然である。政治システムは常に、社会的諸力の有機的発展ではなく、それらの機械化をけしかけているからだ。国家と文化は、両立できない敵対関係のど真ん中にいる。ニーチェは、次のように書いて、このことをハッキリと認識していた。

『結局のところ、自分が持っている以上に浪費できる人などいない。このことは個人に当てはまるだけでなく、民族にも当てはまる。権力・ハイ=ポリティックス・農業・商業・議会主義・軍事利権に自分自身を費やし、個人の真の自己をまず第一に構成する相当量の理性・熱心さ・意志・克己を放棄しているのなら、一方を持つが故に他方を持つことはできないのである。誰も騙されてはならない−−文化と国家は対立しているのだ。「文化国家」など単に近代の考えに過ぎない。一方は他方を食い物にし、一方は他方を犠牲にして繁栄する。あらゆる偉大な文化的時代は政治的衰退の時代なのだ。文化的な意味で偉大なものはどのようなものであれ、非政治的であり、反政治的ですらあるのだ。』

強力な国家機構は、より高次な文化的発展に対する最大の障害物である。国家が内部腐敗のために攻撃されるところ、社会の創造的諸力に対する政治権力の影響が最小限に押さえられるところでは、文化が最もよく栄える。なぜなら、政治的支配は常に統一性を得ようと奮闘し、社会生活の全側面をその保護対象にしようとするからだ。この点において、政治的支配は、創造的な文化発展の情熱との避けられない矛盾である。創造的な文化発展は、社会活動の新しい形態・新しい分野を求めて常に探求され続ける。従って、表現の自由・多面性・物事の変幻自在な変化は、文化発展とは正反対の厳格な形態・空文化した規則・社会生活のあらゆる発現の強制的抑圧と同じぐらい極めて必要なのである。

あらゆる文化は、その自然な発達が政治的制限によって過度に影響されていなければ、永続的に発展的衝動を更新し、そこから、永続的に増大する多様な創造的活動が生じる。全ての成功した作品は、より大きな感性とさらに深いインスピレーションを求めた情熱を目覚めさせる。一つ一つの新しい形態が、新しい発展可能性の先触れとなる。しかし、何度も考え無しに言われていることだが、国家はいかなる文化も創造しないのだ。国家は、固定観念に安全に支持されて、物事を現状のままに保とうとするだけなのだ。これこそが歴史におけるあらゆる革命の理由だったのだ。

権力は破壊的にしか作用しない。あらゆる生の発現を、常に、法を使って無理矢理拘束している。その知的表現形態は生命のないドグマであり、その物理的形態は獣的武力である。そして、その課題を知らしめないことで、支援者に対しても無知の烙印を押し、元々は最良の才能を授けられていたとしても、支援者を阿呆で獣的にせしめる。あらゆる物事を機械的秩序に無理矢理従わせようと常に奮闘している人は、少なくとも、自分自身を一個の機械にし、あらゆる人間的感情を失ってしまうのだ。

この理解から近代アナキズムが生まれ、現在はそこからアナキズムの道義的力を引き出している。自由だけが人間に偉大な物事を行わせることができ、社会的・政治的変容をもたらすことができる。人間を支配する技術が、人を教育する技術・新しい生を創り出すよう人を鼓舞する技術であったことなど断じてない。自由は生の正なる本質である。あらゆる知的・社会的発達の推進力である。人類の未来が持つあらゆる新しい見解を創り出すのである。経済搾取と知的・政治的抑圧からの人間の解放、アナキズムという世界哲学こそがその最良の表現である。より高次の社会文化と新しい人間性との進化の第一の必要条件がこれなのだ。

原註

1 マクス=ネットラウの著作には、アナキズム諸学説と諸運動の歴史について非常に詳細な文献目録がある。

第二章へ