
桜姫変化抄は、三話から構成されていました。いずれも一話完結です。


1
女の慟哭は時として鬼のそれと重なり合う。
今世も愛しい男と添いとげられなかったと嘆く心は、いつしか、それなら
ばいっそ自分だけのものにしておこうと囁きだす。
そして、女は般若のごとく考えあぐねる。
どうすれば男は自分だけのものになってくれるだろうか?
何をすれば誰にも渡さず、愛しい男を自分の側においておけるのか?
今夜もそうとは知らずもらすため息は、女を狂気へと誘うものだった。
2
青白く光る月の夜、まだまだ満開とは言いがたい桜の大木の下で男と女は
重なり合っていた。
男はまるで何かに憑かれたように女の体を愛撫し、それを女が面白がるよ
うに薄く――男には決して分からないように――笑っていた。
「綺麗だ。綺麗だ」
何回もうわ言のように呟く男を相手に女は何も言わず、ただ時々失われた
右目にかかる髪の毛をうっとうしげにかきあげる以外は、ただじっとおとな
しく抱かれているのだった。
青白い月光を反射する桜の大木の下での情事は、なまめかしいはずなのに
どことなく浮世離れしていて違う次元で行われている儀式のような不思議な
趣があった。
二人のいる場所だけ誰にも入り込めない空間が確かに存在していた。
そんな妖しげな情事は夜が明けるまで続くかのように思われたが、凜とし
た女の声でピリオドを打つことになったのだった。
「貴方にとって抱ける女だったらどんな女でもいいのね……」
「小夜!」
いつからそこにいたのか、一人の女が桜の大木の影から姿を現した。
「……違うんだ。これはこの女のほうから……」
慌てて着物の襟を正しながら男は隻眼の女の上から立ち上がると、小夜と
呼んだ女のほうに近づいて行った。
「もう何も言わないで。貴方の言い訳を聞くのも疲れたわ」
もの悲しげに男を眺めながら女は頭にさしていたかんざしをスッと抜き取
り、先を男のほうに向けた。
「冗談だろ?」
「それじゃ、私との情事は冗談だったの?」
頭からすっかり血の気の引いた男に冷ややかな言葉を浴びせたのは、意外
にもついさっきまで共に快楽を味わっていた隻眼の女だった。
「綺麗だ、綺麗だって言ってくれたじゃない。あれは嘘だったの?」
男を追い込む台詞と分かってて女は面白そうに囁く。
「ねぇ、その女と私とどっちが良かった?」
艶っぽい声と仕草で隻眼の女が決定的な台詞を口にする。
「この場ではっきりとその女に言ってあげたらどうなの? 私に言った台詞
をその女に聞かせてあげてよ。私のこと愛しているんでしょう?」
腕を男の首に絡めると、隻眼の女はそのまま男の左の耳朶を噛む。
普通なら陶酔しきる場面だが、小夜を目の前にして男は完全にパニック状
態に陥っていた。
隻眼の女の腕を慌てて振りほどくと、男は小夜にすがりつくように抱きつ
いた。
「おい! 助けてくれよ。……なぁ、小夜。もうしないから。もう他の女を
抱いたりしないから。俺にとって女はお前だけだから……。許してくれよ」
必死に命乞いを始めた男に小夜は少しばかりの哀れむ表情を顔に浮かべた
後、優しく微笑み、
「私にとってもそうよ。貴方はただ一人の愛しい人よ。だから私だけの貴方
でいてほしいの」
と呟き、安心しきった顔を浮かべる男のうなじに大きく振りかぶったかん
ざしを突き立てたのだった。
ギャァー
まるで猫の断末魔のような叫び声が闇の中で生まれ、闇の中に吸い込まれ
ていった。
今、桜の大木の下にいるのは一つの息をしなくなった生き物と、お互いに
笑みを浮かべて立っている二人の女だけだった。
3
「これで良かったのかしら?」
息が詰まるような重苦しい沈黙を破って隻眼の女の澄んだ声が辺りに響き
渡った。
無造作に結ばれた帯をもう一度きつく結び直しながら隻眼の女は、なんで
もなかったような涼しい顔を小夜に向けたのだった。
「愛していた男だったんでしょう? 別に殺すことはなかったんじゃないの?
まぁ、こっちにすれば、ありがたい話し……」
「愛していたからこそ、もう見たくなかったのよ! あの人が他の女を抱い
ているところをね!」
ギュッときつく唇を噛みしめながら小夜は、震えの止まらない自分の体を
両手で抱き締めた。
こみあげてくる涙を拭いもせず、小夜は冷たくなり始めた男の傍らにひざ
まづくと、そっと男の唇に自分のそれを重ねた。
愛しい男を失った女。その姿は誰が見ても哀愁を誘うものだった。けれど、
再び顔を上げた小夜の口からもれたものは、悲しみに濡れた女のものではな
かった。小さいながらもクスクスとおかしそうに笑っているのだ。
「これで、もう私だけのものになってくれたのね」
隻眼の女が見たものは狂気に彩られた女の姿だった。
「あ……あんたはそれで良かったのかい? こんな男にどれほどの価値があっ
たって言うんだい! この男は知らなかったとは言え、あんたの目の前であ
たしを抱いたんだよ。あんたと違うあたしという女をね!」
苛立たちげに怒鳴る隻眼の女を小夜はおかしそうに笑うと、
「何を言ってるの? 貴女は女じゃないでしょう?」
と、抑揚のない声で囁いたのだった。
「!!」
「貴女は所詮、この桜の大木に宿る『桜姫』でしかないじゃない。私が見た
くないのは、あの人が人間の女を抱くところ。『桜姫』に抱かれているとこ
ろじゃないわ」
無表情のまま言い終えると、女は男の頭を自分のひざに乗せ、愛しそうに
頬を撫ぜだしたのだった。その姿は既に自分の欲望を成し遂げた鬼の姿をし
ていた。
「小夜」
限りなく優しげなそれでいて悲しげな声が隻眼の女の口から零れた。
この女を鬼にしたのは、間違いなく自分。
そんな思いが隻眼の女の心を横切っていった。
それが分かったのか、小夜はふっと視線を隻眼の女のほうに向けると、ニ
コッと笑いかけたのだった。
「ありがとう。貴女が悪い訳じゃないわ。これでもう思い残すことはないの
だから……。ねぇ、『桜姫』、私の血も得たらこの桜はもっと美しくなるの
かしら? それだったらうれしいな。この人と一緒に美しい花を咲かせられ
たら……」
「小夜!」
隻眼の女の目の前で小夜の体がぐらっと大きく揺れたかと思うと口元から
血が流れだし、小夜の体は男の体の上にゆっくり倒れ込んでいったのだった。
「なんでこんな男のために、あんたがそこまでしなくちゃいけないんだよ」
二人から流れ出た血を吸い上げる桜の大木を見上げながら、隻眼の女は苦
しげに呟いた。
しかし、そんな隻眼の女の台詞など意に介さないかのごとく、白き桜の花
は一瞬みまごうばかりの鮮やかな朱色に花びらを変えると、隻眼の女をせせ
ら笑うかのように青白い夜の世界に君臨したのだった。
〈了〉


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