桜姫変化抄は、三話から構成されていました。いずれも一話完結です。



               

     第一話 乱 舞      慟 哭      散 華




            1


 女は翔けた。
 着物の裾はとうの昔にはだけ、白い足が剥き出しになっていたが、女はお
かまいなしに走った。
(そう、あそこまで……。あそこまで翔けてゆけば、自分は自由になれる!)
 夜の慣れぬ道を女は裸足のまま、ただひたすら自分の自由のために走った。
そして、そんな女を追うのはいくつもの篝び火。
 篝火は、まるで意志を持つ鬼火のように女に迫っていった。
 月光が映しだす青白い世界で、女は鬼火から逃れるように走り、篝火は逃亡
者の足元を照らすかのように少しずつ距離を縮めていった。
 迫りくる恐怖の中で女は心の中で強く叫んだ。
(もう遊廓なんかに戻りたくない )
 女の脳裏に鮮明に遊廓での生活がよみがえってくる。
 飢饉の為に遊廓に売られて四年。
 自分の本当の名前がなんという名であったか……、今年の春で何歳になるの
か……、最後には自分が『女』という生き物であったことすら忘れかけていた。
 いつ死んだって構わない。どうせ生きて遊廓から出ることなんて叶わないの
だから……。
 堕ちるところまで堕ちた女には、既に生きる気力さえ残っていなかった。何
も考えず、何も望まず、ただ男に抱かれる人形のような毎夜を過ごしていたの
だ。
 そんなある晩、女はその男と出会ったのだった。
 商家の次男坊と名乗るその男は、自分さえも嫌いになりかけた自分に毎夜会
いにきてくれ、全身全霊をかけて愛し抜くと囁いてくれたのだ。
 そして、新月の夜にやってきた男は、いつもの屈託のない笑みを浮かべなが
ら女の耳元で囁いたのだ。
「今度の満月の夜、私と一緒にこの街から逃げよう」
 と。
 聞いた瞬間から目に涙があふれ始め、それは止まることを知らなかった。
「無理よ」
 女が幾ら首を振って説き伏せようとしても男は真っすぐに女の顔をのぞき込
み、同じ台詞を何度も繰り返す。
「大丈夫。私が一緒にいるから」
 男の力強い声がとうとう女の首を縦に振らせた。
(この人と逃げよう)
 その時、女は固く決心したのだ。
(どこまでもこの男と逃げてみせよう)
 と。
 だから、自分は今捕らわれちゃいけない。
 待っているのだ。愛しい男があの場所で……あの桜の大木の下で!
   女は何度も躓きながら、男が待っているはずの桜の大木に向かって走り続け
た。
 初めてこの街に連れて来られた時に仰ぎ見た桜の大木。それを今夜、この街
から出て行く最後の景色として女は目に焼きつけるつもりでいた。
 しかし、桜の大木の下で待っていたのは愛しい男ではなかった。
 人影を見つけ、慌てて駆け寄った女が見たものはどこかの名家育ちらしき侍
だった。
「あの人はどこ?」
 篝火が追ってくる中、女は桜の大木にもたれかかっている男に早口で尋ねた。
「ある男が……」
 興味無さそうに男が喋り始めた。
「ある男が、拙者にこう言った。お買いいただいた刀の切れ味を試したければ、
今夜ここに現れる女を切ればいいと。遊女だから死のうがどうなろうが誰も気
にはしないと」
 侍の口から下卑た笑いがもれ、女の身体を凍らせた。
 脳裏ではあの優しい笑顔が女に微笑みかけるのに、女の目の前では侍が腰の
刀をいとも簡単に鞘から抜き取り、刃先を女に向ける。
「……嘘……」
 女のか細い声は、侍の一刀の音にかき消された。
「他愛のないものだな。つまらなさすぎる」
 侍は桜のたもとに崩れ落ちる女に一笑した後、女を追ってきた篝火から逃げ
るように闇夜に紛れ込んで行ったのだった。

             2


 暗闇の中で女は失っていた意識を取り戻した。
 闇に目をこらしながら恐る恐る辺りを見回してみると、前方にほのかな光を
見つけることができた。光りは儚げであったが、暖かな感じがした。
 ゆっくり立ち上がりながら、まだぼんやりとしている頭を軽く振る。そして、
女はその時になって初めて気づいたのだった。どうして自分がここにいるのか、
ここがどこなのか、……そして自分が誰なのか、女には分からなくなっていた。
 だからなのか、女の足は独りでに光の方向に向かって歩きだしたのだった。
(あそこに行けば何か分かる)
 そんな漠然とした考えが女の脳裏から離れなかった。
 光りに近づくにつれて、女の目に幾人かの女の姿が映りだした。
 年の頃は女とたいして変わらないであろう。楽しげにお手玉やおはじき、双
六に夢中になっている。
(楽しそう……)
 女たちの姿を見てそんなことを思った瞬間だった。一番手前で器用にお手玉
をしていた女がその手を止め、ニコッと女のほうを振り返って笑ってきたのだ。
「いらっしゃい。待っていたのよ」
 屈託のない笑みに嘘はなかった。本当に女は自分を待っていたようだ。けれ
ど、女には何故自分が待たれていたのか見当がつかない。
「待っていた? 私を? 何故?」
 不信感を抱きながら聞き返した女の台詞を、隣で双六をしていた隻眼の女が
豪快に笑い飛ばした。
「あたいたちは新しい主がくると知って心待ちしていたっていうのに、あんた
は知らなかったっていうのかい?」
 失われた右目にかかる髪の毛をはらいながら、残る左目で女は鋭く闖入者を
睨みつけた。
「およしよ。『桜姫』がびっくりしているじゃないか!」
 隻眼の女と一緒に双六をしていたもう一人の女が、ころころと笑いながら隻
眼の女をたしなめる。
「『桜姫』って……」
「あんたのことに決まってるじゃないか! あんた、自分の名前すら知らなかっ
たのかい? 本当にめでたいことだね!」
「お止め、桜姫!」
 吐き捨てるように言った隻眼の女を奥のほうでおはじきをしている女が咎め
た。
 この女たちの中で一番年長者なんだろう。隻眼の女は、キッと一瞬奥の女の
ほうを睨んだものの、それ以上は何も言わず、渋い顔をしながらまた双六を始
めたのだった。
 それを確認するように口の端に笑いを浮かべると女はスクッと音もなく立ち
上がり、女のほうに近づいてきた。
 衣擦れの音を起こさず目の前まで来ると女は武家の娘のような礼を自分に施
し、静かに喋りだしたのだった。
「はじめまして。桜姫が無礼なことを言ってごめんなさいね。あの娘は口が少
し悪いから……。決して悪気があって言ったんじゃないの。許してあげてね。
そうそう、まだ名前を言ってなかったわね。ここにいる女の名は総て『桜姫』
と言うの。あの娘も、そしてこの私も……。私たちは、この桜のために『桜姫』
であり続けているの。この桜の大木に綺麗な花を咲かすためにネ……」
「私は何もしていないわよ?」
 訝しげに首を傾げる女に桜姫はクスリッと優しく笑いかけると、
「もうすぐしたら分かるはずよ」
 と、告げた。
「!?」
「さぁ、余計なことは考えずにここに来て一緒に遊びましょう。貴女が桜姫に
なったおかげで今年もきっと綺麗な花が咲くのだから……」
「そうそう。せっかく桜姫になったんだから、これからはいっぱい遊ばないと!」
 横合いから別の桜姫が女の袖を引っ張る。
「ねっ! 遊ぼう」
 子供のようないたいけな瞳が女を貫く。
「そうね」
 女が戸惑いながらそう口にした瞬間、胸に刃物で切られたような痛みが走っ
た。けれど、それは一瞬のことだった。桜姫の言葉が痛みを、そしてすべてを
忘れさせた。
「もう大丈夫。誰も貴女を傷つけたりしないから……。これからはただ桜の花
を咲かすことだけを考えればいいの。ねぇ 」
 ――桜姫――

                                〈了〉


          慟 哭           散 華

        



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