(2);’62/11/中旬 (偵察・荷揚げ) (3);’62/12/30 〜 ’63/1/6 (豪雪の冬山) |
この時の山行は出だしからついてなかった。 11月の偵察山行は小雨模様、びしょぬれのはい松漕ぎは敬遠して、白馬尻の沢の真ん中の大きな岩の下にもぐりこみ、流木を集めて焚き火をしながら半日を過ごした。午後は猿倉山荘付近の雑木林できのこ狩り、小屋番のお兄さんに仕分けてもらって、晩飯はきのこたっぷりの味噌汁を味わったのは唯一楽しい思い出である。しかし翌日会社の仕事が控えていた私は、夕食もそこそこにタクシーを呼び一人夜行列車で帰京する羽目となった。 冬山本番では、先ず新宿を昼過ぎに出た準急列車が雨で遅れ出し、松本から信濃四ッ谷(現、白馬)への最終電車へ間に合いそうにない。車掌に聞くと、「待たせるように連絡しておくから心配しなくてよい」とのことだった。 しかし松本についたら最終電車はとうの昔に出発した後。頭に血がのぼってホーム事務所に駆け込み交渉を始めたが埒があかない。そのうち続々とつめかけた登山者に後押しされた交渉の結果、ようやく臨時電車を出してもらうことが出来た。 信濃四ッ谷から雪の夜道をヘッドライトの明かりを頼りに歩き始めた時はすでに翌日になっていた。二俣を過ぎると人一人歩けるだけの踏み跡を辿ることになり、重荷にあえぎながら猿倉にたどり着いたのは、間もなく夜が明けようという頃だったろうか。 12/31;猿倉山荘で仮眠後、A隊(白馬主稜アタック)4名、B隊(双子尾根よりサポート)私を含めて4名、それぞれ白馬尻、小日向のコルに一部の荷物を荷揚げし、デポして戻る。(先行者トレイルあり。) 1/1;前夜来の風雪で、トレイルは完全に消え、尚降り続く雪の中を終日深雪をかき分けてラッセル。前日45分で駆け下りたデポ地まで10時間以上を費やし、到着した時はもう辺りは夕闇に包まれていた。 (小日向のコルにキャンプ設営。) A隊は、天気図から数日間は好天が望めないと予測し、また深雪に雪崩の危険も感じて、アタックの計画を放棄、デポした荷物を回収して、猿倉山荘上の台地にベースキャンプ(BC)を設営した。 1/2;先行パーティーのトレイルを辿って樺平まで登り、更にその先へ深雪のラッセルを続けたが降雪が激しくなり昼前にキャンプに戻る。BCより3名が登ってきて、交替して2名がBCに戻る。午後は停滞、時々雪かき。 1/3;終日停滞。この正月の雪は、後に38豪雪(昭和38年)と言われている猛烈な雪で、昨日から落としても落としても、すぐに天幕が雪で埋められてしまう。狭いテントの中で、膝を抱えて駄弁っていると次第に息苦しくなってくる。煙草を吸う奴がマッチをすると、発火してもシュンと消えてしまって着火しない。「酸欠だ、雪かきだ」というわけで交替でテントの雪を落とし、周りの雪をかき出す。酸欠のテントの入り口を開けて流れ込んでくる空気の美味かったことは今でも記憶に残っている。マッチもすぐに着火した。しかし寒さも一緒に入ってくる。マッチの着火具合で判断しながらギリギリまで我慢して雪かきをした。 1/4;雪もようやく小降りになってきて、隣にいたパーティーが撤収を始めた。降雪が激しいうちは交信できなかったBCとのトランシーバーも通じるようになって、連絡の上我々もキャンプを撤収してBCまで下ることとした。設営した時は雪面を踏み固めただけでテントを張ったのに、畳んで見ると其処は井戸の底だった。 先に下山したパーティーのトレイルを辿ると、大分前に出発したのに直に追いついてしまった。(ラッセルご苦労さま) そして間もなくBCから迎えに登ってきた仲間たちと合流した。 1/5;緊張が緩んだせいか熟睡して、目が覚めた時は天幕に日が射していた。あわてて外に出てみると、真っ青な空を背景に白銀の峰々が聳え立っていた。この好天が2,3日早かったらと、愚痴ってみても始まらない。せめて前進キャンプ地まで行ってこようと出発した連中を見送って一人でテントキーパー。冬の北アルプスの好天は短く、連中が出発すると間もなくうす雲が広がり、次第に灰色に変わっていった。 1/6;下山の日、灰色の雲に覆われていたが降雪なし。食糧、燃料は減ったものの、水分を含んだ天幕や荷揚げしてあった用具などで反って重くなったザックをかつぎ、今年も登れなかった悔しさを胸に秘めて、信濃四ッ谷までの長い道のりを黙々と歩き続けた。 (愛知大学・薬師岳遭難事故) 帰京後数日して、愛知大学山岳部パーティーの13名が、白馬岳と黒部川をはさんだ西南側の薬師岳で、全員行方不明となったことを知った。マスコミの取材合戦で連日大騒ぎだったことが記憶が残っている。 彼らは 1/2 全員で山頂を目指し、吹雪でルートを見失って疲労凍死した。最初の遺体が発見されたのは3月になってから、最後の2人が発見されたのは初冬の気配が漂い始めた10月だった。 |