小池 繁夫 TALKS   “WITH THE AIR”

テグジュペリの空    小池繁夫作品集「大気とともに」1993年出版 より

 「富士重工のカレンダーを描くときは、飛行機を描いているつもりはありません。周りの大気や飛行機の性格を表現しているつもり。作品全体がイメージを持っている、そんな絵を描きたいと思っているんです」同時に「私はイラストレーターであり、画家ではありません」とも語る。

 確かに小池さんの描く飛行機はリアルイラストと言っていい。「細かい計器盤や、リベットの数まで数えながら描いていきます。周りで人が見ていたらおかしんじゃないかと呆れるでしょうね(笑い)」という小池さんの姿勢と作風だけをみて、『まるでカラー写真のメッサーシュミットを見ているようで正確で綺麗・・』と思っている人は、小池さんの作品を百分の一も楽しんでいない。そんな人には、昔のモノクロ写真をコンピューターで画像処理をして、カラープリントにすることをお薦めしてしまう。

 「もちろん飛行機は大好きです。どれも苦労して作られているから、細かく見ていくと魅力が必ずあるんです。だからフォルムとかディテールを見ていると飽きませんね。でも描きたいのは、飛行機だけではなく、それを包む大気、気配なんです」

 そうでなければ、背景の空や雲や海を描くのにあれだけ執拗になるはずがない。飛行機よりも背景の海面を描くほうに時間がかかったり、背景のイメージが先に固まって後からその風景に合う飛行機を描く場合もあるというのだから。

 「飛行機の窓から外を見ると、広大な空間に空気が詰まっているのがわかるでしょ。大気にしっかりとした濃い密度があるという感じ。空を飛ぶものは大気をつかんでいるのがわかるんです。そして、空を飛ぶものの周りには光が満ちている。大気を通して、周囲全部を光で包まれているという感じ」だから、と言うべきなのだろう。大気や光を身体中で感じながら飛んだに違いない冒険飛行の時代の飛行機が一番好きだという。そしてパイロットではサン・テグジュペリ。

 小池さんの机の脇に積まれた資料の中に、テグジュペリが革の飛行服を着て、物思いに沈んでいる横顔のポートレートがあった。それを見ながら、ぽつりと「彼は最高のパイロットですね」と独り言のように言う。

 『夜間飛行』を通して、空を飛ぶことの心の高揚感を書いたこの飛行家の思いが、小池さんが作品を描くときの心情に最も近いのだろう。    (サン・テグジュペリについてはこのページの後半をご覧ください)
                                          (文:鳥養鶴雄 氏 1993年記)

                                  

小池繁夫(こいけ・しげお)氏プロフィール   東京都在住
 
 1947年新潟県小千谷市生まれ。 高校を卒業後上京し日本デザインスクールに入学。在籍のままイラストレーターの事務所にアルバイト通勤する。卒業後そのまま同事務所に勤務して4年後独立してフリーランスのイラストレーターとなる。 数年後、富士重工業(スバル)のカレンダーイラスト、ハセガワのパッケージングイラスト等を手がけるようになり、国内のみならず世界中にファン
を持つ航空トップイラストレーター。
 
 最初の富士重工業航空カレンダーは1976年発行のモノ。 初めは中島飛行機の機体だけで、キャビネ版くらいの独立した画をカレンダー台紙に張り付けられており、同社の航空宇宙部門が制作した限定版であった。 しかし予想以上の反響であったことから、1980年代半ばより同社の広報部で扱うこととなり、他社の日本機だけでなく世界各国の民間旅客機や飛行艇(水上機)を必ず加え、同社の航空部門の先達の一人である鳥養さんの絶妙の解説が加えられ、新たなカレンダーのスタイルへとなってそのポテンシャルは大きく膨らんでいった。
 
 カレンダーとボックスアートはその意図や構図が大きく異なっているのは皆さんご承知のとおりです。 ボックスアートは飛行機そのものを“迫力”をテーマに特徴を表わしているのに対し、カレンダーはその背景の空気と共に飛行機の“物語”が描かれていると思います。 小池さんは若い頃、飛行機ならばライト兄弟機からステルス機まで、あらゆるものを描くのが念願であると協調しておられたが、円熟の近年は画の全体に強いメッセージ性を感じるようになってきた。 
 
 先般、小池さんにお会いした時もカレンダーの飛行機を描くには、まずその飛行機のある情景・背景を夢想することから始めるそうだ。 益々マニアックで且つ個性的な機体が多くなってきて、具体的な情景を思い浮かべるのに多くの時間がかかるというのもうなづける。 
 
 カレンダーで扱うレシプロ飛行機(プロペラ機)では、描く機体のカラー写真なんてほとんどが存在しない。ましてや1900年代の早い時期の写真の数はまったく少ないし、図面も怪しいものが多い。 そのため徹底して情報を集めることと併わせて創造力が欠かせない。 その積み重ねでもって、小池さんの画は正確無比に描き込まれている。 そういう意味で、小池さんの画は飛行機の「歴史小説」のようなもので、時代小説ではない。 正確な情報があるところは絶対にその事実を外さない。 描かれる機種の中のその個体に着目し、塗装や個々のマーク、コーションプレートまで徹底している。 情報の無い部分はその創造力でもって完成される。
 
 余談だが、驚いたのは小池さんのお宅にはテレビが全く無い。 勿論インターネットなんてものとは無縁の生活をされている。 でも情報はたっぷり・・・それは傍らに山と積まれた書籍・資料である。
                                             (Takenaka 2008年記
 
※参考 フランスのファンBenoit PaquetさんのHP 「PASSION AVIATION」をご覧ください。
       「The gallery」の中の小池さんのページ作成に協力しました。

★小池繁夫氏の最新イラスト集「FLYING COLORS 3」 情報はここをクリック


サン・テグジュペリ   Antoine de Saint-Exupery
 
 1900年6月 名門貴族の子弟としてフランス・リヨンに生れる。
21歳の時に兵役で航空隊に入っていたが除隊後、航空会社の路線パイロットとなり、多くの冒険を経験。その後様々な形で飛びながら、1929年に処女作『南方郵便機』、以後『夜間飛行』(フェミナ賞)、『人間の土地』(アカデミー・フランセーズ賞)、『星の王子さま』等を発表、行動主義文学の作家として活躍した。
 
 第二次世界大戦が勃発し1939年サン・テグジュペリは召集され、トゥールーズで飛行教官を務め、更に前線で偵察機に搭乗していたが、フランスがドイツに敗れヴィシー政権がドイツと講和したことから動員解除となった後、アメリカへ亡命した。
 
 そこで亡命先の米国ニューヨークから、自ら再度志願し、1943年実戦勤務で北アフリカ戦線へ向かった。 そして、偵察機の搭乗員として困難な出撃を重ね、1944年7月コルシカ島のボルゴ基地を単座双発双胴のロッキード F-5B(戦闘機 P-38 ライトニングの偵察機型) を駆って単機で出撃、発進したまま帰還せず 地中海に没した。
 
 行方は永らく不明とされていたが、1998年9月7日にアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの名と、妻コンスエロの名、および連絡先としてアメリカの出版社名・所在地が刻まれたブレスレットとみられる銀製品が、マルセイユ沖の地中海で操業するトロール船の網にかかって発見された。
  
 同海域には沈船や墜落機の残骸が多数あり、問題の P-38 型機の残骸がマルセイユ沖リュウ島近くで地元のダイバーにより発見されていたが、テグジュペリ機の墜落現場候補とは思われておらず、詳しく調査されることはなかった。 しかし、上記ブレスレットの発見を受けて、精力的かつ広範囲な探索が行われた結果、2000年5月24日上記残骸を再度調査・撮影してロッキード F-5B 型機であることが確認された。 このことが2000年5月26日マスメディアに漏洩したためフランスでは大騒ぎになり、世界中に知られるところとなった。
 
       ★写真は単行本「Saint Exupery」 のカバー :R.M. アルベレス (著), 中村 三郎 (翻訳)

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