中島・AT-2高速旅客機 Nakajima AT-2 Passenger-plane

 2000年秋、群馬県の図書館でたまたま、このAT輸送機の「取扱説明書」なるものを見つけました。これは当時航空機関士であった宮本晃男氏が書かれたもので、実務マニュアルではなく一般向けではあるが、整備基準を含め詳しく掲載されている。以下にその序文だけを紹介する。

 ただし旧仮名遣いを極力そのままとしますが、旧漢字が無く一部当て字である事をご容赦ください。出版社は「育成社」とあり航空技術書シリーズの第5巻で、それまでは輸入外国機のみであったが本書で初めて国産機の解説書を出版している。出版の年度は不明ですが、状況からして昭和15〜16年ころの出版と思われます。中に「陸軍航空本部検閲済」とあり、それもあってか国威発揚の意味合いも随所に伺える。

 

中島式AT型双發輸送飛行機取扱解説

 緒言(中島飛行機株式会社とAT型旅客機)

 軍艦の甲板に立って毎日大空を飛ぶ鳶に見とれてゐた一青年士官があった。俗名トンビ事中島知久平、即ち彼こそ今日の中島飛行機株式会社の産みの親である。
 大正六年の暮、航空報國の念難く、遂に軍職を辞して航空界の茨の道に乗込んだ氏は、自分の産まれ故郷、群馬懸新田郡太田町在、坂東太郎と人の呼ぶ大利根川の邊りに近く合資会社日本飛行機製作所を創立したのであった。

 後利根川堤外の田畑を供して尾島飛行場を建設し、又工場は忠臣新田義貞の史跡、金山の麓、呑龍寺の境内に開かれた勤工場(昔の小百貨店)の建物を譲り受けて、ここに今日の基礎は築かれたのであった。
 少年知久平が理想を夢に描き、利根の水邊を飛ぶ水鳥に見とれ、とんぼを釣ったであろう太田の地はかくして航空工業を育み、騰らぬ飛行機を笑った故郷の人々に仕事を与へることとなったのである。

 筆者は中島ダグラス機の製造検査に太田工場へ出張して熱心なる製作状況を見たのであったが、當時中島飛行機製作所の新進技術家に依って着々設計せられてゐたのが我國民間航空界最初の純國産双發輸送機であったのである。當時の青年設計家明川技師の頭文字A及び輸送機即ちTransportの頭文字Tとを取って中島式AT型双發輸送機と命名せられた。

 本機は中島多年の飛行機製作技術と、ダグラス機(DC-2のノックダウン生産のこと)の製作に依って得た新技術と、日本の風土に適応した日本人の設計技術から生まれた我國最初の純國産双發輸送機であったのである。

 例へば本機の操縦室前面の風防(有機硝子)は特殊な形状をしてゐるがこの形状は實際使用に當って視界廣く、且雨中飛行の際、ダグラス機及びロッキード機等の如く窓を開けなければ前方が見えぬ等のことは殆どなく、我國のやうに雨の多い國での實用に適してゐるのである。

 又、本機の風防は風洞試験の結果其の空氣抵抗に於いてダグラス機及びロッキード機等に劣らぬ好成績を得てゐる。 なほ、本機完成の初期に於いては脚の引込装置に稍不十分な處も少々見られたが、其の後衛帯の材質及び製作の改善に依って現在本機の性能は空中地上共に良好せ経験ある技術者は一様に本機を誉めてゐる状況である。

 發動機としては、之又日本人の設計製作になる世界に有名な壽型發動機二基を備へて性能も満足すべきものである。 AT機はかくして大日本航空株式会社、満州航空機株式会社及び中華航空株式会社の主要機として愛用せられ、その優秀なる性能はダグラス式 DC2型を凌駕し、日華事変に於いても本機の活躍は見るべきものは甚だ多いのである。其の後本機の需要は益々多く現在立川飛行機株式会社に於いて大量生産せられてゐる。


 凡そ新鋭機の初期にあっては世界各國とも製作及び設計上数多の缺点を生じ多数の犠牲を出して後始めて完全なる飛行機となり得るのが普通であるが、本機は當初より、かかる事故も無く今日なほ多数製作使用せられてゐるのは本機の優秀性を裏書して余りあるものである。

 なほ本機の使用者は共に本機の缺点を發見した際には直ちに之を製作者に通報して益々本機をして完全なる優秀輸送機に改良する事が我等航空技術者の責務であり技術奉公の道であろう。
 外國産輸入機を信頼して國産機を一概に悪評するが如きは大いに慎むべきことと筆者は考へる次第であらう。


宮本晃男氏 1940年ころ筆

全幅:19.92m 、全長:15.30m、 総重量:5,250kg、 最大速度:360km/h
発動機:中島 空冷9気筒「寿」2型改 460馬力×2、乗員/乗客:3/8名
初飛行:1936年9月

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