530-2. 中島 艦上偵察機「彩雲改」型(C6T:C6N2) [日本-海軍]

NAKAJIMA Carrier Reconnaissance Plane     
           "SAIUN-KAI"(C6T)  [JAPAN-NAVY]

 
全幅:12.50m、全長:11.18m、 翼面積:25.5u、 自重:3,239kg 総重量:4,342kg、
発動機:空冷2重星型18気筒「誉」24型ル 離陸2,000馬力 1,780馬力/9,000m、 プロペラ:VDM油圧式4翅、
性能(計画)最大速度:640km/h/8,500m、 航続距離:2400(max3,890)km、
機銃7.7mm×旋1、乗員:3名、
原型初飛行:1943年5月15日
   
                              Illustrated by KOIKE, Shigeo   イラスト:小池繁夫氏 2009年カレンダー掲載

 日本海軍の空母機動部隊の活躍で始まった太平洋戦争だったが、ミッドウェー海戦で大敗し、更にソロモン海域の戦闘でベテランパイロットの大半の戦力を消耗したため、戦争後半の昭和19年(1944)になると、戦いの主導権はアメリカ空母機動部隊に完全に掌握されてしまった。 そして西太平洋の日本軍の拠点は次々と壊滅させられていた。
 
 なんとしても、驕敵(きょうてき)の行動を事前に探知して一矢報いたい。 その熱い期待を担って登場したのが、この中島飛行機鰹ャ泉設計室の全ての技術を集約して開発された17試艦上偵察機「彩雲」だった。
 
 1944年5月、「彩雲」はまだ制式採用前だったが、第1航空艦隊雉部隊所属の千早猛彦大尉は、増加試作機でテニアン島を飛び立ち、トラック島へ、そこからさらに2,000kmも離れた南海の孤島ナウルを中継して、マーシャル群島のメジュロ、ナウルの敵泊地の挺身偵察を敢行、マリアナ諸島攻略に向かう敵機動部隊の動向の偵知に成功した。 しかし、せっかくの情報だったが、連合艦隊は敗れ、サイパン島は玉砕し敵の手に落ちた。
 
 1945年(昭20)に入ると硫黄島を中継基地として使えないため、「彩雲」偵察隊は本土から南鳥島経由でトラック島に飛び、そこから、西進してマリアナ諸島の情勢やカロリン群島のウルシー泊地の状況を偵察した。 だが米軍は「彩雲」をレーダーで探知して待ち構えるようになっていた。
 
 彩雲は実用日本機では最速とされ、最強のグラマンF6Fヘルキャット戦闘機に遭遇しても「ワレニオイツクグラマンナシ」と打電したという伝説が残されている。 しかし、敵のレーダーを掻い潜って、より確実に任務を達成するために、高高度飛行能力の格段の向上が求められ、排気タービン過給器を装備したのが、この画の(試製「彩雲」改C6T)である。
 
 今日でこそターボ過給器は乗用車にも利用されているが、「彩雲」の「誉」エンジンは、出力2,000馬力、排気量は35.8リットルもあり、高温の排気に耐え、精巧で巨大なタービンが必要である。 しかし資材が逼迫する戦時末期には高性能の特殊耐熱合金を製造できなかったことから、日立ル212排気タービン過給器そのものが開発・実用化に至らず、エンジンの性能向上は難航していた。 
 
 また極限まで詰められた細い「彩雲」の胴体に、タービン過給器や給気冷却器(インタークーラー)などを取り付けるには、スペースの確保、配管、その冷却など、多くの問題を解決しなければならなかった。 発動機の防火壁直後の下部にあったメタノールタンクを移動してそこに排気タービンを収め、燃料増加タンクが干渉するので翼下方式に替え、発動機覆や油圧冷却器も変更するなど、大幅な改修が必要で、しかも画に見られるように大きな出っ張りを余儀なくされ、せっかくの空力的に優れた流麗なスタイリングに、大きな腫れものがぶら下がったような醜いものになった。 
 
 こういったことから試製「彩雲」改の開発は大きく遅れ、試作機が飛んだのは終戦の前月1945年(昭20)7月となり、十分な飛行テストも行えぬまま敗戦の日を迎えた。審査が終了すれば制式名は彩雲一二型の予定であった。
 
  この改修設計開発には中島に入社したばかりの百瀬晋六技師(のちにスバルを創ったその人)が担当したが、この苦労話を百瀬さんが戦後に富士重工業でスバル技術本部を担当されていた時代に伺ったことがある。
 
 さて日本海軍の偵察機の運命であるが、緒戦の「それいけドンドン状態」では偵察任務は、ややもすると軽く見られており、九七式艦上爆撃機や同じく艦上爆撃機の彗星を偵察機として代用運用していた。 しかし戦局が悪化すると速力不足は如何ともし難く、次々と敵戦闘機の餌食となって機能しなくなった。 そこで、やっとこさ偵察任務の重要性が認識され、「彩雲」は純粋の偵察機として、俊足の性能を追求した機種として開発された。 がそれもつかの間、敗戦色が濃くなって本土がB-29による夜間の高高度による空襲が激しくなってると、今度はその高性能を活用し偵察席に上方に向けた30mm機関砲を装備する夜間戦闘機への改修が試みられることになった。(1996年のカレンダーで紹介のページをご覧ください) 
  
 これは基本設計の目的を逸脱した運用であり、戦略的な無理は承知であるが、背に腹は代えられずと大口径機関砲を装備したが、その反動と振動に耐えられたかの疑問もあるが、やはり成層圏を飛ぶB-29に対し排気タービンを持たぬ夜間戦闘機では十分な戦果は得られなかった。
 
 
 下は上の画の機首の部分を拡大表示しました。 小池さんの筆のタッチと、沈頭鋲の表現でお分かりなように精細表現への凄い拘りを感じていただけます。 なお原画の大きさはさほど大きくはなくB4程度の大きさであるから、この精細な表現に一層驚かされる。
 

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