386.海軍艦上爆撃機「彗星」(空廠十三試艦爆)

Navy Carrier Dive-bomber "SUISEI" [JAPAN Navy]

 
全幅:11.50m 、全長:10.22m、 総重量:3,650kg、 最大速度:552km/h
発動機:愛知 水冷12気筒「アツタ」21型 1,200馬力、爆弾:500kg×1または250kg×1
武装:7.7mm機銃 機首×2 旋回×1、乗員:2名
初飛行:1940年11月
 
                       Illustrated by Shigeo KOIKE , イラスト:小池繁夫氏  2003カレンダー掲載

 日本海軍では艦載機による急降下爆撃の重要性に着目し、昭和6年(1931)頃から研究的に試作を始めていたが、実用されるようになったのは愛知の8試特爆、即ち後の94艦爆(D1A1)からで、この後96艦爆(D2A1)、99艦爆(D3A1)と続いた。日華事変勃発当時の日本海軍の艦爆隊の命中率は60〜70%に達していたが、昭和17年4月のインド洋海戦のころは錬度が頂点に達していたときで、英空母および巡洋艦に対する急降下爆撃命中率は80〜90%に達していたと報告されている。

 艦攻の大型爆弾による水平爆撃に対し、艦爆では5000m上空から目標に照準しながら急降下を始め、400〜600m付近の低高度で爆弾を投下して引き起こすことから格段の命中精度が得られたのである。 250kgの中型爆弾であるが、空母攻撃に最適で、真っ先に敵空母の発着機能を喪失させることであった。 昭和17年6月のミッドウェイ海戦がまさに艦爆がもっとも効果的に使われた一例である。

 1937年(昭和12年)海軍は九九艦爆に代わる高性能機としてドイツのハインケル社から輸入したHe118急降下爆撃機の国産化を検討したが、時局柄中止となり、新たに海軍空技廠の山名正夫技師を主務者として設計試作する事となった。

 要求性能は九九艦爆とは較べるべくも無いもので、当時の最先端の零式戦闘機を超える高性能を狙った画期的なものであった。 艦爆は敵艦載機の行動半径外から発進して、出来るだけ短時間内に接敵して先制攻撃を加えるのが特性である。このためには航続距離のみならず巡航速度が大きく、また敵防御陣を突破するため敵戦闘機と同等以上の最高速度が要求される。 そのころの空技廠の試作機は「乙」の記号を用いており、「乙1」は9試中艇、「乙2」がユモ重油発動機を装備した長距離偵察機、「乙3」が米国本土を爆撃したことで有名な潜水艦搭載の小型零式水上偵察機(E14Y1)であった。そして「乙4」がこの十三試艦爆である。

 初期試作機にはダイムラー社のDB-601輸入エンジンが選択されたが増加試作では同エンジンの国産版であるアツタ21型を搭載した。 これは高速性能を出すため機体前面面積の有利な水冷式を敢えて採用し、爆弾倉も完全格納式とし徹底的な空気抵抗の低減が図られた。 主翼は中央部分は厚翼、先端で薄翼として空力的捻り下げを採用、翼幅は航空母艦のエレベータで制限されることから11mに押さえた結果、小さなアスペクト比となっているが適切な翼断面形状の選定から全体として抵抗の少ない失速性の優れた主翼となっている。

 また爆弾倉の関係から中翼構造となり長い主脚、必然的に幅の広いトレッドとなって、彗星の独特のプロフィールを形成している。また各種装備も新機構が採用された。とくに引き込み脚や、フラップなどは全て電動式であり、また特殊な計算機能をもつ照準装置や、発動機も初の本格的な燃料噴射(高圧)が採用された。 これらの意欲的な設計は、民間では横槍が入ってかえって実現し得ず、空技廠であればこその新技術への挑戦であった。 見ての通り素晴らしいデザインで、同機種のアベンジャーとは比べるべくも無い。

 1940年(昭和15年)試作1号機はDB-601エンジンを搭載して5機完成し、傑出した性能を発揮した。その試作3〜4号機は爆弾倉内に偵察用カメラ等を搭載し艦上偵察機に改装して空母「蒼龍」に搭載しミッドウェー作戦に活躍した。それが制式採用され「二式艦偵」となった。艦爆としては1943年(昭和18年)制式採用され「彗星」と命名され11型となる。その後エンジン出力を1,400馬力に向上したアツタ32型を搭載し彗星12型となるが、国産水冷エンジンの稼働率はまことに低く彗星の真価を発揮できなかった。

 そのため昭和19年も末に発動機を三菱の空冷14気筒「金星」に換装され彗星33型となった。これは陸軍の3式戦闘機「飛燕」が水冷から空冷発動機に換装され5式戦闘機となったのと同様で、当時の水冷直列エンジン生産技術は十分ではなく、とくに長いクランク軸の加工技術が劣っていた。また補器類や周辺技術の歪みが如何ともしがたいレベルであった。

 空冷星型エンジンである「金星」を搭載した彗星は、空気抵抗分性能とくに最高速度が低下したが、出力向上で上昇力はカバーできた。またそれ以上に稼働率は大きく改善された。 しかし急を告げる戦局は通常の戦力としての艦爆とは扱わせず、はかなくも特攻機として消えていった。

生産機数は愛知にて1,722機、空廠にて435機 合計2,157機であった。 (2003年カレンダー掲載)

Early SUISEI (COMET) bombers were powerd by liquid-cooled engines, a license-built version of the DB601 known as "ATSUTA". Later models had air-cooled radial engine, but the former type boasts a far smarter appearance. Production and maintenance problems with the Atsuta engines spurred the switch to the "Kinsei" radial engine. While performance dropped slightly, dependability, operatinal ratios and ease-of-production aii increased, more than covering the lower power. One can boast about performance, but if production is difficult and problems are frequent, it fails as an effective weapon system. Of course, back in Germany there were no such problems associated with production of the DB601.

 彗星は現在1機だけが復元機として現存しており、東京靖国神社の遊就館(戦争博物館)に桜花とともに展示されている。詳細は右の写真をクリックしてご覧下さい。

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