アメリカではF4Fワイルドキャット水戦、イギリスではスピットファイヤー水戦など各国で水上戦闘機の試作が行われたが十分な性能が得られなかった。 本格的に量産し、実戦で運用したのは日本海軍だけである。 その傑出した性能の代表作がこの二式水上戦闘機である。
いかにも水上機が好きな日本らしいが、太平洋の孤島にあっという間に飛行場を造つてしまうアメリ力の機械力に抵抗するための苦肉の策でもあったともいえる。 なにしろ水上戦闘機ならば飛行場がなくても迎撃、制空などの任務を果たせるのだから。 そんな水上戦闘機という特殊なジャンルを開拓したのが、この二式水戦である。

1940年(昭和15年)、海軍は南方作戦の準備として、性能の優れた水上戦闘機を採用することとしたが、機体を新しく設計するのではなく、零戦(ゼロ戦)をベースに短期間に開発することを優先した。 そのため、零戦の設計者である三菱ではなく、水上機設計の経験の深かった中島に改造試作を命じた。
中島では三竹忍技師を設計主務として零戦一一型の機体に浮舟(フロート)を取り付ける緊急試作機を1941年12月に完成した。
零戦にフロートを付けただけと思われがちだが、戦闘機としての性能を確保するため空気抵抗の少ない、世界に類を見ない見事な単支柱の形状となった。
また垂直尾翼、方向舵の改造を行い方向安定性の確保にかなり苦心したという。 その甲斐あって零戦に比較しても性能低下は意外に少なく、零式水上観測機と同様に太平洋の島々で頼りにされる存在となった。 加えて、翼下に
30〜60kg の爆弾を2個装備することも可能とし、多目的な機能も持たせた。 ただ、やはり陸上機とは違って海水に曝されることから、電食(電気関係にまつわる腐食)対策にも悩まされた。
この試作第1号機の試験初飛行は太平洋戦争勃発の1941年12月8日であり、翌年早々には必要な試験飛行と審査を終了させた。 同7月には制式採用が決定し、ただちに量産に入り、約1年半で327機が生産された。 そしてアリューシャン群島、ソロモン群島やその他の孤島に飛行場を建設するまでの防空戦闘機として、また水上偵察機の護衛として活躍した。 特にソロモン群島の珊瑚礁の内海が絶好のすみかで、やはり南洋の空が活躍の主な舞台として似合っている。 たが、その期間はそう長くは続かなかった。
上段の作品は1992年のカレンダーに掲載されたもので、南海の湿った空気のラバウル上空を勇躍・哨戒飛行する二式水戦である。 下の作品は富士重工業が小池さんのイラスト・カレンダーを制作し始めた初期の1976年のものである。(多分、第1回目の頒布カレンダーではないかと思われるが?) 小池さんらしい独特のアングルの作品です。 |