日本海軍最後の複葉機であるとともに、日本で最初で最後の全金属製複葉機でもあった。既に時代は単葉機に移っていたので、試作時に要求されたのは単葉機に劣らない上昇力と高速性、そして空戦能力だった。
1935年(昭和10年)海軍は95式水偵の後継として愛知、川西、三菱に試作指示を出した。三菱は服部譲次技師の指導のもとに佐野栄太郎技師を設計主務として取り組んみ、1936年(昭和11年)試作1号機が完成した。
一見すると中島の九五水偵に似ているが、フロートの空力的ハンディキャップを最大限に軽減するために、複葉水上機としてはほとんど極眼に近い設計が行われた。上反角をつけ縦横比の大きい楕円主翼、支柱や張線は最小限に、そして何といっても機体からフロートへの洗練されたラインなど、空力的に磨きあげられ複葉機の成熟の頂点を極めた。この機体は三菱にとって最後の複葉機となった。
発動機は初期には中島の「光」660馬力が搭載されていたが視界と性能の点から「瑞星」に換装されるなど長期にわたり改修され、1940年制式採用となって704機が生産された。 戦艦や巡洋艦に搭載され艦隊協同作戦を主眼として、着弾観測、近距離偵察、艦隊上空の迎撃戦闘などが予定されていた。しかし戦艦・艦隊決戦が過去のものとなるにつれ活躍の舞台は飛行場のない太平洋の島々の水上機基地に移っていった。 孤島に進出した部隊にとって、"零観"と"二式水戦"のコンビは心強い存在だったようだ。
「日本機には珍しい、貧乏臭くないフォルムですね」と小池さんも語る。 |