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第十二 農業の健全な発展を


**この項の目次**


これまでに農業や食糧の特質、食糧に関しての貿易自由化の問題点、その背景としての社会情勢を述べてきた。しめくくりとして、これらの中で提起された問題点についてその対応策を論じてみたいと思う。既に問題提起と併せて、対応策についても検討を加えている部分もあり、そのようなものに関しては簡単な記述にとどめさせていただくことを御了承願いたい。

一 基礎的食料の国内自給

食糧の特質の項において既に記したとおり、食糧の安定した確保は一国の尊厳とその安定的な運営には不可欠であり、国民生活の安定に関わる重要な問題でもある。世界的には生産が偏在しており、最大の生産国である米国は世界戦略上、食糧を武器として考えている。主要な食糧を自由貿易に委ねることは結果として米国の「食糧の傘」の下に組みこまれることを意味する。また食糧を特定の国に頼ることは、その国において異常気象等で不作の場合は食糧の供給が不安定になることを意味する。食糧の世界的な移動は生産国・消費国双方に環境問題を引き起こすこととなる。食糧については自由主義経済においては不可避である輸出国と輸入国に大別されることは望ましいことではない。もちろん異常気象等で国内生産では不足する場合は不足分を国際市場から調達することを否定するものではない。平成5年における米の不作に伴う緊急輸入に際しては、これを契機に米の輸入自由化を画策しようとする動きも見られる。そしてガット・ウルグアイラウンドにおいて日本は米の部分開放に踏みきらざるをえない状況となってしまった。しかし既に日本の食糧自給率は世界的にみても極めて低いレベルとなっている。食糧における自由化が更に進んで、食糧自給率が低下するようなことは避けなければならない。

ガットの場では無差別の自由貿易こそ最大の善であるという思いこみが全体を支配している。しかし食糧が人間の生存に不可欠であること、工業製品以上に自然に依存し、無理な生産は生産の永続性を損なうこと等を考えれば、嗜好品的な食糧品は別としても、主要な食糧、基礎的な食糧はその重要度に応じ、国内で自給するようにすることが重要に思われる。


二 農業に対する束縛を解き放て…農業者のための農業施策を

従来の国を初めとする行政の農業に対する関与のあり方として、農業保護の反面としての農業に対する統制的・束縛的な側面もあった。この統制的な色あいがやる気のある農民の「やる気」を萎えさせていたことは否めない。農民のためにあるべき農協組織においても同様のことがいえよう。米が過剰基調になったことを背景とした生産調整にもそのことが端的にあらわされている。北から南まで、やる気のある農家もそうでない農家も一律な減反である。一、二年で解消されるものならともかく、永続的なものであるならば、生産条件、農家の意欲によって配慮し、農家の意欲を削ぐことができるだけ少ないようなやり方もあるのではないかと思われる(後には地域毎の違い等について、多少配慮されるようになったが、これとても米作の現場に即した肌理細かなものとはいい難い…)。また、単なる減反、転作ではなく、米の消費拡大や多目的利用等についてもっと積極的に取り組んで欲しかったと思われる。

農家の中にもやる気満々、意欲十分な人もいる。そのような人はむしろ既成の枠にとらわれない考えを持っている場合が多い。現在の農政の基本は、農業全体が……やる気のある人もない人も……守られればよしということを、基本としているのではないだろうか。農民個々の顔を見ることのできない農政としては、平均的な農民像をとらえて、そのような人々を対象としていればよかった。少なくとも増産が叫ばれていた頃は、農民個々の個性は増産の勢いの中に呑み込まれてしまって、表立って現れることは少なかった。しかしその後今日に至るまで、単なる増産というのとは違い、むしろ数量的には制約があり、その中で収益をあげなければならないという事情もある。消費者ニーズも多様になってきている。そのような状況で農業経営を運営していこうとなれば、農家がいかにして頭を使うかということが重要になってくる。農家の個性が重要になってくる。従来の農政は個性を殺し、平均的な姿であることをよしとした。これからの農政は農家個々の個性をいかにして発揮させるかが重要になってくるのではないだろうか。

その一方で秋田県の大潟村におけるように、食管の枠から外れて自由米を生産している農家もいる。一部ではこれを今後における農業のあるべき姿であるとしてもてはやす動きもみうけられる。もちろん既存の規制と、その反面としての保護の中に安住している多くの農民よりは先取の気鋭を持つ人達であろうことは否定しない。しかしながらこれは他の多くの農家が食管の制約の中にあり、これら多くの農家を踏み台にして成り立っていることも見逃せない。また、このような自由米農家がいることを一つの理由として食管制度がなしくずしに改悪されてしまうこともなしとはしない。自由といってもこのように他者の犠牲の上に自らが有利となろうとするものではなく、社会的な公正さや他者に対する思いやりやいつくしみという人間が本来有しているはずの特性の上に成り立つべきものであると考える。

農政とは……農政に限らず行政全体にいえることではあるが……今に見られるようなこまごまとした規制により行うのではなく、できるだけ自由な活動をさせつつ、しかし道を踏み外すことなく、正しく事が行われるようにするのが理想である。規制ではなく、農家が能力を精一杯発揮できるような環境を作ることをこそ望みたい。

具体的には、農業者の個性なり努力が反映されるように生産、流通に関する規制を改善していくことである。米に関していうならば、今の体制ではいかに努力して低農薬や無農薬、有機栽培をしても、そのことを特徴として取り上げて販売活動をすることができない。「特別栽培米」の制度もあるが、これとても規制が多く、細い道筋でしかない。農家の努力が、消費者が買う米にまで反映されるようにしたいものである。

生産についても、これまで供給過剰基調の中で減反がおこなわれているが、これについても強制的であり、かつ農家の多大な経済的犠牲のもとに行われている。本来的には、転作をしても農家における経済的損失が少ないような状況を作り、その中で転作をするのか、米を作るのかは農家の選択に任せるようにすべきである。その上で全体として必要な生産面積が(逆にいえば減反面積が)確保されるようにするのが望ましい。この点でドイツ等のヨーロッパ諸国における農業制度に学ぶところが大きいように思われる。このように農家に対しては自由な生産活動を認める一方で、食糧、農産物の重要性、農地(特に水田)の重要性に鑑み、安定した農業の継続を誘導することを農政に望みたい。特に山間僻地のように生産条件、生活条件が厳しく、しかし国土保全上農業を続けていってほしいような所にはそれなりの財政的援助も必要であろう。

また、農業に対する補助金も硬直化し、必ずしも農業のためになっていない部分もあることを考えれば、今後はむしろそのような補助金は少なくして、農業にたいする融資制度を拡充、改善することが必要ではなかろうか。補助金は広域的に利用する施設の基幹部分にとどめてもよいのではなかろうか。そのかわり、そのようなものについては全額公費でもかまわないであろう。融資制度にしても、今までのような縦割りでけちけちしたものではなく、もっとおおらかな制度であってよいと思う。その代わりその融資を受けるに当たっての農家の責任を重くするのである。これまでの補助金を受けるような生半可な気持では融資は受けられないようにしなければならない。融資を受ける農家とすれば、十分な営農計画と資金計画を自ら作成し、それに基づき融資を受け、自らの責任において返還する義務を生ずるのである。行政や農協に泣きつくのは許されないのである。農業においてもそれだけの経営者能力を持つようにすべきであろう。行政等の農家をとりまく組織は、直接的に補助金という金を与えるのではなく、能力の高い農業者が育つような環境づくりが望まれる。

農業の多面的な効用についても記したが、個々の農家とすれば農業の社会的、自然的効用があるために農業を行っているわけではない。あくまでも生産した農産物の販売により生活が営めなければならない。自然保護的であるためには、大規模機械化を前提とした大規模経営であるよりも、むしろ家族労働を主体とし、使う農機具についても小型機械であるような小規模経営の方が望ましい。現在の多くの農業においては、かなりの大規模経営でさえもが、農業部門だけからではサラリーマンに比べても少ない収入しか得られない。むしろ小規模であっても、まっとうな生活ができるような農業が保証されなければならないと思う。極めて安価な輸入農産物を目の前にちらつかせつつ農産物価格を抑制し農業を崩壊に導くような現在の風潮と、それに迎合する農政は反社会的な要素を多分に含んでいるように思われる。

国民食糧の安定的な供給のためにも国内の農業が健全に保たれる必要がある。一方、農業の間接的な効用は直接的には農家を潤さない。農家も直接認識しうるものではない。しかし重要なのである。即ち農家が直接的に認識しなくても農業が永続的に持続すれば発揮される。このような食糧供給の必要性と農業の多面的な効用といった観点から、農業の安定的な持続のための行政施策上の配慮が望まれる。またそのバックグラウンドとしての国民の理解が求められるのである。


三 あるべき農政の姿

これからの食糧・農業政策はこのような歴史的な反省をふまえ、より民主的・現実的かつ適正・柔軟なものでなければならない。

また国内農業を守る精神に貫かれていなければならない。先進国の中では稀に見る食糧自給率の低さからすれば当然のことであろう。またこの中でも条件が不利であることにより価格競争力は弱いものの、国土保全等の公益的要素をより多く有する中山間地については特に配慮が必要であろう。また金にあかせての輸入が発展途上国の食糧確保に大きな問題を投げかけるということにも十分配慮しなければならない。特に麦に比べても国内自給的要素が強く、国際貿易仕向け量が少ないという米の特質からすれば、日本人の主食である米については可能な限り国内生産を確保する等の配慮が必要であるように思われる。

また具体的には、生産面において農家にはできるだけ自由裁量の余地を与え、しかし全体としては必要数量を確保し(あるいは制限し)、更に備蓄対策を一層充実させるべきである。わずかな国際的貿易量をわが国が買い占めることがないためにもこのことは重要である。そのためには減反については参加・不参加自由とする一方で、減反参加農家には相応のメリットを与えることとしたい(買い上げ価格について配慮)。少なくとも食管制度の中で減反を守った農家が損をしないような配慮が必要である。できればその価格水準は無理して規模拡大せずとも、まっとうな農業をやっていれば一般の給与所得者程度の所得が得られるようなものでなければならない。

生産面でも不利な条件にある中山間地については、新政策においても触れられてはいるが、少々おざなりな気がする。形だけは整えておくが実質的には経済的には間尺にあわない中山間地は見捨てるということであろうか。しかし食糧生産のみならず、国土保全や文化の維持、そして最も重要なのはそこに住む人の基本的人権を守るためにも中山間地帯を守ることは重要である。そのために最もよいのはヨーロッパのいくつかの国において行われているような条件不利の度合いに応じた農産物価格の設定である(ヨーロッパでは乳価等)。米価等の農産物価格をその立地条件毎に設定する、あるいは生産数量に応じた奨励金を交付する等が考えられる。次善の策としては生産数量にかかわりなく交付するデカップリングであるが、これは公益的機能維持代ということであろうが、一方で農家の営農意欲を削ぎかねないという問題がある。最悪なのは何もせず中山間地の崩壊を見てみぬ振りをすることである。多くの現代日本人の心根(農業補助金を政府の無駄づかいと決めつけている)からすればこの様な補助制度も槍玉にあげられるであろうから、現実的にはこのように中山間地が見捨てられる可能性が極めて大きい。

米等の主要な食糧の流通については、そこに十分な公正さが確保されるならば自由な市場による取引がなされることが考えられるし、望ましいことでもある。しかし今日の企業のありようからはそれは望むべくもない。必ずや隠匿、価格のつりあげ、名柄の偽り等の不正がなされるであろう。現に平成の米不足に際してそのようなことが行われた。企業に十分なモラルが備わるまでは一定の公的介在も必要であろう。しかしその公的介在も現在のような不透明なものであってはならない。平成の米不足に際してとられた輸入米の販売については、食糧庁のやりかたについて極めて不透明なところが見られた。食糧といった重要なものであるからこそ、国民にとってももっとわかりやすい透明なものでなければならない。

また、稲作の出来不出来は天候によっても大きく左右される。これを緩和し、安定した流通が確保できるように十分な量の備蓄が望ましい。その備蓄についても、単に経費が安くつくからといって現在のような玄米備蓄とするのではなく、より長期にわたって貯蔵ができる籾米による備蓄が望ましい。また多くの経費を使って人工的に冷蔵するのではなく、天然の低温条件を活用した備蓄等について研究が進められることが望ましい。既に年間を通じて低温条件にある湖底に貯蔵すること等も提案されている。このようにすればこれまでのような長期的な保存のための薬剤の使用は最小限に抑えられ、ないしは全く使用しなくてもよいようになる。

食糧問題・農業問題がかくも問題となった背景には日本人の多くの、また企業のモラルが極めて低下していることにその根源があるように思われる。自分さえよければよい、企業が儲かることが(たとえどんな手段を使っても)最大の目標であるといった風潮が日本国内に蔓延している。教育問題、ごみの投げ捨て、産業廃棄物、過労死…、すべてこのことに関連している。このような風格のなさが国際的にも叩かれる大きな要因であろう。風格のある日本とそこに住まう理性と思いやりにあふれた人間味のある国民、このようになることこそが農業を救う最も根本的なことである。


四 農業の担い手

農政の転換が真に民主的に、そして真に国民の食糧とそれを生産する農業のためになるような方向でなされれば、農業にも活気が戻ってくるであろうし、農業後継者の問題も解消の方向に向かうことが期待される。若者が農業を継ぎたがらないのも、経済的な理由はもちろんあるであろうが、それ以上に農業の置かれた閉塞的状況を、敏感に感じ取っているからである。

農業の後継者に関していえば、他の産業においてはその経営者として、あるいは労働者として他の産業からの参入を拒むものではない。能力さえあれば、苦労しつつも自ら新たな企業を設立することも可能である。しかし、農業においては農地の価格が農業以外の要因により高値となり、農業外からの新規参入を阻む壁となっている。また農業者以外の者が……たとえ、その農地の取得により農業者になりたくとも……農地を取得しようとした場合、その価格の高さに加えて制度上の障壁がある。意欲のある者が農業に打ち込みたいとしたならば、農業側としても積極的に受け入れる必要があるのではないだろうか。農地の価格の適正化や制度の改善等農外者を受け入れるためにすべきことは多い。農業外からの新規参入者が次第に地域にも受け入れられ、農業技術の面でも磨きがかかり、人間的にも成長し、地域のリーダーとして農業、農村の活性化に役だっている事例も現実にある。

このように個人としての人であるならば農家の子弟であろうと、農業外の人であろうと農業の次の世代を担う者として積極的に受け入れることが重要であるが、他方企業も農業に参入しようとしていることは見逃せない。しかし、企業が農業をやることについては多少、危惧の念を覚える。人間であれば仕事に対して愛着を覚えるようになる。ましてや自ら経営する農業である。しかし企業となれば愛着などといったウェットな感覚を持ち合わせていようはずがない。儲からないとなればすぐにでも撤退する。アジアに進出した企業が、その国の賃金水準の上昇により撤退し、他の国に移転するという例に事欠かない。このような不安定な存在に、重要な食糧を供給し、かつ自然を守る機能を有する農業を任せるわけにはいかない。企業の下心は見えている。水耕栽培等の施設型高付加価値農業か、でなければ取得した農地を将来ゴルフ場等として活用するか、あるいは高値で売却して利益を得ようとするかである。少なくとも農地を企業に売却することには反対である。せいぜい農協等が土地を企業に貸して、そこで農業をやってもらう…ということに留まってほしい。

やはり農業の担い手の中核としてあるべきは個人としての農業者であろう。たとえ農業生産法人等の組織であろうとも、その構成者は農業を愛する農民であってほしい。


五 農村内部の改革

多難な状況の中で農業の健全な発達を図るためには、単に食糧・農業制度等の外部的な要因の改善、改革だけでは十分ではない。農業や農村に内在する問題点についても改善を図っていく必要があるのではなかろうか。農村にはいまだに古い因習がこびりついている。封建的な色合いも濃い。外部の者を排除する気風もある。農村の若者が都会にあこがれ、農業後継者問題が発生する一端はこのような農村内部の問題に起因している。

これからはもっと開かれた農村にしなければならない。若者が魅力を感じ、外部の者も入りやすい農村にしなければならない。それは何かの施設を作ることではない。立派な家を建てたり、車を買い与えることでもない。一つには自由な雰囲気であろう。年寄りをトップに年齢順に序列が決まり、若者は年上の人に頭が上がらない。決定権がない。このような状況を改めるのである。むしろ決定権を若い人たちに預けてしまってもよいのではなかろうか。年配の人も村の中における権力者ではなく、せいぜい「衆中の第一人者」位であった方がよい。何かあった時の相談役でよいのである。むしろそうなった方が、権力者としているよりも知恵袋として、若者から一目置かれるかもしれない。年齢や権威、権力ではなく、経験と人柄が物をいうのである。

親子二代で農業をやっている例も多いが、そのような場合でもうまくやっているのは、それぞれに別の形態の農業をやっているというのが多い。親父とすれば時にアドバイスはしても、深くは介入しない。そうすれば若い者も気がねなく能力を発揮できる。時には失敗もあるであろう。しかし、そのような場合でも、適切な忠告と同時に暖かく見守る心が若い人を育てるのである。

また農村においては、近年における農業の地盤沈下や度重なる農業攻撃による「ひがみ」や「いじけ」の気持ちがただよっているのではなかろうか。ひがんだり、いじけたりしたところで状況は良くならない。むしろこれをはねのけるだけの気合いが必要であろう。農村においてひがんでいるのは若者よりは中年層の人達ではなかろうか。この意味でも若者の活力を精一杯生かすように、むしろ若者中心に村が動くようにした方がよい。

農村における結婚問題も後継者問題と同根であり、若者が頑張っている所ではそのような問題も発生しようがないのである。

さきに農業者の能力のことについて触れたが、他方農村はギスギスした能力主義に毒されることなく、能力の如何を問わず暖かく受け入れる包容力があることも期待したい。だれもが安心して仕事に励み、生活を営める場としての農村であることを望みたい。


六 食糧・農業の正当な評価を

これまでにも記したように、農業とは人間の生存に最も重要な食糧を生産する産業であり、かつ環境を保全する産業でもある。一般の人々の間には農業におけるこのような特質が見えてこないのが残念である。「輸入農産物と代替可能な食糧を生産する産業」位の意識しかないのであろうか。

現在の教育は受験対策産業的な位置づけしかないのであろうか。もちろん少年から青年にかけての時期は人間としていろいろ覚えなければならないことは多い。しかし、その目的を「受験」の二文字に集約してしまったことに、そもそもの誤りがあるようにも思われる。受験に関連のない事項は軽視される。それがたとえ人生の中では重要であったにしても。食糧や農業に関する事項もそのようにして軽視されてきたのではないだろうか。これからは例えば「食」についても、単に栄養や食品成分等といったこと以上に、もっと食糧の重要性を教える必要があろう。農業についてもできれば実際の経験(田植えをしたり、種を蒔いたり、あるいは自ら栽培したものを収穫したり)を通して、生命の神秘や農の営みの重要さ、そしてその反面の農の営みの辛さといったものを会得することが重要ではなかろうか。農村留学で都会のひ弱だった子どもが、人間的にもたくましく成長しているという事例もある。このようなことも、もっと教育の中の基本的な位置づけとしてとらえてもよいのではなかろうか。

また、一般の人を対象とした、農村との心触れ合う交流を持ったり、身近に土に触れる場としての「市民農園」等も積極的に推進したい。土に触れ、作物の生長を見る時、それは多くの人にとってかけがえのない喜びとなるであろう。またこのことを通じて農業というものを、より身近に感ずることとなる。このことが農業を正しく理解する第一歩ともなることを期待したい。市民農園が活用できない場合においても、せめてベランダにパセリやラディッシュ等を植木鉢やプランターで栽培していただくことを望みたい。

また、放送や新聞等も食と農の重要さを伝える良い媒体となろう。しかし、現実には農業サイドとしてこれを有効に活用しているかとなると、少々首をひねらざるをえない場面もある。例えば農業に関する討論会等も時折テレビで企画、放送されることもある。そのような場面において、農業サイドの者は食糧や農業の重要性を述べるが、それを聞いていても、なぜかもどかしい思いをすることが多い。真実味が感じられないことが多い。ここで述べている「農業関係者」は真にそのように思って述べているのだろうか。本当は現実の農家が困るのがしのびなくて、このようなことを「方便」として述べているに過ぎないのではないかと思えることもある。そうではないといいたい。農業の本質は方便に堕すべきものではない。これこそ農業を守らなければならない本当の理由である。もちろんその担い手としての農業者は重要であるが、何か順序が逆であるようにも思える。農業者の生活を守るために農業を守るのではない。きちんとした農業が守られれば、必然的に農業者の生活も保証されよう。そのためには、まず自らが農業の根源的な重要性を心から信じ、訴えることが必要であろう。


七 あるべき産業の姿

今日に見られる農業批判の背景には、日本の産業が歪んだ発達……むき出しの弱肉強食……があると述べた。従って農業の健全な発展のためには、一方の産業界も改めるべきは改めてもらう必要があるのではなかろうか。

日本においては、単に特許といったような目に見える知的所有権の問題だけではなく、新しい分野の開拓や各種のノウハウ等の知的な生産物に至るまで、それを考案した人なり企業なりに対する敬意の念が薄いという問題がある。米国のいらだちの根本には、このような日本の基本的問題点があるようにも思われる。何がなんでも知的所有権を振りかざすのは行き過ぎとしても、他人の創意……それが知的所有権として明確化されているいないは別にして……を無断で使用するのもこれまた問題であり、改めるべきであろう。そして日本も今まで以上に知的生産物を作り出していく必要があるのではなかろうか。そのための企業のあり方や人材育成方法についても検討されなければならない。限られたパイを巡っての激烈な競争でなく、創意工夫の競争が求められているのではないだろうか。さらには「程を知る」ことも必要であろう。ぎりぎりの競争のために社員に過酷な労働を強いることはもうやめよう。

企業といえども人格を有している。人に人柄があるように、それぞれの企業にも社風がある。産業界にもその産業界の気質というものがあろう。これらすべてが今、見直されなければならない。企業といえども「社会人」として大人になる必要があるのではなかろうか。


八 国民世論の醸成を

「農業問題は都市の人達の問題で農民の問題ではない」と農民作家の山下惣一氏はいう。農産物自由化の結果として日本の農業が打撃を受け、しかも食糧の輸入が途絶えた時、困るのは都市住民である。農家はたとえ石油が来なくとも、自分の食い扶持分位は十分に作れるのである。農民は生き延び、都市住民は飢える。そのような事態にならなければ都市住民は農業の重要性を認識することはできないのであろうか。

水太り、脂肪太りになった経済の中で、目先の利を追い求める者。多少の手間を惜しみ食品産業や外食産業のお得意さんになっている者。食べ物の先にそれを生産した農業が見えない者。これらが農業批判の温床になっているように思われる。

また、消費者は食糧の安全性を言う一方で安ければよいとする意識がある。しかし、安全な農産物を生産、提供(加工も含めて)するためには、相応の経費がかかることは避けられない。消費者は「安物買いの銭失い」ならぬ「安物買いの健康失い」となっていることを認識し、食糧等の生活の基本となる部分については相応のコストがかかることを覚悟しなければならないだろう。

農業サイドとしては、目先の農業保護をいう前に食糧や農業の重要さをもっとアピールすべきであろう。過去、人々のほとんどが自給自足の農民であった時代が長く続いた。工業文明が花開いたのは二十世紀になってからといってよいであろう。二十世紀後半にはさらにハードな工業の時代を過ぎて、情報化の時代であるともいわれている。しかし、どれだけ物や情報に満ちあふれていようとも、それだけでは人間は幸せにはなれない。情報化時代の次に来るのは脱情報化の時代ともいわれている。それは再度「農」に目が向けられる時代ともいわれている。それまで3kの代表であり、ダサい産業と見られていた農業を理解し、暖かく見守っていた人が、むしろ新しい時代の先頭を行くのである。

多くの人が新しい時代に先頭に立てるようにしようではないか。そのためには、前項でも取り上げたように、教育の中に農業の喜びを見いだす場を作ったり、一般の人向けに積極的にprするのも必要であろう。そして何よりも農民が生き生きとして農にたずさわることが大事なのではなかろうか。


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